第六話 道の先に
滑り落ちるようにして入った抜け道は、人ひとりがやっと通れる狭さで、岩を削ったように壁がつるつるとしていた。どんな仕掛けなのか、二人が転がり落ちるや否や紫の炎が点灯していく、幻想的だった。
弥子は早足で出口が見えないその道を進んだ。爆音や不吉な騒音は絶えなかったが、彼女は一切後ろを振り向かず、ただ黙って先に足を進める。
それが彼女の信頼なのだろうと玲人は感じ、後ろを気にする素振りをすることはできなかった。
やがて、騒音は遠ざかり、反響する足音だけが耳に残るようになった。弥子の歩調も少し緩み、玲人はそれに合わせて尋ねた。
「……これ、どこに出るんだ?」
「多分、港区じゃないかな?」
弥子が言った場所は心情的にありえない場所だった。車でも最低30分はかかる、徒歩でこの道が続いているというなら正気とは言えない長さだ。
「嘘だろ、どんだけかかるんだよ」
「あと十分くらいじゃない? 霊子回廊だから物理的な距離は関係ないから」
「りょうし?」
「魔術の一種だよ、五十六の得意技。神出鬼没の原点ってね」
互いの声は風呂場にいるかのようにひどく反響して聞こえていた。
「……あの男も魔術師なのか」
「いや、キョウカ、彼は獣持ち。後天的な超能力者、みたいな? フリーの戦闘狂で敵だと厄介なタイプ、味方でもあれだけど」
「違いが良く分からない」
すべてが夢のようで、だが足元は確実だった。幻のようなこの光景は確かにあり、やがて薄暗い出口が見えてきた。
夜の風が吹き込んでくる。外の匂い、塩の匂い、生き物の気配が流れ込み、安心感を覚えた。
「……倉庫街か?」
見えるのはコンテナが積まれた夜の港だった。しんとした空気が、人のいてはならない不気味さを覚えさせる。
「あー、やられているね」
安堵の息をはく玲人にたいして、弥子は困った顔をしている。それに嫌な予感を覚えた。
「なんだよ」
「張られている。千里眼持ちが関わっているね、これ」
弥子が指さす先、暗闇で少し見えにくかったが、慣れれば動いている人間がわかった。警備員にしてはやけに数が多く、持っている物物が物騒だった。
「隠れてやりすごすか」
「あー、そうしたいのは山々なんだけど持たないと思う」
「回廊が?」
「いや、私たちの体が」
弥子はばつの悪い笑顔を浮かべていた。嫌な予感を覚えながら、無言で玲人は先を促した。
「本来の術者じゃないし、長居すると取り込まれる。あと、実は生命力がすでにちょい食べられているね!」
「聞いてねえんだが!?」
「色々捻じ曲げているからしょうがないよ! 大丈夫、あと3分くらいは猶予があるはず」
何が大丈夫なのか、実に良い笑顔を小一時間問い詰めてやりたくなった。
「七谷と要さんは」
「無理。基本回廊は一回しか使えないし、作り直すのに時間がかかる。要さんは呼べなくもないけど、戦闘中に下手に呼ぶと死にかねないし――仕方ないかぁ」
頭が痛い。現状をどうすればいいのか、やはり隙を見て逃げるしかないのか、3分といえど考えようとした玲人の前で、弥子は頭をかくと――そのまま無造作に外に出た。
「おい!?」
慌てて後を追うと、海の匂いが鼻についた。肌が粟立つ嫌な感じがして振り返ると、背後にはただのコンテナの山で入り口らしきものはなかった。その事実に心臓を直につかまれるような恐怖を覚えた。
幸い、監視員らしき人間は気が付いていないようだった。今のうちに動くしかないだろうと玲人が覚悟したその瞬間――頭上からまぶしいばかりの光が当てられた。
「っつ」
突然の明るさに身をすくませ目を細める玲人に対して、弥子はまっすぐにその灯りを見ているようだった。スポットライトのような光が彼女と、その髪が夜風になびくさまを映し出している。
それからはあっという間だった。あわただしい周囲の音、そして薄闇から向けられる凶器の数々――どうすればいいのか、立ち尽くしている間のあっという間の出来事だった。
「五十六、ではないな。協力者か」
静かな低い声が薄闇からした。当時にジャキッと何かが動く嫌な音が複数する。玲人は心臓の拍動が嫌でも高鳴るのを感じた。
何を言えばいいのか、どうすればいいのか分からない。このまま黙っていてはいけないことは分かっても、答えが分からない。何より恐怖が足を震わせる、声がはりついたように出てこない。
情けないほどに恐ろしかった。動けなかった。答えを待たれるその間が、永遠のようにすら感じられた。
「ねえ、二ノ倉君、好きなことってある?」
磔にされたような時間の中で、弥子が振り返る。間の抜けた言葉と穏やかな表情はこの状況を分かっているのか、だがその普通さを玲人は神聖な物のようにすら感じた。
「何いって……」
答える気がない会話に周囲は警戒したのだろう。息が詰まる様な気配、こちらを害そうとする意志が膨れ上がった。
「できるだけ、楽しいこと考えていて」
弥子は美しく笑った。日常の一コマのように無邪気に明るい、この場ではどこか妖艶にすら見える場違いな笑顔で。
夜風が弥子の髪を巻き上げる。白魚のような弥子の右手が、何もない空間に手を差し伸べるように向けられた。その動きに発砲音と火薬の匂いが容赦なく浴びせられる。
「弥子!」
絶体絶命、その最中に彼女は呼びかける。
「礼賛せよ、
その瞬間、空気の粘度が変わった。
弥子を起点にするように周囲の景色ががらりと変わった。夜の薄闇は、薄紫の空に飲み込まれ、形容しがたい何かが空間に広がっていく。銃弾はこちらに届くことはなかった、これが飲み込んだのだと直感的に玲人は悟った。
「チッ、魔術師だ。結界を張りなおせ!」
舌打ちと慌ただしい気配、相手は余裕があるようだった。炎が生き物のようにうねる不思議事があるのだから、この街ではこれくらい動じることではないのかもしれない。
だが、それは次の応答で決壊した。
「
途中からそれは、狂気に満ちた絶叫でかき消される。それはあちこちで起きているようだった。物が落ちる音と、人目をはばからない絶叫、それらを繋ぐように途切れ途切れの笛の音が調子はずれな音を奏でている。
明らかな異常だった。全身が関わってはいけないものだと警報を鳴らす。
これは見てはいけないものだったのだ、焦燥の中でそう思いながら玲人は別の気配に気づいた。
薄紫の向こうにぼんやりと建物が見える。中世の宮殿のようなそれにこの場は囲まれている――そして、その建物には何かがいた。
「……っつ」
あれは何なのだろう。何かが躍っている、大きさは人よりやや大きめで、ゆらゆらとゆれるそれはこちらを――見ている?
「あ、アア、そうか! お前か! お前が市警備部の悪魔の!」
「悪魔ほど行儀は良くないと思うけどなあ」
「この悪魔が! 化け物がああああああ!」
絶叫とともに苦し紛れの発砲音と、それをかき消すような調子はずれの笛の音。しっとりとした夜露の匂いを玲人は感じた。
弥子は狂乱の場では不気味に感じるほど普段通りで、穏やかだった。
薄闇のせいで彼女の顔は見えないが、真っすぐに立つ後ろ姿だけが見える。
「嫌だ、アア、やめ、て、あ」
「痛い、イタ、ァ、ああああ!」
「ようこそ」
絶叫の最中でも彼女の声は小声にも関わらずよく通った。
透き通るようなその声は、離れているにも関わらず耳元でささやかれているような奇妙な感覚がし、拒否反応のように皮膚が粟立った。
「許し、あ、が、やめ」
「我らの庭へ」
湿った匂いがする。グチュっという粘着質な音と、楽しそうに笑う複数の何かの気配がする。恐怖に支配され逃げ惑う悲鳴が、あちこちから響き渡る。
「それでは皆さま、ごゆっくり」
「あ、やめ、あ、アアアアアアア!」
「痛い、アア、手が、痛、ァ、ア」
柔らかな声音とそれに反する絶叫、嘲笑うような笛の音が、その場に響き渡っていた。
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