第六クライシス 求愛サバイバル  夕日と夜中と紅桜の場合

 少し前に伝わってきた情報によると、未だに彼はその星を動かずに壊さずにいるという。そんなこともあるだろう、なんて暢気なことを言っている奴らもいるが、私は全くそんな風には思えない。何か、何かがあったのだ。彼の身に、何かが起きたとしか思えない。

 それでは、困るのだ。私が会いに行く前に何かが起きては困るのだ。彼に何かがあったら、私は平常ではいられない。彼が、彼が、彼が、私の全てなのだ。

「闇の、覇王さま。」

その星は、宇宙の隅の小さな星で宇宙飛行ネットワークにすら登録されていない未開発の星。定期便はおろか、ルートすら正確に把握されていない。自分で船を操縦して運が良ければ辿り着ける。そんな星に彼は今も、いる。

「どうか、ご無事で。」

祈るように目を閉じて船出の準備を急ぎ整える。幸い自分の船は持っている。操縦は出来ないが、腕のいい操縦士がいる。そして、金なら捨てるほどある。必要なものはすぐにでも揃うだろう。あの日、彼がそうしてくれたように。私は、そうして彼を助けに行く。

「あの日のお命を、今こそお返しいたします。」

七つ星が、青銅の周りを二周ほどした頃。私は、彼によって救われた。暗く息苦しい檻の中から、明るい光の世界に連れ出してくれたのは、彼だった。

 私は、優れた能力と高度な文明を持っていた星の生き残りだった。なぜ、自分の星が滅びたのか幼かった私には全く覚えていないけれど、たぶん本当にどうでもいいことだったのだろうと思う。私が唯一覚えている故郷の景色は、澄み渡る空に浮いた家だ。私の星は、地上の98%が水で覆われていて生物はみんな空に住んでいたらしい。

 星が滅亡した後、生き残ったのは私ともう何組かの家族だけで身寄りも知り合いもいなかった私はあっという間に海賊に攫われた。物心がついた私の家は、土臭い石で囲まれた光の入らない箱だった。何も聞こえない、何も見えない世界で私はただ一人、時々渡される食事と廃材を糧に過ごしていた。

 そんな生活がどれくらい続いていたのか、全く覚えていない。そんなに長くはなかったと思うけれど、私はある研究熱心な星に買われた。いくらで買われたのか、今となっては確かめようとは思わないけれど、かなり高かったのではないかと予想できる。

『なるほど、これがあの幻のベニか。』

ベニ。それが、私の星を支配していた種族、つまり私たちの名前だった。その研究所で私はずっとベニ-390と呼ばれていた。私は暗い穴倉から突然に、目が潰れるほど白い箱に移された。そこでは、毎日のように研究と実験を繰り返していた。

 そんな生活が、穴倉よりも長く続いたある日のことだった。それは、突然に始まりそして終わった。

『いったい、何事だ。なにが起こっている?』

ざわざわと騒ぎ始める研究員たちの感情に比例するように、ぐらぐらと建物全体が揺れる。僅かに出来たひび割れから、私は顔を覗かせる。あたりは危険を知らせるブザーと警戒を呼びかける赤いランプで異様な空気になっていた。

『覇王です!闇の覇王が、こちらに向かっています。辺りは、もう、破壊されつくしています。』

『なんだって?一体、なぜ奴がここに。急いで資材をまとめて脱出するぞ。』

ざわざわ、ざわざわ、不安が電線していく。闇の覇王、その単語が現れた途端にまるで呪いのように電線して恐怖が広がる。

 私は、どうなるのだろう。また、どこかに連れて行かれるのだろうか。そんなことを思いながら、上を向いた。ミシミシと天井が落ちそうな音をたてている。

『あれ、ひょっとして』

潰されて死ぬのではないだろうか、そう口に出そうとした瞬間にメキリと今までで一番大きく不吉な音がして真っ白な天井が強かに落ちてきた。

『・・・・なーんだ、違うじゃん。』

一瞬だけ、途切れた意識が繋がった瞬間に聞こえてきた声は不自然なほど無気力でそれでも、僅かに落胆と安堵が込められている。ゆっくりと開いた目に映ったのは、漆黒の闇。

『本当、命乞いしてる奴の言うことって当てにならないなあ。今度から、殺してから聞くか。あ、でも、死んだら喋れないのか。不便だねえ。』

本能がざわざわと震えるほどの漆黒から聞こえてくる声は、不思議と心地よい低音で私ははっきりとしない意識の中で手を伸ばした。

『それにしても、本当に似てるな。まるで地球人だ。よっ、と・・・あ、生きてる。』

漆黒の闇が私の手を掴んで天井の下から出してくれた。チカチカと瞬く視界の中心にやたらと印象的な瞳が、うっとりと弧を描いた。

『まあ、間違いだったにせよ。これは、これでってことで。』

『・・・闇の、覇王・・?』

『ん?そうよ、俺が闇の覇王だけど。ねえ、地球人がどこにいるか知らない?』

地面に降ろされた足は、意外にしっかりと立った。見上げるほど、上にある瞳を見ようと顔を上げる。尋ねれた質問に答えるべく記憶のパズルを解く。

『・・・研究所の、地下にある、ポットの中。』

『あっそ。ありがと、』

くしゃり、大きな手が私の頭を撫でて風が横切った。そちらを見る頃には、もう何もなくてただ、不快なブザー音が木霊する埃で灰色の世界が広がるばかりだった。

 どうやったのか、私はその研究所から抜け出し死の星になりつつあった星から脱出した。研究所から持ち出した資材や研究資料が大いに役に立ったことは言うまでもない。それと私がベニだったことも関係しているかもしれない。

 それ以来、私は闇の覇王さまと再び邂逅するために生きていた。闇の覇王さまの情報をできるだけ集めて彼が立ち寄って破壊した星には必ず行った。けれど、辿りつく頃には彼はおろか星すらなくなっていた。私が、彼と会うことは叶わなかった。それでも、彼の噂を聞くだけで嬉しい。彼の破壊した星の残骸を見るだけで幸せ。誰のものにもならない、誰にも捕らえられない、誰にも奪われない、彼の姿が脳裏に焼きついて私の胸を脳をじりじりと焦がしていく。艶やかな漆黒が、今も私を惹きつけている。

 彼は、私にとっての全てだ。彼の全てが、私のものだ。

その彼が、今、何かに巻き込まれている。あの日、助けられた命を心を、私は彼に返す。

「ひゃぁ。こりゃ、どんぐらいかかんべね。今までの星とは訳が違うべよ。」

操縦席に乗った操縦士が、何かをボソボソと言うが酷く聞き取りにくい。私の専属の操縦士兼なんでも屋であるけれど、こいつのこの喋り方だけは未だに不快だ。

「バイウ。なるべく早くしていただける?闇の覇王さまが、私を待っているの。」

「ははは、わかってるべな。わしにまかせっけね、ベニっこ。」

バイウは朗らかに笑うと、真剣な表情で地図を見たまま操縦かんを動かした。口は下手だし、性格はアホだけど、仕事の腕は確かなことは私が一番良く知っている。

「待っていてね、闇の覇王さま。今、私が助けに参ります。この、ベニザクラが。」

「ほいじゃ、出発すっかね。発進だいっちゃ!!」

どんな強敵でも、どんな強大な権力でも、私は彼のためだったら怯まない。彼のためにこの命を投げ出せるのなら、私は、私は、私は、


 漆黒だった。そこから漏れるように、藍色がじわりと現れる。藍色は黒に染まることなくただじんわりと広がって僅かに深みを増す。光は差さない、何も、その純黒の世界には存在しない。ただ、何もかもを飲み込むような寂しい闇が、広がっていた。

『助けて、お願い。誰か、手を、』

力いっぱい伸ばした手に、誰かに触れたくて伸ばした手が、不意に振り払われた。


 「・・・・気がした、だけか。」

目を覚ますと、世界はぬばたまの純黒ではなかった。もう、昼も真ん中ほど。カーテンから差し込んでくる光はちょうど良く私の顔の辺りを暖めていた。

 誰に言うでもなく言っておくと、私は断じて暇だからこうして真昼間から就寝しているわけではない。朝から、一回も布団から出ていないのも何も暇だからではない。だが、私は今、確実に暇を持て余している。

「ぐぶ、鼻水がっ!!!」

呼吸をしただけで零れそうになる鼻水をかむべくベッドの脇に置かれたティッシュを掴む。いつもは、こんな位置に箱ティッシュは置かれていない。では、なぜ今日はここにあるのか。簡単な話だ。私は今、まさにここ数日ほど。

 風邪をひいている。

 基本的に私は体が弱い。それは、世間一般的に言う虚弱体質とも言えるが、運動も体力も人並みにはある。なので正しく言うなら、免疫力がないに等しいということだ。私は、季節の変わり目ごとに風邪を引く。インフルエンザの季節になれば、A型B型新型、全てのタイプをかわりばんこに貰って、あまつさえ治ったとしても口唇ヘルペスやら口内炎を発症してしまうほどだ。予防接種という便利アイテムを使用することもできるけれど、それを受けに行った病院で他の病気も一緒に接種してしまうというおまけつきだ。

 いつから、そんな風だったのか。と言われれば生まれたときからだった気もしなくはないけれど、なんとなく学校を休みがちになったのは小学生くらいからだったような気もする。言ってしまえば、小さい頃からで大人になってからもこれは治ることはなかった。そのため、私は病気をするのが特技、くらいにしか思わなくなって家族もそんな感じで認識していた。そう、私は免疫力が大人にしては子供並みにないのだ。

 「ユウヒちゃん、大丈夫?なんか、欲しいものあるかって、お母さんが。」

ずびびびーっと景気よく青っ洟を出し切ったところに、笑いながらヨナカが入ってきた。ここ数日は白衣にワイシャツに黒いチノパン。なんともこざっぱりした格好だが、ヨナカの長い手足が、スラリとした腰のラインが、そのシンプルな服で余計に強調されている。

ちなみに、ヨナカは私が風邪を引くとだいたいこの姿をしている。しているが、お医者さんごっこなどという変態プレイはしたことはない。断じて一回もない。

「だい。ビョナガ、デッジュがだぐだる。ごびばヴぉいっばい。」

まるでフランス語のような言語をヨナカは、眉一つ寄せずに理解した。あはは、といつもよりも高い声で軽やかに笑うと、いつもはブーツを履いているはずの黒いローファーを鳴らして私の部屋に入ってきた。

「今回は酷いね。なんか、俺にできること、ある?」

ベッドのすぐ横に膝を折って中腰になったヨナカの黒い瞳が、優しくそして悲しそうに細められるのを熱でぼんやりとした瞳で見つめながら、掠れた声でヨナカを呼ぶ。

戸惑いがちに、ヨナカの大きな手がおでこに触れる。ひんやりとしたその温度と、少しだけ押し付けるように強く押される感覚が、どこか心地よい。

 不意に、何か前にもこんなことがあったような気がした。熱を出して唸っていた私のすぐ横にヨナカがいてこうして額に手を当ててくれていた。

『お兄ちゃん、苦しいよう』

『大丈夫?俺にできることがあったらいいんだけど。』

泣きそうな顔をしたヨナカが、苦しそうな顔をしたヨナカが、私の小さな手を握っている。私は無意識に、掠れる声でヨナカを呼ぶ。

目の前にあったヨナカの顔が、なあにと優しく返事をした。ゆるゆると手を伸ばして私は幻と現実の区別もつかずに浮かされたように戯言。

「手、繋いで。寝るまで、ここにいて。ずっと、名前、呼んでて。」

心細さが、不安が、熱が見せる幻から伝わって染みこんでくる。それから逃れるように、ただ一心に手を、声を、心を、ヨナカに向ける。

 熱で朦朧としている私は、何も考えずに見ていたけどヨナカは驚いたように目を見開いて、それから酷く怯えたような表情をして、でも、やっぱり困ったように笑って私の手を額に当てている方とは違う方の手で握ってくれた。

「いいよ。眠るまでずっと、こうしてそばにいるから。」

ユウヒちゃん、温かい声がそっと撫でるようにそう囁く。それに合わせて額に乗せられていた手が、前髪を掬うようにしながら瞼に触れた。誘われるように目を閉じて熱で半分も使えない神経をヨナカの冷たい手を感じることに集中させる。

瞼を離れた手は、耳を塞ぎながら頬に落ち着いた。鼻の近くを通ったときに、そんなはずはないのにヨナカの匂いがした。甘いのに、どこかウッディーな、そんな匂い。

「・・・ヨナカ、」

何かを伝えたくて名前を呼んだ。それなのに、言葉を吐き出す前に転げ落ちるように眠りの海に沈んでしまった。

「早く良くなってよ、ユウヒちゃん。」

おぼろげな記憶の中、ヨナカの低い声が何かのメロディを紡ぐのを聞いたような気がした。それは、酷く懐かしい響きだった。


 熱かった。身体に纏わりつくような恐怖と絶望に埋もれていきそうになる意識を引き戻すようにじりじりと焦げるような熱さが皮膚を焼く。ここは、どこ。どうして私はこんなところにいるの。だんだんとだるさで動けなくなる。逃げなきゃいけないのに、体が指一本すら動かせなくなる。怖い、熱い。誰か、誰か、誰か、

『         』


 叫ぶように何かを吐き出したはずの口は、はあはあと荒い息をしているだけで声を吸い取られたように滑稽なほど、ただ呼吸を繰り返すばかりだった。

「・・・っ、」

訳がわからないまま、半身を起き上がらせてドクドクと全力疾走のあとのように早鐘を打つ心臓を押えた。毛穴という毛穴が、開いて汗を出している。寒さからではない震えが、カタカタと歯を鳴らす。音も感覚もなく涙が頬を伝って落ちる。まるで自分のものではないような身体の感覚に、吐き気が込み上げてくる。 

 熱のせいだと言い聞かせるように目を閉じた。それでも、涙は震えは止まらない。

「・・ユウヒちゃん?どうかした?」

薄暗い部屋に、声が落ちる。光の筋が真っ直ぐに伸びて廊下に立つ見慣れたヨナカのシルエットを浮かび上がらせる。

「大丈夫?どっか、痛い?」

潜めるように囁く声が、扉を閉めて足音を立てないように近づいて止まる。

荒い呼吸が、震える身体が、頬を伝う涙が、乱暴に刻む心音が、怖い。

「ヨナカ、」

ベッドのすぐ横に昼間と同じように屈んだヨナカの腕を掴んで、乱暴に精一杯の力を込めて引き寄せる。油断していたらしいヨナカの体はうわっ、なんて間抜けな声とともに簡単に傾いて、それでもなんとかベッドに膝をついて倒れこむことは阻止していた。

「ど、どしたのよ、ユウヒちゃん。ずいぶん、積極て、き・・?」

驚いたような声が、身体を伝って耳に入る。しがみつくようにヨナカの胸に顔を埋めながら私は何かに憑かれたようにただ泣いて泣いて震えて息をしていた。

「・・・ッ、」

「大丈夫、大丈夫だよ。俺は、ちゃーんとここにいるから。大丈夫だよ、大丈夫。」

トントン、トントン、撫でるようにそっと背中を叩く。吹き込むように柔らかく優しい声が零れる。そのリズムに合わせて脈打っていた心臓が速度を落とす。その音に合わせて崩れていた呼吸が空気を取り込む。壊れかけていた気持ちが、形を取り戻す。

 昼間に嗅いだのと同じ、ヨナカの匂いがする。ヨナカの体温が、する。ヨナカが、いる。

すぐそばに、触れられるほどの距離に、伸ばした手の先に、ヨナカがいる。ヨナカの体温が、ゆっくりと布越しに皮膚に伝わって心の中の恐怖を溶かしていくような気がした。

 涙で濡れた声でヨナカを呼んだ。零れる息ほどの大きさしかなかったけれど、ヨナカはちゃんと聞こえていたようで、なあに。といつものように優しく甘えたように返事をしてくれた。伝えるべき言葉を見つけられなくてまた、小さく名前を呼ぶ。

「どうしたの?怖い夢でも、見たの?また、熱が上がってきたんじゃない。ユウヒちゃんの身体、燃えてるみたいに熱いよ。」

ヨナカが言った言葉に連想されるみたいに頭に浮かぶ夢の残り香。立ち昇る炎と立ち込める煙。熱い、苦しい、怖い。真っ白な世界が一瞬にして紅く赤く染まる。

ドクン、心臓が一つ大きく跳ねて反射的にヨナカの白衣を強く掴む。

「ユウヒちゃん?」

「・・・・夢、真っ白いカプセルみたいな、燃えて、真っ赤で、壊れていくの。崩れて、誰かを、呼ぶんだけど。必死に、呼ぶのに。」

カタカタと小刻みに震えるのは、恐怖かそれとも熱による悪寒のせいか。普段の私だったら、縋るように抱きついていたヨナカの身体が、私の言葉に緊張していくのがわかっただろう。震えているのは、私ではなくてヨナカだったことにも気づかずに私はただ、悪夢を吐き出すように言葉を続ける。

「白い、世界が、赤くなって、それから、突然、黒い、黒い」「ユウヒちゃんっ、」

口に出した途端に鮮明になっていく夢の光景に、何かを思い出しそうになった。さっき見た夢ではない何かを、ぼんやりと霞を掴むように記憶を探る私の名前を、ヨナカは突然に叫んだ。

 私は現実世界に呼び戻されたように、薄暗い自分の部屋を認識する。そうして縋るように抱きついたヨナカが、私の身体をまるで何かから隠すように覆い抱きしめていることも。

「ヨナカ・・?」

「なんで、ユウヒちゃんはそうやって。俺のこと、どうしようもない気持ちにさせてそのくせ。・・・本当、いったい俺を、どうしたいわけ。」

すぐ耳元で喘ぐように苦しそうに呟かれた言葉は、私の心の奥深い場所を揺さぶった。ヨナカはいったい何を言っているのか、熱でぼんやりとした私の頭では当然全く理解できなくて、だけどどうしてか、私はヨナカを放してはいけないような気がした。このまま、手を離してしまったら、ヨナカはどこかに行ってしまう。そんな嫌な予感がして私はヨナカにしがみついたまま、だけど何も言えずに、ただしがみついてヨナカの匂いを吸い込むように呼吸をしていた。

 どこにも行かないで。ずっと、ここにいて。心の中でだけ、そんなことをうわ言のように繰り返しながら。目を閉じた。


 ふわふわと浮かぶような感覚。熱が上がるといつも感じる眩暈に似たその症状は、まるで空を飛んでいる錯覚を生む。この状態で眠るとだいたい見たこともない船で空を飛んでいる夢を見る。それは悪夢とまではいかないけれど、このあと何か怖いことが起こるという確信に似た予感がしてあまり良い気持ちのする夢ではない。だから、私はこの状態になったときはなるべく寝ないようにしてる。の、だけど。

「・・・何よ、何でですの。このような生き物が、なんだっていうのです。」

明け方近く、薄明かりが部屋を照らす中で私の目に映ったのは、まるでキツネのように釣り上がった目と下から見ると本当にすごく大きく見えるブタ鼻だ。それに私の顔を囲むように垂らされた真っ黒で長いおさげが、ゆるゆると闇に溶けた。

「・・・・だ、だれ?」

「あら、何か喋ったわ。翻訳機器が、役に立ってよかったですわ。」

熱で朦朧としている私でも、彼女が地球人でないことはわかる。逆さまに覗き込まれながら、私は今いったい何時だろうか。と、顔をずらして壁掛け時計を見ようした。途端に、顔の横にあったおさげが、ふわりと頬を撫でて白檀の香りが鼻を擽る。

「・・・あ、れ・・?」

「でも、あなたは眠ってしまうから、関係ないのだけれどね。」

鼻にかかった声が、途切れがちに消えていく意識の中で聞こえた。ようやく覚めたはずの眠りに私はまた、頭から真っ逆さまに落ちた。


 優しくてなのに、親猫に甘える子猫のように甘えた声が私の名前を呼ぶ。だから、私は声のした方に振り向いて返事をするべく声の主を捜す。

「お兄ちゃん・・?」

ただ、美しいだけの広い庭園は静かに風を吹かす。小さく遠慮がちな音を立てて流れる水は今は誰の喉も潤すことはない。

「お兄ちゃん?どこ?お兄ちゃん?」

そよそよと頬を撫でるように吹いていく風に残る甘い香りが、私の気持ちに不釣合いなほど平和だった。足元に生い茂る芝生は、柔らかくて緑が鮮やかだ。私を暖める太陽の光は優しくて眩しい。ただ、彼が、彼だけが、いない。

「お兄ちゃん!!お兄ちゃん!!」

一歩、踏み出す。零れそうになる涙を拭って前を向く。怖くない。怖くない。言い聞かせるように、心で唱えて緑の芝生を蹴るようにして走り出した。

「ヨナカっ!!!」

 叫ぶように呼んだ名前は、空気に溶けて消えた。

朦朧とした意識の中で私は唐突に、今のが夢だったことを知る。そうして、私は大切なことを忘れていたことに気づく。

「・・・・あれ、は、あの、人、は、」

「あら、ようやくお目覚めですの?地球人って本当に扱い辛いですわ。だって、あんまりにも弱いんだもの。あのくらいの薬でこんなに長く眠られるなんて。こんな生き物のどこで闇の覇王さまはてこづっておいでなのかしら。」

心臓が、壊れたように鳴る。わかってはいけない、知ってはいけないことを、私は。

「あれは、・・・ヨナカ、だった。」

口に出してその想いを現実の光に晒す。私は、何を忘れていたのか。ようやく

「あら、なあに。あなた、それ泣いているの?」

呼吸が苦しくなるほどに激しく気づけば私は泣いていた。頬を止め処なく伝う涙が、何かを洗い流してくれないだろうか。と必死に願う。

「・・・・わたし、は、」

熱でだるい体が、言うことを聞かずにベッドに沈む。泣いたせいでガンガンと頭が痛む。最悪だ。

喘ぐように呼吸をする。私を睨むように見つめていたキツネ目のブタ鼻少女が、紅色をし

た振袖を靡かせてやってくる。

「あなたを消したら、闇の覇王さまもさぞお喜びになってくださるわ。あぁ、ようやく私、ようやく私はあの方とお会いできるわ。」

ベッドから見上げる和服のおさげちゃんは、私よりも大人っぽく見えるのに身長はきっとそんなに変わらないんじゃないかと思うくらいに顔の位置が低い。

「ふふ、あぁ、嬉しい。」

恍惚、そんな言葉が相応しいほどうっとりとした表情を浮かべて和服おさげちゃんが、私に向かって腕を伸ばしてきた。

 逃げようと辺りを見回す。真っ白な壁紙が、無機質に真っ白な灯りに照らされている。私が横になっているベッドの他に何もない広い空間。なのに、ところどころに穴が空いていてそこからたくさんの瞳が私たちを見ている。

 知っている。私は、この部屋を知っている。

ゾワリ、体中の毛が逆立つような感覚に忘れかけていた熱が、悪寒が、ぶり返す。たくさんの手が、目が、私に触れていく。気持ち悪い。

「・・・・・っ。」「っきゃ!?」

記憶の波から逃れるように反射的に目を閉じた。それと同時にすぐそばで何かがぶつかる激しい音と少女の鋭い悲鳴が上がる。

何の衝撃もないことを確認してから、身体の緊張は解かずに目を開ける。真っ白な世界に不釣合いなほど、鮮やかな赤色がどこからか飛んできたようにゆっくりと舞う。

「ユウヒちゃん、大丈夫?」

見慣れた切れ長の瞳が、柔らかく三日月になる。砂糖でできた飴細工のように甘くて繊細な声が、私の名前を呼んだ。

 途端に、思い出したように目頭が熱くなってまた涙が盛り出て来た。

捜していたの。捜していたの。あなたをずっと、捜していたの。

「ヨナカ、」

「あーぁ、真っ赤っかじゃない。本当、せっかく良くなってたのに。大丈夫だよ、ユウヒちゃん。すぐに家に帰ろうね。」

ヨナカの大きな手が、くしゃりと前髪に触れて額を撫でる。私は、ただ重くて動かない身体を横たえながらその手の平の感触を感じていた。

「誰ですの?・・・まぁ、あなた、」

壁にもたれるように項垂れていた和服おさげちゃんが、ゆっくりと立ち上がる。それから、私のすぐ隣りに立っているヨナカを見つめて嬉しそうに目を細める。

丁寧な仕草でお辞儀をして敬うように、酷く妖艶な声音で闇の覇王さま、と喋る。

「俺のまわりを嗅ぎまわってるネズミがいるのは知ってたけど。どうせ、またあの宇宙刑事だろうと思って何もしなかったのが、間違いだったってわけね。まさか、この星の住人に悪さするようなやつだってわかってたら、ユウヒちゃんをこんな目に遭わせるってわかってたら、すぐに駆除してたのに。」

さっきまでの声と違う。低く唸るようなヨナカの声に、言葉の節々に怒りが滲んでいる。その言葉に、和服おさげちゃんは戸惑うような顔をしてヨナカを見つめている。まるで自分が今、言われたことを、置かれた状況を理解できないとでも言うように。

「闇の覇王さま?いったい、何を言っておられるの?私を、覚えていますでしょう?この部屋も、あのときと同じにしたのです。お気づきでしょう?」

「何言ってるのか、全然わからないけど。でも、へえ、俺のこと知っててこういうことしたんだ。それじゃあ、覚悟はできてるってわけね。」

コツン、コツン、ヨナカのブーツが高い音を立ててゆっくりと和服おさげちゃんに向かって歩いていく。コツン、コツン。その一音ごとに、和服おさげちゃんの表情が、変わる。戸惑い、困惑、疑惑、思案、そうして何かを悟ったような晴れやかな表情をして高らかに笑う。

「なるほど。そういうことですの。どうして闇の覇王さまともあろうお方が、こんな弱い生き物にてこづっておられるのか、ようやくわかりました。可哀想に、無念でしょう。でも、大丈夫ですわ。私が、今、その呪縛から、その術中から、お救いしますの!!」

叫ぶと同時に和服おさげちゃんの姿が、空気に溶けて消える。流石に、油断していたらしいヨナカも、一瞬だけ戸惑うように辺りを見回す。その一瞬、その一瞬だけで彼女にとっては十分だった。ヨナカが気づいたときには、私のすぐ上空に彼女の姿があった。その手には、キラリとまるで月のような細い刀が光っていた。

「ユウヒちゃんっ!!」「その命を、終わらせますわ!!!」

動かない。まるで世界はスローモーションのようにゆっくりと動いているのに。狂気に満ちた笑顔を浮かべて落ちてくる和服おさげちゃんを見つめながら、私の体は凍りついたようにピクリとも動かせない。

 呼吸すら、止まったのではないかと思うほどの確信の中であと数センチに迫った和服おさげちゃんの体が何かを避けるように不自然に横に移動した。バランスを崩すように床に落ちた和服おさげちゃんのすぐ横に長い槍が突き刺さった。真っ赤な色をした、鋭い槍。

 何が起きたかわからずに、ただベッドに横になったまま地面に体制を立て直す和服おさげちゃんを見つめていた私の前に見覚えのある茶色のブーツが、軽やかに着地する。背中しか見えないヨナカが、さっきよりも低く背筋が粟立つほどの殺気を込めて笑う。

「まさか、ユウヒちゃんを狙うとは思わなかったなあ。てっきり、俺をおびき出すための餌に使ったんだと思っちゃったから。あーぁ、本当に。」

殺すだけじゃ、足りないかも。なんていつもよりもっと楽しそうに顔は笑っているのに。睨むように、射るように見つめている先にいる和服おさげちゃんは、酷く幸せそうな表情をしてその視線を受け止めている。乱れた帯を正しながら、しなやかに刀を構えなおす。

「わかりますわ、覇王さま。マインドコントロールというのは、得てしてそういうものです。ええ、大丈夫。私が、すぐに開放して差し上げます。その術者を殺してあなたを正気に戻してあげます。そうして私を思い出していただきます。闇の覇王さま。」

誘うように艶やかな声が、快楽に似た響きを乗せてヨナカを呼ぶ。ヨナカは、不快そうに目を細めて眉を寄せると、まるで階段をゆっくり降りるようにベッドから降りた。ギシリと静かにバネが、声をあげる。

 床に深々と刺さった槍を軽々と引き抜くと、ヨナカはそれを肩に担いだ。それが合図だったかのように、和服おさげちゃんの姿がまた消える。今度は、さっきのように見失うことなくヨナカも消えてしまう。かと、思うとあちこちから金属と金属がぶつかる音がして残像のように部屋のいたるところでヨナカと和服おさげちゃんが鍔迫り合いをしている姿が現れる。

 あのときと同じだ。あの宇宙刑事さんが来たときと同じ。私の目には、彼らの戦いは速すぎて見えない。それに目を開けているのも、熱が高くなってきたこの瞼にはなんとも辛い。何か冷やす物が欲しい。そんなことを思いながら、そっと寝返りを打つ。

 前にも、こんなことがあった。こんな白い世界で白い箱に閉じ込められたとき、私は熱を出して熱くて苦しくて何か冷やす物が欲しいと思いながら、こんな感じのベッドで寝返りを打った。そのとき、ぐらぐらと辺りが揺れて私は、誰かに抱えられた。そう、確か、あれは研究員のような格好をしていた。私は、どこかから連れ去られて見たこともないような場所に連れて来られた。そこで私はたくさんの手と目に囲まれてチューブやら機械やらに繋がれた。そうして、そうして、私は、誰かに、

「ヨナカ、私は、あのとき、確かに、ヨナカに助けられた。」

燃え上がる炎の中でヨナカが、私を呼ぶ声がした。真っ黒な暗闇のような何かが、真っ赤な世界を漆黒に染めて近づいてくる。炎の中でヨナカの声が、私を呼ぶ。

『     』

 ガシャーン、派手な音が朦朧としていた意識を呼び戻す。引かれるようにそちらを見れば、真っ白な壁にまるでオブジェのようにヨナカが埋まっている。あのヨナカが、こんなにボロボロにやられることがあるんだなあ。なんて思いながら、私はその壁掛けヨナカをじっと見つめる。真っ赤な服が、ポンチョが、まるでヨナカを縁取る血液のようで私は一瞬だけ、ヨナカが死んでしまったのではないかと怖くなった。

「・・・よ、ヨナカ、」

試しにかけてみた声は、掠れて辛うじて言葉になっている程度のものだった。それが、風邪のせいか、恐怖のせいか、私にはわからなかった。だけど、どっちもそんなに変わりがあるわけではない。私は、ベッドの脇。視界の端にやってきた紅色に染め抜かれた着物の揺れるのを妙に静かな気持ちで捕らえていた。

「大丈夫ですわ。あのお方が、そう簡単に死んだりしませんもの。だけど、しばらくは大人しくしていただこうと思いましたの。だってそうでしょう?あのお方を傷つけるのは私の本心ではないんですもの。だけど、あのお方がいる限りあなたを殺すことができないから。さあ、これで邪魔者はいなくなりましたわ。いいえ、違うわ。あなたが邪魔者なのですわ。いったいどんな強い呪術を使ったのかは、知りませんが、あのお方をあそこまで操れるなんて滅多にないですわ。さぞ、優秀なボディガードだったのでしょうね。ええ、だってあのお方ですもの。だけど、残念ですわね。それも今日で終わり。あなたの命を私が今、ここで終わらせますもの。さようなら、か弱い地球人さん。」

どこで息継ぎしてるの。そう思うほどの言葉を浴びせられながら、真っ白部屋の中で不釣合いなほど神々しく銀色の光を放っている刀を見つめた。

ヨナカは無事なんだ。なら、いいか。それにしても、ヨナカってそんな強かったんだ。知らなかったなあ。一年近く一緒にいたけど、ヨナカが戦ってるとこなんて数えるほどしか見てない。あぁ、でも、そういえば、なんでヨナカは私のそばにいてくれたんだろう。それは、わからないけど。でも、最後にありがとう、くらい、ちゃんと言いたかったなあ。

 熱のせいか、恐怖のせいか。ピクリとも動かない身体をベッドに沈めながら、ヒュンという風を切る音とともに振り下ろされた刀を、受け入れるべく

「       」

何か、音がした。

いや、音というには僅かすぎる音量。僅かというには、大きすぎる音響。ビリビリと空気が震えるほどの振動が部屋に響く。私の皮膚まであと数ミリという距離で和服おさげちゃんの刀は止まっていて彼女の瞳は驚愕の色を浮かべてある一点を見つめていた。

 倣うようにそちらに視線を移す。しかしその前に、目の前が、いや視界全体に煙りが充満するように黒い黒い闇に包まれる。数ミリ先にあったはずの銀色の刀さえ、見えなくなるほどに濃い暗闇。

「何?なんですの?これは、いったい、」

すぐそばでなのにどこか遠くで和服おさげちゃんの怯えたような声がした。途端に、闇が突風のように鋭く弾けて誰かが悲鳴とともに何かにぶつかる音。私はといえば、痛みもダメージも受けることなく何も変わらずベッドに横たわったまま、何も情報を得られない不安を抱えたまま、辺りを見渡している。

 この闇を、この漆黒を、私は知っている。前に、何か、こんなことが。

カツン、カツン、耳慣れた音を鳴らして闇の中を誰かが近づいてくる。低く唸るような声が、闇の中から浮かび上がってくる。

「俺のユウヒちゃんに、何をするつもり。」

「ヨナカ、」

波紋が広がるように、ゆっくりと漆黒の中でヨナカの低い声が響き渡る。空気に溶けてツウッと冷たい温度が染み渡る。

「お前、いい加減にしろよ。このままで済むと思うな。」

冷たい声が、いつもと同じはずなのに、どこまでも冷たい声が、漆黒の中を動いている。

「どういうことですの。闇の覇王さま。いったい、どうしてそこまで。そんな強力な呪術なんてこの世界にはないはずですわ。あなたさまほどのお方が、何にそこまで。」

どこにいるのか、わからない中で和服おさげちゃんが叫ぶ。悲痛なほどのその声も、どこにいるのかわからないヨナカの耳には届かない。

「呪術?まあ、ある意味そうかもしれないけど。こんな辺境の星で、どうしようもないくらいにのた打ち回ってんだから。だけど、いたいって思っちゃうのよ。どんなに面倒でも、傷ついても、苦しくても。守ってやりたい、そばにいたい。俺は、怪我なんてしても痛みも感じないほどに早く回復する。だけど、ユウヒちゃんが悲しかったり、辛かったりすると、胸の辺りがチクチクするのよ。痛くて痛くて、泣きそうになる。だから、」

ふいに私は、ヨナカがどこにいるのかわかった気がした。それは、声の場所とかそんな物理的なことではなく、ただ単純にそこにいると確信に満ちた感覚が脳が指令を出すより先に、視線をそこに向けた。

 そして、そこに。ヨナカは、いた。いや、正確にいうと私の知っているヨナカではなかった。だけど、ヨナカの声をした、人ではない何かが私を見下ろしていた。

「、」「っ!!」

視線が、確かに絡んだ。闇の中で光る二つの赤い目に私が映っていたのが、確実に見えた。途端に赤い目が、戸惑うように揺れて空気が微かに怯えて震える。弾かれるように、咄嗟に手を伸ばした。掴んだのは、硬い皮膚。前に触れた柔らかい人間の皮膚とは違う。ごつごつと硬く僅かに鋭い皮膚。まるでヒーロー番組に出てくる怪獣のそれのようなその質感に、ちょっとだけ驚いて首を傾げる。

 さっきよりも、ずっと掠れた声で名前を呼べば、闇の中で怯えたように息を呑む音がする。その吐息は、もう耳慣れたヨナカのものだ。

 思い出した。思い出したよ。しがみつくわけでもなくだたヨナカのどこか。おそらく腕だと思われる場所を握りながら、私は言葉を続ける。

熱で体はふわふわするし、激しい動きで頭はガンガンする。それでも、至極はっきりとした意識の中で私は、全てを思い出した。

 私は、前にも、こうしてヨナカに助けてもらったことがあった。いつだったか、どこだったのかはわからないけど、でも、小さい頃だからたぶんずっと前。私はヨナカと一緒にいた。ヨナカに連れられて私は、あの箱庭に行った。たくさんの場所に行った。途中で知らない集団に攫われて研究所に連れて行かれた。そうして私は、ヨナカに助けられた。あのときも、ヨナカはそんな姿をしていた。

 燃え上がる炎の中でヨナカが、私を呼ぶ声がした。真っ黒な暗闇のような何かが、真っ赤な世界を漆黒に染めて近づいてくる。炎の中でヨナカの声が、私を呼ぶ。

「ユウヒ、ちゃん。」

甘い砂糖を入れた卵焼きのような声が、怯えたようなか細い声で私を呼んだ。

「・・・・うん、ヨナカ。」

喉が痛くて掠れた声で、笑うように返事をした。あぁ、やっとすっきりした。妙に晴れ晴れとした気持ちで頷く。途端に、背中に鈍い痛みと鋭い熱さが走る。

「返して。私の闇の覇王さまを、返すのよおおおおおおぉぉぉぉ!!」

「ユウヒっ!!!!」「・・あ、・・・れ・・?」

艶やかな純黒。鮮やかな紅赤。華やかな光白。飛び散るように、意識を跳ね回る。

 真っ黒な世界の中でヨナカが私を呼ぶ声がする。混沌とした意識の中で世界は真っ赤に染まっていく。燃えるような痛みと熱の中で、ヨナカが私を呼んでいる。

 私は、あの日。確かに、ヨナカに助けられた。あの日と同じ真っ暗な怪物のような姿をしたヨナカに、私が、お兄ちゃんと呼んで慕っていたヨナカに、私が全てを忘れてしまった夏休み。私はヨナカと一緒にいた。ヨナカに連れられてあの箱庭に行った。あのお城で生活をした。お城の中を探検して、掃除して、ヨナカと二人で過ごした。どうして忘れていたのか、ヨナカは私との約束を守ろうとしてくれたのに。私は何にもわからずに、どうしてこの宇宙人は家にいるんだろうなんて思っていた。ヨナカはずっと、ずっと。

 ユウヒちゃんが悲しかったり、辛かったりすると、胸の辺りがチクチクするのよ。痛くて痛くて、泣きそうになる。だから、

 ヨナカは、そう言って泣きそうな顔をして私を見た。そっと、差し出された小指を絡めてヨナカは、私と約束をした。ようやく思い出した、思い出したよ。

「・・・・?」

見慣れた私の部屋の天井。私の匂いが染み付いたベッド。朝の光が眩しく部屋に差し込んでカーテンの隙間から、隣りの家が見えた。

いつの間にか熱は下がっているようで、触れた額は僅かに冷たい。まだ、少しだるさは残るものの、それ以外はすこぶる快調に向かっているようだ。寝返りを打ってもう一眠りしようとして気がつく違和感。だけど、その正体を探る前に温かい布団に包まれた幸福感によって私は眠りの海に沈んで行った。

 平和な日常。ありふれた毎日。何も変わらない生活。私は、いたって健康体だった。今日辺りはもう起きてご飯が食べれるかもしれない。そんなことを思いながら、目を閉じた。

 そうして、次に目を開けたとき。この世界にヨナカの姿は、どこにもなかった。何もなくなったヨナカの部屋が、彼の不在を教えていた。家族に聞いても、覚えていないという返答が、彼の旅立ちを伝えていた。さよならもありがとうも言えないまま、私はただ取り残された子供のように立ち尽くすだけだった。


あの子に声をかけたのは、本当にたまたまだった。計器の故障で流れ着いた辺境の田舎星。宇宙に関する文明が、まだ殆んど進んでいないようなその星で船が直るまでの暇つぶしを捜していた。そんなときだった。

「今日から、夏休みだ。」

誰に言うでもなく楽しそうに声を上げながら、小さな女の子が歩いていた。ランドセル、と呼ばれる四角い形をした鞄を背負ってどこから持ってきたのか、ふわふわの葉っぱを指揮棒のように振りながら。ただ、一心に歩いていた。

 ただの暇つぶしだった。船が直ったら、帰せばいいと思っていた。

「楽しそうじゃん。俺も、まーぜーて。」

「お兄ちゃん、誰?」

「誰でもいいでしょ。それより、何してたの?」

くりくりとした大きな瞳が、純粋な興味だけを宿して俺を見つめる。しゃがんで目線を合わせて笑う。警戒心なんてないみたいな手が、俺のことを掴んだ。そうして俺の真似をするように彼女は、ゆっくりと優しく微笑んだ。

「今日から、夏休みなんだよ。ユウヒ、学校が休みだと嬉しいんだ。」

 ただの暇つぶしだった。損得勘定のない、好奇心のはずだった。

「お兄ちゃん、ユウヒは知らない人について行ったら、ダメって言われてるんだけど。」

「大丈夫、大丈夫。ちょっとだけだから、ね?」

「おわあ、すごいね。お兄ちゃん、こんなすごいところに住んでるの?今、読んでる本に出てくるお城みたい!!」

「お、喜んでくれて嬉しいなあ。入ってみる?」

「いいの?」

純粋な瞳が、零れそうなほどの光を放って俺を見つめる。恐怖も不安もない瞳が、一心に俺だけを見つめている。こんな風に誰かに笑いかけられたのは、いつ以来だろうか。

 ただの暇つぶしだった。だけど気づけば、どうしようもないくらいに惹きつけられて。

「ユウヒちゃん、今日は遅くなったから泊まって行きなよ。お母さんには、俺が言っておいたから。」

「お母さん、いいって?」

「うん。なんだったら、夏休み?の間中ずっといてもいいってさ。」

「本当に!?」

無邪気に笑う小さな彼女が、俺の心にするりと入り込んだ。一つ一つの言葉が、仕草が、まるで幸せの卵のように落ちては染みこんでいく。力を入れたら壊れてしまいそうなほど脆い弱さが、どうしようもないくらいに愛おしくて泣きそうになった。

「お兄ちゃんは、このお城に一人で住んでいるの?お母さんとお父さんは?」

「・・・いないよ。ずっと前に、死んじゃった。それからはずっと一人。ちょっとだけなら、誰かと一緒にいたような気がするけど。もう、忘れたよ。それに、俺は一人でいたほうが、気楽でいいのよ。誰も信用しない。誰にも、期待しない。」

箱庭、彼女がそう名づけた船の甲板に並んで寝転がりながら、彼女はこの星の子供独特の高い声で尋ねてくる。記憶にすら残っていない家族の話を、俺は何でもないことのように太陽を見ながら彼女に話す。思い出せないくらいに昔の話。彼女がこの世界に生まれてすらいない頃の話。

「でも、寂しくない?怖くない?ユウヒは、夜にトイレに行く時に一人だと怖いなあ、って思うよ。」

「あはは、そうだねえ。ユウヒちゃん、トイレのたびに俺のこと起すんだもん。今じゃ、すっかり寝不足だよ。」

ごろりと太陽から目を背けるように寝返りを打つと、すぐ横に彼女の大きな瞳があった。じっと見つめて逸らすことなく俺を真っ直ぐ見つめる視線に、あぁ、ここにも太陽があったと言い知れない心地悪さを感じて目を閉じて笑った。

 ただの暇つぶし。だけど、今までにないくらいに充実していた。

「お兄ちゃん、どこに行くの?箱庭の外に出てもいいの?」

「いいよ。だけど、俺から離れないでね。今日は、ちゃんと船が直ったかどうかのテスト飛行だからすぐに帰るよ。」

船が直るまでの暇つぶしのはずだった。計器が動いて星間飛行も問題なく出来た。本当だったら、すぐにでも他の星に飛んでもいいし、この星を壊しても良かった。そのどれもしなかったのは、出来なかったのは、ただの気まぐれだ。そう信じていた。

「・・・ここ、どこ?ユウヒの家の近くにはこんなとこないよ。あ、お兄ちゃん、見てよ。あの人、頭に葉っぱが生えてる!!あの人はお尻に尻尾が生えてる!!」

「ユウヒちゃんは、よく見てるねえ。俺なんてそんなことで感動したことなんてなかったよ。ユウヒちゃんといるとなんだか、俺の目が節穴だったみたいに思えるなあ。」

小さな手を握ってはぐれないように。彼女は珍しい地球人だから、一人で歩いていたら悪い奴らにあっという間に高値で売られてしまう。まあ、俺が言えたことじゃないんだけど。だけど、どんなに値を上げられても俺はこの子だけは売らないだろうね。なんて考えている自分を見つけて驚くほどに動揺してしまう。

 ただの暇つぶしだった。船が直ったら、放してやらなくちゃいけない。

「お兄ちゃん、あれじゃない?ほら、お船のマークが書いてあるよ。・・・お兄ちゃん?」

「え・・・あぁ、そうだね。じゃあ、ちゃっちゃと済ませて帰ろうか。」

知らずに強く握っていた手を、ほんの少し緩めて笑う。見えかけた何かを誤魔化すために目を逸らした。真っ直ぐな瞳には何もかもが透かされているようで怖くなった。

あぁ、そうか。これが、怖いという感情か。笑う、長い間何もない星にいたせいですっかり油断していた。あそこでは笑っていられても、ここではそれは命取りだ。

「うわあっ!!お兄ちゃんっ!!!」

悲鳴のような声に呼ばれてそちらを見る。俺の目に映ったのは、泣きそうな表情を凍りつかせて俺を見つめる小さな彼女が、頭に花を咲かせた奴に連れて行かれるところ。

「ユウヒちゃんっ!!!」

油断した。油断した。油断した。そんな言葉じゃ言い訳なんてできないほどに、俺は腑抜けになっていた。こんな場所であんなにあからさまに気を抜くなんてどうかしている。彼女は高値がつくとついさっきまで考えていたのに。どうして俺は、目を放した。手を緩めた。こんなところで、どうしてそんなことができた。

 走っても障害物に阻まれて速度が上がらない。あまりに小さい姿のせいで見失いそうになる。口を塞がれたのか助けを求める声も聞こえない。

「くそっ、退け、邪魔だあああああっ!!」

体の中で蠢くどす黒い感情。辺りの者を全て蹴散らして進む。あの子と出会ってから一度も使わなかった力を爆発させるように吐き出す。見えなくなる彼女の姿。希少な地球人。違う、違う、あの子は、あの子は、俺の大切な、大切な、

 気がつけば見渡す限り惨状だった。それでも彼女の姿はなくて近くにワープボックスがあったから、たぶんどこかにワープしたんだとわかった。幸いにも、ワープ履歴は残っていたし、俺の船もほとんど直っていた。俺のユウヒちゃんに何かあったら、そう考えただけで苦しいほどに胸が痛んだ。最後に見た、恐怖で凍りついた姿が瞼の裏にこびりついてじりじりと思考を焦がしていく。無事でいて。お願いだから、無事でいて。

 表示されていた星の名前は、確か研究施設と研究技能で有名な場所。俺も何回か行ったことがある。利用価値があったから何もしなかったけど、もうそんなものなくなった。全てをきれいに破壊して彼女を、取り戻す。奪い返す。ただ、それだけだ。

「待ってて、ユウヒちゃん。ちゃっちゃと終わらせて、帰ろうね。」

 誰に言うでもなく囁いて船に乗り込む。ワープボックスを壊してしまったのは後悔だけど、そんなことは今さら言っても仕方がない。船で行くと一体どれくらいかかるだろうか。いや、時間なんてかけられない。すぐに、今すぐに行かなくては。急かされるように、船の舵を取り、彼女がいる星に向かう。

 怒りとそれに似た恐怖が俺の胸を支配する。彼女が教えてくれた感情の中で最も強く俺の胸を動かすのは、怖いという感情だ。周りが見えないほど、怖い。怖くて、頭がうまく働かない。いったいどれくらいかかってその星にたどり着いたのかも、覚えていないほどの感覚の中で神経だけは敏感に研ぎ澄ます。彼女に繋がりそうな情報だけを選び出し、何かに取り付かれるように駆け出す。間違いだったら、すぐに消す。壊す。同じ所を何度も捜すなんて手間はかけていられない。虱潰しなんてしたくないけど、それ以外に方法が見当たらない。

 最後に残った研究施設、ここにいなかったらどうしよう、と恐怖と不安が綯い交ぜになった感情を押し殺しながら、押し入った場所に彼女はいた。まるで実験材料みたいに密閉された容器の中に入れられていた。眠っている、目を閉じていた。まさか、体がさあっと冷たくなる。

「ユウヒ、ちゃん?ユウヒちゃん、大丈夫?」

叫ぶように呼んでみる。返事は、ない。怖い。怖い、怖い。燃え盛る炎の中、壊れていく施設の残骸。ガクガクと震える体は、きっと化け物。中にいる彼女の身体を傷つけないようにそっと、カプセルを壊す。

パリン、華奢な音とともに彼女の身体は地面に落ちる。

「・・・・、」

閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上がる。虚ろな瞳は、どこを映しているのかわからない。触れようと伸ばした手が、ごつごつとした棘のある姿だったことを思い出す。これで彼女に触れたら、彼女の柔らかい皮膚を破ってしまう。小さな身体は、見た目ではどこも怪我をしていない。それなのに、横たわる彼女は苦しそうに顔を歪ませ、小さな唇は辛そうに荒い息をしている。心なしか、頬も赤い。

「・・・ユウヒちゃん、まさか、熱?そんな、」

「・・・だ、れ・・?」

意識が朦朧としているのか、たわ言のように彼女が呟く。出来るだけ優しくその額に触れると普段では考えられないくらいに熱い。いくら辺りが燃えているといってもこんなに熱を持つなんて普通ではない。嫌な予感がして着せられていた真っ白な衣服を捲ると何かを注射されたような痕が数箇所、ぷっくりと白く腫れている。

「あいつら、まさか、ウィルスを。この腫れ方・・それに、皮膚がところどころ白い。ユウヒちゃん、舌出して。べーってして・・・やっぱり、黄色い。よりによってスワンウィルスとはね。やってくれるよ、本当。」

腹立たしさと悔しさに歯軋りをする。もっと早くこの星を破壊しておけばよかった。そうすれば、彼女がこんな目に遭うことはなかったのに。薄っすらと開いた目が、俺の姿を見つけるように動いた。苦しそうな息の切れ間から、溜め息のように声が漏れる。

「・・お兄ちゃん、だ。そうでしょ、お兄ちゃん。」

苦しいのか、辛いのか、目尻に涙が溜まっている。伸ばされた手は、ふらふらと定まらないまま俺の手を捜している。こんな姿の俺を、俺だとわかるわけがない。きっと声でそう判断したんだ。この場に全く関係ない言い訳を頭の隅に追いやりながら、解決策を探す。スワンウィルスの抗体が地球人にあるわけがない。このままにしておけば、確実にあと数時間で彼女は死ぬ。いや、この衰弱の仕方では数時間だって持たないかもしれない。

「お兄ちゃん、ごめんね。ユウヒ、迷子になっちゃって。ごめんね。」

「・・なに、言ってんの。俺が手を離したから、ユウヒちゃんをこんな辛い目に合わせて。本当、ごめん。俺が、絶対助けるから。」

「大丈夫だよ、こんなのすぐに治るもん。それに、お兄ちゃんは助けに来てくれたよ。」

ユウヒ、嬉しい。真っ赤だった顔が白く染まっていく。頼りない笑顔が、痛々しい。俺が、助ける。絶対、ユウヒちゃんを失うなんて耐えられない。感情を全て込めたように握りしめていた手の平がチクリと傷んだ。いつの間にか爪で破れて血が流れていた。指の間を流れていく青い血液を見つめ、一つの可能性にたどり着く。

「・・・ユウヒちゃん、俺のこと、好き?」

「?・・・うん、お兄ちゃん、好き。」

詳しくは知らないけど、俺は怪我をしてもすぐに治る。それは、どうやら傷口から流れる血液に非常に高い治癒能力があるからだと前に城にあった書物に書いてあった。自分の種族について興味はないが、これがもし仮に自分以外にも当てはまるのだとしたら。

「じゃあ、俺に賭けてみてよ。」

迷っている暇などなかった。彼女はまた、生死の狭間に沈んでしまう。傷つけすぎないように細心の注意を払いながら、彼女の皮膚を切り裂く。じわり、切れた場所から真っ赤な血液が滲んでくる。ぱっくりと開いた傷口に、手の平から流れた俺の青い血液を垂らす。一滴、二滴、三滴、真っ赤な彼女の血液と混ざっていく。

「・・・頼む、頼む。」

祈るように、言葉を捧げて傷口を見つめる。これが、治れば、塞がれば。だけど、それでも体内に取り込まれたウィルスにも効果があるのかどうかは定かじゃない。

「・・・・・・。」

永遠にも感じられるときが、流れる。周りの炎は勢いを増し、じりじりと焦げるような暑さが感覚を支配する。いつの間にか、俺の身体は彼女といるときの人型に戻っていた。メラメラと炎が舞う音と時折何かが倒れる音しかしない。彼女の傷は、塞がらない。

 苦しそうに荒い息をする口は、パクパクと小さく何かを欲している。それを見つめながら、噛み締めていた唇がブチッと嫌な音をたてて破けた。口の中に一瞬で血液が流れ込んでくる。もう、何も考えずに口の中に血液を含んだまま、彼女の小さな口に重ねた。喉が渇いていたのか、彼女はなんの抵抗もせずにゴクンとそれを飲み干した。

 メラメラと皮膚が燃えていくような灼熱の中。俺の心はさめざめと冷え切っていた。

「・・・・お兄ちゃん、熱い。」

「ユウヒちゃん!!」

 放心しきっていた俺の耳に、はっきりとした音量で彼女が告げる。幻聴かと思いながら、彼女に視線を移す。相変わらず、ぐったりと横たわっているものの、頬は赤みを取り戻している。虚ろだった視線も、僅かに生気を宿して俺を見ている。何より、傷口が塞がっている。

「お兄ちゃん、熱いよ。それに、なんか、具合悪い。」

さっきまでのうわ言のような口調と違う、確かに現状を把握している物言いは意識がしっかりとしている証拠だ。まだ、記憶が混乱しているのか、不思議そうな顔で辺りを見回して俺の顔を見つめている。

「あ、あぁ。そうだね。だって、この建物燃えてるし。ちょっと揺れるけど、我慢してね。船まで運んであげるから。」

 夢でも、幻でもいい。縋るように、彼女を抱き上げて歩き出す。炎のように熱いのは、熱があるから。大丈夫、彼女の体はまだ熱い。もう四方八方を火に囲まれてしまったから、なるべく振動を与えないように抱きしめて飛び上がる。こうなれば、建物を破壊して出てしまった方が早いだろう。一刻も早く彼女を安全で清潔な場所に連れて行きたい。

 いつも眠っているベッドに降ろしたときには、彼女の具合はほとんど快方に向かっていた。とは言っても、他にも何かウィルスを注射されていたようで相変わらず熱も高いままだったけど。それでも、俺の言葉に頷いたり、水を飲んだりはしてくれる。

 額に手を乗せて熱を測る。さっきまで乗せていた布は彼女の熱を吸ってもう温かくなってしまっている。

「お兄ちゃん、苦しいよう」

「大丈夫?俺にできることがあったらいいんだけど。」

伸ばしてきた小さな手を握る。大事な大事な、俺のユウヒちゃん。辛そうな姿を見ているだけで俺の胸も苦しくなる。変わってあげたくなる。変われるなら、俺が苦しみたい。

「お兄ちゃん。治ったら、また、外の箱庭で遊べる?ユウヒと一緒にいてくれる?」

「・・・もちろん。だから、早く治そうね。俺も、早くユウヒちゃんと遊びたいよ。」

さらさらと出会ったときよりもだいぶ伸びた前髪を撫でるように梳いてやると、彼女は目を細めて笑う。だけど、治ったら。彼女の額に冷たくした布を乗せる。だけど、治ったら。注射の痕も、傷も、もうすっかり治っていた。だから、治ったら。

 彼女を、帰さないといけない。俺のそばじゃない、彼女が元いた場所に。こんな危険なことに巻き込まれない。安全な、場所に。最初の約束通り、夏休みが、終わる前に。

 触れた頬は、ふっくらとしていて柔らかい温かさが俺の指を押し返す。

「ね?ユウヒ、もう、元気になったでしょ?もう、熱もないでしょ?ほら、元気でしょ?」

「うーん、そうだねえ。ここ三日ほど熱も出てないし、食欲も戻ってるし。」

うんうんと頷く瞳は、キラキラと生気で満ちている。念のためとしばらく寝かせていたけれど、元気を取り戻した彼女は寝ているのはよほど暇らしく俺を呼んでは話を迫ったり、外の天気を見るだけだと唆して外に出ようとしたり。とんだ小悪魔ガールっぷりだ。

「じゃあ、箱庭で遊んでもいいでしょ?ユウヒ、お兄ちゃんと遊びたい!!」

「うーん・・もう、しょうがないなあ、ユウヒちゃんは。いいよ、だけど、ちょっとだけね。走るのはなし。大人しくすること、いい?」

はーい。元気な返事に知らずに笑いながら、安堵の影に隠れた落胆を見つける。嬉しそうに生きていることを弾けさせながら歩く背中を見つめながら、あのまま熱を出して寝込んでいれば俺は彼女をずっと手放さなくて済んだんだろうか、と思う。

「なんだろうねえ、この気持ちは。」

誰に問うわけでもなく口に出した疑問に答えてくれる者なんてここにはいない。困惑に似た戸惑いを抱えながら、俺はそっと彼女の背中を追いかけた。

 すっかり元気になった彼女を連れて城の一番てっぺんに登ったのは、彼女を降ろす少し前の夜だった。

「きれー!!」

必死に背伸びをして丸い窓から地球を見下ろす彼女は、楽しそうに嬉しそうにまるで新しいおもちゃを見つけたように高い声をあげる。

「そーんな気に入ってもらえるとは思わなかったな。」

小さな体を持ち上げて下の景色を見やすくしてやる。その僅かな重さが、俺の腕にしっかりとかかって彼女の存在が幻でないことを伝えている。

「うわー!!すごい、すごい!!」

こんな簡単な出来事でさえ、彼女はまるでとてもすごいことのように感動して笑う。それが愛おしくて、俺はたまらなくなってしまう。

「ユウヒちゃんは、本当に可愛いねえ。」

「あ、見てみて!すごいよ!!」

小さな手を窓にへばりつくようにして彼女は下を夢中で見ている。その余りの力に危うく落としてしまいそうになって慌てて抱きしめる。自分の慌てっぷりがおかしくて、そうさせる彼女が可愛くて愛おしい。俺の大事な、人。失くしたくない、存在。

「困ったなあ。俺、ユウヒちゃんのこと大好きになっちゃったよ。」

「ユウヒも、お兄ちゃんのことすきだよ。」

こっちを見もせずに言う愛の言葉に、思わず笑ってしまう。彼女といると俺はいつでも笑っている。それは今まで感じたことのないほどの満足感から浮かぶ笑顔だ。俺にも、こんな穏やかで安らかな感情が存在したのか、と自分も知らない自分を見つけてしまう。

「ねえ、ユウヒちゃん。一個約束しよっか。」

気づけば彼女の小さな体を縋るように抱きしめながら、俺はそっと耳元に囁く。くすぐったいのか、彼女は小さく身を捩って俺に意識を向ける。

「約束?」

これは、罠だ。俺が彼女に仕掛ける最初で最後の罠。俺が、彼女を手放すために張り巡らせるみっともないほどに滑稽な、糸。

「そう。約束、この船から降りたら、俺といたことは全部、ぜーんぶ、綺麗に忘れるの。それで何もなかったみたいに普通に幸せに暮らすこと。」

「えー?お兄ちゃんのこと、忘れちゃうの?やだよ、だってそうしたら、またお兄ちゃんと遊ぶときに、困るよ。」

俺を映す、大きな瞳。ほんのりと潤んで悲しそうに歪む。そこに映る俺の姿も、僅かに歪んでまるで人じゃないみたい。

「俺ね、ちょっと用事があって遠くに行かなきゃいけないんだよねえ。だから、もう、ユウヒちゃんと会うのは無理かなあ。それに、ほら、俺と一緒にいるとこの前みたいに怖い思いするし。だから、俺とは、もう・・・お別れ。」

意識が朦朧としていたから、彼女は俺のあの姿を覚えていない。だから、こうして俺のそばにいてくれるけれど、知ったら、きっと、彼女だって怯えてしまう。

「そんなの嫌だよ。ユウヒ、お兄ちゃんが帰ってくるまで待ってる。絶対、絶対、待っているから。ね?」

「そんなの、信じられないなあ。それに俺、帰ってくるかどうかわかんないし。」

「うう、でも、待ってるもん。ユウヒ、お兄ちゃんのこと、待ってるもん。」

逸らした視線、だってこのままあの大きな瞳を見ていたら、泣いてしまいそうだった。縋るように、俺の服を掴む小さな手を放したくなんてないんだ。

 俺は、いつの間にか、暇つぶしに潰されていた。

「・・・・わかった。じゃあ、ユウヒちゃんが、どうしても、どーしても、辛くて悲しくて苦しくてどうしようもなくなったら、俺が助けに行くから。その代わり、今度俺が来たら、もうユウヒちゃんのこと帰さないからね。だから、それまでユウヒちゃんは俺のことを忘れて元気に楽しく、平和に暮らしててよ。」

わざと冷たく言って話を終わりにする。罠を張ったはずなのに、罠にかかったのは俺の方。見事に小悪魔ガールにやられたよ。心の中で悪態を吐いて、それなのにどうしてこんなに感情が跳ねているのか。

 約束。俺が、絶対に助けるから。今度は、絶対に放さないからね。あるはずのない未来を夢見て俺は、それでしあわせだった。

 彼女を降ろしたあと、俺は逃げるように地球を離れた。彼女は、船を下りた途端に全てを忘れる。俺を振り返らずに、家に向かって走っていった。その背中が、記憶の底にこびりついて時々ジクジクと痛んだ。それでも、俺は今まで通りに生きていけた。地球を遠く離れてしまうとまるであの期間が、夢だったかのようにいつもの闇の覇王になっていた。

破壊に破壊を重ね、星をいくつも滅ぼして。なのに、時折、思い出したように耳を澄ます。どんなに宇宙の果てにいても、ユウヒちゃんの感情が不思議と感じられた。

 不安に揺れる日、楽しくて跳ねている日、悲しくて沈んでいる日、嬉しくてたまらない日。伝わってくる感情に、記憶の中の小さな彼女の姿が重なって俺を呼ぶ。

「・・・会いたい、なんて滑稽すぎるでしょ。」

キラキラとした光を見るたびに、そっと頬を撫でる風を感じるたびに、思い出す。世界の全てが君に繋がっているようだった。

 そんな日々を過ごしていた、ある日、俺はまた地球にやってきた。また、計器が故障して目測を誤って迷い込んだだけのこと。懐かしい匂いに、懐かしい風景。その殆んどが変わらないのに、俺の隣りには彼女だけがいなかった。

「・・・・ユウヒちゃん、」

風に乗せるように呟いて、目を閉じて気配を探る。ここの地理がわからないけど、前に彼女と会った場所とはかなり離れていることは知っている。だから、それなのに。

 すぐそばにユウヒちゃんの気配がした。本当に、すぐそばでユウヒちゃんが移動している。こっちに向かってやってくる。ユウヒちゃんが、やってくる。

「なに、を、期待してるんだよ。」

どうしようも、ない。どうしようもないことを考えて、どうしようもない感情を抱える。今すぐに走り出したいのに、今すぐに駆けつけてしまいたいのに、足が竦んで動かない。会いたくて会いたくて堪らなかったはずなのに、怖くて怖くて震えてしまう。

結界を張っておいたから、普通の人間は入ってこれない。それなのに、ユウヒちゃんなら入ってこられるんではないか、なんて都合の良いことを考えている。

「ユウヒちゃん、」

名前を呼んで目を閉じる。風に乗って彼女の匂いがするんじゃないか、なんてくだらないことを考えている。そんな思いを打ち消すように首を振って船の修理に戻ることにした。

 虚数空間に侵入者を感知。そんな警告音を聞いて俺は修理の手を中断して船を出る。入り口は小さくしてあるから、犬やら猫やらが入ってきたのかもしれない。そんなことを思いながら、そっと近寄る。大きさや形からすると人間。そこまで分析してすぐそばまで寄って、体に電撃が走る。そんな、はずは、だって、

「ユウヒちゃん、・・?」

声に出した名前は、掠れていてそれでも僅かに期待するように懐かしむように。あの頃よりも大きくなった背丈が、柔らかく曲線を描くようになった身体が、だけど彼女は変わらずに、ここにいる。

「みーつけた。」

嬉しすぎて驚きすぎて不意に零れた言葉に、彼女は一瞬だけ何を思案するように迷った。それから、ゆっくりと本当にゆっくりと顔を動かす。会える、もうすぐ会える。そう思った瞬間、またしても虚数空間に侵入者を感知。しっかりと破壊して入ってきているところを見ると恐らく宇宙刑事。しくじった、心の中で舌打ちしながらもう一度こちらを向こうとしているユウヒちゃんの横顔を見る。

巻き込むわけには、行かないよ。また怪我なんてさせたくないし。

伸ばしたくなる手を叱咤して俺は、その場を離れる。同時に、虚数空間を消滅させることも忘れない。発生場所から、船を割り出されたら、困るからね。

 宇宙刑事からなんとか逃げて船も直って、少し遠くの星に行く。それなのに、中々放れる決心が出来ずに俺はぐるぐると近場を回って彼女の感情に前よりもっと敏感に心を研ぎ澄ますようになっていた。

 そんな日が、唐突に終わった。ある日、彼女の感情が大きく振れた。それは悲しみと絶望が綯い交ぜになったようなそんな感情だった。俺は、堪らず船に飛び乗り地球に向かった。彼女の悲しみが痛いほどに伝わってきて俺の胸が締め付けられているようだった。

たどり着いた彼女の家、初めて見る彼女の部屋、崩れるように座り込む小さな姿はあの頃と全然違うのに、どこか懐かしくて息が詰まる。

「誰か、助けてよ・・・」

悲痛なほどに切実に、彼女は幼い頃と同じように顔を歪ませて手を伸ばす。それが一瞬だけ、あの時の研究施設での風景と重なって咄嗟に体が動いた。

「いいよ、俺が助けてあげる。ユウヒちゃん。」

虚ろに悲しみを見つめる彼女の手を、優しく取って俺はその体を抱きしめる。懐かしい彼女の匂いがして、耳慣れた呼吸音が胸に響く。

君が笑うためなら、俺はどんなに汚いことでもできるんだ。

さあ、シンデレラ。お手を取って。魔法使いが、かぼちゃの馬車を用意しますから。

さあ、シンデレラ。今すぐに、素敵な魔法をかけてあげるよ。

十二時になっても、消えない魔法を、今すぐに。


 ユウヒちゃんと過ごす時間は、楽しくて幸せだった。俺は、また彼女の隣りにいられることが嬉しくてはしゃぐように過ごしていた。ただ、彼女に触れた途端に魔法が解けて俺の手が鋭い爪が、その柔らかい皮膚を破ってしまうような気がして前のように彼女に触れることだけが出来なかった。


 それなのに、俺はまた彼女を危険な目に合わせてしまった。また、彼女の身を危険に晒してしまった。守ることすら、出来なかった。それどころか、俺は彼女の目の前で怪物の姿になってしまった。

 俺はもう、彼女のそばにいることができない。そう、思った。

俺と関係があることを全部、なかったことにして。俺の記憶を全部、消して。地球から離れて、彼女から離れてしまうつもりだった。

 なのに、俺はこうして地球に残って彼女のそばを放れられなくて何をするでもなくただ、ずっと彼女が元気になるのを見ていた。

 誰も俺のことを知らない星で俺は一人で君を見ていた。俺のことをもう覚えていない君を、ただただ見つめていた。この間まで、俺の場所だった彼女の隣りには誰もいない。この間まで俺の場所だったそこに、俺はいない。ただ、それだけのことが泣きたいくらいに苦しかった。あの笑顔を隣りで見ていたのは、俺だった。あの声をすぐそばで聞いていたのは俺だった。なのに、今は、誰もいない。

 彼女は、笑う。俺がいないのに、笑う。俺を忘れて笑う。彼女は、笑う。

「・・・薄情、者、」

言葉に出してから、その言葉の持つ残酷さに自分で泣きそうになる。当たり前だ。彼女の世界に俺はいない。俺と一緒に過ごした日々は忘れられているんだ。最初から、誰もいなかったことを嘆くものなどいるはずがない。

 それでも、

「・・・ユウヒちゃん、」

それでも、俺は、泣いてほしかったのかもしれない。呼んで欲しかったのかもしれない。俺の姿が、どんなでもあの瞳に映してほしかったのかもしれない。

愛して、ほしかったのかもしれない。君に、

 屋根の上、誰もが寝静まった世界で俺は初めて涙を流した。止め処なく溢れる涙が、頬を伝って顎から落ちる。君に触れて俺は初めて悲しみという感情を知った。

誰もいない屋根の上、瞬く星のような家の灯りが、涙で滲む。流れていく涙は温くて気持ちが悪い。それでも、俺はそれを止める術を知らない。

「会いたい、こんな近くにいるのに、会いたいよ。」

溜め息のように吐き出して空を見上げる。ユウヒちゃんと見下ろした光の中に俺はいる。少し力を入れれば壊れてしまうくらいに脆い世界を、俺はどうしても壊すことができずにただ、こうして、いつまでも、こうして。

 涙を拭ってベランダに降り立つ。暗くなった部屋の中は、相変わらずで彼女の匂いがする。いつものように部屋のベッドで寝ているらしい彼女の寝息だけがやけに大きく聞こえてきて心臓が、うるさいくらいに緊張で跳ねる。

 数日、見なかっただけなのに、覗き込んだ顔の懐かしさに引っ込んでいた涙がまた込み上げる。俺は、こんなにも彼女を恋しいと思っていたんだ。

そっと、手を伸ばしてその幸せそうに閉じられた瞼に触れる。傷つけないように、痛みを与えないように。肌色の長い指で、彼女の前髪を梳くって耳にかける。曲線を描く爪がある指の甲で頬を撫でる。わずかに湿っているのは、どうしてだろうか。

 泣いていた?でも、なんで?

首を傾げてそのまま、桃色の唇に指を滑らせる。ふっくらとして柔らかいそれは、昔触れたときとは全く違う色香を漂わせて薄く開かれている。

 違和感を感じたのか、彼女が眉を寄せて短く唸る。それから、呼吸をするように名前を呼ぶ。小さくそれでいて酷く悲しそうに。

「ヨナカ、」「!!」

心臓が、感情が、驚いて跳ねる。息が、動きが、戸惑って止まる。忘れているはずだ。覚えているはずがない。それなのに、どうして彼女は俺の名前を呼んだんだ。

まさか、そんな、だけど、ひょっとして

「ユウヒちゃん、俺のこと、覚えてるの?」

耐えられずに、潜めるように声をだして問うてみる。眠りの中にいる彼女から答えなんてあるはずもなく。だけど、閉じられた目から滲んで流れてくる涙を見れば、悲しそうに呼ばれる自分の名前を聞けば、それが何を意味しているか。わからないはずがない。

「・・・約束したもんね。忘れてたよ、ユウヒちゃん。今度会ったら、もう離れないって。」

手を伸ばす。口元には、知らずに笑顔が浮かんでいる。手を伸ばす。心は、跳ねるようにはしゃいでいる。手を、伸ばす。もう何も、考えられない。手を、伸ばす。

「こんばんは、ユウヒちゃん。それから、愛しているよ。」

甘く溶けてしまいそうな声で囁きながら、俺は昔とは違うその身体を抱きしめるように、手を、伸ばした。

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