4話目 まかれた芽
学校から少し離れた場所にある、お好み焼きやもんじゃ焼きが食べられるお店が文化祭の打ち上げ会場として選ばれた。文化祭は一応成功として幕を下ろし、それなりにクラスの人たちは楽しめていたように思える。打ち上げの会場にいる生徒は制服ではなく、皆私服だった。垣村も黒地のシャツに灰色の薄いパーカーを羽織り、ジーパンを穿くというラフな格好だ。
テーブルをくっつけて、ひとつの長い机のようにして垣村たちは座り始める。男女の境目となる場所には、やはり松本のようなトップカーストが。端の方には日頃目立つことのない男子生徒たちが座っている。もちろん垣村はそのテーブルの端も端。一番奥で座って、対面にいる西園と焼いたもんじゃを食べながら話をしていた。熱々のもんじゃを口に運びながら、西園は不思議そうに尋ねてくる。
「うーん……なぁ、もんじゃとお好み焼きの違いってなんだ?」
「混ぜながら食べるか、生地が固まるまで焼いて食べるか。それくらいじゃない?」
「食い方の違いで名称が変わるのなら、変な話だよなー」
「もんじゃって、関東の人しかあまり食べないってネットに載ってた」
「へぇー。まぁ、俺はどっちでもいいけど」
焼き切る前に食べるのも、焼き切って食べるのもどっちも美味しい。双方に違いがあろうとも最終的には腹の中に入ってしまえば何も変わらない。そう考えるのは無粋なんだろうな、と垣村は思った。美味いものは美味い。それでいい。
ちょうどいい感じに焼けたもんじゃを口の中に運び、想像していたよりも熱くてコップになみなみ注がれたお冷で熱を冷ましていく。対面を見れば、西園が面白いものを見たように笑っていた。
「今すっげぇアホ面だった」
「そっか……お前のがうつったかな」
「俺ってアホ面なの?」
「いいや、ただのアホだ」
ケラケラと笑いながら「そりゃひでぇや」と言う西園に、垣村もくすくすと笑い返す。端の方ではこうした大人しいやり取りが繰り広げられているが、女子寄りの場所では教室にいる時よりもはるかに煩い喧騒になっていた。
教室が同じとはいえ、男子が女子との接点を持つのは難しい。だからこそこういった機会に女子に近づいていき、自分は優しい男なんですよとアピールする。横目でそんな光景を見ていた垣村は、あまりにも馬鹿馬鹿しくて鼻で笑った。
媚びへつらうのは好きじゃない。もし仮に自分があの場に行っても、何もすることはなく西園と話しているんだろうと予想がついた。ヘタレなだけかもしれないが、あんなふうにいつもと違う自分を見せつけにいくのは、どうも違うだろう。
そうしてぼんやりとその光景を眺めていると、視界の中に明るい黒髪の女の子が映り込んでくる。笹原が女子との会話を楽しんでいる中で、急に横から男子の手が入り込み、一瞬めんどそうな顔を浮かべては直ぐに元に戻す。向こうではお好み焼きを焼いているようで、いい感じに焼けた部分を笹原によそってあげたらしい。
(……一瞬すっげぇ嫌な顔してた。あれじゃ、アピールも形無しだな)
ざまぁないね、と嘲っていると笹原はよそられたお好み焼きを小さく切り分けて、それを口の中に運んでいく。柔らかそうな唇が揺れ動き、不思議と咀嚼音まで聞こえてくる気がした。口元を手で抑えるが、垣村の位置からは見えている。唇の間から出てきた舌が、チロリと唇についたソースを舐めとっていく。なんだか、扇情的だった。
(何考えてんだよ、俺)
なんだか変な気分になりかけた垣村はそっと目を逸らす。逸らした先にいるのは西園だ。彼はもんじゃを焼く小さなヘラ、はがしと呼ばれるものを口に咥えながらじっと垣村のことを見ていた。自分が何をしていたのかを思い返した垣村はハッとなり、視線から逃れるべくお冷を呷るように飲み込んだ。
「へいへい志音。俺がいるのに余所見してるのか? そんなにあの集団気になってるの?」
「別に気になってはない。ただ……」
「ただ……?」
「……いや、なんでもない」
言葉を濁した垣村に対して、西園は「ふーん」と鼻を鳴らす。コップの中身を少し飲んで、小さく息を吐いていた。
「傘まだ返してもらってないの?」
「えっ……?」
口元を浅く歪め、ニヤニヤと笑うように西園は尋ねてきた。そんなこと言われるとも思っていなくて、しかも西園が知っているなんて考えてもみなくて。驚いて言葉を詰まらせた垣村は、少しの間を開けて聞き返した。
「なんで知ってるの?」
「笹原さんがお前に渡しといてくれって言ってきてさ。自分で返すのが礼儀だろーって突っぱね返しちゃった」
あははと笑う西園を、垣村は訝しげに睨みつけた。おそらくそれは自分が休んでいる間に起きたことだろうし、その日に自分がいなかったから西園に頼もうとしたのだとも安易に予想がつく。
そこで受け取ってくれればよかったものを、どうして突っぱねたんだ。あんなことがあった手前、こっちは廊下ですれ違うだけでも心臓に悪いっていうのに。
「いやいや、睨まないでよー。俺としてはさ、正しいことしたと思ってるんだから」
「受け取ってくれたらよかったのに」
「だって態度がなんか嫌だったし。何かしてもらったらお礼を言うのが当たり前。どっちかが嫌な思いした訳でもないし、別にいいじゃんよ」
こっちは嫌な思いをしてるんだよ、と言いかけた。あの時のことは忘れようにも忘れられない。陰口なんてものは普段は聞かないようにイヤホンで閉じているけれど、あの時は違った。背中に投げかけられたあの言葉は、確かに自分の心に傷をつけたのだから。
「なんかさー、世の中って生きづらいよな」
一人心の中で苦悶していると、西園はどこか遠くを見るような目で話しかけてきた。人差し指を宙に浮かして、何かを書き始める。
「なぁ志音。これ見えるか?」
「……いいや」
「だよなー。見えないもんを読めって、そりゃ無理難題だよなー」
彼が何を言いたいのか、いまいち垣村にはわからなかった。彼が宙に書いたのはなんだったのだろう。いや、文字ではなかったのかもしれない。ぼんやりとした目で虚空を見つめる西園を見ていると、なんだか心配になってきた。
「あるものだけを見て生きるのって、ダメなのかな」
「ダメじゃないかな。冤罪ってのが起こるのは、そういうことがあるからでしょ。背景を見る必要がある」
「それも全て過去のこと。でも、俺たちが生きてるのって
何が言いたいのかはいまいち理解ができなかったけれど、少しはわかった。確かに今の自分が未来のことを考えるのは億劫だ。けれども、考えなくてはいけない。だってつまらない将来になりたくないから。
「空気を読んで自分のしたいこと、すべきことをできなかったら……それは、つまんないよな?」
そう尋ねてくる西園に、頷いて返した。やりたいことをやる。やるべきことをやる。それが他者に迷惑をかけず、また公共の福祉に反しないのであれば。誰に咎められる必要もないだろう。
「読めないねぇ。空気も、展開も、将来も」
「……そういうもんだよ」
「ハハッ、そういうもんかー」
今までの空気を払拭するように、西園は無理やり笑った。互いに焼きすぎたもんじゃを口に運んで、焦げ目が美味いと同時に意見を漏らす。
誰にも縛られたくはないけれど、誰かに引っ張っていって欲しいと思うのは変だろうか。道無き道を歩いていくのは中々に怖い。成功した人が、それか信じれる人が、この手を引っ張っていってくれるのなら、なんて楽で安全な道だろう。
再び口の中にもんじゃを運んでから、そっと視線をトップカーストたちに向ける。笑いながら食べている彼らを見ていると、道がなくても笑いながら進んでいくんだろうなと思えてしまう。なんにも怖くなさそうだった。
(羨ましくはない。けれど……妬ましいな)
何も考えずに、のうのうと生きることができたなら……どれだけ、幸せなんだろう。垣村はもんじゃの焦げを口の中に入れると、苦々しく顔を歪めた。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
季節はまだ夏。夜になると心地よい程度の気温になる。各々現地で解散をし、何人かは集まって駄弁ったりする中、垣村と西園は帰ることにした。西園は自転車で来ていて、そのまま乗っかって家へと帰っていく。
対して垣村は電車だ。駅まで歩かねばならず、下りの電車は一時間に一本。時間を確認すれば、ちょうど電車が出てしまう頃合だった。急ぐ必要もなくなり、近くにあったコンビニで適当にお菓子を買ってから駅へとゆったり歩いていく。
人通りも少なく、また車通りもない。そんな寂れた公園の近くにまでやってきた垣村は、ポケットからイヤホンを取り出して左耳だけにつける。音が漏れていないか確認するためだ。そして携帯で普段聞いているゆったりとした音調の音楽を流し始めると……。
「っ……」
音楽がイヤホンからではなく携帯から流れ出してしまった。ポケットの中に入れていたせいか、擦れてプラグの部分が少し外れていたらしい。夜で静かだったこともあり、垣村は驚いて携帯を落としそうになったが、すぐにプラグをさし直す。なんでもない事とはいえ、不思議と恥ずかしかった。これが夜の電車の中だったら、比べ物にならないくらい恥ずかしい思いをしていただろう。
(焦った……ワイヤレスのイヤホン、買ってみようかな)
片耳だけイヤホンをつけたまま、足を止めて携帯を弄る。音量を調節して、いざ駅に向かって歩きだそうとした時だ。
「おい、待てって!」
誰かの怒鳴り声が公園から聞こえてきた。痴情のもつれだろうか。垣村の右側には仮設トイレがあり、位置的に何も見えない。馬鹿馬鹿しいし、何も聞かなかったことにして帰ろうと、垣村は右耳にイヤホンをかけようとする。
そうしたら、公園を囲むように植えられていた小さな木を飛び越えるようにして目の前に誰かが飛び出してきた。あと数歩前を歩いていたら衝突していたことだろう。飛び出してきたのは女の子だった。息を切らし、茶色の肩下げカバンを大事そうに抱えている。左耳だけを見せるようにかきあげたその髪型に、垣村は見覚えがあった。
(……笹原?)
向こう側も垣村に気がついたようで、呼吸を整えるために開かれた口を閉じることなく、またいるとも思っていなかった相手がいることに目を見開いていた。
「待てよ、笹原!!」
再び聞こえる怒鳴り声。その声にハッとなって笹原はその場から後ずさっていく。そして笹原と同じく、公園から飛び出してきたのは背丈の高い男だ。黒色のパーカーを羽織っているその男は垣村に気がついていないようで、逃げようとしている笹原だけを見ていた。
「こ、こっち来んな!! 誰が、アンタみたいなのとっ……」
男が一歩前に出れば、笹原は一歩後ずさる。男を挟んで向こう側にいる笹原の縋るような目が垣村を射抜いてきた。彼女が何も言わずとも、助けてと懇願しているのが嫌でもわかる。
(……なんで俺が)
助けなくちゃいけないんだ。そう心の中で思ってしまったのは、あの雨の日のことがあったから。
気まぐれで起きたことでも、あの時言われたあの言葉は確実に傷を残していった。きもいと言ったあの笹原を、自分が助ける必要はあるのだろうか。それにどうせ、彼女のことだ。彼女自身にも非があるに違いない。自業自得だ、きっと。
(でも、いいのか。見捨ててしまって)
男が必死に笹原を怒鳴りつけている。まるで幼稚みたいな言葉がつらつらと並んでいき、目の前の男の語彙の少なさに唖然となる。
追い詰めようとする男から少しずつ離れていく笹原。逃げたら追いかけられるのだとわかっているんだろう。そして追いかけられたら最後、男の足には適わないのだと。
いつも自分のような存在を見下し、嘲っているトップカースト。そんな彼女が今、震える体を抑えるようにしながら懇願するかのように視線を向けてきている。
本当に、助けなくていいのだろうか。いや、厚意を無下にし、あまつさえきもいと言ってきた彼女を、本当に助けてやる必要があるのか。
(……助けなかったら、ただのクズだ。それこそ、トップカーストよりもなおタチが悪い。そうじゃないのか)
唇をかみしめ、持っていた携帯でカメラのアプリを開く。そして録画開始のボタンを押す。ピコンッと電子音が鳴って、録画が開始された。
「っ……!!」
男が振り向く。静かな夜だ、嫌でもこの音に気がつくだろう。右手に持った携帯を見せつけるように男に向けて、垣村は心臓が暴れ出しているのを堪えながら口を開く。
「現実じゃお前に勝てないけど」
声を出す度に、震えてしまいそうになる。その言葉が早口になってしまわないように気をつけながら、ガチガチと震えそうな奥歯を強く噛み締めて、また言葉を放つ。
「ネットなら、オタクの方が強い」
男の顔が引き攣る。録画されているという事実に気がついたようだ。笹原と接点があるのならば、学校の生徒だろう。そして見たことがない時点で、理系ではなく文系クラス。だとしても、ネットの拡散力は怖い。垣村がその動画をアップすれば、瞬く間に学校内に広まるだろう。
「お前がこの動画を消すために殴りかかってくるなら、その間に笹原は逃げ切れる。このまま笹原に迫れば、月曜にはクラスの話題で持ちきりだ」
垣村に向かって迫ろうとしていた男の動きが止まる。正直逃げたかった。体格差を考えたら、自分は呆気なくやられてしまう。でも、もう口は動いてしまった。後はもうなるようになるしかない。垣村は覚悟を決めて、最後の警告を告げた。
「今何もせずに消えれば、動画をアップするのはやめてやる。だから……」
「っ、クソッ!!」
男はその場から公園の中へと戻り、走り去っていく。その背中が見えなくなるまで待ち、そして大きく息を吐いた。緊張が一気に解け、脈打つ心音がより一層存在感を増してくる。携帯のアプリを閉じて、ポケットの中にしまいこんだ。
静かな夜だというのに、とんだ騒音騒ぎだ。自分がこんなことに巻き込まれるなんて思ってもいなかった。左耳につけたままのイヤホンから流れてくる音楽が今の心境に合わなくて、外してその場から歩き出す。
危害を加える男がいなくなって安心したのか、笹原はその場で膝を抱えて座り込んでいた。なんだか変な既視感を覚える。
(またきもいとか言われたら嫌だし……もう、あの男も何もしてこないだろ)
あぁ、笹原には何もしないだろうけれど。もしかしたら今度は自分が狙われるんじゃ。そう考え始めたら怖くなってきたので、垣村は軽く身震いしてその場から離れていく。
笹原の隣にまでやってきて……何もせずに、そのまま通り過ぎていく。
本来関わるべきじゃない。日陰者が、こんな日頃から輝くような日向みたいな人物と。
「ま、待ってよ……」
弱く掠れるような声が背後から聞こえてくる。今ほどイヤホンをつけていなくて後悔したことはない。つけていればこんな雑音は聞き取らなかった。けれど、垣村は既に足を止めてしまっている。もう逃げようにも逃げれなかった。
垣村は仕方なく振り返る。いつも気丈に振る舞い、笑っている彼女が今では捨てられた子犬のように大人しい。いつもと違う彼女の様子が、欠片ほど残された垣村の良心をジクジクと痛めつける。らしくない、そう思っていても近寄らないわけにはいかなかった。座っている彼女の隣にまでやってきて、話しかけるでもなく、ただその場で呆然と立ち尽くす。涙目の彼女は垣村を見上げてから、そっと右手で垣村の服の裾を掴んだ。
「……ありがと」
小さな声でも、しっかりと垣村の耳に届いてくる。けれど、まさか素直にお礼を言われるだなんて思っていなかった。
返す言葉が何も出てこなくて、垣村は彼女の隣に立ったまま反対の方に視線を向ける。
「……あぁ」
そんな短い言葉だけが辛うじて喉の奥から漏れ出た。鼻をすする音と、煩いほどに脈動する心音だけが垣村の耳に届いてくる。
笹原が落ち着くまで動くこともできず、ただじっと……静寂な世界に取り残された音を拾って、適当に音楽を紡いでいた。
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