5話目 意識・認識

 どれほどの時間が経過したのか、よくわからない。数分だったのかもしれないし、十数分は過ぎていたのかも。間に流れる沈黙は重く、口を開こうにも開けない。笹原は公園のベンチに座って俯いており、おかげでその表情がわからない。


 こんな状況になってしまっては、イヤホンをつけて自分の世界に閉じこもることすらできなかった。未だに垣村の裾は彼女に掴まれたままで、離す気配はない。遠くから聞こえる車の音と、草の影から響く虫の音。そして風になびくコンビニのビニール袋の音だけが聞こえている。なんとも、息が詰まりそうだ。まるで学ランのホックを締めたときのようで、私服だというのに首元を弄りだした。


「……垣村」


 唐突に、ポツリと呟かれた彼女の言葉はもう震えていなかった。しかし、弱々しいのには変わりない。名前を呼ばれて何かと見てみれば、彼女は肩下げカバンの中を探り始め、紺色の筒状の物を取り出した。


 垣村にはそれに見覚えがあった。あの忌々しい日に貸したまま返ってこなかった折りたたみ傘だ。


「あの時、貸してくれてありがと。返すの遅れて……ごめん」


「あっ……うん」


 返す言葉がすんなりと出てこない。喉の奥につっかえて、別の音へと変わってしまっているみたいだ。差し出された折りたたみ傘を受け取り、垣村は自分のカバンの中にしまい込む。


 待てと言った理由がこれだけなら、もう帰ってもいいだろう。いや、正直垣村は帰りたくて仕方がなかった。既に垣村の中では、笹原 唯香という人物は要注意人物を通り越して、危険人物だ。彼女の一言で、学校生活が変わりかねない。あの雨の日の出来事を話すだけで、垣村は皆から笑いものにされてしまう。


 滅多にない女子と話す機会だというのに、緊張とはまた別の理由で体が強ばっていた。早く帰りたい。垣村のどんよりとした瞳がそれを雄弁に物語っている。


「……何も、聞かないの?」


 細々とした声で尋ねてくる彼女の顔を、垣村は横目で盗み見た。教室に居る時のように明るくない。しかし今は先程よりも面持ちに余裕ができている。どちらかといえば、無表情よりもムスッとした感じだろう。垣村には彼女の目つきがどうにも不機嫌そうに見えていた。


「別に、聞くことでもないと思って……。大体、予想できるっていうか……」


「……そう」


 呆れられたような声を出された。相手が何を考えているのか全くわからない。聞こえないように息を吐ききり、脈打つ心臓を抑えようとする。隣に女子がいることといい、先程のことといい、どうにも心臓に悪い。


「あの時さ、なんで私に傘を貸してくれたの」


 彼女の視線はどこか遠くを見ているようだ。傘を貸したといえば、記憶に深く根づいているあの日のことだろう。思い出したくもない話題、そしてそれを話す相手が笹原だということが、余計に垣村の心を抉っていく。


 けれども聞かれたからには答えなくてはならない。あの日傘を貸した理由。灰色な日々に、色がつくかもと思っていた。しかしそれとはまた別な理由も、垣村は感じていた。


「多分、怖かったからだと思う」


「……はぁ? それ、どういう意味?」


 遠くを見ていた彼女が垣村に向き直り、少し距離を詰めてくる。たじろぎ、言葉を詰まらせた垣村はやってしまったと心の中で悔やんだ。頭が正常に働かなくなってきている。もっと言葉を選ぶべきだったのに。


 やばい。どうしよう。焦りの感情が募っていくが、笹原は眉をひそめて垣村を睨みつけていて、弁解させる余地はなさそうだ。彼女の目が、早く続きを言えと語りかけてくる。


「い、いや……その、目が合った時に、何かしなくちゃいけないんだって思ったっていうか……。相手が何もしていなくても、そういった視線だけで脅迫されたように思うのって、ない……かな」


「なにそれ、意味わからない。つまり私が怖いってこと?」


「笹原さんが怖いとかじゃなくて、こう……仲良くない人とか、赤の他人とか。そういった人の視線が突き刺さるっていうか」


 なんだろう。上手く言葉が纏まらない。それに自分の思ったことを伝えることすらままならない。確かに自分の感性を率直に伝えるのは難しいことだ。けれども、普通ならもっとわかりやすく言えるはずだ。


 女子と話すのはこんなにも緊張するのか。相手が相手というのもあるんだろうけれども。にしても、目つきが怖い。彼女自身が怖いというのも、確かにあるのかもしれない。笑ってる時はかわいらしいと思う。けれど、こんな風にムスッとしている彼女は、少し怖い。


 垣村の言葉が伝わったのか、伝わっていないのか。彼にはわからなかったが、少なくとも笹原は垣村を睨みつけるのをやめていた。


「……オドオドし過ぎ」


「女子と話すの、慣れてないから」


「目線も合ってない」


「人の目を見て話すの、苦手だから」


 横から視線を感じるものの、垣村は彼女の方を見ずに正面を向き、決して彼女を真っ直ぐに見ようとはしなかった。女子と話すのは苦手で、男子でも女子でも目を見て話すのはかなりキツイ。けれど、西園が相手ならば垣村は多少なりとも視線を合わせられるし、会話も弾む。


 ようするに、彼は人見知りであった。コミュ症は一般的にどんな人が相手であろうとも上手くコミュニケーションが取れないことを言うが、人見知りは仲の良い人が相手ならば何も問題はない。しかし初対面の人などにはめっぽう弱いのだ。それが例え、クラスの一員であろうとも。


 会話の続かない垣村に対して、笹原は無言な空気が苦手なのか無理やりにでも会話を続けようとしてくる。


「何かないの」


「……助けに入ったのが、松本とかじゃなくてごめん」


「はぁ!? 何か言ったかと思えば、それこそ意味わかんないんだけど!」


 何か言ったら言ったで、物凄い剣幕で迫られる。じゃあどうしろと言うんだ。垣村は軽く項垂れ、右手で頭をガシガシと掻き毟るようにしてから、彼女に言った。


「だって、助けられるのなら俺なんかより、いつも一緒にいる松本とかの方が良かったんじゃない? イケメンだし」


「だからって、普通今謝る!? アンタの頭ん中どうなってるわけ!?」


「酷い言い草だ」


「なんかもうちょっと別の話とかあるでしょ!」


「いや……人に話すようなネタはない、かな」


 もっとも、君に話すようなネタだけど。口に出さずに心の中でそう呟いた。別に好きでもなんでもない、むしろ嫌いや苦手といった部類の人と話すネタなんてものは持ち合わせていない。それに彼女は沈黙が苦手らしい。西園は沈黙を苦としないから一緒にいやすいが、彼女の隣で話をするというのは中々垣村にとっては厳しいことだ。


 煮え切らない態度をとり続ける垣村に呆れたのか、笹原は長いため息をついた。人の目の前でそんなため息をつくとは、なんてふてぶてしい奴だ、と垣村は視界の隅にいる彼女を軽く睨んだ。


「それ、何買ったの」


 笹原は手元にあるコンビニの袋を指さして、そう尋ねてきた。中に入っているのはお菓子が一袋だけだ。長方形の袋の中に、三日月のような茶色の菓子とピーナッツが混ざって入っている。柿ピーと呼ばれるものだ。それを袋から取り出して、彼女に見せる。


「好きなの?」


「まぁ、かなり」


「ふーん」


「……食べる?」


「ならちょっと……って、何嫌そうな顔してんの!? まさか、また脅迫されたように思ったわけ!?」


 半ば当たりだ、と垣村は小さく頷く。好物は家でゆっくりと一人で食べたかった。それがここで気も休まらないまま食べるというのはちょっと……いや、かなり嫌だ。自分がとても子供っぽいことを考えているのに気がついた垣村は、本当に仕方なく袋を開けようとしたが……「いや、そんなに好きならいいから」と笹原に押しとどめられる。正直なところ嬉しかった。


「何考えてるのかわかんないけど、意外と子供っぽいところあるんだ。お菓子取られたくないとか」


「誰だって好きなものは取られたくないと思うけど」


「その反論も子供っぽい」


 普段の生活を見ていたら、君たちの方が子供っぽいとは言わなかった。どうせ言うだけ無駄だろう。


「垣村って、なんで普段イヤホンつけてるの?」


「聞きたくもない音を聞かないために、かな」


「なにそれ、変なの」


 調子が戻ってきたのか、彼女の表情もだいぶ柔らかくなってきている。口元には柔らかそうな笑みも浮かんできていて、傍目から見れば確かにかわいいんだろうなと垣村は思った。そりゃあ、あんな風に男に襲われそうにもなるはずだ。もっとも、垣村は現実で起こるとは欠片も思ってはいなかったが。しかし、現実を考え出すと少し憂鬱な気分が垣村の中に湧き上がってくる。


「はぁ……月曜から学校平気かな」


「なんで?」


「邪魔しやがってって、逆恨みされるかもしれない」


「あぁー、でも動画撮ってたでしょ? なら、大丈夫じゃん」


「撮ってないよ」


「……はぁ!?」


 本日何度目だろう。耳元で大きな声で驚かれると、垣村も連られて驚いてしまう。彼女は垣村のポケットの中にしまわれている携帯を見てから言ってきた。


「だって、さっき……」


「ハッタリだよ。本当に最後の方しか録画してないから、決定的な場面、撮れてない」


「なのにあんな、堂々と言ったの? バレるかもしれないのに?」


「バレたって良かった。笹原さんに襲いかかったら、それを録画して警察呼んで、間に入る。俺に殴りかかったなら、笹原さんは逃げられる。どっちに転んだって、それなりに事は運んでたから」


「殴られても良かったって言うの?」


「良くない。けど、笹原さんが襲われるよりマシだ」


 どうせ、自己満足だ。じゃなきゃ彼女を助ける理由がない。自分で思っているよりも、優しい人物じゃないなんてわかりきっている。むしろ、自分が優しい人だと思い込んでいる時点で優しくないようなものだ。


 あくまで合理的に、自分にできることをしただけ。ただそれだけのことだ、と自分で自分を納得させるように垣村は心に言いつける。そんな垣村の返事に、笹原は不満があったようだ。まるで叱りつける母親のように彼女は言う。


「自分のこと、蔑ろにしすぎじゃない」


「そんなことないけど……。痛いの嫌だし、俺だって自分のことがかわいくて仕方がない」


「なにそれ、垣村の言ってることおかしいよ」


 笹原は何がおかしいのか、クスクスと笑っていた。別に変なことを言ったつもりはない。考えてることがわからないのは、そっちの方じゃないのかと思った。


「……ありがとう、垣村。助かったよ」


 ひとしきり笑った後で、笹原は目線を合わせようとしない垣村の横顔に向けて笑顔のままお礼を言う。そんな顔で言われるとも思っていなかった垣村は不意のことに心臓がドキリと跳ね上がった。


 ……本当に、わからない。そんな吹っ切れたような笑顔で感謝されても、あの時傷つけられた傷が癒えるわけじゃない。


「別に……」


 彼女から視線を逸らし、別の方を向く。例え嫌な相手からだとしても、感謝されるというのはむず痒かった。それに、なんだか蒸し暑い。


「ねぇ、下の名前なんていうの」


「志音、だけど」


「そうだ、そんな名前だった。ちなみに私は唯香ね」


「一応忘れないようにしとく」


 下の名前で呼ぶことなんてないだろうけれど、伝えられた以上忘れてはいけないだろう。笹原は次の日には忘れているかもしれないが。


 そうな感じで話し込んでいると、だいぶ長い時間をここで過ごしていることに気がついた。携帯の電源を入れて時間を確認したら、次の電車の時間が迫ってきている。そろそろ帰らなければならない。


「そろそろ、電車が来そうだ」


「じゃあ、駅まで歩こうか」


「……一緒に?」


「なんで嫌な顔するわけ!? あんなことあったのに、私一人で帰らせる気なの!?」


 そんなこと流石に垣村でもわかっている。だが、念のために聞いただけだ。自分と帰りたがるような人じゃないと心のどこかで思っていた。これで勘違いして調子に乗り始めたら、今度こそ色々と終わりだろう。


「いや、笹原さんみたいなかわいい人なら、日常茶飯事なのかなって思ってた」


「っ……んなわけないでしょ!!」


 笹原は立ち上がって、垣村の服を引っ張るようにして立たせる。そして駅の方に向かって服を引っ張りながら歩いていくので、垣村も仕方なく彼女の隣にまでやってきて歩くしかなかった。


 これで変な噂がたったらどうする気なんだろう。それで変な矛先が向けられるのは勘弁して欲しいところだ。ただでさえ、さっき追い払った男子生徒に逆恨みされそうで内心ビクビクしているというのに。


「垣村って、電車どっち」


「下り」


「じゃあ、電車は別なんだ」


「……まさか上って家まで送れって?」


 そうなってくると話は別だ。電車の時間を考えると、流石に笹原を家まで送るのは厳しい。いやそもそも、そこまでやってやる必要はあるのか。笹原の評価に対してどこまでやってやれるのか、垣村にはわからなくなってきていた。


「流石にそこまで言わない。これ以上迷惑かけたくないし」


「そう。下りって一時間に一本しかないから、送ってけって言われたらどうしようかと思った」


「少なっ。え、本当に一本しかないの?」


「ないよ」


 信じられないといった目で笹原に見られている。反対側、しかも下りの電車なんて彼女は見ないのだろう。一時間に一本しかないのは、今向かっている駅から下だけなのが本当に面倒だと思う。都会の方なら、電車は時間なんて気にしないで乗れるとか言うけれど、本当なのだろうか。


「垣村って、オタクだと思ってたけど……案外図太いんだね。今じゃそんなにキョドってないし」


「第一、俺はオタクじゃない」


「違うの?」


「笹原さんの言うオタクは、アニメオタクとかそんな感じでしょ。俺は、アニメは見ない」


 正直アニメに関してはあまり興味がわかない。だというのに、根暗なだけでオタク扱いされてしまうのだから困ったものだ。誰も日陰なんて見やしない。見られなければ、勝手に想像されるだけ。アイツはあぁいう奴なんだって。実際垣村はそう思われているのだから。


「正直、垣村のこと誤解してたのかも」


 服を引っ張ったまま歩き続ける笹原は、ちょっとだけ笑いながら垣村のことを見てくる。それに対して、垣村は努めて無表情を保つようにして言い返す。


「俺は、笹原さんは印象通りの人だった」


「そう。どんな?」


「人に向かってきもいって平気で言う人」


「……アレ、聞こえてたの?」


「聞こえてた」


 笑顔から一変して、どこか焦ったような顔つきになる。慣れてしまったのか、垣村の心は少しずつ穏やかになってきていた。軽口が平気で言える程度には、いつもの調子に戻ってきているらしい。


「いや、そのさ……その場しのぎみたいな感じで言ったっていうか……ほら、エモいとか、そんな感じで」


「俺にはJK語はわからないけど……軽々しくきもいと言うのなら、自殺者が増えるな」


「ご、ごめん……」


 顔を俯かせて、しかし歩みは止めずに進み続ける。彼女に謝られようとも、心につけられた傷なんてものはそう簡単に治るわけじゃない。生々しい傷跡を残して、未だに心臓を抉り続ける。


「……なのに、私のこと助けてくれたの?」


「正直、助けたくなかった。でも、あんな場面で助けないなんて選択、できないから」


「……調子がいいこと言うかもだけど、許してもらえない?」


「いいや、許せない」


 そう伝えた途端、掴まれている部分が更に強く握られる。笹原は顔を合わせることもできないようで、垣村もまた顔を合わせる気もなかった。


「けれど」


 そう、垣村は続ける。


「そのうち、気にならなくなることはあるかもしれない」


 いつかそれが笑い話にできるのなら。そういった道を歩めたのなら、それはそれでいいんだろう。許さない、けど気にしない。相手に贖罪させる機会を与えることくらいは、してやってもいい。先程までの会話で、垣村はそう思えるようにはなっていた。


「……ありがとう、垣村」


 一度垣村を見て、また顔を正面に戻す。彼女が先程の言葉をどう捉えたのか。わからないが、感謝されて悪い気はしない。


「なんだか、垣村のその言い回し……詩人みたい」


「……そんな大層なこと言った覚えはないけれど」


 詩人と言われて、少し擽ったく感じる。その後は、互いにしばらく無言の時間が流れていた。座って話していた時は窮屈で仕方がなかった無言が、今ではあまりそうは感じない。笹原も同じように思っているのか、無理にでも会話を繋げようとはしてこなかった。


 歩き続けて数分。嫌というくらい明るく光を放っている駅が見えてきた。スーツ姿の人達が数人階段を降りてきているのが見える。幸いにも生徒の姿はなさそうだ。垣村が足を止めると、笹原も同じく足を止めて垣村のことを見てきた。


「ここまで来れば、大丈夫でしょ」


「駅まで行かないの?」


「一緒に行って、ウチの生徒がいたら変な噂がたつよ」


「……それも、そうだね」


 否定して欲しかったわけじゃないが、なんだろう。なんとなく残念だ。


 笹原は握っていた服を手放して、数歩前に歩み出てから垣村に向かって振り返る。


「本当にありがとね、垣村。また月曜日に」


「……あぁ、気をつけて」


 華やかに笑った横顔を見せながら、彼女は軽く手を振ってその場を去っていく。彼女が階段を上りきったあたりで、垣村も階段を上り始めた。


(……本当に、顔はいいんだよな)


 先程見た笑顔を思い出して、ふとそう思う。なんだかまた体が蒸し暑くなってきている気がして、垣村は手で顔を扇いだ。


 まぁ別に……嫌な奴ではないんだろう。トップカーストには変わりないんだろうけれど。垣村の中で、少しだけ笹原に対する印象は変わっていた。

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