日陰者が日向になるのは難しい

柳野 守利

1話目 日陰者と日向者

 いつか、自分たちは大人にならなければならない。いくら嫌だと言っていても、時間の流れは止まってくれない。ならば、自分はどんな大人に……いや、どんな未来を歩むというのだろう。


 今まで見てきた大人の中で、こうなりたいと思う人はいなかった。むしろ、その逆だ。中学時代、どんな先生だろうと影で皆に笑われていた。そんな先生を見ていると、とてもつまらなそうな人生を送っているように見えてしまう。


 こんな大人になりたくない。けれど、こうなってしまう気がして仕方がなかった。




〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜




 前の席の人から配られてきたプリントを見て、彼は顔を歪めた。プリントには進路希望調査と書かれている。彼が一年生の頃から教師に口酸っぱく言われていたことだが、いざこうして目の前にこられると、どう書いたものかわからない。


 彼のいる高校は坂上さかがみ高校という県立の学校。千葉県にある高校の中では中より上程度の偏差値を誇る進学校だ。何人かは難関大学に受かるが、それ以外はそれなりの大学か公務員になるようなそんな学校。その中で、彼──垣村かきむら 志音しおんはそれなりに上位の成績を収めていた。


 それでも難関大学に受かるかと言われれば、今のままでは受からないだろう。それに、まだ高校二年だ。時間に余裕はあるけれど、垣村は内心焦って仕方がなかった。


 教師の「土日で書いて月曜日に提出するように。じゃあ号令」という言葉で、クラスのルーム長が「起立」と言う。そして礼が終わった途端に教室の中は一気に騒がしくなった。皆それぞれ友人のもとへ行き、どうするのかを尋ねるのだろう。


 正直、周りの雑音が聴くに耐えない。カバンの中から黒色の耳掛け式イヤホンを取り出してつけようとしたところで、垣村の机に一人の男子生徒が近寄ってきた。学校で積極的に話しかけてくる奴なんてのは一人しかいない。


 顔を上げてみれば、そこには柔らかい雰囲気で笑みを浮かべている彼がいた。垣村にとって唯一友人と呼べる西園にしぞの 翔多しょうたである。西園もさっき配られた進路希望調査の紙を持ちながら、その見た目からも想像できるくらいふにゃふにゃとした言葉で話しかけてきた。


「志音ー、どうするよこれー」


「どうするも何も、自分の将来のことだろ」


「いや、でもさー。正直書くのに困るっていうかさー」


 西園は「どうしよっかなー」なんて言いながら、空いている隣の席に座って携帯をポケットから取り出し始めた。おい、聞きに来たんじゃなかったのかよ。垣村は呆れつつも、西園がそういう男なのだとわかっていた。


 彼は雰囲気が朗らかなだけで、そこまで他人と話せるような性質タチではない。人見知りもそうだが、なによりも口数がそこまで多くなかった。だからこうして、垣村と西園はよく一緒にいることが多い。互いに沈黙が苦にならないからだ。


 垣村は手元にあるプリントを見て、どうしたものかとため息をついた。周りを見回してみれば、普段からふざけている男子生徒や、くだらない話をしている女子生徒なんかも笑いながら「ねぇねぇ、どうしよー」なんて話している。人生に悩みなんてなさそうな連中だというのに、と垣村は心の中で毒づいた。


「……あんな奴らに限って、なんか人生上手くいきそうな気がするよ」


「そうだねぇ。顔も良ければ人生も良し。むしろ顔が人生を物語っているに違いない」


 小声で呟いた言葉に西園は答えてくれた。学校には誰が作り始めたのか、スクールカーストなんてものがある。垣村はカースト下位に位置する陰キャと呼ばれる生徒だ。癖のある髪の毛なうえに、休み時間はどこに行くにも両耳にイヤホンをつけていて、他人と会話をすることが少ないのだからカースト下位にいるのも必然だろう。


 そんな垣村と一緒にいるせいで、西園もカースト下位にいるのだが、本人は全く気にしていない。彼は本来もっと上位カーストにいるような生徒なのだ。運動部に所属していたが、「なんか面倒だから辞める」という事態になっていなければ、男の友人も多かったことだろう。


 生まれ持った性格なのか、面倒事を嫌うし、「なんかもうどうでもいいやー」なんてよく口にする。そのくせ本人は飄々としていて、話し方もどこかふわふわとしている。そのせいで会話の内容がそのまま消えてしまうこともあった。そんな彼も、やはり自分の将来の事となると悩むらしい。


「なぁなぁ、志音は進路どうすんの? 進学?」


「どうだろうね……」


「やっぱ悩みますよなー。なんつうか、高校生の悩みっぽいよなー」


「俺たちは高校生だろうに」


「ばっかお前。高校生つったら、彼女とイチャイチャしてー、電車乗って遠くまで遊びに行ってー、海とか男女混合で行ったりするのが高校生ってもんだろ」


 西園は右手をぐっと握りしめて、高校生らしさというものを語り始めた。彼のいう高校生らしさというものがそういう事なら、垣村たちはどう考えても高校生ではない。けど、高校でも大学でも、きっと自分は何も変わらないんだろうと垣村は確信していた。陰キャに華々しい生活なんて想像できない。


 なんというか、灰色だ。人生に色がない。そんな道を歩んでしまったら、自分の将来の色を決めるのに苦労する。事実しているのだから。バイトは禁止だし、普段の生活にも楽しさがないのなら、将来に対する楽しそうな予想もできやしない。


 けれど、つまらない将来を歩みたくはない。それだけはずっと垣村は思い続けていた。周りからは「教師になってみたいなー」なんて話す女子の声が聞こえてくる。本当にそう思っているのかと、垣村は問いただしたくなってきた。普段は先生のことを嘲笑ってるくせして、自分がそうなりたいとどうして思えるのか、垣村には不思議で仕方がなかった。


 つまらない公務員になんてなりたくない。けれど大学に行ったところでどうするんだろう。その先は。必死に考えても、垣村の頭には何も思い浮かばなかった。


「おや、雨が降ってきそうだねぇ」


 西園が教室の窓から空を見上げていた。曇天な空模様。おかげで夏でも少し涼しく思える。携帯の天気予報は雨だと告げていた。垣村は折り畳みの傘がカバンに入っているから問題ない。


 けれど電車通学の垣村とは違い、西園は自転車通学だった。「雨降ってくる前に、お先ー」なんて言って教室から出て行ってしまう。


 ボールペンがそろそろ切れそうだから新しいのを帰りに買って帰ろうと思っていたけど、どうしようか。そんなことを考えながら、ふと外の景色を見た。窓の外で好き勝手に流れていく灰色の雲を見て、どうしようもなく不条理な感情が満たされていくのを感じる。


 灰色なお前は空を風に吹かれるまま飛んでいるのに、灰色な自分は世間の風に吹かれるのは許されない。晒されないように日陰にいるというのに、お前は日向を独り占めするのか。なんとも羨ましい。両耳にイヤホンをつけて、垣村もまた教室から一人で出ていった。




〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜




 学校のすぐ近くにある黄色い看板が目印のスーパーにやってきて、黒のボールペンとスケッチブックを購入した。放課後なせいか、やけに生徒が多い。雨が降ったせいで外の部活も休みになったんだろう。別に一人で回ることに恥も何も感じないが、集団で行動している連中を見ると、一人でいるのがやけに惨めに思えた。


 本当に嫌になる。なるべく視界に入れないように、そして視界に入らないように適当に物を見て回っていると、何か大きな音が聞こえてきた。イヤホンを外してみると、外から神立かんだちが響いているようだ。雨は雨でも雷雨になったらしい。


 周りからは「きゃっ」なんて女の子の悲鳴が聞こえてくる。馬鹿馬鹿しい、と垣村は息を吐く。かわいい女の子アピールか何かか。自分のかわいさの為に普段から気を張っていなきゃいけないというのが女子なら、たいそう疲れる事だろう。皮肉げに歪んだ口元を抑えて戻しながら、垣村は店の中を歩き回る。


 陰キャは誰に見栄を張るわけでもないから楽でいい。カースト上位の連中にだけ気を張っていればいいのだ。


 なんてことを考えていたら……


(……いるなぁ、アイツら)


 置かれている雑貨の棚の向こう側に男女数人のグループがいた。自分のクラスのカースト上位、いやトップカーストとも言える人物たち。サッカー部のイケメンとその友人の男三人に加えて、彼らと普段一緒にいる女子生徒が二人。


 男子の方はワイシャツをズボンから出して、第二ボタンまで開けて着崩している。女子の方はというと、短いスカートに、胸元に隠すようにつけられたネックレス。隠している耳にはピアスがついているらしい。校則違反しまくりだ。


 別に自分のことじゃないし、短いスカートを好んで履くというのなら、それはそれでいい。横目で見るだけでも目の保養になる。問題は、そういう連中に限って後ろ指さして嘲ってくることだ。ただヒソヒソと話しているだけでも、まるで自分のことを貶すような内容を話しているんじゃないかと不安になる。だから垣村はトップカースト集団が苦手だった。


「この雨の中、ゆいちゃん一人で平気かなー。雷まで鳴ってるよ?」


笹原ささはらなら平気そうじゃん? 気が強そうだし」


「いやでも、案外アイツこういうの弱いかもよ?」


 女の子が「それありえそー」なんて他人事のように話している。いつもは六人グループだけど、今日は五人しかいない。女子生徒が一人足りないようだけど……なんて考え始めている自分に気がつきため息をついた。なんでそんなこと考える必要がある。どうだっていいことだろう。


 向こう側は、モブが一人いるな程度にしか認識していないはず。何か小言をボヤかれる前に退散した方がいい。再びイヤホンを両耳につけた垣村はポケットに手を突っ込みながらその場から離れていく。


 スーパーは駅のすぐ近くにあった。南にある出入口から出れば、駅は目と鼻の先にある。濡れて風邪をひき、土日を潰すのも馬鹿らしい。夏の風邪は長引くとよく言われることだ、早く帰るべきだろう。


 垣村が出入口にまでやってくると、イヤホンをしていてもわかるくらいの雨音が響いていた。スーパーに来る前までは降っていなかったが、たったの十数分で一気に雨が降ってきたらしい。地面を叩きつける雨が止まることなく音を奏でている。


(……雨音の中に交じる、車の音。水たまりを歩く足音。教室の喧騒に比べたら、こっちの方がいい音色だ)


 屋根と雨の降る道の境界線で立ち竦む。気がつけばイヤホンを外していた。人工の音楽が消えた世界からは、自然発生した音楽が聞こえてくる。雨音はどうしてか心を落ち着かせてくれる気がした。それらに交じる足音も、水の跳ねるぴちゃぴちゃという音も、雑音ではなく一種の音楽だ。


 そんな音に溢れた世界で、きっとあのトップカースト集団は五月蝿い雑音としか思わないんだろう。ただ単に垣村と彼らの価値観の違いとも言える。それでもなんだか、この雨音が音楽のように感じられることを、垣村は少し誇らしげに微笑んだ。


(……視線?)


 聞こえる音の余韻に浸っていると、ふと誰かに見られているような気がした。こんな陰キャを見つめる奴なんて、物好きな奴がいたもんだと心の中で苦笑しながら、不自然な動きにならないように辺りをチラッと見回してみる。


(げっ……)


 一瞬だけ、時が止まったような感覚に陥った。視線と視線が確実に交差している。垣村の感じた視線は正しく、確かに見ている人がいた。問題は、その目の合った人物がトップカーストの人間、それも女子生徒だったこと。


 短い髪の毛で、右耳は隠しているけれど左耳だけは髪の毛がかきあげられて見えるようになっている。髪の色は茶色に見えなくもない黒色。驚いているのか、その一瞬だけは目をパッチリと開いていた。小さな桃色の唇は潤っているように感じ、下に目線を下げていくと短いスカートの丈から見える太ももが目に入ってくる。彼女は垣村から少し離れた場所で膝を曲げて座り込んでいた。


(笹原かよ……)


 目が合ったのは本当にその一瞬だけだった。向こうは視線を逸らし、垣村もまたすぐに目線を切る。余韻が台無しだった。


 さっき見たトップカーストのグループが話していた内容を、垣村は思い出した。笹原は一人で先に帰ったのだと。目の前にいるのが、その笹原 唯香ゆいかだ。ここにいるということは、恐らく傘がないから帰れないのか。それとも親が迎えにでも来てくれるのか。


 確か、笹原は上りの電車に乗るはずだ。垣村は下りの電車だが、向かい側のホームにいるのを何度か見た事がある。家が近くということはないだろう。


「……あ、あのっ」


 その時は、垣村は自分がなぜ話しかけたのかわからなかった。けれども、上ずった声で話しかけてしまった以上、何も言わないわけにはいかない。女子生徒と話すことなんてそうそうないものだから、垣村の心臓は外にも聞こえているのではないかと思うほどに脈動していた。


 笹原は座った状態のまま、鬱陶しそうに見上げてくる。射抜くような冷たい目線が垣村を貫いた。彼女はかなりサバサバした人間だったということを思い出したが、垣村はもう止まれなかった。手に持っていた紺色の折り畳み傘を彼女に突き出すように差し出すと、垣村は続ける。


「か、傘……使いますか」


「いや、別にいい。アンタの無くなるでしょ」


 突き放すような荒々しい言葉だったが、どうにも引き下がるに引き下がれなかった。垣村は傘を彼女のすぐ側に置いてその場から数歩離れていく。笹原の驚いた顔が、垣村には見えていた。


「俺、大丈夫だから。それじゃ……」


 駆け出すように雨の中へと飛び込んでいく。笹原が傘を拾ったのかなんて確かめる余裕もなく、走りながらイヤホンが濡れないようにポケットにしまいこむ。その時、背後から雨の音に混じって、確かに聞こえてきた。


「きもっ」


 さっきまで暴れていた心が一気に冷めていくのがわかった。一方的にとはいえ、傘を貸したのにそれはないだろう。まして赤の他人ではなく一応クラスメイトだ。確かに、自分でもらしくないと思ってる。下心なんてものがなかったとも言えない。灰色な人生に、ほんの少しでも色がつくかなって、そう思っただけで。


(きもいは、ねぇだろ)


 駅についた垣村は、服が濡れていることも気にせずにイヤホンを取り出して耳につけた。流れてくる音楽が、垣村と世界とを遮断する。


 聞かなきゃよかったんだ。あんな雑音は。駅のホームにあるベンチに座って、垣村はタオルで身体を拭いていく。頭から流れてくる雨が口に入った途端、しょっぱく感じたのはきっと気のせいだ。陰キャは陰キャらしくしているべきだった。トップカーストなんて、嫌いだ。

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