嗄れた先触れ
波乱の先触れは嗄れた声をしていた。
オーシャン・ビューがウリのメインダイニング。
その隣接した
鼻歌をうたう彼は広間の中央に立つと、恭しく一礼する。
「お初にお目に掛かります。当艦臨時シェフの坂田時臣と申します」
慇懃に頭を垂れる男は、お世辞にも料理人とは呼べない容貌だった。
鮮やかな赤いスカーフに明度の低いサングラス。顎の張った右頬は獣に引き裂かれたような惨い爪痕があり、抉られた肉を埋め合わせるように縫合した口角が歪に嗤っている。
「今回は少し趣を変えたデザートで、ご歓談をしていただきたいと思いまして」
悪魔の微笑を縫いつけた男はそういって台車のクロッシュを持ち上げた。
途端、シャンデリアを震わすような金切り声がひびいた。
皿に険のある面持ちの、男性の首が乗っていたのだ。
「こちらは、当艦操舵手から御提供していただきました。つきまして本艦の操舵手を、不慣れな部下に任せています。船内、多少揺れるかもしれませんが、・・・・・・皆様聞いておいでで?どうやら先に料理のテーマをお伝えしたほうが宜しいようだ」
坂田はマナーの悪い客に困惑するように眉をひそめる。
「本日のテーマは『雉も鳴かずば打たれまい』。ええ、そういうことです。この料理で皆々様に感じ入り、理解して欲しかったのはたった一言。──死にたくなければ、黙れ」
途端、周囲が透明なゼリーをかきまぜたように歪んだ。
攪拌されたゼリーから飛び出た二十名の兵隊は、光学迷彩を有した
「んん。良い香りだ」
一方、坂田は『料理』の香りを右手であおぎ、かすかに香る血の薫香に酔う。
そんな彼の至福を破ったのは、殴られた拍子に彼に倒れ込んだ中年男性だった。
「あっ」
と、声を漏らしたのは坂田だ。ぶつかった拍子に皿から首がこぼれた。
血の滴る首は坂田のズボンに当たって、カーペットにぼとりと落ちる。
「・・・・・・・・・・・・なあ、知ってるか? オレがスカーフを首に巻いている理由」
途端、坂田の声色が地におちる。
ズボンに滲む血染みを凝視していた両目が、粗相をした男にゆっくり移った。
「飛沫よけなんだよ。オレ、ベタってする液体ってのがどうも駄目でよう。もし首筋に付着したらって想像するだけで、ぞわぞわって鳥肌が立つんだよ」
坂田の双眸が、鈍い憤怒に燃える。
そして満ち満ちた怒りを殺意に変えるべく、坂田は虚構を
「
悪魔のような男が口にしたのは場違いな
それは坂田が何者であり、どの様に乗客を処刑するかを如実に物語っていた。
「
坂田は首に巻いていたスカーフを強引に振りほどいく。
紅布の中央に縫い付けられた刺繍は『金』の一字。
勇猛と謳われる鬼殺しの幼名の頭文字。
「
途端、坂田が持っていた
発火した布は、次第に粘性を帯び、ひとつの形を獲得した。
薪割り用の手斧の名は、童謡で歌われる金太郎の代名詞。
しかし、それは鉞と呼ぶには凶悪すぎた。巨木のような柄に、刃先が扇のように開いた胴長の
「なぁ、見ろよ。ここ。お前がつけた血ぃ。これ見てさあ、いまさあ、鳥肌たってさぁ。最高に気持ちワリいんだよッ!!」
怒号と共に、鉞が振り下ろされた。
瞬間、落雷の如き音が轟いた。ホールが鳴動し、鉄骨とコンクリートが絶叫をあげ、鉞の
「あん?」
しかし、会心の一撃を放ったはずの坂田は
鉞を持ち上げて刃の腹を指でなぞる。──ない。間抜けの血が一滴もついていない。
「うえっぷ」
ぎょろりと目をやった。
そこには呆然と転がる乗客と、見慣れぬ着流しの少年が倒れていた。まるで少年が乗客のほうに倒れてこんだ拍子に、間一髪二人とも鉞から避けられたかのような格好だ。
「うっぷ」
坂田が鋭い眼で観察すると、少年はふたたび嘔吐く。
「恐ろしいかい?」
淡々と訊く。どうやら愚鈍な男のようだ。ようやくこの惨劇を理解したらしい。
そう思いきや、彼は首を横に振った。
「いいや、不愉快なだけだ。それに胃がグルグルする感じ、噂に聞いてた船酔いってやつだ。それはそうと自称料理人のおっさん。──アンタの注文通り、静かになったぞ」
坂田はサングラスを軽く下げる。少年が言うように、メインダイニングは
乗客は跪かされ、兵士達は彼等を拘束している。
ただ兵士と乗客は一様に、二人の動向に釘付けだった。
「ほら、拘束するんだろ」
静寂を作りだした少年は、近くにいる兵士に後ろ手を突き出した。あれほど乗客をなぶっていた兵士も半ば呆然としながらダクトテープを巻いていく。
為すがまま拘束された少年は、再び
「おい」
その背中を、坂田は呼び止めた。
くるり振り返った少年の瞳は、黒く澄んで
その怯えのない
「君の船酔いは、十中八九、ええ、操舵している部下の未熟さだ。だから、ええ。──このお詫びはいずれ、早い内に。さっきの御礼もかねて、ね」
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