神魔を断つは神さえ知らぬ物語


(・・・・・・長くもたないな)

 

 千種は悍ましき奇景を前に切歯する。

 意識を有した肉塊は、平らな大地から林立する山に変貌を遂げていた。

 山頂にエトランゼを押し頂き、そこへ到る参道に、あらゆる臓器や四肢のなりそこないが蠢いている。手首が三つに枝分かれした大腕、巨大な歯列をもつ巌石、柔らかな副乳などの異常増殖した肉塊たちが群体のように蠢き、踊り、猛るように叩きつけてくる。


「──ッ」

 それを右目で捉え、その加護──肉塊の各部に内蔵されている蒼い動脈を、籠手の右腕で毟り取っていく。


 しかし肉塊は泡のように溶けたあと、再び新たな肉塊となって芽吹いていく。この鼬ごっこを続ければ、どちらが消耗するか明白だ。


「・・・・・・ぜえ、ぜえ、ぜあ、ぜぁ」


 だが消耗戦を続ける余力すら、千種にはない。

 原因は、右腕の肉塊から断続的に発せられる、脳髄をとろめかすような波長だ。一歩、一歩肉塊を踏みつける度に迫り上がる誘惑は、千種の脳を多幸感の海に沈めようとする。


(これが、隷属の権能か)


 払い難い陶酔は、エクシーの掛けた【容貌無き怪物)】によって覚醒を促される。さながら意識喪失の昏倒と電気ショックによる覚醒を繰り返し。

 心神は二つの虚構によって蚕食される。


(だが、負けられない。ここで倒れる訳にはいかない)


 雪山を踏みしめるような足取りで登っていく。ここで膝を付いたなら、二つの毒の拮抗は崩れ、隷属の誘惑に堕ちてしまう。


(勝ち筋は、あるんだ。あれさえ、断ち切れば)


 覚醒と昏睡を繰り返す意識は、頂きのエトランゼを見据える。

 磔刑の如く肉に手をひろげ、埋め込まれた彼女には、出来損ないの臓器に付いていた蒼い動脈が無数に纏わり付いていた。その動脈は上から下に蒼い血液を流している。


 肉塊は彼女をエンジンとして動くマニュピュレーターだ。

 ならば彼女を【出典不明抄抄】で抜き取り、エンジンを抜いてやればいい。まだ完全に成っていない隷属の肉塊は、羽化途中で裂かれた蛹のように未成熟のまま歪に顕現、或いは死滅するのではないか。


(・・・・・・憶測にすぎないが、試す価値はある!)


 その一念だけを背負って、悍ましき肉塊の路を登っていく。

 脳髄が弾け飛ぶような感覚によって、登っているのか降りているのかすら判然としない。進むごとに自分が廃人に近づいていくのが分かる。


(死なせるものか)


 けれど止まる訳にはいかない。


(何が、報われた、だ。巫山戯るな。お前は、なにも報われちゃいないじゃないか)


 蒼き閃光が走り、歪な肉塊を微塵にしていく。


(似合わねえんだよ。悲劇のヒロインはッ)


 彼女との彼我の距離は、あと数メートル。





「・・・・・・ぜあ、ぜあ、ぜえ。・・・・・・があ、ぜあ・・・・・・」



 だがその数メートルが果てしなく遠い。自分が今、目蓋を開けているかどうかすら分からず、混濁する意識は彼の頭を垂れさせた。

 視界に蠕動する赤い肉だけが見える。


(頭をあげないと)

 

 霞む意識はそう警告するが、肉体は脳の意識をくみ取れず、ぼんやりと項垂れたままだ。

 赤い視界に、いくつもの奇怪な輪郭の影が浮かぶ。

 

 肉塊が覆い被さろうとしている。起きなければ。醒めなければ。

 言って聞かすが、千種は意識を半ば手放したまま、ずっと項垂れている。

 

 だが、その時、奇跡が起こった。


       『あまねく光明は闇を照らす』

 

 頭の靄を掠う声が、耳朶を震わせた。

 はっと、顔をあげて奇跡の偶像を仰ぎ見る。

 

 

 そう、奇跡だ。

 

 人を魅せる超然とした行為。神の御業によって生じる現象。

 

 故にそれは、他でもない


   『集合知しゅうごうちは全てを洗浄する。感応かんのう秘蹟ひせき。完全なる救済』

 

 磔刑に処された少女は、凝然と見開かれた蒼い双眸で、千種を見下ろす。

 

 それはエトランゼの肉体を借りた、別の意思。

 それがいう。

 十年前、千種の脳裏を灼いた声で。


『明暗を分けた神性より先に生じた混沌な御柱みはしらの名を以て、不可逆なる福音を告げる』

 

 千種は咆哮し、弾かれたようにエトランゼに憑いた神のもとへ走る。

 

 あの詠唱は言わせてはいけない。

 あれは今までの権能や加護など比較できない。

 それは聖骸器官が内包する唯一無二の御業。


 全てを超越する力。


ひかりあれ』


 虚ろなる忘失の福音は下され、奇跡によって全ては漂白された。




            □■□


              


(・・・・・・ここはどこだ?)

 


 

 分からない。

 気づけば、何処かにいる。 

 

 そう。自分が存在していることは分かる。だがそれ以上、なにも掴めない。視界は闇でも白でもない。たとえるなら、目蓋の裏の色彩だろうか。


 目を閉じてみて、その瞳に映っているはずの目蓋の色は、どうやっても分からない。


 それと同じような感覚だ。知覚しているはずなのに、脳がうまく認識できない。


(己はたしか・・・・・・、隷属の肉塊の奇跡に当てられて)


 ここに居る。

 妙な感じだ。最低最悪な状況のはずだが、痛みはなく不安も湧かない。

 無謬むびゅうで満たされた世界だった。


(・・・・・・嗚呼、こいつが隷属の奇跡か)


 究極の隷属は、心も奪われ、意識もとろけ、微塵の素粒子となって世界に溶ける。


 個の滅却。群への完全なる帰属。


 知性を、目的を奪っていく。言葉を、想いを溶かしている。



 知覚も痺れと共に流れていき、


 感情を平坦な波長にならし、


 身体をとろめかせて。



(・・・・・・これで、終わりか)


 怯えはない。動揺も喜びも。


 他者への謝罪も、自分への落胆も消え去っていき、絶対的な安堵によって、心の襞をゆっくり撫でられ、渦巻いていた感情は霧散していく。


 そして出来上がったのは木偶のぼう。

 さながら百骸九竅ひゃくがいきゅうきょう

 百の骨と九つの孔で出来たもの。


(ああ、そうか。己は・・・・・・)


 充足の愛撫は全てを官能的な安息へと導き、余剰な感情を払いのけていく。


 死への逃避、虚亡への畏怖も拭い去って。



(十年前、己が抱いた本当の宿痾しゅくあは・・・・・・)



 その百骸九竅の中に最期に残ったモノは──。





(怒りか)


 ようやく始まりに気づく。


 全ての虚飾を破って、百骸九竅になって始めて理解した魂の慟哭。


 彼が十年前、本心から叫んだモノ。


(そうだ。己はあのとき、誰よりも憤った。

    


 十年前、関東を塵都と変えた超然的な存在を前して、運命を強いた神に畏怖いふを抱くのではなく、幼き彼は『こんな奴に屈してしまった』と自分自身に慟哭したのだ。

 

 これほど傲慢な怒りがあるだろうか。

 

 彼が神の企てた運命を聞いたとき、魂の奥底に宿ったモノは、畏怖でもなければ破滅への欲求でもない。


 


 そう。ゆえに彼の物語には誤謬があった。

 だから編み直す必要がある。

 

 忌々しい独善を抱く、彼の虚構ものがたりを。


 最初の一頁から。章題をなぞりながら。


胎動たいどうする産声うぶごえは、奇貨きかたる異能いのうを発する」

 

 破滅を前にして、すくった宿痾は怒りだった。

 その炎は十年の時を経ても煌々と照らし、やがて一人の運命と出逢う。


赫々かっかくたる約定やくじょうは、鳴動めいどうする双眸そうぼうを定める」

 

 契約が求めたのは破滅の灯明。

 しかし分かちがたく結ばれたのは、二人のさだめ。


迷走めいそうする真贋しんがんは、凄絶せいぜつなる圏獄けんごくをくだり、暗澹あんたんたる最奥さいおくで明かされた」

 

 あざなえる運命は反発と困惑を繰り返しながら。

 地獄を模した螺旋階段をくだっていく。

 そして明かされた秘事は、高潔な意思と共に海に没するかに見えた。


不屈ふくつなる魂魄こんぱくは、百骸九竅の中に在り。

    そこに刻まれた銘は──」


 だが、それを彼は赦さない。

 今一度、虚亡の企てた運命に膝を屈する訳にはいかない。


 この高潔で、余りにも独善的な怒りが赦さない。

 

 従って、ここから先は神さえ知らぬ物語。

 異彩を放つ、いまだ途上の名も無き虚構。

 過去現在未来に彼自身が編んでいく、嘉吉千種という人物のモノ語り。


 仮にその虚構モノに名をつけるとするならば──



モノ語りイストリア。──【不撓不屈の独善スカーレット・ドグマ】」

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