第二コンタクト 狂愛インフィニティ  夕日と夜中と朝日と七海の場合

 はあ、と心に詰まった何かを堪えきれずに吐き出すように、私の目の前に座っていたアサヒさんが、溜め息を吐いた。アサヒさんの少し細い眉が、きゅうっと寄せられているのをじっと見つめていたのを勘良く見つけたマヒルさんが、アサヒさんを咎めるように遠慮がちな咳払いをする。

「・・・ん?」

「坊ちゃん、目の前に婚約者がいらっしゃるのにいったい心をどこに飛ばしていらっしゃるのですか。」

「いいんです、マヒルさん。アサヒさんだって、忙しいんですから、」

マヒルさんの言葉にアサヒさんは、今気づいたように私を視界に映した。そうして、そのことに気づいて申し訳なさそうに小さく謝罪をした。

 アサヒさんが誰のことを考えているのか、わからないほど私も子どもではない。私だって好きな人くらいはいる、けれどそれは目の前で婚約に必要な書類に目を通しているアサヒさんではない。

「すいません、ナナミさん。坊ちゃんは女心が全くわかっていないようで。よければ、紅茶でもいれましょうか?」

「あ、お願いします、マヒルさん。」

マヒルさんは、しっかりと伸びた長身を恭しく曲げて綺麗な敬礼の姿勢を取った。無造作に跳ねているけれど、不清潔というわけではない黒髪が私の視界に入る。その髪に触れて指を入れたいと思う自分を見つけて恥じらいとともに掻き消す。

 私は、在ろう事かこの人に好意を抱いている。結婚する人の執事に、恋心を抱いている。紅茶を淹れるために台所に歩いていく黒いスーツの後ろ姿を見つめながら、私はそっと溜め息を吐いた。何の迷いもなくしっかりとした足取りであるく長い足が、右に左に前に出るのをじっと見つめて私はため息を吐いた。

 告げるつもりもない、この恋。家の決めた結婚に逆らう勇気もなければ、逆らう意志もない。アサヒさんを嫌いなわけではない、ただ、あの人の方が私を惹きつけるというだけ。

「ナナミ、この書類に後でサインしておいてくれ。」

「・・・はい、アサヒさん。」

ほんの少し、マヒルさんの低音と比べると少しだけ高い声が私の名前を呼んだ。私も、それに習うように名前を呼ぶ。私にとっては年上のいとこのような存在できっと向こうもそう思っているだろう、この距離感。近くて遠い、決して交わらないであろう、この想い。

 きっと一生、告げることのないお互いの思いを、私たちはどうしたらいいのだろうか。悲しいわけではないけれど、どこか虚しいこの関係性。好きと嫌いでは足りない、想い。

「どうぞ、紅茶です。お二人とも少し休憩なさってはいかがですか?」

「そうだな、そうする。」「いただきます、」

机に乗せられた美しい茶色をした紅茶が、揺ら揺らと映す私の顔は泣きそうに困惑している。疲れているのは、いったい何が原因なのか。

「そうだ、マヒル。お前、明日は20日だからな。分かっているか?」

「もちろん。明日は畑の野菜の収穫を手伝ってもらうつもりですよ。坊ちゃんもご一緒しますか?」

「するわけないだろう。野菜の収穫か、なら、ちゃんとユウに手袋をさせろ。」

「わかっていますよ。もう、あんなに坊ちゃんに怒られるのは御免ですから。」

20日?野菜の収穫?なんのことだろう。そう思いながら紅茶を一口飲み込んで、聞こえてきた名前に私は危うく気管に紅茶を飲ませてしまいそうになった。

ユウ、この名前を聞くのは初めてではない。むしろ、最近私の頭を支配している名前。

『あの、えっと、アーちゃんの隣りに住んでます。ユウヒです。』

あの日、迷子になってしまった私をアサヒさんの家まで案内してくれた、親切な女性。私とは正反対のショートボブヘアに、丸顔の童顔、それに小さな身長とアルト寄りの声。へにゃりとだらしなく笑った顔がまるで何かのマスコットのようでどこか憎めない。私は、この人とは仲良くなれると、まるで閃きのようにそう思ったのに。

『ナナミさん、女子大生なんですか?うわ、年下!見えないですね、』

『そんなことないです、ユウヒさんこそ、その・・若く見えます!』

『・・・それは、童顔ってことですか?それとも、幼児体型ってことですか。』

不思議な形をした瞳が、困ったように照れたように細められて思っていたよりも可愛い顔をして笑うその表情に好感を持った。この人となら、友だちになれると思った。

『とにかく、私は隣に住んでいますんで。何か困ったこととか、マヒルさんが反乱を起したとか、そう言ったことがあれば、すぐに呼んでください。』

『は、反乱?マヒルさんが、ですか?』

言われた信じられない単語に、私は思わず楽しそうに左右に揺れるユウヒさんの薄い黒色の髪を見つめた。ツヤツヤとした健康的に艶やかな髪が、それなのに風に乗って柔らかく揺れている。細くて茶色かかっている私の髪とは、やはり違う。

『ユウヒさん、あんまり冗談ばかり言っていると、お仕置きしますよ。』

『はいさー。今のは、冗談です。ごめんなさい、なんでもないです。』

後ろから聞こえてきたマヒルさんの低い声に、ユウヒさんは背筋を正して手を頭につける。警察の敬礼を真似ているようで、それを見たマヒルさんは私が今まで聞いたことのないような楽しげな声で笑った。

 まるで子どものように無邪気なその姿に、私は確かにこの人と仲良くなりたいと思った。思ったのに、思ったはずなのに。

『・・・・・、』

浮かんで消えた感情は、ずいぶんと前に心の奥に押し込めたはずの醜いもの。表に出してはいけない、恥ずべき想い。嫉妬、焼きもち、燃えるような羨望。

 まるで私の心の色みたい、そう思いながらマヒルさんが淹れてくれた紅茶を飲み干して私は、ぐっと想いも飲み下してしまおうとした。

「じゃあ、マヒル。ユウのこと、頼んだぞ。」

「はい。もちろんです、しっかりとおもてなしいたします。」

敬礼をしているマヒルさんの綺麗な傾斜を見つめて、私は気づけば紅茶を飲み込んだばかりの口を開いていた。

「あの、私もご一緒してもいいですか?ユウヒさんと、お話したいのです。」

思っていたよりも、大きな声が出てしまったためか、マヒルさんとアサヒさんが驚いたような顔をして私を見つめた。その視線に耐え切れずに視線を逸らす。私は、アサヒさんの強い瞳が初めて会ったときから、苦手だ。心の奥の何もかもを見透かされてしまいそうでとても怖くなる。

「いいですが、畑仕事ですよ?大丈夫ですか?」

「は、はい。前から、してみたいと思っていたのです。」

嘘ではない。だけど、本当でもない。私の心は矛盾だらけ。どうしたらいいのか、いつからこうなったのか、もうきっかけすら見つけられない。

「では、明日。時間になりましたら、お部屋にお迎えに参ります。」

「はい。」

それでも私は、小さい頃から得意だった笑顔を浮かべて頷いた。黙ったまま、私を見つめるアサヒさんの視線から逃げるように飲み終わって空になったカップを見つめていた。

 私は、あの人と友達になりたかった。私は、あの人の視界に入りたかった。私は、あの人の特別になりたかった。私は、あの人と、違うのだと知りたくなかった。

 私は、いつの間にかずるくて欲張りな人間になってしまった。


  朝、夢と現実の間でまどろんでいる私の耳に吹き込まれる甘い声。

「起きてユウヒちゃん。そうじゃないと、食べちゃうよ。」

「ほ、捕食!!」

カッと目を見開いて叫ぶと、すぐ隣りで楽しそうに笑う声がする。声の主なんて見なくてもわかる。わかりたくなくてもわかる。

「おはよう、ヨナカ。」

ごく至近距離にあるヨナカの至極嬉しそうな顔をぼんやりと焦点の合わない視界で捉えながら言えば、顔と同じくらいに嬉しそうな声が返ってきた。

「うん。おはよう、ユウヒちゃん。ご飯できてるから、食べちゃって。」

「毎日、毎日、ご苦労さんだね。」

「ユウヒちゃんのためなら、なんでもないよ。」

残暑厳しい季節、申し訳程度にお腹にかけていたタオルケットを退けて起き上がる。一瞬だけ隣りにいるヨナカに目を向けてそれから、溜め息とともにベッドを抜け出した。

 ヨナカ、そう呼んでいるこの変態宇宙人が家にやってきた。やってきた、というよりは住み着いているに近い状況ではあるがこのことに関してほとんどの人間が疑問を持っていないことに疑問を持っている。

だっておかしいでしょ。この変態、宇宙人なんだってよ。見た目は、ただの背の高い、普通の優男なのに。このイケメン、地球人じゃないんだってよ。

 時計を見れば、朝というには遅すぎる。昼というには早すぎる。絶妙な時間でこの時間は家には私しかいない。だとしたら、そのご飯というのは、

「それって、ヨナカが作ったの?」

「うん。そうだよ、ユウヒちゃんのことを思いながら作ったんだよん。」

おどけているのか、本気なのかわからないような表情でヨナカは言った。ベッドから抜け出してきたヨナカを見ているとごく自然にとんでもないことに気づいた。

「ヨナカ、その格好はなに?」

「裸エプロン。この前、お母さんが見ていたテレビで新婚は裸エプロンだって言ってたから。どう?」

どんなテレビ見てんだ。お母さん。そんなことを思いながら、ヨナカがくるりと一回転するのを何も考えずに見ていて、自然に気づいたことがもう一つ。

「・・・ヨナカ、体に何もないんだ。」

くるりと回ったときに見えたヨナカの身体は、つるつるとしていた。まるでマネキンのようで正直言って気持ち悪い。

「あぁ、そうなのよ。この姿は地球人を見様見真似でコピーした姿だから、基本的には幻覚?みたな感じだから。すっかり地球人と同じ能力があるわけじゃないんだよね。」

「へえ。じゃあ、ヨナカの本当の姿って・・どんな?」

「うーん。ナイショ!」

ヨナカは、まるでそうすると自分が様になると知っているように片目を閉じて笑った。この姿はコピーしたものだとすると、本当のヨナカはいったいどんな姿なんだろうか。ヨナカはいつもこんな感じで私の質問に対して9割方、真面目に答えない。だから、未だにいったいヨナカがどんな理由でどうやってここにいるのか、全くわからないままだ。

 私は、パジャマに寝癖のままで階段を降りた。その後ろから裸エプロンのヨナカが楽しそうについてくる。何も知らない人が見たらいったい何事かと思うようなこの日常が普通になってきているのが正直、怖い。そもそも、お母さんもお父さんも、それどころが近所の人もヨナカがまるで昔からいる私の恋人よろしくのように振舞っている。

「今日の朝ごはんは、ユウヒちゃんが好きなホットケーキだよ。」

「一人分にしては、幾分量が多くないですか?」

テーブルの上には、まるでアニメか漫画に出てきそうなほど重ねられたホットケーキが美味しそうな匂いを存分に漂わせながら鎮座していた。後ろから、楽しそうな笑い声を出しながらヨナカが背中を押す。これ全部食べろっていうのか、私を太らせて食べるつもりか。これ以上太ったら、豚になっちゃいますよ。脂身たっぷりの豚になっちゃうよ。

「いいじゃない、いいじゃない。俺も一緒に食べてあげるから。」

「はいはい。ありがと。ありがと。」

正面に座ったヨナカは、頬杖を突いて綺麗な表情を浮かべて私を見ていた。何が楽しいのか、口元には薄っすらと笑みさえ浮かんでいる。

 この宇宙人は、前にも地球にきたことがあるらしく時々懐かしむように、あぁ、ここにこんなのできたんだ。なんて残念そうに呟いたりする。私は、その度に何か思い出さなくてはいけないことがあったような気持ちになって記憶の糸を捜そうと試みてみるが、いつもそれに気づいたヨナカによって思考を中断させられてしまう。

「ユウヒちゃん、今日の予定は?」

「今日?予定?ニートにそんな大層なものなんてあるわけ・・・・・あれ、今日ってもしかして20日じゃない?」

ざくざくと大きめに切ったホットケーキを口に入れる努力をしながら、カレンダーを見る。大きく丸が書かれたその日は、20日。毎月10日と20日は、マヒルさんが私にバイトを伝授してくれるありがたい日なのである。つまりは、今日は、月に2回の、

「そうだね、今日は「やっべ、しまった、やらかしたあああ!!」ユウヒちゃん?」

ガタンと椅子を豪快に倒して立ち上がり、私は大慌てという言葉がピッタリなほどに大慌てで自分の部屋に戻った。もちろん、着替えをするためである。

「なに、どうしたの?なんでそんな慌ててるの?」

「今日は、マヒルさんにお仕事を頼まれる日なの!私の数少ない収入源なの!」

わーとか、しまったあ、とか、そんな言葉を繰り返しながら私はタンスから適当なシャツとズボンを引っ張りだす。部屋の扉にもたれるようにして私を見つめているヨナカは、裸エプロンではなくていつもの長袖長ズボンにポンチョと襟巻き付きの姿に戻っていた。優雅にクロスさせている足には、長めのブーツが装着されている。いつ見ても季節感がない。というか、裸エプロンとは正反対で顔と手意外の露出が全くと言っていいほどにない。

「隣りに行くの?やめといたら?」

「行くの!あ、ホットケーキ!そのまま、ラップして冷蔵庫に入れてて。帰ってきたら食べるから!!」

バタバタとヨナカの前を通り過ぎて階段を降りる。後ろから聞こえてきたヨナカの言葉に、叫ぶように返事をして私は家を飛び出した。

 いつものように、ガチャンと家に鍵をしっかりと掛けて綺麗な半円を描いて隣の家に向かう。今日は、確か野菜の収穫だったかな。それとも、倉庫の掃除だったかな。そんなことを走りながら考えて、大きな門の脇にある監視カメラに手を振る。

「マヒルさん!!おはようございます、すいません寝坊しました!!」

そこまで言うと、すんなりと門が開いて私はすぐさまお屋敷の中に走り入る。広い庭の端、職員用の通路を半分まで行くといつもと変わらないスーツを着た、彫刻のような顔をしたマヒルさんが立っていた。

「おはよう、と言うにはいささか日が昇りすぎているようにも見えますね。」

「そうですか?私はだいたいいつもこのくらいの時間に起きてくるのでわかりませんね。」

ほんの少し、寄せられた眉を確認しながら一気にそう捲くし立てると、マヒルさんは困ったように、呆れたように溜め息を吐いた。私は、走ってきたために乱れた息を整えるために同じように溜め息を吐き出した。

「ユウヒさんは、時々何を考えているのか分からないときがあります。まあ、そんなことはどうでもいいんですが、今日は野菜の収穫をお願いします。」

「はーい。マヒルさんの趣味の庭ですね。」

スーツを着ているマヒルさんが差し出してきた、日よけの帽子と腕に着ける袖を受け取りながら返事をすれば、マヒルさんはいつものように鋭い瞳を優しい色にして私を見下ろす。

「先月はトマトが結構、いい色でしたね。今日こそは、収穫できるといいんですが、」

「そうですね。収穫できたら、トマトソースのパスタでも作りましょうか。」

「いいですね、いいですね。」

真っ黒なスーツを着た、マヒルさんの背中を見つめながら私はマヒルさんの庭に向かって歩く。マヒルさんの背中は広い。それでも、私はそこに華奢で広いアサヒの背中を重ねる。頼りないとは言わないけど、それでもマヒルさんと比べれば頼りないアサヒの背中。

ユウ、と私を振り向いて呼ぶ、見馴れたアサヒの背中。茜色に染まった、汗で張り付いた、眠そうに曲がった、ピンと伸びた、たくさんの表情をするアサヒの背中。

「そういえば、その・・・ヨナカ、さん?はどうしていますか?」

突然ふられた、家に住み着く宇宙人の話に私は目を細めて頭上にあるマヒルさんを見た。

「どう、とは?」

マヒルさんも、目を細めて頭上にあるヨナカの宇宙船という名の空中島を見ている。他の人はヨナカの催眠術にわかりやすくかかっているのに、この人とアサヒはヨナカが突如として落下してきて頭大丈夫か、な爆弾発言をしたあの日のことをしっかりと覚えている。マヒルさんの話では、お嬢さまは覚えていないらしいからたぶん、マヒルさんとアサヒの二人だけがなんらかの理由で催眠術にかかっていない。どんな理由なのかは、ヨナカに聞いたけど、えー?うっかりしちゃったあ?とか誤魔化して、やっぱり教えてくれなかった。

「その、ユウヒさんの家に住んでいるんですよね。毎日一緒にいるんですか?」

「あぁ。えーっと、まあ、だいたいいますね。そんで私もニートなので家にいるから。家事とか食事とかすること被ってイライラします。しかも、ヨナカの方が掃除もご飯も上手なので、本当にイライラします。」

「そうですか。それは、何とも言えませんが、他に何か気になることなどありませんか?」

気になること?顎に手を当てて考えてみる。いや、寧ろ気になることだらけなんだけど、何一つ真面目に答えないヨナカと一緒にいるとなんだかどれもどうでもいいことに思えて最近では、何も気にならない気になってくる。うん、よくわかんない。

「あぁ、そうですね。強いて言えば、時々ヨナカはコスプレをしてどっかに行きます。」

「コスプレ、ですか?」

私の答えにマヒルさんは、少し困惑したように眉を寄せた。そりゃあ、そうでしょうね。宇宙人がコスプレしてどっかにでかけるなんて、全く持って理解不能だ。どうでもいいけど、コスプレっていうとなんかファンシーな感じするけど、コスチュームプレイっていうと一気に変態度が増すよね。本当にどうでもいいけど。

「はい。この前は、白衣を着て眼鏡をかけてました。その前は・・確か、自衛隊みたいな迷彩服をきて夕方から出かけて行きました。いったい何をしているんだか、聞いても教えてくれないんで、もう気にしないことにしたんです。」

「それは、ひょっとして何かこの国の職業について調査でもしてるんでしょうか。」

マヒルさんが、そう言いながらさっきまで私がしていたのと同じポーズ、つまりは顎に手を当てて考えこんでしまっている。如何せん、顔が彫刻みたいだからそうやってるとまるで本当に考える人がいるみたいで怖い。

「さあ、そんな大それたことじゃないようにも思えますけど、何せあの宇宙人は変態ですからねえ。」

「変態・・・ですか?」

マヒルさんの表情がわかりやすく緊張してしまった。あれ、今、言ってはいけないこととか言ったかな。そう思いながら、私は考え込んでしまったマヒルさんの背中をマジマジと見つめながら、生ける銅像になりつつある人間について考えていた。

 マヒルさんの向こうに見えてきた畑には、すくすくと伸びた野菜のほかに人影が、一つ

「あ、ユウヒさん!!」

「ナナミさんだ、何してるんですか?」

まるで赤毛のアンか、ハイジか。と思うようなワンピースに麦藁帽子のお嬢さまが、朗らかに手を振っている。私は、誰か後ろにいるのかと思って自分の背後を見やる。

誰もいない。

「野菜の収穫だと言うので手伝いに来たんです。ユウヒさんもお手伝いですか?」

「はい、まあ、そんなところです。」「私がお呼びしたんですよ。」

夏休みの間、お嬢さまはアサヒの家に泊まることになったそうだ。ひょっとしてこの野菜の収穫もその一環だろうか。と思うけれど、それにしたってマヒルさんの趣味の手伝いまでさせられるとか、婚約者も大変だな、と思う。駆けるように近づいてきたお嬢さまの全身を舐めるように見てから、私は会話を開始する。

「ユウヒさん、敬語はやめてください。ユウヒさんの方が年上なんですから。」

「いや、そうなんですけど。それじゃあ、ナナミさんが敬語をやめてください。」

「そんな。それはできませんよ。」

「じゃあ、私もです。」

困ったように眉を下げるお嬢さまは、私よりもずっと大人っぽいのにまだ高校生なんだそうだ。私、高校生のときに何してたっけ。あぁ、アサヒとプールに行ったかもな、なんて考えて別にそれはどうということでもないけど、私はなんとなく身の置き方がわからずにいそいそと畑に向き直る。

 マヒルさんの畑は、無農薬なので当たり前だが雑草も生え放題なら虫もわき放題なのである。前に何もつけないで素手で畑仕事を手伝ったときは、酷い草負け虫さされをして皮膚が大変な大惨事になってしまった。それ以来、こうして手袋をしているのだけど、お嬢さまは涼しげな半そでだ。

「・・・マヒルさん、ナナミさんは半そでで大丈夫でしょうか。」

「そうですね、大丈夫でしょう。ナナミお嬢さまはユウヒさんほど弱くないですから。」

「それって、私が雑魚キャラだと言っていますか。スライム並みだと言っていますね。」

抗議するように尋ねると、マヒルさんはいつもと同じテンションでうん、まあ。と当たり前のことのように飄々と答えた。何この人、ちょっと酷くない。

「それよりも、さきほどの話の続きですが、ヨナカさんに何か変なことをされたりしていませんか?ただの宇宙人というだけでも心配なのに、そのうえ変態だなんて。」

「はあ、そうですね。まさかそこまで本気にされると思っていなかったのでなんとも。」

私のすぐ横にしゃがんでいつになく真剣な声音で尋ねてくるマヒルさんをちょっと鬱陶しいなあ、なんて思いながら私は、質問の答えを探すべく記憶を探る。

「・・・あぁ、今朝なんか食べちゃいたいとか言ってたかな。裸エプロンだったし、」

「食べっ!?・・襲われたってことですか?」

驚いたようにマヒルさんは、収穫したトマトをボトボトと落とした。何うっかりさんしてんだよ。食べるの私たちだから別に傷が着いてもいいけどさ。

「いや、そんな獣みたいなことしませんよ。ヨナカ、ああ見えて穏やかな性格ですし・・」

「あー、そうではなくて・・その、俗物的かつ直接的な言い方をすると、ヤリたいってことですよね?つまり、」

言い辛そうに言われた言葉に、今度は私が拾ったトマトをボトボトと土に落としてしまった。急に何を言い出すの。つか、悪化してるでしょ。それ。

「殺りたい!?え?いや、いくらヨナカでも、そんな・・・そんなこと!」

いくらなんでも、殺人までは犯さないでしょ。ここ何日か一緒にいるけど、ヨナカって結構いい奴だし、優しいし。食べちゃいたいっていうのだって、きっと冗談で、

「ユウヒさん、本当に、本当に、何かあったら絶対に言ってくださいね。いいですね、すぐに言いに来て下さい。必ずですよ、いいですね。」

「わ、わかりました。危機を感じたらすぐに逃げます。」

「はあ、全く。ユウヒさんは、次から次へと・・あなたといると、心臓がいくつあっても足りませんよ。」

何度も地面に落ちてしまったトマトを今度こそ、マヒルさんに渡して収穫かごに入れる。私は、いつマヒルさんにそんな多大な迷惑をかけただろうか。と、反論しようとして、

「ユウヒさんは、マヒルさんとも仲がいいんですね。」

高いところから聞こえてきた声に、私は顔だけを上に向けてお嬢さまを見つめる。きゅっと寄せられた眉が、何かを訴えるように私を見つめているけれど私はそこから何の感情を読み取ればいいのかわからずに、その向こうにある青空を見つめていた。

 ほぼ半日かかって収穫した野菜を使ってマヒルさんが、いつものようにお昼を作ってくれると言う。メニューは、トマトソースのスパゲッティだ。マヒルさんの作る料理は、とても美味しい。料理なんてちっとも出来ないアサヒと比べるとマヒルさんはプロかと思うようなバランスのいい料理を作ってくれる。きっと、食生活もきちんとしているからこんな彫刻みたいな身体を手に入れられるのだろうといつも思っている。だとしたら、ひょっとすると、私のこの脂肪がいっぱいの身体も、マヒルさんの料理マジックにかかれば。

「マヒルさんと結婚したら、毎日料理作ってくれるんですよね。だとしたら、私の体もスレンダーになりますか?」

「そうですね・・・・まあ、人並み程度にはしてみせましょう。」

器用にフライパンを操るマヒルさんの横で野菜を洗いながら尋ねた言葉に、マヒルさんも至極真面目な顔で答える。この人のこういうところが好きだな、なんて毎度思う。

「ぜひとも、よろしくお願いします。ダーリン。」

「全力でアシストしますよ、ハニー」

どこにも本気なんて入っていない言葉を吐き出して洗い終わった野菜をちぎってサラダにする。机に並べようと振り向いた先には、私を睨むように見つめるお嬢さま。

「ナナミさん、どうしたんですか?」

「ユウヒさんは、ずるいです。」

サラダボールを手に持ったまま、私は言われた言葉を理解できずにポカーンと口を開けていた。すぐ横でマヒルさんがジュージューと音をたててスパゲッティを作っている。トマトソースとお肉の匂いが絶妙に混ざって鼻腔と食欲をくすぐっている。

「あ、サラダなら、これをみんなで分けて食べるんですよ。」

何がずるいのかわからずに、とりあえずそう言うけど不機嫌に寄せられた眉は戻ることはなく薄っすらと大きな瞳には涙が膜を張っている。

「ユウヒさんは、なんでそんなに・・・」

「ナナミさん?」

どうしたらいいんだ。どうしたというんだ。困ってしまって隣りにいるマヒルさんに助けを求めようと名前を呼ぶと、まるでそれがスイッチだったかのようにナナミさんの涙が弾けた。

「なんで、何もしてないのに。なんでも持ってるんですか!?」

叫ばれた言葉に、ブチンと体のどこかにあったらしい何かの糸が切れた音がした。目の前でしくしくと涙を流して泣くお嬢さまを見つめながら、心の中で残酷な声が笑う。見る見る心が冷たい温度で満たされていくのを感じている。

「ナナミお嬢さま、」

困惑したように、それでも、得心いっているようにマヒルさんが優しくお嬢さまに駆け寄っていく。私はといえば、ただぼうっとその場に立ったままじわじわと口から零れそうな言葉を感じ取っていた。

 このままでは酷いことを言ってしまう。私の口から、目の前で泣いているお嬢さまを傷つける言葉を発してしまう。それだけは言ってはいけない言葉を出してしまう。

「・・・あ、」「ナナミお嬢さま、落ち着いてください。」

涙で真っ赤に濡らしたお嬢さまの瞳が、私に向かって批難を湛えて突き刺さる。何を批難されているのか、いったい何を持っているというのか。今すぐ肩を揺らして問いただしたい衝動に駆られる。私がいったい何をしたのか。あなたに何をしたというのか。

「ずるい、ユウヒさんばかりが、どうしてっ、」

ひくり、喉がぴったりと張り付いて呼吸がうまくできない。私はとても綺麗とはいえない盛り付けをされたサラダを持ったまま、ただ立っている。目の前に崩れ落ちているお嬢さまをじっと見つめたまま、立っている。

「・・・な、に、が、」

息ができない、呼吸が苦しい。今すぐここから逃げ出したい。世界から、音が消えていく。身体を巡る血液が冷たくなってそれから、突然にお屋敷の天井が凄まじい轟音を鳴らす。パラパラと綺麗なお屋敷に似つかわしくないような砂埃がまるで雨のように落ちてくる。

「な、なんだ?」

異変を察知したマヒルさんが、天井を見上げるのと天井が丸く落下してくるのはほぼ同時だった。

 間一髪、マヒルさんはお嬢さまを守るように体を回転させてその天井を避けたようだった。もうもうと上がる砂埃の中で今朝見た懐かしい姿がシルエットを浮かび上がらせる。

「本当、あん時消しとけば良かったよ。ユウヒちゃんが来ちゃったからはしゃいじゃって、うっかりしたなあ。いくらでも、消す方法はあったのにね。」

いつもは、砂糖か餡子か、と思うくらいに甘い声が今日はどこか鋭く冷たい。まるで捨て置いてあるゴミでも見るように、ヨナカはすぐ足元にいるお嬢さまとマヒルさんを見下して鬱陶しそうに溜め息を吐いた。

「お前、この間の、・・・何をしに来たんですか。」

砂で灰色になったスーツを着たマヒルさんが、上半身だけを起してヨナカを睨む。騒ぎを聞きつけたお屋敷の人が集まってくる。私は、そんな喧騒をただ立って見つめていた。

「消しにきたって言ったら、どうすんの?」

可笑しそうに言っているのに、冗談とは思えない口調でヨナカはマヒルさんに答える。マヒルさんの腕の中でお嬢さまは恐怖と驚愕で目を大きくしている。

「何を、言っているのです、」「どうした、マヒル!?」

すうっ、ヨナカの瞳がより一層細められる。まるで笑っているのではと錯覚するほど細くなった目に、歪む口元。ヨナカはまるで舞台の上の役者のようにくるりと優雅にターンをした。慌てて走ってきたアサヒと向き合う。

「アサヒ坊ちゃん、来てはいけません!」

「久しぶりじゃない、アサヒくん、」

ヨナカの口から、冷たい冷気でも出ているかのように私も、走ってきたアサヒも動けなくなる。表情だけ見れば笑っているのに、恐怖を感じるその笑顔。そうしてまるで価値のない石っころを見るような瞳。

「お前、ヨナカ、だったな。何しにきた?」

アサヒの目が、恐怖を訴えながらも堂々と気後れすることなくヨナカに尋ねる。私は、ヨナカの足元で怯えたようにマヒルさんに縋りついているお嬢さまが、見えた。アサヒが目の前であんなに必死に戦おうとしているのに、マヒルさんに縋りついている涙を流すお嬢さまを見た。

 じわり、消えたはずの冷たい感情が隙間から湧き出してくるのがわかる。あぁ、そうか。ヨナカは今、こんな感情を抱いているんだ。このまま声を出したらきっと、私もあんな冷たい声を出せるんだろう。今なら、ヨナカの気持ちが理解できる。

「なんだろうねえ。・・・婚約者がいるアサヒくん。」

「なんだ、それがなんだ。」

「いいや、なんでもない。ただ、婚約者がいるのに他人の心配をするのは、どうなのかなあ。って思ってさ。」

ヨナカの言葉に、アサヒはわかりやすく驚いて瞳をさ迷わせた。それが一瞬、私を見つめたような気がして今度は私が驚いた。小さい頃から変わらない強い光を宿した瞳。その光の瞬きに私は中てられたようにほんの少し怯んだ。

 それから自分でも驚くほど冷静に、辺りの状況が頭を巡る。空から落ちてきたヨナカはいったいどうやってこのお屋敷の天井を破壊したんだろうか。そうして一体何をするつもりなんだろうか。そもそも、なんできたんだろうか。

「何が言いたいんだ?」「ん?べーつに。なんだろうね?」

「ヨナカ、ちょっと、ストップ。」

ふざけている口調なのに、今にも飛びかからんとしているような敵意丸出しのヨナカに、私は慌てて駆け寄る。さっきと同じくらいに冷たいのに今はちっとも怖くなかった。ヨナカの背中はいつもと同じ広くて大きな背中だし、今朝の裸エプロンと比べれば今の服装の方がよっぽど平和的だ。まあ、季節感無視なところは全く平和ではないけれど。

「・・・なあに、ユウヒちゃん。」

甘えるような口調なのに、いつもは砂糖と同じくらいに甘い声なのに、それなのに今、私の名前を呼んでいる温度は、酷く冷たい。それでも、向けられた瞳に敵意は篭っていないから私は何にも怖くなかった。

「何を怒ってるのかわかんないけど、落ち着いて。」

腕を掴もうとして伸ばした手を、ヨナカはとても怯えたように避けた。困ったように怯えるように瞳を揺らして私を見つめているヨナカは、さっきまでと別人のようだ。

「ユウヒちゃん、」

「マヒルさん、アーちゃん、お屋敷壊しちゃった。ごめんなさい。それと、ナナミさんも怖がらせてごめんね。なんで怒らせちゃったのかわかんないけど、今日のところは帰るね。」

それだけほとんど捲くし立てるように言ってヨナカに向き直る。ヨナカは、明らかに私を見るのを怖がっているように顔を背けてしまっている。

「ユウ、本当に大丈夫か?」

瓦礫と砂埃の向こう側から、アサヒが心配そうに尋ねてくる。せっかくのイケメンが黒い煤でなんとも笑える顔になっているから、思わず口元が緩んでしまう。返事をしようと、口を開いてしかし、視界が突然反転して身体が宙に浮いた。すぐ下に地面が見える。ヨナカの長い足が見える。頭に血が昇っていく。つまり、私は今、ヨナカに担がれている?

「やだ、絶対に逃がさない。」

搾り出すように言われた言葉を耳が聞いて頭が理解する頃には、私の身体はヨナカに肩に

担がれたまま空に舞い上がっていた。グンっと重力が一気に身体にかかって耳元をびょう

びょうと風が巻いて行く音が駆け抜ける。いったい何が起こっているのか、理解をするの

はもう無理だろうと勝手に頭が放棄した。だって、普通の人間だったらまず、この飛距離

ありえないし、この跳躍力もありえないでしょ。さっきから、時々何かをヨナカの足が蹴

っているのをほぼ逆さ吊り状態の酸素不足気味の頭も確認している。

それでも、僅かに顔を動かして下を見れば、そこには丸く穴が空いたアサヒの家があっ

て確実に私は空に向かって飛んでいるのだと、思い知らされていると唐突に上昇感が終わって今度は緩やかに下降する。

「下降!?それって、落ちてるってこと?」

一瞬、それやばくね。と思った恐怖からぎゅうっと強く目を閉じた。しかし落下しているならば訪れるはずの衝撃はなくその代わり、ストンと異様なほど優しい手つきで私はヨナカの肩から降ろされた。途端に、ヨナカがまるで捨てられた子犬のように激しくすがり付いてきた。私は、どうしていいかわからずにそれでも初めからわかっていたように、そっとヨナカの帽子から零れたふわふわの髪を撫でた。

しかし足には地面があるのだから、どう考えればいいのだろうね。ここ、空の上だよね。

それなのに、地面に足が着いているんだけど。つーことは、ここって空の上でありながら地面があるってことでしょ。つまりは、ひょっとしてひょっとすると、家の上にふわふわ浮いているあの空中庭園的な島に来てしまったということでしょうかね。

「ヨナカ、あのさ・・・ここって、」

「ユウヒちゃんに俺の全部あげるから、」

ぎゅうっとさっきよりも強く抱きしめられて私は全身の骨が砕けるんじゃないかと思った。さっきとは違う意味で息も止まりそうだし、何よりも皮膚が痛い。

 それでも、何も言わなかったのは耳元で聞こえたヨナカの声がとても悲しそうで辛そうだったから。今、離してと言ったら、ヨナカがどこか遠くに行ってしまうような気がしたから。私は、ただ黙って抱きしめられたままヨナカの私を抱きしめるために少し曲がった背中を撫でていた。ごわごわのポンチョが、指に絡んで邪魔くさい。

 ヨナカがいったい何を怒っていたのか、何に怯えたのか、私はきっとわかっていた。それでも、見えないふりをして遠い目をしてヨナカの後ろに広がる空中庭園を眺めていた。

 緑が鮮やかな森に透明なブルーをした広い湖、そこにまるで積み木を積み上げて子どもが作ったような家とも塔とも言えない建築物。どこかの国の一角を切り取ったようなその庭園は初めて見るはずなのに、どこか懐かしい気持ちにさせた。いや、確かに心に懐かしさが込み上げてきている。

「ヨナカ、私・・・ここ、見たことある。」

呟いた言葉に、ヨナカはビクリと大きな背中を肩を震わせた。それから、恐々と顔を上げて私の瞳をじっと何かを探すように覗き込んできた。切れ長の涼しげな目元が、私の視線を捕らえて見つけた何かを、慎重に見極めようとしている。私は、ヨナカの大きな腕に抱きしめられたままなので動くことができない。仕方がないので普段よりも物凄く近い距離にあるヨナカの表情を観察していた。筋の通った鼻に、口角の上がった口元。薄い形の整った唇。どうしても、宇宙人に見えないその顔は人間だと仮定すると二枚目だ。

「・・・たぶん、気のせいでしょ。これもこの星のどこかの景色をコピーしてるから、それを見たんじゃない?」

ゆっくりと体が離れてヨナカが後ろの庭園を振り返りながら、言った。その口調も飄々とした表情も、いつもと同じでさっきまでの怯えも怒りも見当たらない。

「そうかな・・・そうかも、」

そういえば、世界遺産とか列車の車窓番組とか見るの結構好きだから、それで見たのかな。言いながらも納得していない自分が確かにいる。なのになぜかそれをヨナカにわかられてしまうのが怖くて私は納得したふりをしてヨナカと同じように庭園の向こうを見る。チロチロと僅かに流れている滝が、キラキラと太陽の光を反射している。その光が眩しさが、どこかアサヒの瞳色と似ている気がしてさっきのアサヒが思い浮かんだ。

 あんな大穴を空けてしまってアサヒは怒っているだろうか。マヒルさんは怪我をしていないだろうか。ナナミさんは、

「ここ、好き?ユウヒちゃん、」

「え?あ、うん・・綺麗なところだね。」

 一瞬でまた心が冷たくなったのがわかったわけじゃないだろう、ヨナカがいつものように甘えるように尋ねてきた。私はほぼ反射的に頷いてそれから簡潔に感想を述べる。ヨナカは何かを見破ったように悲しそうに笑うと、じゃあさ、見て回る?と窺うように言った。

「俺が案内してあげる。ユウヒちゃんにだけ、特別だよ。」

ちょいちょいと長い指を可愛く動かして手招きをすると、軽やかにスキップでもするように歩き出す。私は、一瞬だけ戸惑いを持て余すように地上を振り返ってからヨナカの後を追いかけた。隣に並ぼうとしてなのにどうしてか、それが出来なかった。私はヨナカの後ろを少しだけゆっくりと着いて歩いた。

 ヨナカの庭園は、広くはないけれど綺麗だった。本当に小さな箱庭のように鬱蒼とした森も噴水のある広場も船が浮いた湖もヨナカが生活しているらしい建物も、そして地下に続く洞窟までもあった。これは、いったいどうやって作ったのだろうか、と何度もヨナカに聞いたのに結局いつものようにはぐらかされてしまった。

「あの建物の中でヨナカが生活してるの?」

「うーん、俺はユウヒちゃんの部屋の隣りで生活してるじゃない。」

「いやいや、元々は?地球に来るまではあそこにいたんでしょ?」

「さあねえ、どうだったかな、忘れちゃったよ。」

噴水がさあさあと空に向かって水を飛ばしているのをふさふさの芝生に座りながら、積み木のお城を眺めてヨナカはごろりと寝転がった。

「あのお城の中は、案内してくれないの?」

「お城ってほどでもないし、危ないからだーめ。それにここ見ただけで思い出しちゃうんだから、中に入ったらどうなるかわかんないでしょ。」

「思い出すって、何を?」

長い足と手を存分に伸ばして横になるヨナカに尋ねるように、身体を半分だけ倒して顔を近づければ、目を閉じたままのヨナカがなんでもなーいとおどけたように笑った。目を閉じているヨナカはとても無防備でとても脆く儚く見えた。

 

 確かに、この間まで俺のそばにいた。そんな彼女が、突然やってきた見ず知らずの宇宙人に奪われた。その事実が思っていたよりも、深刻な形をしていたことに俺は今更ながら気づかされた。

「坊ちゃん、大丈夫ですか?」

「アサヒさん、どこかお怪我はありませんか?」

ぽっかりと天井に空いた穴は、まるで俺の心のようで心配そうに駆け寄ってくる執事やらメイドやらに曖昧に頷くだけで精一杯だった。

 わかっていた、いや、正確にはわかっていたふりをして見ないようにしていたんだ。彼女と一緒にいられないことも、そうして彼女を苦しめてしまっていることも。そして彼女があの宇宙人を受け入れていることも。今更気づいたわけじゃないのに、今更自覚してこんなに動揺するなんて。

「大丈夫ですか、ナナミお嬢さま。お怪我は?」

「はい。私は大丈夫ですが、マヒルさんが、」

目の前にやってきたマヒルとそれに寄り添うナナミ。マヒルの腕が鈍い色に濡れている。

「お前、怪我したのか?」

不自然なほど力の入っていない右腕、痛みに耐えるように顰められた顔を見ればそんなこと誰だってわかる。それでも、俺は今、目の前に来るまでマヒルの怪我に気づかなかった。

 俺は、今までもこうして何か色々なことを見逃して見過ごして生きてきたんだろう。

「・・・アサヒ坊ちゃん?どうしました、」

ナナミを手で制して俺は、マヒルの怪我していないほうの肩を担ぐ。そんなに身長は違わないのに俺はきっとこいつには敵わない。それは、性格も体格も、何もかもがこいつの方が一枚も二枚も上手だから。そして、俺はまだまだ子どもだから。

「マヒル、俺は小さい人間だ。」

「どうされたんですか?」

「なんでもない。ただ、隣りにいつまでも宇宙人がいたんじゃ、たまったもんじゃないと思っただけだ。」

絶対に取り返す。まるで自分の物みたいに、あんな軽がると抱えやがって。ユウは、お前のものじゃない。ずっと、俺のユウだったんだ。いつだって、俺の隣りにいるのはあいつだった。俺の世界の中心は、いつだってあいつだった。初めて会ったときから、あいつは特別な人だった。俺はあいつの笑顔のためなら、なんだってできた。あいつが、笑ってくれるならどんな努力だってできた。俺は、あいつのことが大好きだ。

 夏休みに帰ってきて、だけど俺はどんな顔をしてあいつと会ったらいいかわからなくて。あいつが俺のことをなんとも思っていないことを知ってしまうのが、怖かった。結婚することを祝福されてしまうことがいやだった。だから、会わないように避けていたら、いつの間にか、あいつの隣りは宇宙人に取られていた。まるで自分の場所のように当たり前に笑って並んで歩いている二人を見るたびに、どうしようもない後悔とどうしたらいいかわからない絶望感に襲われて胸を掻き毟りたくなった。

 俺の場所だ。そこは、ずっと俺の場所だった。

「アサヒ坊ちゃん、どうされるおつもりですか?」

担いでいるせいですぐ横から聞こえてくるマヒルの低い声に、一瞬思考が読まれたのかとゾクリとしたうえにそちらを見ると思っていたよりも近い場所にマヒルのはっきりとした顔立ちがあって俺は驚いて顔を引いた。

「お、前、顔近い・・・いいから、マヒルは傷を治せ。」

「ですが、」

まだ、何かを言おうとして力が入り傷に響いたのだろう。マヒルが小さくうめき声を上げながら顔を顰めた。

「・・・今の俺じゃ、あの宇宙人には敵わない。それくらいは、わかるつもりだ。」

ユウは、あの宇宙人を大事に想っている。今日、目の前で見て確信した。ユウは、あの宇宙人を受け入れている。俺がいた空席に、今はあの宇宙人がいる。

 どうして俺が彼女をユウと呼んでいるのか、きっとお前は知らないだろう。誰にも言ってないから、誰も知らない。俺が、彼女をユウと呼ぶ理由。それを教えるから、そのときはどうか、俺の隣りにお前がいてほしい。


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