第四十三話 「霧の宿屋(二)」

 風呂は最高だった。麻呂は久々に化粧を落とし、男三人、交代で互いの背中をタオルで擦り合った。

 その後、たっぷりと湯船に浸かり、無言で湯を感じていたかったが、そうはいかなかった。

 壁の仕切りは上の方が切れていて、向こう側の声が聴こえるのだ。

「きゃあ、ライナさん、そこくすぐったいです!」

 リシェルの声が麻呂の煩悩を刺激してくる。麻呂は強く目を閉じた。何も聴こえないでおじゃる、何も聴いてはいないでおじゃる。

「いやん、駄目! ライナさん、駄目です! むずむずします! 痛いっ!? ザンデ様、助けて!」

 リシェルの声が言うと、ザンデが声を上げた。

「ライナ、何やってんだ!?」

「えー? マッサージだけど? うーん、母上が父上にするのを見よう見まねでやってみたけど駄目みたい」

「リシェルが落ち着いて湯に浸かってられないだろうが、もう止めてやれ! いいな!?」

「わかったよー」

 ライナの若干不満そうな声が返って来た。

「まったく、変な気分になっちまうぜ」

「そうなのか?」

 グシオンが尋ねた。

「そうなんだよ。悪かったな」

 ザンデが苛立つように言った。

 グシオンは麻呂へ顔を向けた。

 麻呂は苦笑してごまかした。

「俺は先に上がるが、お前達は、上がれる状態ではなさそうだな。ゆっくり気を沈めてから上がってくるが良い」

 グシオンは真顔でそう言うと先に出て行った。

 結局、麻呂とザンデはのぼせる寸前まで湯に浸かっていた。その頃になってようやく気が静まったのだ。

「せっかくの入浴が酷い目にあったぜ」

「まったくでおじゃる」

 二人は浴室を覚束ない足取りで徘徊するようにヨロヨロと歩き、とりあえず麻呂はふんどしを、ザンデはパンツを履いて浴室の椅子に並んで腰かけた。すると目に留まったのは、ミルクの無人販売所だった。金属の箱の中にガラス戸越しにミルクが入っている。

 二人は湯冷ましにそれを購入した。

 ミルクはキリッと冷えていたが、麻呂は疑問に思ってザンデに尋ねた。

「どういう原理で冷えているのでおじゃろうか?」

「そりゃ、魔術だな。魔晶石って知ってるか? 魔力の塊みたいなもんなんだけどよ、そいつを媒介にして氷系の魔法を軽くかけてるんだろう」

「そうでおじゃったか。ザンデはさすが魔術師でおじゃるな。物知りでおじゃる」

「俺的に魔術師は名乗りたくないな。どうにも、ひ弱そうでさ」

「ならば、魔法戦士を名乗ってはどうでおじゃる?」

「それも駄目だ。どっちつかずで、中途半端な感じが嫌いだ。やっぱり俺は戦士一本で行くぜ。まぁ、それでもこの間みたく魔術が必要な場合は惜しみなく使うがな」

 二人はミルクをもう一瓶購入し飲んだ。

「なぁ、麻呂……」

「何でおじゃるか?」

「俺よ、リシェルの事、混浴に誘ってみるわ」

「そうでおじゃるか」

 麻呂は微笑ましく思いながら応じた。

「ああ。一応、円卓の騎士のリーダーだから言っとく」

「分かったでおじゃる。お互い腹を割って話せると良いでおじゃるな」

「……ありがとよ」



 二



 二人が出てゆくと、食堂の席に仲間達は待っていた。

 霧が出ているため時間は分からなかったが、どうやら晩飯時らしい。

「二人ともおっそい! 何やってたの?」

 ライナが尋ねた。

「無人販売でミルクを飲んでたんだよ」

 ザンデが答える。

「ああ、兄貴達もだったんだ。アタシらも飲んだよ。リシェルが教えてくれたけど、あんなに冷たいのは魔晶石を、何だっけ?」

「その話ならザンデから聴いたでおじゃるよ」

 麻呂は微笑んだ。

「お待たせしました」

 メアー老人が、盆を両手に食事を持ってきた。

 分厚く大きな牛肉のステーキに、ボウルいっぱいの野菜の盛り合わせ、そして湯気を上げている香ばしそうなパンだった。

「わお! わお! メアーさん、あんな料金でこんなに食べちゃって良いんですか!?」

 ライナが興奮気味に尋ねると老人は頷いた。

「勿論ですとも。おかわりも自由ですよ。気兼ねなくお声掛けください。葡萄酒、麦酒、ジュースにミルクとありますが、お飲み物は何になさいますか?」

「アタシは麦酒! あ、あと葡萄酒も!」

 ライナが慌てて声を上げた。

 麻呂は果物のジュースを頼み、他の者も各々注文すると、メアー老人は厨房と思われる扉の向こうへ去って行った。

 程なくして飲み物が運ばれてきた。

「ねぇ、乾杯しようよ!」

 ライナがグラスを掲げてキラキラした顔で言った。

「良いでおじゃるよ」

 麻呂が言うと、他の者もグラスを掲げた。

 すると一同の目が麻呂に集中した。

 リーダーとして音頭を取れということだ。

「では、我らが円卓の騎士に乾杯でおじゃる!」

「乾杯!」

 グラスが優しくぶつかり、甲高い音を上げる。

 それからは凄かった。ライナがだ。

 肉を喰らい、野菜を喰らい、パンを喰らい、メアー老人におかわりを何度も告げた。

「お前、いい加減にしないと太るぞ」

 ザンデが言うと、ライナは麦酒を呷り言った。

「兄貴こそ、もっと食べて体力つけなきゃ駄目だよ」

「そうですよ、ザンデ様。ザンデ様はもう少し太ましくなった方が戦士として貫禄が出ると思います」

 リシェルが強く言うと、ザンデはタジタジになっておかわりを告げた。

「麻呂にグシオン、アンタ達もだよ。何でうちの男連中ってもやしっ子ばかりなの? 当てつけなのかな!?」

 ライナが不機嫌そうに言い、おかわりを告げた。

 そう説教されてはおかわりしないわけにもいかなかった。どうやらグシオンもらしい。二人でメアー老人に肉のおかわりを告げた。

 それにしても、料理は絶品だった。申し訳ないが、故郷のシェフや、ライナの母とティア以上の料理の腕前と知識をメアー老人は持っているらしい。

「麻呂、そういえば、お前のことを麻呂と呼んでいたが、本名では無いのだろう? 本名は何と言うのだ?」

 グシオンが尋ねて来た。

 麻呂は咳払いした。静寂が周囲を包んだ。

「麻呂の名前は――」

 その時だった。

「ああ、晩御飯始まってるみたいだよ!」

 若々しい女性の声がした。

 全員の視線が新たな客へと向けられる。

 それは麻呂と同じ年ぐらいの女性だった。まだまだライナのように少女の面影が残る相手だったが、麻呂は驚いた。次いで現れたのが、金色の長い髪をし、眉が太い女性だった。

 ライナの母上にそっくりだったのだ。

「母上!?」

 ライナが驚きの声を上げた。

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