君は遠い
綾人は今、この前の職場見学のお詫びにと、琥珀に招待されてドラマ撮影の現場に見学に来ていた。
驚いたのは、そのドラマが綾人の好きな紫呉出演の医療ドラマだった事だ。
最近気になって琥珀の過去の作品を調べたり、読んでみたりしてその凄さはしていたが、まさか自分の好きな作品に関わっていたとはと思って綾人は少し嬉しかった。
久しぶりの現場で出演者の演技を観察したり、休憩中の談笑を聞いたり、忙しくて働きまわるスタッフの様子を見るのは楽しかった。でも、それと同時に、「もうここに自分の居場所は無いんだな」と実感させられて寂しさを感じた。
そんな事を考えながら現場をもう少し楽しんだ後、そろそろ退出しようと出口に向かおうとした時、監督と次のシーンの話し合いをしている琥珀を見つけて、思わず声をかけたくなったが、思いとどまって早く出ようと出口に向かっていると、目の前からスタッフが慌てて走ってきた。そして、現場がどんどんざわざわとなり始め、綾人が「何だろう」と視線を琥珀達の方に戻すと、そこでは監督、琥珀、チーフマネージャー、紫呉を含める一部の出演者による会議が行われていた。皆困った顔だ。
綾人が気になってスタッフの一人を捕まえて事情を聞くと、どうやら次のシーンの大事な出演者がインフルで休んでしまったらしい、しかも、今日以外は雨で撮影を伸ばせないらしい。
「それは…」
「あれ?君どっか…あっ!」
綾人が慌てて口を押さえつけたが時は遅し、皆がこっちを見てきて、気づいたものはあからさまに口をあんぐり開けている。そして紫呉と監督が綾人に近づいて来たので、大人しく待っている他なかった。
「綾人君?どうしてここにいるの?もう現場は…」
「あっ、あのですね。僕はただ招待されたから来ただけで、今帰ろうと…」
「ねぇ、紫呉君」
「はぁ…僕は反対ですが、綾人がやると言うなら」
「えっ…?」
「綾人君、代わりに出てくれないかな?」
昔お世話になった監督に肩をがっちり掴まれ、綾人が額に汗が垂れたと思った時、視界の端に琥珀を捉えた。その姿が人間の姿だが、耳をペタンとさせ、尻尾を垂らしながら申し訳無さそうに懇願していすように見えて、思わず「はい」と返事してしまった。
その姿を見て、何度も紫呉さんが心配そうに意思を確かめて来たが、綾人はやるといった以上最後までやり遂げる事にした。
僕のやる役は余命僅かで生きる希望を失った18歳の少年の役。
基本的には、最後病院の屋上から落下する直前に一度だけ振り返って、笑顔を見せる以外は背を向けてセリフを言うだけなので、顔バレは無いし、髪型をその役に似せれば大丈夫だと言う結論に達し、綾人はメイクさんに髪をセットして貰いながらペラペラっと台本をみて自分のシーンのセリフと相手のセリフを叩き込むと、すぐに現場に向かった。
その久しぶりの綾人の演技を見ようと俳優の卵達が集まってくる。その心の中はその技術を盗もうとする者と笑ってやろうとする者の二通りだ。だがその中の会話に紫呉は耳を止めた。
「いくら天才子役と持て囃されたトーアヤでも、ねぇ…」
「大丈夫ですかね?」
「失敗するしょ!だってさっき台本一回読んだだけらしいじゃん」
「でも…」
「七年のブランクはキツイしょ」
「ははっ、俺失敗するに賭ける」
「オーレも」
「ぼっ僕は…」
そんなくだらない話に紫呉はイラッと来た
「ねぇ、君達五月蝿いよ。少し、黙ってくれないかな…?」
そのドス黒い笑顔に、さっきまで綾人を馬鹿にしていた者達は震え上がって押し黙った。
基本的に紫呉と言う人間は温厚で、誰にでも優しい性格の男だ。だが、唯一彼が負けたと感じた綾人には、弟みたいに思って来た綾人の事を部外者にとやかく言われるのは虫唾が走った。だからつい怖い自分が出てしまうのだ。
「あっ、始まるね」
その楽しみにしていた映画を早く見たいと言うようなキラキラした瞳と、綾人を真っ直ぐに見つめて細く笑う口元に、またも後輩達はビクビクと震え上がった。
息を吐き出し、全体の力を抜いて行き、その役に完全に役を憑依させる。
それが俳優としての綾人のやり方だ。
実際、役に完全になりきってしまえば何のしがらみも無いし、終えた後は皆が褒めてくれる。だから…
「ねぇ、先生…当たり前に生きるって、誰かと繋がっているって、どうして…こんなに辛いんだろうね」
「でもね、先生…僕は」
一度振り返り、ニコッと笑って涙を一筋頰に伝わらせる。そして…
「僕は…先生に出会えて幸せだったよ」
そう言い終えた直後、僕の身体は風に攫われ、真っ逆さまに落下して行く
そうこれで僕は…
ドサッ…
そんな鈍い音と共に綾人がマットの上に倒れた。
多くのスタッフが急いで駆け寄り、口々に褒める。その中にはさっき綾人が失敗すると賭けていた者達もいたが、目の前で大好きだった俳優の演技を見れた琥珀は固まったまま涙を目元に浮かべていた。だけど、それもこの前の光景を思い出して引っ込んでしまった。
「綾人…」
「凄いでしょ」
横を見ると、溜息をつきながらうっとりと綾人を見つめる一人の先輩俳優がいた。
「先生、僕は何年経っても彼に勝てないんですよ」
そうまるで兄のように微笑む紫呉という人物を見て、琥珀はつい口をすべらしてしまった。
「あの…どうして綾人君は、…本当は彼に何があったんですか?」
立ち去ろうとしていた紫呉は急に顔を強張らせ、琥珀を見ると冷たく微笑み
「部外者の貴方に、関係ないでしょ」
そう言い放たれた瞬間、琥珀は喉の奥から凍りついていく変な感覚に襲われた
「はぁ…っ、はぁ…っ、ご…ごめんなさい」
それを聞いた紫呉は満足そうに微笑み、誰からも好かれる笑顔を見せると
「先生、これからも宜しくお願いしますね」
そう言うと綾人の元に行ってしまった。それを目で追いながら綾人を見ると、何処までも遠い存在のように見えて、胸が苦しくなった。
綾人はその場から去って行く琥珀を見つけて、ありがとうを言いたくて追おうとしたが、その行く手を紫呉さんによって遮られてしまった。
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