第34話 義務
構図が決まってからの二人は早かった。まるで何年も前から組んでいるかのように、どんどん進んでいった。
湊人に指揮権を渡したのも勝因だろう。この絵を描くときに、彼が「映画を撮るつもりで描きたい」と言ったのを瑠璃が覚えていたのだ。それならば湊人に映画監督になって貰えばいい。自分は役者、監督の指示通りに演技して、納得がいかなければ監督ととことん話をしよう、と瑠璃は考えた。
だが、リーチの長い湊人なら一気に下地が引ける。瑠璃だけではこうはいかなかっただろう。
次に湊人が薄く溶いたイエローオーカーであたりをつける。森の部分はオリーヴドラブだ。
湊人がスケッチブックに描いた下絵を見ながら必死にキャンバスに下書きをしているそばで、瑠璃はモデリングペーストの準備に余念がない。
「なんだよ、もう盛り上げやんのか?」
「もちろん! この手前の石から描きたいの」
「奥から攻めようぜ。何度も重ね塗りして、奥行きを出したいんだ。手前の方はその後でも描ける」
「でも石の下地を先に作っちゃわないと、ここに苔が生えてくるんだよ? ここも結構重ねないといけないところだと思う」
「メディウム単色盛りして、上から色を重ねる系?」
「それそれ」
「じゃ、許可」
少し前までは出来なかったであろう会話。画材の事を勉強するだけで、湊人との会話の幅が広がっていく。
「その色薄いんじゃないの?」
「いいんだよ、薄いのを塗って乾燥させて、また重ねるから。ここはイエローオーカーの上にコバルト重ねて、その上からバーミリオン」
「え、何それ」
「地はイエローで固めて、画面上で混色すんだよ。全部フツーに混ぜちゃったら、単なる黒になんだろ? それじゃ色に深みが出ねえ。深みを出すにはここで混色だ」
「湊人ってエアブラシだけじゃなかったんだね」
「あたりめーだろ」
『当たり前』という言葉が瑠璃は嫌いだった。彼女には『当たり前』や『常識』がわからない。それがわかっていれば孤立などしなかった。明確な基準の無い『当たり前』ほど彼女を悩ませるものは無かった。
今だってそうだ。湊人が筆を使って絵を描くなど、瑠璃の発想には無かった。湊人は出会った時からエアブラシを使っていた。だから、彼は最初からエアブラシで描いていたと思い込んでいたのだ。彼女にとって『湊人が筆で絵を描く事』は、ちっとも当たり前ではなかった。
「湊人っていつからエアブラシ使ってるの?」
ふいに出た言葉だった。湊人は別に驚くふうでもなく、パレットの上で薄く溶いた絵具をジェッソの上に乗せ続けた。
「割と最近だよ。瑠璃がセンセーのところに来たばっかりの頃だから、まだ一年くらいじゃねえかな」
「凄いね。きっと最初っからエアブラシの才能があったんだよ」
「まあ、筆の才能は無さそうだけどな。って言うかさ、エアブラシ使う前からスプレーペイントしてたんだ」
「何それ」
「ん~、オレの黒歴史」
仲良く並んで絵を描きながら、こんなふうに話す相手がいるというのはいいものだ。瑠璃は不思議な幸福感に包まれていた。
「オレさ、センセーのとこ来たの、自分の意思じゃなかったんだよね。連れられてきた感じ?」
そういえば彼はあの時、「警察に連れて来られた」と言ってなかっただろうか。
「瑠璃が中学ドロップアウトして鎌の淵公園の吊り橋のところでボケーッとしてた時、あの頃オレんちもメチャクチャでさ。ちょうど親が離婚する直前だったんだ。毎日離婚調停がどうのって話ばっかりで、オレの高校進学なんか頭に無さそうでさ。とてもじゃねえけど進路の相談なんかできる状態じゃなかったわけよ」
とんでもない話をしているのに、彼の口調は穏やかで、筆にも乱れはなかった。もう既に過去のこととして区切りがついているのだろう。
「今考えてみれば、オレも構って欲しかったんだろうな。自己主張の一環だったんだと思う。橋とか学校の塀とかにスプレーペイントで落書きして回ってたんだ。それで補導されて大目玉喰らってさ。でもそんな時くらいだったな、親がちゃんとオレに向き合ってくれたのは」
瑠璃には衝撃的だった。いつも一人ぼっちで誰にも相手にして貰えない可哀想な女の子、自分をそう評価していた。どれだけ努力しても誰も向き合ってくれない、でもそれは自分の行動のせいだった。
湊人は自分の行動とは無関係に、その心に孤独を抱えていたのだ。自分にはどうにもできないことで一人ぼっちになり、そのやり場のない寂しさをスプレーペイントにぶつけていたのだ。
「何度か補導されて、そろそろ口頭注意じゃ済まないかなって思った頃にさ、オレを連れてった交番の警察官の人が『君は絵が上手いね』って言いだしたんだよ。何のことかわかんなくてさ、『何言ってんだこいつ』とか思ったわけ。警察官が言ってたのは、オレのスプレーアートのことだったんだ。これだけ描けるなら、変なところに描いて叱られるより、きちんとしたアートにして展覧会でも出して、本物の画家としてその腕を磨いた方がいいんじゃないかって言ってくれたんだ。それでセンセーのところに連れて来られた」
そこまで一気に話して、一呼吸おいてから彼は続けた。
「あの時の警察官と澤田センセーのお陰で、今のオレがあるんだ。だからオレは実績を作って二人の期待に応える義務があると自分では思ってる」
「義務……」
「いや、『オレが』ってだけだよ。瑠璃には瑠璃の考えがあっていいと思うんだ。オレは彼らに誠意を見せたい。だから結果を出す」
湊人がこんなふうに自分のことを語るのは初めてだった。内容が内容だけに話せなかったのかもしれないが、瑠璃にとってはその全てが衝撃的だった。
両親が離婚したこと、進路の相談にすら乗って貰えなかったこと、公共施設に落書きをしていたこと、何度も補導されたこと、だが何よりも瑠璃の心にインパクトを与えたのは、彼の使った『義務』という言葉だった。彼は恩返しの為に着実に実績を上げていた。
――あたしはいろんなことに甘ったれて、一体何をしているんだろう……。
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