職場見学
いつもは静寂に包まれ、カタカタとパソコンの音が鳴り響く生活課のフロアに、今日は珍しく人々の歓声や携帯やスマホのシャッター音が鳴り響く。
そんな光景を前に綾人は溜息を一つつき、自分の席でパソコンの入力作業に専念しようとパソコンを立ち上げると、ちょこんと琥珀が腕の間に入ってきて、綾人にスリスリしてきた。
始まりは今朝の出勤時間に遡る。
綾人がさあ出勤しようと玄関のドアの鍵を締めて振り返ると、そこににっこりと怪しげな微笑みをしている青年が立っていた。いや、正確には人間に完璧に化けた琥珀がいた。そして、綾人が質問する前に腕を引っぱられ、嵐のようなスピードで職場まであっという間につれてこられると、琥珀はニコッと笑って
「今日、次回作の調査の為に君の働きを見学させてもらうね」
そう言って、拒否も質問も受け付けませんといった感じにさっさと狐の姿になると、職場で可愛いアピールをちょっとして女性層の心を鷲掴みにしてしまった。そして今現在のこの異常な状況とつまみ出せない状況の完成してしまったと言う訳だ。
綾人は時々パソコンの手を止めると膝の上で寝息をたてて眠る狐を見た。髭や茂った鼻が息と共にピクピクと動き、時々揺れる尻尾に反響するように耳がブルブルっと揺れる。そしてたまに背中を撫でてあげれば、目を瞑りながらくすぐったそうに手脚をもぞっとさせる。そんな光景が微笑ましくて綾人は小さく微笑むとまたパソコンの作業に集中した。
そして琥珀は薄っすら開いた目からそんな綾人を見ると、嬉しそうに尻尾をユサッとまた揺らすのであった。
そんな時間が何時間か続いた頃、琥珀が突然立ち上がってふわっと地面に降り立つと、ちょうどお昼を知らせる放送が入った。
そして綾人が視線を琥珀に戻すと、琥珀と目があった。そしてそれを確認したように背を向けたかと思うと、たったったと走ってどっかに行ってしまった。それを綾人も慌てて追いかけた。
琥珀は都庁の展望フロアに階段を駆け上がってつくとすぐ植木鉢の陰に隠れた。
綾人は息を上げながら展望フロアになんとかつくと倒れた。そして窓の外の青空が綾人の視界にキラキラとうつり込んだ。
そして綾人は思った。こんな楽しい気持ちは何年ぶりだろう?僕はいつから空を見なくなったんだらう?…と。
小さい頃の綾人にとって空は特別な存在だった。まるで自分の心を象徴するような存在だった。だけど、いつだったか空は変わらなくなった。多分あれは子役として売れだした頃だったと思う。毎日忙しくて、沢山の人に同じ言葉で褒められて、それでも嬉しくて、でも何処か焦燥していて…世界を傍観するような感覚に落ち入り、世界に感情の一切を揺れ動かさなくなった。そして、空は光を失なった。そしてそれを変えたくて、苦しくって、綾人は沢山の反対を押し切って、それを一つの理由に俳優を辞めた。だが、何も変わらなかった。むしろどうすればいいか分からず、回りの言うままに動いていたら迷子になってしまった。
けど、琥珀と出会って、綾人の心にまた光が差し込んできた。自由で、愛らしい狐を見ていると何処か幸せで、楽しくって、世界までキラキラする感覚に襲われるのだった。
(ああ、そっか…)
バッ
突然何かが腕の中に飛びついて来た。そして、吸い込まれるような瞳がキラっと煌めいたと思うと、ぺろっと綾人の頬を舐めて胸にスリスリとして来た。
綾人はそれをギュッと抱きしめると、額を琥珀の背中に押し付けた。そして、小さく
「ありがとう…」
と呟いた。
そして琥珀は確かにそれを聞いていたが、ただ涙を流す綾人の腕に静かに抱かれていたのだった。
「…ありがとうは、僕のほうだよ」
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