2話目 視界に映る
雨の中を傘もなしに走り抜け、案の定風邪をひいた垣村は土日両方を布団の中で眠って過ごした。幸いにも月曜日にはなんとか動けるようにもなり、火曜日は学校に来る事ができた。
自分の席に着いてカバンの中から進路希望調査の紙を取り出す。男子にしては丁寧な字で、それなりの理系大学の名前が書かれていた。もっとも、垣村はこの大学に行きたいとは毛ほども思ってはいない。ただ、書いて出さないと先生に怒られてしまう。
己を偽るのも、一つの処世術だ。どうせ表面しか見ない世界なのだから、いくら取り繕ったって構わないだろう。顔面は正義。数日前にハッキリと思い知らされたことだった。
「うーっす、病み上がり平気かー?」
背後から近寄られて、西園に声をかけられた。首のすぐ横から顔を覗かせ、持っている紙を見てくる。特になんとも思うことがないのか、ふーんっと鼻を鳴らすような声を出された。彼は何を書いたのだろう。垣村は気になって聞いてみた。
「西園は、何書いた?」
「ん、俺? まだ決まらないってデカデカと書いて提出してやったぜ」
彼は何も悪びれていないようで、「おかげで呼び出しくらっちまったー」とヘラヘラしていた。そういうところが、羨ましい。考えてみれば、西園は自分のような日陰者ではなく、日向にいるべき人物だ。そこら辺にいる人達と同じような、楽観視する性質が彼にもあるんだろう。口にするのは失礼だけど。
「第一、まだ俺たちには早いよ。まだ何にも将来のこととか決まってないのにさー」
西園の言う通りだとは思う。けれど、そうじゃダメなんだと思っている自分もいた。もっと前を見ておかなければ、恐ろしくて仕方がない。つまらない大人になんて、絶対になりたくないから。
「まぁ、そのうち焦り始めたら嫌でも考えることになるし。俺はまだまだいいかなー」
「……そんなこと言ったら、先生に怒られるだろ」
「おう、怒られたぜ」
言ったのか。能天気を通り越して阿呆なのか。楽観視が過ぎるというか、なんというか。垣村は呆れて何も言えず、苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「そうだ、昨日文化祭でやること決まったぞ。女装喫茶だって」
「……冗談だろ?」
「安心しろ。俺とお前は外回り、やるのはイケメン君たちだから」
それなら良かったと垣村は安堵し息を吐いた。理系クラスには女子生徒が少ない。だから男子主軸で文化祭の出し物を決めたようだ。羞恥心もかなぐり捨てる年頃の男子生徒の発案に少なからず反対意見も出たが、トップカーストの意向には逆らえない。女子生徒は特に反対することも無く、垣村のクラスは女子から借りた制服で男子が接客をするとのこと。
しかし高校の文化祭とはいえ、食べ物に関しては規制が厳しい。焼きそばなんてものは作れないし、強いて作れるのならパンケーキだ。とりあえずソレと飲み物を適当に出して回していくらしい。
「文化祭かー。なんか、他の高校だと規制が緩かったり、遊びに来た他校の生徒が男女で一緒に写真撮ったりするらしいよ」
「コミュ力の化け物か」
「人見知りには辛いよねー。したいとも思わないけど」
初めて会う人と馴れ馴れしく話して、それで一緒に写真を撮って。そんなことが可能なのだろうか。そう思ったが、やはりそれも顔面特権だ。格好いい男とかわいい女だけが許される。SNSで偉い人もそう呟いていた。どの道、そんなものに縁もゆかりも無いけれど、と垣村は考えるのをやめた。
先日きもいと言われたばかり。傷心もあるが、もとより垣村はポジティブな思考は得意でない。過去の失敗をずっと考え込んでしまう性格だ。なんで神様はこんな中途半端な男を作り出してしまったんだろう。信じてもいない神に向かって、垣村は心の中で毒づいた。
「文化祭が終わったら、クラスで打ち上げもあんだろ? ほとんど強制参加みたいなもんだよなー。俺たちいなくても変わりない気がするのに」
「二つに分けよう。陰キャとパリピで」
「じゃあ俺パリピに混ざってくるから……」
「おい」
さりげなく逃げようとした西園を、垣村は逃がさんとばかりに制服の袖を掴む。へらへらと笑っている西園を見て、つられて笑ってしまった。他愛もない話をして、チャイムがなったら席に戻る。そして長ったらしい先生の話が終わったら、両耳にイヤホンをつけてうつ伏せになる。
打ち上げ、参加しなくてはならないのだろうか。別に西園と一緒にいればいい話ではあるが、ちょっと面倒だとも思う。パリピの話は、聞いてる分には面白い。だが、そこに混ざれるのかどうかはまた別だ。
会話に混ざりたいと思ったことは、最初の頃だけ数度あった。けれど、結局は誰かを貶める話が増えていく。それとは違い、陰キャはいい。話の内容なんてもの、ゲームくらいしかないのだから。陰口で笑い合うよりも、ゲームについて話していた方がよっぽどいい。それに自分が誰かを蔑むというのなら、それ以上に自分のことを蔑んでいるのだから。
自己肯定感が低い。それが自分たちのような存在なんだ。腕を枕にしている垣村の口元は嘲笑するかのように歪んでいた。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
文化祭当日。垣村のクラスは朝から騒がしかった。女子の制服を着た数人の男子生徒が、理系クラスの数少ない女子生徒から黄色い声を浴びている。女装した生徒以外は、皆ラフな格好だ。文化祭などの行事の時だけは、クラスTシャツの着用が許可される。垣村のクラスTシャツは黒の布地に2-Eという文字と、全員の名前が書かれていた。
しかし書いてある名前といえば、まさやん、やまこー、リンリン、などの渾名ばかり。無論、垣村と西園は自分の名前を平仮名で入れてあるだけだ。
(毛まで剃るのか……)
彼らの足元を見て、毛ひとつない綺麗な足が目に入ってきた。なんだろう。凄いというより、呆れが先に来た。垣村は女子生徒から手渡されたプラカードを持ち、クラスの隅の方で壁に背を持たれかけている。カードには、女装喫茶と大きく書かれており、なんだか持っているのが恥ずかしい。
「おーい、志音。外回ってこようぜー」
「ん、わかった。今行く」
文化祭だからか。近寄ってきた西園のテンションも少し高い気がした。頷いて、プラカード片手に教室よりもなおのこと騒がしい廊下へと出ていく。
普段の学校生活とは違い、校内は色とりどりであった。装飾もそうだが、なにより普段は学ランかワイシャツなので、クラスTシャツの色が派手に見える。
同性同士。もしくはカップル。そんな生徒たちが次から次へと現れてはどこかへ去っていく。プラカードを持っていない西園は、パンフレットを見て暇を潰せそうなところを探していた。
しばらくしたら女装した男子生徒がプラカードを持つことになっている。影響力のない自分が持っていたところで意味はないのに、と垣村はボーッとした頭で考えていた。文化祭は二日にかけて行われている。一日目は学生だけ。二日目は一般の人も来る。昨日の段階である程度店は機能していた。もう回る必要もないんじゃないのかと、手作りのプラカードを見て思う。
チラホラと一般の人の姿が増えてきた。それに加えて他校の学生らしき人たちもいる。子連れの親子も見えるし、小学生らしき子供だけで歩いているのもいた。そんな雑多な人々の中で一際目立つ人物がいる。スーツ姿の男性という場違いな人が周りをキョロキョロと見回していれば嫌でも目に入ってきた。西園はそれを見てどことなく顔を明るくさせ、その場から早足で近づいていく。
「おーい、
西園は近づきながらスーツ姿の男性の名前であろうものを呼んだ。どこか挙動不審に周りを見回していた男性は西園に気がつくと、へらへらとした笑みを浮かべる。垣村はなんだか不思議な既視感を覚えた。
「おっ、しょー君じゃない」
「庄司さん、仕事は?」
「んー、しょー君の文化祭が今日だって聞いたからねー。それを今朝思い出して、そのまま来ちゃったよ」
短髪で真っ黒な髪の毛。しかしスーツはよれてるし、会社に行かずにそのまま来たと言っていた。なんだか軽そうな男だという印象を受ける。顔立ちも柔らかいというよりも、薄っぺらいというべきか。
そこまで考えて、垣村は既視感の正体がわかった。西園と、この庄司と呼ばれる男が似ているのだ。庄司は西園の隣にいる垣村に気がついたのか、ニコニコと笑いながら自己紹介をし始めた。
「どうも、この子の叔父です。しょー君と仲良くしてやってねー」
「ど、どうも」
軽くどもってしまったが、自己紹介を終えた。庄司は周りを見ながら「いやいや、若いっていいねー」と言葉を漏らす。その言葉を言うにはまだまだ若いと思った。おそらく三十はいっていないんじゃないか。
「うーん、困ったな。オジさんひとりで回るってのも中々レベル高いなぁ」
「なら、俺達と回る?」
「それもありか……おっと、失礼」
バイブの音が鳴り、庄司はポケットから黒色の携帯を取り出した。そして映っている文字を見て、面倒くさそうに眉間に皺を寄せてため息を吐く。
「いやー参ったね。会社からのお電話だ」
「えっ、休むとか言ってないの!?」
「どうだったかなー。電話したようなしてないような……。まぁいっか、急病ってことで休んじゃえ」
それはいいのだろうか。社会人ってそんなに生易しいものではないと垣村は認識しているが、目の前の男からはそれが全く感じられない。行動も仕草も言動も、何もかもが軽すぎる。一息吹けば飛んでいくのではないか。
庄司はその場から離れていき、しばらくすると帰ってきた。先程までのへらへらとした笑みもなくなり、苦笑いだけが浮かんでいる。
「いやー、ごめんね。なんか今日会議があるから休むなって。あの会社オジさんのこと殺す気なのかなー」
「ピンピンしてるのに、行ったらズル休みしようとしたのバレるんじゃない?」
「んー、まっ大丈夫でしょ。遅れる許可は貰ったし、のんびりと会社に向かおうかなー。ラーメン食べてくってのもいいなー」
どこかフラフラとした足取りでその場から去っていく庄司を見送った二人。自己紹介以外、垣村はまったく口を開かなかった。会話に割り込む必要がなかったとも言えるが。
西園は庄司の姿が見えなくなると、垣村に庄司のことを尋ねてきた。どんなふうに感じたのか、と問われたが……垣村には軽そうな男だとしか思えず、なんとも言えない濁し方で答えを返すだけだった。
「庄司さんってさ、根はしっかりしてるんだけど基本フラフラしてるっていうか……見た目が軽そうじゃん? あんな感じなの、憧れててさ。あんなんでも一応会社では上手くやってるし」
「なんか、お前と似てる気はしたよ」
「マジ? 少しは庄司さんに近づけたかな」
見た目や立ち振る舞いが完全にダメ男なのだが、西園はそれでいいんだろうか。まだ彼とは初見だし、能ある鷹は爪を隠すとも言う。馬鹿の振りをする天才ほど面倒なものはないと、垣村は何かで聞いたことがあった。
でも、どう見たってアレは天才と呼ばれる人間じゃないと思う。西園がそれでいいと思うのなら、何も言うことはない。
隣で庄司さんのことについて、つらつらと語っていく西園に相槌を返しながら歩いていると、ようやく垣村達の交代の時間になった。クラスに戻るとすぐに女装をした男子生徒が笑いながらプラカードを受け取り、「よっしゃあ行くぞ!」なんて声を上げて客寄せに行く。
正直持っているだけで恥ずかしい代物だ。手元からそれがなくなったことに安堵し、これでようやく目立たずに回ることができると二人で密かに笑っていた。
「ここら辺は見て回ったし、一年の教室でも見に行こうぜ」
「あぁ、いいよ」
西園の提案に頷き、二人で四階へと上がっていく。坂上高校は、二階に三年生の教室があり、階が上がる事に学年が下がっていく。彼らが一年生の階に向かうと、そこでは一年生達がより活気的に活動していた。
おそらく文化祭のやる気は二年生が一番ないのだろう。一年生は初めての文化祭。三年生は最後の文化祭だ。垣村は例年やる気がないが、二年生はあまり積極的にならない。その熱の入りようの差は見るだけで明らかだった。
「やっぱ、一年って何もかもが初めてだから楽しそうだよなー」
そうだな、と軽く返事を返す。廊下の奥の方では嬌声を上げて写真を撮ろうとしているグループがいた。よく見てみれば、それは垣村のクラスにいるトップカーストグループ。一年生の女子二人が、そのグループの男子生徒に写真を頼んだのだろう。
女装した男子生徒が三人。そして制服を貸したせいでジャージ姿の女子生徒も三人。垣村はいつかの雨の日を思い出して、どうにも恥ずかしくなり額を抑えた。あの時のことは忘れてしまいたい。しかし強烈な過去ほど忘れられないものだ。
(……まぁ、いるよな)
当然その中には、垣村にきもいと言った笹原 唯香もいる。写真を強請られる男子生徒に対してどこかニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
(あんな顔もするのか)
垣村にはそれが不思議に思えた。いつも無表情に近く、笑う時もそこまで大袈裟には笑わない。すまし顔の似合う女子だと思っていたのだ。ところが、今視界の奥の方で彼女は口元を浅く歪めて笑っている。
「んー、誰か気になる人でもいたの?」
「いいや、なんでもない」
ボーっとしている垣村を不思議に思ったのだろう。西園も垣村に倣って廊下を見渡すと、「あら、
「お仕事放棄で女子生徒と写真かよー」
「シフト、休憩だったんじゃない」
「なるほど。いやでも、女子の制服着てもキモイとか言われない辺り、顔が良い奴って羨ましいよなー」
「……そうだね」
本当に。一瞬だけ苦々しく顔を歪めた垣村は、遠目で彼らがどうするのかを見ていた。一年生らしき女子生徒が松本に近づいていき、二人でツーショットを撮る。
数分後にはSNSに載っかっているのだろう。今時の女子高生というのは、人の顔が載っていても平気で写真をアップする。垣村は、そういった事をする人たちにどうしようもなく呆れていた。
(……あっ)
その光景を見ていたら、不意に笹原が垣村の方へと振り向いた。過去の出来事もあり、垣村は怪しまれないように視線を逸らす。
なんでこうも目が合いそうになってしまうんだろう。前は視界にすら入ってこなかったというのに。
「なぁ、笹原の奴こっち見てるんだけど。お前何かしたの?」
「別に、何も。クラスの人がいたから見てるだけじゃない?」
「ふーん」
何か言及されるかもと焦った垣村だったが、西園は鼻を鳴らすように返事を返すだけだった。彼の口元はいつものように柔らかくニヤニヤと笑っているだけで、本当は何を考えているのか、垣村にはわからない。「そういえばさ」っと西園が続けてくる。
「庄司さんから聞いた話なんだけど。カラーバス効果って知ってる?」
「なにそれ」
「一度意識してしまうと、その事に関しての情報が集まってくることなんだって。今までどうでも良くてスルーしてたのが、スルーできなくなるらしい」
「……なんで今それを?」
「気づいてないの?」
いつもとは違う西園の不敵な笑みに、心臓がナイフを突きつけられたかのようにドキリとする。
「最近、お前の視線の先に笹原がいることが多いぞ」
「……馬鹿言わないでくれ。なんで俺が」
「いいやー、なんとなく?」
西園が笑いながら聞いてくるのに呆れてしまい、垣村はポケットからイヤホンを取り出そうとした。「悪かった、自分の世界に引きこもらないで」とポケットに突っ込んだ手を西園に抑えられ、やれやれと言ったようにため息をつく。
「まぁ、庄司さんはそれを使って、皆に意識されないようにして仕事サボってるらしいけど」
なんとも呆れる理由だった。けれど、彼の話を聞いて垣村は何かがつっかえるような感覚を覚える。
カラーバス効果。意識してしまうと情報が集まってしまう。確かに、自分の状態と似ている気がしていた。しかし、垣村は自分では笹原を視線で追っている自覚はなかった。最近目が合いそうになることが多いとは感じていたが、気のせいだと誤魔化していた。
(……それは恋心とかじゃなくて、ただ自分の失態を忘れられないだけだよ)
自分に言い聞かせるように、心の中で反芻させる。そもそもありえない事なんだ。彼女と自分の間には、何も起こらないはずなんだ、と。
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