3話目 紺色の空模様

 初めて見た時、根暗な奴だと思った。両耳にイヤホンをつけて生活して、友人と話すとき以外ではうつ伏せになって眠っている。


 そんなアイツをしっかりと認識したのは、酷い雷雨の日だ。今時天気予報なんて見ない。昼間は晴れていたから、傘なんて持っていなかった。


 皆とスーパーまでやってきたのはいいけど、紗綾さやたちと別れた手前、戻って傘を買いに行くのもなんだか変にはばかられた。雨が降っているんだから、別にそんなこと気にする必要もないのに。


 どうしようかと座りながら打ち付ける雨をぼんやりと見ていると、アイツはスーパーから出てきた。相変わらずイヤホンをつけていたけれど、急に外したかと思えば、雨を見ながら誰に向けるわけでもなく微笑んだ。なんだか珍しいものを見ている気がして、不思議と視線を逸らせなかった。そのままじっと眺めていたら……気がつかれたのか、一瞬だけ目が合ってしまった。


 その後は、挙動不審なアイツが傘を無理やり渡して逃げるように去っていったのを、ポカンとした顔で見ていたと思う。おどおどして、視線も合ってなくて。そんなオタクみたいな男の背中に、いつものように軽口できもいと言ってしまったのも……別に普通のことだと思う。





〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜





 あの雷雨の日の翌週。月曜日になって、笹原は学校につくなり教室の中を見回した。先週の金曜日に一方的に渡された折りたたみ傘を返さなくてはいけないから。


 教室の中では生徒がごった返すように蠢いている。その後ろの隅の方を見てみるけれど、そこに彼の姿はなかった。カバンの中にしまってある傘を見て、どうやって返そうかと悩んでいると……いつもように、笹原の友人たちが近づいてくる。


 セミロングの女の子。紗綾は笹原が学校に着くといの一番に挨拶しにくる。明るく「おっはよー、唯ちゃーん」なんて言ってくるものだから、月曜日特有の気だるさがほんの少し、どこかへ飛んで行った気がした。


「おはよ、紗綾」


「ねぇねぇ、進路調査のやつなんだけどさー」


 紗綾は紙を取り出して自分がどういう進路を進むのか話し始めた。笹原はそれに頷きながら、自分の将来について考え始める。けれど、明確な未来の自分の姿というのはまったく思いつかなかった。


 そのうち他の人も集まってきて、男子たちは「そんなもんあったっけ」なんて紙の存在すら忘れていた。なんとも彼ららしいと小馬鹿にするように笑っていると、時間は刻々と過ぎていき、登校完了時刻になる。先生が教室に入ってきて、笹原は話が始まる前に何気ない感じで後ろの方を見た。けれど彼の席であろう場所には、誰も座っていなかった。


 そして結局、彼は学校には来なくて、傘は返せずじまい。カバンの中には女の子らしい薄い赤色のペンケースやポーチ。それらと対称的な、紺色の折りたたみ傘がある。


(……風邪引いたのかな。馬鹿みたい)


 放課後になって皆が帰る支度を始める中、笹原はあの雷雨の日に見た彼の姿を思い浮かべては、何度も「バーカ」と罵った。あの日の情景が、忘れようとしても忘れられない。あんな馬鹿みたいなことをした彼の姿が、インパクトがデカすぎて消えないみたい。


(そういえば……昼の時、いつも一緒に食べてる人がいたような)


 カバンの中にある傘を見ながら、必死に記憶を掘り起こす。普段は視界の中に入っていても意識すらしていないせいで、彼が誰と食べていたのかなんてのは中々思い出せなかった。諦めて帰ろうかと廊下を見たら、ちょうどこれから帰るらしい男子生徒が目に入ってきた。


 それを見て笹原はピンと来た。目の前を歩いている軽そうな面持ちの男子生徒、西園が普段は彼と一緒に食べていたはず。カバンから傘を取り出して、笹原は西園の背中を追いかけた。


「西園、ちょっと待って」


「ん? あれ、笹原さん?」


 話しかけられたことが意外だったのか、西園は驚いた顔で笹原のことを見てきた。そんな彼に向けて、笹原は手に持っていた傘を突き出すように差し出す。


「西園って、アイツ……垣村と仲いいでしょ。これ、返しといて」


「傘……なに、笹原さんって志音と仲よかったっけ」


「違う。アイツが私に一方的に貸してくれただけ」


 別に仲なんてよくないし、それどころか話したことすらない。けれど一方的とはいえ貸してくれたものを返さないわけにもいかない。西園が返してくれるというのなら、それはそれで都合がよかった。西園は垣村と一緒にいることが多いけど、それでも垣村よりは皆から敬遠されていなかったから。話すのも別になんてことはない。


 けれど西園は傘を受け取らず、へらへらとした顔で笹原に言ってくる。


「それでも貸してもらったんなら、自分で返しなよー。せめてお礼くらいは言ってあげるとかさ」


「お礼って……」


「笹原さんってさー、志音と話すの嫌なの?」


 そのへらへらとした顔を崩さないまま、彼は問い詰めるように話す。笹原は苦々しそうに顔を歪め、目を細めて西園を睨みつけた。笹原はよく強かな女子だと言われるが、そんな彼女に睨まれても西園は意に介さず、また怖気ることもなかった。


「別にそういうわけじゃない。でも、そういうの、なんとなくわかるでしょ」


「空気を読めってやつ? 文字も何も書いてないのに、読めるわけないじゃんかー」


 笹原はなんだか凄いムカついてきた。目の前の男に向かって一発殴りたくなってきたけれど、ぐっと堪える。空気を読むのなんて当たり前のことだ。今時じゃ小学生でもしなくてはならない。


 それに彼、垣村は自分とは違う。立場や、生き方、派閥。笹原が彼に話しかけるというのは、一種の異常事態のようなものだ。そんなことになればクラスの人たちが浮き足立つのが想像できた。


「ていうかそもそも。西園ってなんで垣村みたいなのと一緒にいるの? アンタ、オタク趣味とかあったっけ」


「……いやいや、俺は別にオタクだから志音と一緒にいるわけじゃないし。そもそも皆、考え方がおかしい気がするよ」


 西園のへらへらとした笑みがなくなる。いつも細められていた目は開かれ、鋭い眼光が笹原のことを射抜いた。


「一緒にいて楽しいと思うから一緒にいるんじゃん。理由なんてそんなもんじゃないの? 打算で一緒にいるとか、窮屈なだけだよ」


 彼の変化に、笹原はしれずと生唾を飲み込んでいた。真面目な表情をしていたのはその瞬間だけで、すぐにいつものへらへらとした軽薄な顔つきに戻る。


「自分で返しなよー。志音って悪いやつじゃないしさ」


 そう言って彼は踵を返し、その場から去っていく。追いかける気にもなれなくて、笹原はその場で立ち尽くしていた。手に握られている傘の持ち主は、自分とはいる場所が違う。


 オタクというだけで、下に見られてしまうのが学校だ。何をするわけでもなくカースト下位に位置されてしまう。けれど笹原がいるのはカースト上位のグループ。互いに話すことなんてなく、接点すらもないはずだった。だからこそ気になってしまう。


(なんでアイツは、私に傘を貸してくれたんだろう)


 ふと考えてみた。けれど思いつくことなんてなくて、もしかしたら私のことが好きなのかもしれないなんて考えまで出てくる。自惚れも甚だしいけれど、もしそうならスッパリと振ってあげよう。


 カースト下位の垣村とカースト上位の笹原。そんな二人が一緒にいることなんてないはずだ。まるで昔の身分差の恋みたいに。そんなことが起こり得るはずもない。


(机の中に、お礼を書いた紙と一緒に入れておけば文句ないよね)


 どうしても、立場というものが邪魔をする。笹原は垣村に話しかけたくなかった。絶対に面倒なことになる。今は紗綾たちがいないから西園にも話しかけたが、普段は必ずいつものメンバーで固まってしまう。


 放課後に呼び出すのも気が引ける。いいや、そんなことをしたら確実に嗅ぎつけられる。今時の女子高生はそういったものに目敏い。


 だからこそ、今のうちに誰にもバレないよう、机の中に入れてしまいたい。教室に戻ってきた笹原は小さなメモ用紙に、ありがとうと一言だけ書いて彼の机の元に向かおうとした。


(……そっか。まだ人いるんだ)


 放課後になっても、残る人は残っている。男子が数人と、女子が二人。いつもは早く帰ってしまうから、残っている人がこれだけいるとは思わなかった。笹原の席の位置は知られている。そんな彼女が傘を誰とも知らない机の中に入れていたら気がつくだろう。


 カバンの中にある傘と、彼の机を見比べて……諦めたようにため息をついた笹原は、カバンを持って教室から出ていった。同じ学校に通って、同じクラスにいるから、そのうち返せるはずだと。






〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜





 けれども、次の日になって垣村が学校に来ようとも。笹原は傘を返すことができなかった。これほどまでに周りの人が鬱陶しいと感じたことは無い。ただ一瞬、ほんの一瞬だけなのに。彼のもとへと行って、傘を返すだけなのに。たったそれだけのことができなかった。


 紗綾たちと話しながら、どこかいいタイミングはないかと考えていると、どうしても視線が垣村の方へと向いてしまっていた。それだけじゃない。友だちと話してる最中に、ふと周りを見回してみると……何故か垣村が視界に入ってくる。向こうは気がついているのか、いないのか。時折視線が合いそうになってしまった。


(……なんだ、意外と笑うんだ)


 お昼になって、お弁当を食べながら視線の先にいる彼を見て思った。白米を口の中に運ぶと、西園が彼に話しかける。その会話の内容はわからないけど、彼は口元を抑えて笑っていた。優しく細められた目が、あの雷雨の日と重なる。


「唯ちゃん、ボーっとしてどうしたの?」


「っ……なんでもない」


 見てるのがバレたのかと、心臓がドキリとした。「変な唯ちゃん」と紗綾は笑ってからお弁当の中身を口に含んでいく。


(……なんでこんなに視界の中に入ってくるわけ)


 今までは数える程しかなかったのに。今では一日に何回も視界の中に入ってきている。正直鬱陶しいとすら思えるけど、まだカバンの中に入っている折りたたみ傘を思い出すと、自然と息が漏れた。


 私のせいじゃない。全部あの、垣村のせいだ。そう考える。


 なんであの時、私に傘を貸したの。接点も何もないのに。ねぇ、どうして。


 視界の隅に映っている垣村に向かって、心の中で尋ねた。もちろん、答えなんて返ってこない。


(返さなくちゃ、いけないよね)


 西園に言われた通り、自分の手で返さなくちゃいけない。それが礼儀というものだとわかっていた。けれど、それだけのことが難しい。


 これが他の男子、松本とかならともかく、なんでよりにもよって垣村なんだろう。松本が相手なら、何も気にすることなく傘を返しに行けるのに。


(あぁ、雨なんて大っ嫌い)


 頭の中にあの日を思い出しながら、笹原は奥歯をかみ締めた。


 化粧は崩れるし、足は濡れるし、スカートだと寒いし。それに……傘を無理やり渡してくる馬鹿がいるし。だから、雨なんて大っ嫌いだ。


 刻々と時間だけがいたずらに過ぎていく。今日は返せなかった。明日になっても返せなかった。ズルズルと日にちだけが伸びていく。


 カバンの中にある似合わない色をした紺色の傘は、いつからか馴染むように鎮座していた。

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