左舷通路の魔神

 それがつい一時間前の出来事だ。メインダイニングの乗客は拘束され、次々とメインダイニングから放り出され、虜囚りょしゅうのごとく罵声を浴びせられながら、船首甲板に連行された。


 それから程なくして、千種の船酔いが加速した。

 牛のように胃の内容物を反芻はんすうする千種をみかねて、弥勒が近くの兵士に欄干で吐くことを願い出た。兵士は一蹴いっしゅうしようとしたが、今にも自分達にぶちまけそうな気色けしきされ、彼等が縁の近くにいたこともあり、渋々ながら許可を出した。


 そして今に至る。

「吐き終わったなら、さっさと戻れ!」

 怒鳴る男は、外套を押しあげるほど筋骨隆々きんこつりゅうりゅうの男だった。角張った顎と鼻につけたピアスも相まって、ギリシャ神話の怪物ミノタウロスのようである。


 千種と弥勒は互いに目配せをすると、千種は演技のために身体を仰け反らした。

「うえ、げろげろげーろげろ」

「おいおい、まるで汚いフードプロセッサーだな兄弟。こいつはまだまだ吐くね。あと小一時間は吐く。それにこいつ何だって食べるからね。そこいらの虫だって食べる。そいつが原因かもしれないね」

「ゴ○ブリ おいしい えびのあじ」

「うっ」

 と、うめいたのは兵士である。

「もう良いか? まだ吐くか? 全部吐いたほうがスッキリするぞ?」

「兄さん見てたら、また吐き気が」

「それは錯覚。お兄さんはハンサムだから。むしろ清涼剤れいりょうざい

「うっぷ」

「あれ、なんでいま嘔吐えづくの? おい吐くな。こらえろ」

「ちっ。さっさと済ませろ。ゲテモノ野郎」

 兵士は悪態をつきながら戻っていく。充分離れたのを確認すると、千種は弥勒を睨みつけた。


「地獄に墜ちろ、清涼剤」

「疑われずに済んだだろう。それがつけいる隙を示している。君ほどの歳ならFiciton Holderだと疑うべきなんだ。彼等はそれを怠った。そこが僕等と彼等の命運を分けている」

 弥勒の言い分は一理ある。

 けれど、そこには大きな欠陥があった。


「ご期待のところ言いづらいんだけど、虚構武装がない」

 虚構武装カリカチュアデバイスとは、異能制御装置の呼称である。

 材質は水銀に似た液状の微細金属群で、所有者が登録されると物語フィクションに応じて形状を固定、記憶する。坂田の【紅と金糸のスカーフキンタロウのまえかけ】がその一例だろう。あれは坂田の『金太郎』によって、形成された虚構武装の一形態だ。


 本来、異能は虚構武装なしに発揮できた。

 しかし代償が高く。強い疲労感や眩暈めまいに始まり、酷くなれば嘔吐おうと譫妄せんもう、呼吸困難になり、内蔵機能の低下から心肺が停止するケースもあった。

 そのため出力を抑える制御弁として、虚構武装は作られた。


「自称料理人のおっさんが、どこで手に入れたか知らない。ただ一般的に虚構武装は統括管理学園機構とうかつかんりがくえんきこうが管理している。日本なら天乃鳥船あまのとりふねだ。だからおのれのような新入生が居ても気にも止めない。己はいわば、自壊スイッチをもっているだけの餓鬼がき。それに己は自分の虚構の名前さえ知らない。一度も使ったことがないからな」

「すると、なんだい。君は普通の少年ってことかい」

「少なくともそこいらの虫は食わない。・・・・・・食べてもせみとか、いなごとか?」

「蝉とか蝗とか食べてることも驚きだけど、僕はもっと大事なことに驚いているんだよ。つまり僕等が無事に助かるすべがないってことかい?」


「まあ、そうだなぁ」

 玉虫色たまむしいろの返事でにごしながら、周囲に目を配る。

「このすし詰めだ。たとえ虚構を使えたとしても、多くの人が犠牲になる」

 おおよそ百余りか。船首側に追いやられた人質は、夜闇よるやみに沈んだ甲板の上で身を寄せ合っている。それを扇状に取り囲むように、武装した兵士が目を光らせている。

 重火器には詳しくないが、兵士達は少なくとも数分で百余りの人質を射殺できる銃器を携帯し、更に背骨や腰、四肢などの可動域に強化外骨格きょうかがいこっかくが装着されている。

 そんな彼等を相手取って、果たして何人の犠牲を強いるか。

 彼等には、消耗しても余りある肉の遮蔽物しゃへいぶつがこんなにもあるというのに。


「それにFiction Holderもいる」

 坂田時臣さかたときおみ。豪勇の武士として語り継がれる【金太郎】を有する狂乱の兵士。

「あの虚構は処刑斧を振り回すだけじゃない。十中八九、肉体に強靱な加護が施されている」

 Fiction Holderとて、別段、肉体は一般人の枠を越えない。

 坂田時臣も例外でなく、外装で補強されていたとしても、漫画で誇張されたような巨大な処刑斧を持ち上げることなど不可能なのだ。そのため虚構は、物語の範疇はんちゅうを超えない限り、物語を再現する加護をFiction Holderに授ける。

 坂田時臣であれば【巨大な鉞を振るうことが出来る程度の膂力りょりょく】だろう。


「Fiction Holderに出逢った時の鉄則を忘れていたよ」

 弥勒は苦笑する。

「『三十六計さんじゅうろっけい逃げるにかず』。就業規則しゅうぎょうきそくの端のほうに書き付けるぐらい大切なことだ。虚構という異能と加護という隠し球をもっている超人に、一般人が勇気を奮っても、蛮勇ばんゆうそしりを受けるだけだ」

「己たちは人質として大人しくする。それだけだ」

「だけど少年。もしメインダイニングの時みたいに、殺されるようなことがあったら」

「その時は、その時々で──」


 考えるさ。そういいかけて押し黙った。

 コツン、と。

 新たな足音が、微かに甲板に届いた。


 たちまちヒリついた緊張感が甲板に走った。人質だけじゃない。監視していた兵士達や、あの坂田までもが、不安と怯えの視線をもって左舷さげん通路を凝視していた。


(・・・・・・なにか、来る?)

 左舷通路は緞帳のように暗く、夜闇に満ちている。

 唯一の光源は、通路と甲板の境にボンヤリと船舶せんぱく照明のみ。その灯りのもとに、跫音の主が姿を露わにした瞬間、心臓を鷲掴わしづかみされるような衝撃を受けた。


(なんだ、こいつ)

 闇のとばりから抜け出したのは、異国の少女だった。

 夜にえる桜のような長髪を腰まで伸ばし、鮮血せんけつで染め抜いたような緋色ひいろのゴシックワンピースを身にまとっている。血のような衣を纏った少女の容貌は、女性的美しさと少女の愛らしさを、神が絶妙な匙加減で造り出したような少女だった。


 だが、そんなものなど些事だ。視覚的な美醜びしゅうなど意味をなさない。

 たとえるなら、太刀たち

 美術品として一級品であり、肢体したいのような滑らかな反りと鋼の輝きは感嘆かんたんに値する。

 だが、その本質は人を斬り殺す殺意の結実けつじつ

 殺生せっしょう内包ないほうしているからこその凄絶せいぜつな美。


 彼女の美しさも、それと同じ類いだ。

 凄絶な殺意の結晶。鮮血の輝きを内包した美。


 畢竟。これは人じゃない。

 それは魔神と呼ぶべき何かだった。

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