あいらぶゆー

霜月 風雅

第一コンタクト 銃愛ラプソディ   夕日と朝日の場合



 私の隣りには、いつも同じ人がいる。小さい頃から、いつもいつも隣で私を見つめる優しい瞳がある。

「ユウ、ちゃんと前見ろ。電柱にぶつかるぞ。」

「・・・え?・・・・あぁ、うん。ありがと、あーちゃん。」

不意に掴まれた腕に私は慌てて前を向く。それから、目の前に迫っていた電柱から注意深く逃げるとなんでもないことのように腕を放してそっぽを向くアサヒを見た。

 小さい頃は私よりも小さかった背丈は、中学に入ってあっという間に形勢逆転された。声もいつの間にか低くなってあんなに大きかった黒目は、その面影を残したまま鋭くなっていた。それでも、変わらずにアサヒは私の隣にいる。

「ユウ、だから、前を見て歩け。」

「え?・・うおっ!?」

私よりもずっと高いところにある男の顔をじっと見つめていると、またしても強い力で腕を引かれる。意図せずにアサヒの肩口に鼻がぶつかった。ほんの少し汗の匂いがした。

 さっきまで私がいた場所を、畑仕事を終えたらしいタオルを巻いたおじさんが乗った自転車がとてもゆっくりとは言えない速さで通り過ぎていく。それを気配で感じながら、私はそろりとアサヒの顔を見上げた。腕と腕が触れているほどの近距離でアサヒの顔を見たのは久しぶりな気がした。

 髪が、短い。鼻が、高い。目が、大きい。思うところは色々あって、だけど一瞬だけ絡んだ視線の後はやっぱり何もないようにアサヒは、放れて行く。

「学校卒業したら、お前はどうするんだ?」

「どうするって、なにが?」

少し放れて、だけど手の届く範囲に留まりながらアサヒと私は歩いている。同じ学校の制服を着て、同じ方向に向かって、同じ速度で。もどかしい距離と関係を胸に秘めて。

 私たちは幼馴染だった。小さな頃から仲良しで、いや仲良しというと語弊がある。小さな頃から、何かと危なっかしい私をいつも助けてくれていたのがアサヒだった。学校で上手に友だちを作れない私をクラスの輪に入れてくれたのも、先生も呆れるほど勉強が出来ない私に根気強く教えてくれたのも、身体が弱くていつも家にいた私と遊んでくれたのも、私の家の隣りにある大きなお屋敷に住んでいるアサヒだった。

「ユウ、」アサヒはいつも私をそう呼んではとびきりの笑顔で手を差し伸べてくれた。

「アーちゃん。」私はいつもアサヒをそう呼んでは泣きべそをかいてその手を握った。

アサヒは、私の世界の全てだった。

それは、中高一貫校の5年生の夏。高校で言うところの2年生の夏休み前の帰り道だった。いつもと何も変わらない時間のはずの時間が違う色を帯びた最初のきっかけ。

「・・・・・なあ、ユウ。お前は、俺がいなくなっても平気か?」

「ん?アーちゃん、夏休みどっか行くの?」

真剣な表情をしていたアサヒの問いかけに私はちっとも真面目に答えなかった。アサヒはちょっと立ち止まると、大きくて鋭い黒い双眸で私のことをじっと見下ろしてそれからいつものように顔中をくしゃりと崩して笑った。自慢ではないが、アサヒのこの笑顔を知っているのは見ることができるのは、きっと私だけだ。私が大好きなアサヒの笑顔だ。

「そうだな。今年は、温泉街にでも行こうかと思ってる。ユウも行くか?国内ならパスポートはいらないぞ。」

自慢ではないが、私はパスポートを持っていない。

「国内かあ。温泉かあ。いいな、いいな。行きたいなあ。」

「連れてってやるよ。その代わり、夏休みまで一週間俺の奴隷な。」

「なにそれ!!アーちゃん、悪趣味!!」

抗議するように顔を斜め上に向けると、わかっていたようにアサヒの長い指が私のおでこをパチンと弾く。驚いて目を閉じた。じんわりとした痛みと一緒に頭上から、アサヒのおかしそうな軽やかな笑い声が聞こえてくる。

「嘘に決まってんだろ。連れてってやるよ、タダで。」

「本当に!?」

「あぁ。来年は受験生だからな、最後の旅行だ。」

強く閉じていた目を開けて窺うように見上げたアサヒの表情が、どこか眩しそうにそれでいて悲しそうに動くのを私は不思議な気持ちで見つめていた。何かを言おうと口を開いたはずなのに、結局は何も出てこないまま私たちは家に帰った。

 あの時、アサヒが私に言いたかったことはいったいなんだったのか。どんなに考えても私にはわからない。

 私たちの旅行は、特に誰にも反対されることもなくあっという間に行き先も移動手段もアサヒが準備してしまった。私の親は、アサヒが一緒ならほとんどのことを許してくれた。「そうねえ。アサヒ君が一緒なら大丈夫でしょう。」

「けど、いくら幼馴染とは言え高校生の男女が旅行ってのは、どうなんだ?」

お父さんはそんなことを言って表情を固くしたが、それは本当に少しの間だけでアサヒが作った日程表を見るとすぐに

「ほお、ずいぶんと高い宿に泊まるんだな。さすがは、アサヒ君か。そうだな、もうこんな経験できないだろうから、行ってきなさい。ほお、すごいなこんなところにも行くのか。行って来い、行って来い!」

そんなことを言いながら、お父さんも仕事がなければなあ。なんてビールを呑みながら笑って許可を出してくれた。

 私の両親は基本的に過保護であるが、私に甘い。私は長い間一人っ子だったから、そのせいもあるのだろう。7歳年下の弟と私の扱いは明らかに違う。私が身体が弱いのも理由と思うし、それに私が少しの間行方不明だったことがあったことも理由だろう。

「お金は?本当にアサヒ君が出してくれるの?なんだか、悪いわ。」

「けど、アーちゃんがそう言ってるし。あ、でも、お土産代は自分で出すんだよ。」

「そんなの当たり前だろ。本当なら移動費も自分持ちでもおかしくないな。」

私は、6歳の夏休みの記憶がない。そうして私の、6歳の夏休みの行方も不明だった。

「じゃあ、行っていいんだね。温泉旅行。」

「ええ。いってらっしゃい。」「気をつけるんだぞ。」

だから、私は夏休みが来ると心のどこかが騒ぐのを感じていた。どこかで誰かが待っている。私のことを、呼んでいる。6歳の夏休みのその場所で。


 夏休みだということもあり、電車は混んでいた。アサヒの自家用車にすれば良かった。と何度も口をついて出てくる私の不満にアサヒはその度に黙って頭を撫でた。段々と私はアサヒに頭を撫でて欲しくてわざと愚痴を言っていた。アサヒはこうして私を恐ろしいほどに優しく甘やかす。そんなとき、私はいつもこのままアサヒと一緒にいたらダメ人間になるのではないだろうか、と幸せに似た不安を感じる。

「もうちょっとお淑やかにしろ。せっかくそんな格好してるんだから。」

「これは、お母さんが勝手に買ってきたの。エコバックからこれが出てきたときは本当にびっくりしたんだってば。」

汗でじっとりと濡れてきた座席に背中を預けて私は自分の姿を俯いたまま見やる。普段だったら、絶対に着ないだろう短いパンツに薄手のキャミソール。下にレギンスと七部袖のシャツを着ているのが微かな抵抗で勝ち取った私の権利だ。その特権が、私と周りに立っている同じくらいの年の子とのファッションセンスの違いを如実に物語ってはいるが。

「大丈夫、似合ってるから。そんなに気にすんな。」

顔中をくしゃりと崩して笑うアサヒを見つめて、私は安心したように小さく息を吐き出した。アサヒがいると大抵のことはうまく行く。初めての入学式も、練習に全く出れなかった卒業式も、どれもアサヒがいたからどうにかなったようなものだった。

 私にとってアサヒが世界の存在理由だった。

「ユウ、」アサヒがそう呼んでくれる限りは、私はそこに存在していることを許されれている。アサヒが笑うのならば、私はまだここにいることを認められている。

 それが運命だったのか、それともアサヒが起した必然だったのか。私とアサヒはどの学年になっても同じクラスだった。どのクラスになっても人を寄せ付けては注目を浴びるアサヒは、ゴールデンウイークが終わっても誰とも話をすることができない私とは正反対の場所にいた。それでも、アサヒは私と一緒にいた。私は、アサヒと一緒にいた。中学に入り、高校生と言われる年齢になり、アサヒはだんだんと容姿が変わっていった。人気者としてクラスの中心にいた小学生と違い、注目の的、としてアサヒは学校に存在していた。俗にいうところ、アサヒはモテた。後輩にも、先輩にも、同級生にも。そうして持て囃されるようになるほど、アサヒの様子は変わっていった。それでも、アサヒは私と一緒にいた。私はアサヒと一緒にいた。

 同じ車両にいる同じくらいの女の子たちが、きゃあきゃあと明るい声をあげる。その視線がアサヒに向いていることは見なくてもわかる。クラスの女の子たちと同じようなことを言っているから、手紙を持ってくる後輩と同じ声をしているから。それに気づいているのか、それとも気にすら止めていないのか、アサヒは長い睫毛で縁取られた目を僅かに伏せて本を読んでいた。アサヒは、私と一緒にいる。私は、アサヒと一緒にいる。

 時々、無性に尋ねたくなる。アサヒはどうして私と一緒にいてくれるのか。どうして私はアサヒといることを許されているのか。けれど、思いに反してその問いかけは口から出ることはないまま、私はこうしてアサヒの隣に座っている。


 誰かが、私を呼んでいた。まるで砂糖菓子を頬張っているかと錯覚するほどの甘い声音で私の名前を呼んでいた。私は、その声に少しの恐怖とそれを覆い隠す期待を胸にそっと振り向いた。途端にずっと高い場所から大きな手が伸びてきて私の頭を不器用に撫でた。私は嬉しくて心地よくて目を細めて笑う。目の前にある長い足が、屈伸をするように曲がって声の主が、私の名前を呼びながら、

「ユウ、ユウ、起きろ。着いたぞ、ユウ、」「ふあい、んふあ・・・アーちゃん、だ。」

身体が不自然に左右に揺られ、私は目を覚ました。

「立てるか?降りるぞ、」

いつの間にか寝ていたらしい私をアサヒが呆れ顔で起していた。覚醒しきっていない頭を振りながら周りを見れば、書かれている駅名は終着駅で目的地。

「あれ、寝てた。わわ!!降りなきゃ!!」「慌てなくていいから、ほら、落ち着け。」

私を起すために腰を屈めて立っていたのだろう、アサヒが伸びをするように背を伸ばす。それが、何か懐かしい光景を連想させて一瞬だけ眉を潜めた。何か、

「どうした?酔ったか?」

アサヒの声に慌てて首を振って私もアサヒに並ぶように立ち上がる。不意に誰かに呼ばれた気がして窓から外を見たけど、もう誰もいなかった。

「・・・なんでもない。寝ぼけたみたい。」

「大丈夫か。手でも、繋いでやろうか?」

「結構です!!」

ふざけたように、手を差し出してきたアサヒをわざと追い越すように歩き出すと、可笑しそうに笑う声と一緒にあっという間にアサヒの長い足が私を追い抜いて行った。


 夏休みの観光地、というだけあって目的地は人がたくさんいた。その合間を縫うように私とアサヒは歩いた。アサヒは、背が高くどこにいても目立つから私がアサヒを見失うことはなかった。それでも、人の波に思いも寄らない方向に連れて行かれて私は見事にアサヒと逸れてしまった。

「これは、参った。どうしよう、参った。」

あれよ、あれよ、という間に流れて気がついたときにはアサヒの水色のシャツは見えなくなっていた。それどころか、いったいどんな経路を辿ったのか人気もない神社のような境内にポツンと立っている始末だ。

「アーちゃんどころか、現在地すら見失っているんだけど。これ、どうしようか。」

不思議なことに、人波にながされてきたはずなのに人がいない。シンと静まり返った世界で私は少し迷ってから木の陰に座ることにした。

 夏休みだけあって気温はカラリと暑い。時折吹く風が冷たく身体を撫でていく。木陰にいると汗がひいていくのがせめてもの救いだ。真っ青な空に浮かぶ入道雲を見つめて、ため息を一つ吐き出した。

「・・・・・なんだっけ。」

前も、どこかでこんな風景に遭遇した。暑い夏休み、涼しい木陰に座りながら、私は何も聞こえない静かな世界で誰もいない境内で空を見ていた。

 『ユウヒちゃん、』

まるで親猫に甘える子猫のような声音が、私の名前を呼ぶ。視界に人の形をした影と、背後に人の気配が、する。小さな身体を折り畳むように座っていたそのときの私は、そっと見上げるように振り向いた。

『みーつけた。』

「!?」

不意にゾワリと背中が冷たくなって私は後ろを振り向いた。途端にジージーと鳴くセミの声が、境内に人の姿が、今まさに世界に生まれたかのように現れた。

「・・・・なんだ、今の・・」

いつの記憶なのか、現実なのか、夢なのか。止まっていたはずの汗がじわりと肌に滲む。振り向いた先には、ただ木が列なって生えているだけで誰の姿もない。音が戻ってきた世界ではどんなに澄ませてみてもさっきの声は聞こえてこなかった。ドクドクと脈打つ感覚を振り払うように見上げた空は、薄く茜色に染まり始めていた。

「え・・ええ?夕方っ!?なんで?」

まるで狐にでも化かされたようだ、なんて心の中で思いながら立ち上がる。それから、鞄の中に入っている携帯を取り出すとなぜか電源が切れていた。いつ、切ったのだろうと思いながら携帯の電源を入れると、途端にけたたましい音で着信を知らせられた。

「うわ、アーちゃんだ。・・・も、もしもし!」

「やっと繋がった、お前今どこだ?」

「わ、わかんない。ごめん、なんか電源切れてて・・うん?うん、ええっと、あ、の、」

拙い言葉と説明で今、いる場所を伝えるとすぐに遠くからアサヒの水色のシャツがやってきた。

「あ、アーちゃん!!」

パタパタと手を振り、近づこうとすればまだ切れていない電話口から、そこを動くな。とちょっとだけ怒ったみたいな声がするから私はピタリと動きを止めた。

 小走りとも早歩きともつかないような速度で近づいてきたアサヒは、私のすぐ前まで来ると素早く全身を見て、それから心底安心したように盛大な溜め息をついた。溜め息と一緒にまるで空気が抜けた風船の人形のようにアサヒの頭が項垂れる。私は、どうしたらいいのかわからずにただおろおろと項垂れてしまったアサヒの旋毛を見つめていた。

「勘弁してくれ。」

「あ、あの、アーちゃん、ごめんね、」

怒っているのだろうか、吐き出された低い声に私は泣きたい気持ちになりながら必死に謝る。どれだけ探してくれたのだろう、アサヒのシャツは汗で濡れていて首筋にも汗の雫が滑っている。どうしたらいいかわからず、とりあえずハンカチでその汗を拭いてあげようと、アサヒに腕を伸ばす。

 私の小さな手首を、アサヒの大きな手が乱暴に掴んだ。そうして気がついたら、私はアサヒの腕に包まれるようにして抱きしめられていた。私と違って固い胸板に鼻をぶつけてその鼻がアサヒの汗の匂いを吸い込んだ。首に、肩に、アサヒの髪が触れてくすぐったい。

「・・・生きた心地が、しなかった。お前が、またどっか行ったかと、」

「ご、ごめん、アーちゃん。ごめんね、」

すぐ耳元でまるで息をそっと吐き出すように、低い声が言葉を吐き出す。体温が布越しに伝わってくるほど強く抱きしめられたまま、アサヒの鼓動を感じていた。私は、そのとき唐突にアサヒが男で、私が女であることを覚った。

「お前が、どこに行っても俺は見つけ出すから。絶対、こうして・・・捕まえてやる。」

「う、うん。ごめんね、アーちゃん。」

痛いほどに強く掴まれたままの左手が、ゆっくりと放れて私の手の平を握る。私は、そのときにアサヒが私と一緒にいてくれる理由がわかった。そうして、私がアサヒと一緒にいる理由とアサヒの理由が一緒ではないことも、わかってしまった。

 今の私は、アサヒの気持ちに応えることができない。その事実が何よりも悲しくてそれでも、一緒にいたいとアサヒの手を縋るように握りしめた。


 私たちは、その後何事もなく学校を卒業した。実家の跡継ぎとしてのアサヒと一般家庭の長女である私では当然ながら行くべき大学も違い、行ける学力も違い、私たちは初めて別々の学校に通うことになった。

「学校卒業したら、お前はどうするんだ?」

アサヒが言ったこの言葉の意味を私は理解するまで何年も要した。アサヒがいない日常は、ひどく味気なくとても生き辛かった。それでも、当たり前のようにアサヒがいなくても世界は平和だった。そうして、私はアサヒとほとんど顔を合わせないままに大学を三年で無事卒業して立派にニートになった。

 一度、疎遠になってしまうと何かきっかけがない限りとてもじゃないが会うことが出来ないのが幼馴染の運命なのだろう。私は、自分の部屋のカーテンを開けてその向こうにあるアサヒがいた家を見つめた。

 アサヒは大学進学に伴って一人暮らしを始めた。それを言われたのは引越しを終えた後で私にはどうすることもできなかった。いや、例えどの段階で言われたとしても私はどうしようもしないのだけど。

「・・・良い、天気。」

開け放した窓から見える空は今日も晴天でやはりアサヒがいなくても世界は回るのだと、私は今日も思い知らされる。


 アサヒの家には、今、アサヒの執事とか言うやたらとハンサムなまるで彫刻のような顔と身体をした男の人が時々出入りしている。高校卒業の数ヶ月前に、現れたその人は実家である隣りの家と、どこかで一人暮らしをしているアサヒとを結ぶ唯一の蜘蛛の糸だ。

「あ、マヒルさん。こんにちは。」

「・・ユウヒさん、今日は珍しくお出かけですか。」

「はい。コンビニまでお使いです。マヒルさんこそ、平日にこんなところにいるのは珍しいですね。どうかしたんですか?」

マヒルさんの硬そうな黒い髪が、汗で湿っている。近くに車がないということは、きっと歩いてきたのだろう。アサヒと同じくらい、ひょっとするとそれ以上に高いところにあるマヒルさんの頭を見上げて私は、その向こうにある青空を見上げた。

「夏休みに入ると、アサヒが帰ってくる予定なので。その準備のためですよ。」

マヒルさんは、普段はアサヒを坊ちゃんと呼んでいるが、私の前ではなぜか呼び捨てだ。少しワイルドで野生的な雰囲気も手伝って時々、謀反を起してアサヒの家を乗っ取るんじゃないかと思うときがある。

 この暑いのに真っ黒なスーツを着ているマヒルさんに反比例して私は、無地のTシャツにカラーステテコだ。このステテコ、中々の優れもので中用にも外用にもできる上にかなり涼しい。私は、この夏はステテコで乗り切れるのではないだろうか、と本気で思っている。

「アーちゃん、帰ってくるんですか?いつですか?」

「・・・・そう、ですね。」

アサヒが帰ってくるのは、大学に行ってからは初めてだ。久しぶりに会いたいと、思って尋ねた質問の返事はどうにもはっきりとしないもので。私は、少し重くなってきた牛乳入りのビニール袋を持ち直して眉を寄せる。

「大丈夫ですよ、マヒルさんの謀反の邪魔はしませんから。私とマヒルさんの仲じゃないですか。」

「・・・・・・色々と誤解を招く言い方はやめてください。」

ここだけの話だが、私は時々マヒルさんにお小遣い稼ぎのバイトをさせてもらっている。それは、本当にお小遣い程度の給料でしかも、お手伝い程度のお仕事ばかりだけど無職の私にしてみればかなりありがたいことである。マヒルさんが独断でそんなことをすることは出来ないだろうから、きっとこれもアサヒの差し金なんだろうけど。

 そんな感じもあって私とマヒルさんは、そこそこ仲が良いと言える。

「冗談ですよ。マヒルさんが、不機嫌そうな顔をすると本当に怖いですから。」

「ユウヒさんは、どこまでが冗談でどこからが本気かわからなくて怖いです。」

困ったように溜め息を吐いて小さく笑うマヒルさんが、私を見つめていた瞳を三日月の形にする。この人は、自分がどういう風にしたら良く見えるかを熟知しているセルフプロデュースが上手い、とこんな時いつも感心してしまう。それでも、私はアサヒのくしゃりとした笑顔の方が分かりやすくて見馴れていて好きだ、と思ってしまう。

「とにかくいつ帰ってくるんですか?アーちゃんは、」

そろそろ、降ろしたいくらいになってきた牛乳入りのビニール袋をまた握り直す。高いところにあるマヒルさんの声が、上から降ってきた。

 一瞬、何を言われたのかわからずに私は右手に持っていた牛乳入りのビニール袋を左手に持ち替えたまま、マヒルさんの左右の形の違う瞳を見つめていた。その瞳が、悲し気に揺れて伏せられた。

「・・・アサヒは、婚約者の方と一緒に帰省します。」

低く太い、それでいて妙に弱弱しい声がマヒルさんの口からマヒルさんの声でそう繰り返す。世界が止まったのかと思ったら、私が止まっていただけだった。

「こ、・・・・・」

泣くかと思ったし、ショックのあまり気でも失うかと思った。そうじゃなければ、動転しながら笑い泣きでもするかと。それがセオリー通りの反応だと、テレビなどで見た光景だと。にも、関わらず私の頭は驚くほど冷静にマヒルさんの言葉を理解し、それでいて妙に感情を挟むこともなく納得した。

「ユウヒさん?」

何も言わずに、マヒルさんを見つめていたのを不審に思ったのか、さっきと同じ低く太い声が私の名前を心配そうに呼ぶ。私は、ちっとも感情が動かないことに自分でも驚きながら、考え込むように少しの間俯いてみた。

「・・・それは、結婚の挨拶に帰ってくるということですか?だとしたら、私は会いに行かない方がいいってことですよね。」

「そう、なりますね。」

泣こうかと思ったし、ショックで倒れてみるかと思った。そうじゃなければ、動揺したまま泣き笑いをするかと。それが当たり前の行動だし、美しい光景だと。

「あー・・わかりました。じゃあ、・・・また、今度。」

「・・・・ええ、ではまた。」

そんなこと分かっているのに。私は、いつものように笑ってマヒルさんに小さく頭を下げて重たい牛乳入りのビニール袋を持ったまま家に向かった。アサヒの家はすぐ隣りだから、何歩も行かないうちに家に入る。そのまま、買ってきた牛乳を冷蔵庫に入れてお母さんにおつりを渡し、手を洗ってうがいをして部屋に戻った。

 帰り際にマヒルさんがとても心配そうな、それでいてどこか悼むような表情をしていたのが見えた。きっと、言ったことを後悔しているのかもしれない。私は、自分の部屋の扉に背中を預けたままずるずると体重ごと床に落ちた。

「そっか、アーちゃん結婚するんだ。お金持ちだもんね、婚約者くらい、いるよ。」

神社の境内で抱きしめられたアサヒの匂いを思い出した。握りしめられた手の温度を思い出した。「ユウ」と私を呼ぶ優しい低い声を、顔中を崩す笑顔を、思い出した。

「でも、そっか。帰ってくるけど、会えないんだ。」

悲しくはなかった。悔しくもなかった。涙も出ないし、溜め息もでない。当たり前に笑顔も浮かばない。ドラマで見るようなことは何一つ起こらずに私はただ正面にある窓を見つめたまま、ぼんやりと胸に浮かんだ感情を確かめていた。

 婚約者がいて、アサヒが結婚してしまうとか。アサヒはその子が好きなんだろうかとか。そんなことよりも、何よりも私はアサヒに会えないことが、寂しかった。アサヒが帰ってくるのに会う事ができないことが寂しかった。

「・・・・会いたいな、アーちゃんに。会いたいなあ、」

学校の帰り道一緒にホットココアを飲んだことを思い出した。修学旅行で二人で迷子になったことを思い出した。遠足で電車に酔ったことを思い出した。楽しい思い出には、いつもアサヒがいたことを、思い出した。

「淋しい、な。一人でいるのは、本当に淋しいんだよ。」

婚約者がいても、お金持ちでも、頭が良くても、あの頃はいつもアサヒが一緒にいてくれた。私の隣にはアサヒがいた。アサヒの隣りには私がいた。理由なんてなくても、朝になれば太陽が昇るように、目を向ければすぐそこにアサヒが、いた。

 いなくなって初めて気づく。アサヒがいない日常は、ひどく味気なくとても生き辛い。それでも、当たり前のようにアサヒがいなくても世界は平和に回っている。私の隣に誰もいなくても、世界は知らん顔をして動いている。

 「誰か、助けてよ・・・」

縋るように空に向かって手を伸ばした。何もない、何もなくなった世界は酷く静かで暗い。

「いいよ、俺が助けてあげる。ユウヒちゃん。」

誰もいない部屋で、空に向かって伸ばしたはずの手が何かに触れた。そうしてすぐ耳元で狂気に似た甘い声がして、私は無理矢理に眠りの中に引き摺り込まれた。

 私は、どこか懐かしい場所にいた。見覚えなんて全くないのに、とても懐かしい場所。

「きれー!!」

必死に背伸びをして丸い窓から見える景色は、まるでどこか空の上にいるように高い。下に広がる町並みがキラキラと光っている。

「そーんな気に入ってもらえるとは思わなかったな。」

後ろから声がして小さな私の体はひょいと持ち上げられ、さっきよりもしっかりと下の景色が見えるようになった。

「うわー!!すごい、すごい!!」

耳元で楽しそうに笑う声がした。少し高い笑い声が、広い部屋に響く。

「ユウヒちゃんは、本当に可愛いねえ。」

「あ、見てみて!すごいよ!!」

窓にへばりつくように私は下を見ている。私を持ち上げている手がより落ちないようにしっかりと腕を回す。さっきよりも近くで楽しそうな高い笑い声が、聞こえる。

「困ったなあ。俺、ユウヒちゃんのこと大好きになっちゃったよ。」

「ユウヒも、お兄ちゃんのことすきだよ。」

反射文句のように口から零れた言葉に、後ろにいた声の主はまた楽しそうに笑った。背中に触れている自分の物ではない体温が何かを期待するように鼓動を刻む。

「ねえ、ユウヒちゃん。一個約束しよっか。」

「約束?」

「そう。約束、」

不意に低くなった声に釣られるように、私はそっと後ろを振り向いた。楽しそうに笑うチシャ猫のような三日月の口元が、見えて私は知らずに息を飲んだ。


 「夢、だ。」

唐突に目を開けると、そこは見馴れた天井。つまりはいつもの布団のうえだった。

「昨日、いつ寝た。いつ風呂入った。いつ飯食った。」

なんの面白みもないこの状況とは正反対に私はプチパニックになっていた。夕べの記憶がごっそりと抜け落ちている。と、いうよりも昨日のお昼以降の記憶が曖昧でそのあとすぐに今、となっている。

「なにこれ、記憶喪失?」

驚きながら、ツッコミながら、布団の上で上半身を起す。何か、何かがあったはずなのに。思い出せない記憶の糸を辿るように意識を集中させる。途端にズキンと頭が痛んだ。こめかみの辺りを針で刺されたような鋭く細い痛み。

「・・・?」

不思議に思いながらも、痛いのは嫌なのでこれ以上無理に思い出すことはせず、私は起きてしまうことにした。それに、私は知っている。この痛みは、あの夏休みを思い出そうとしているときに似ている。あのときも、夏休み前日のことが曖昧で次の日から、ごっそりと記憶が抜けてしまっている。

「・・・あぁ、そっか。」

布団を畳んで不意に見つめたカレンダーは、七月。暑くなってきたと思ったらいつの間にか。

夏休みが、はじまっていた。


 じりじりと皮膚が焦げている音を聞きながら、朝の散歩も折り返す。この暑い日にいったい何をしているんだと思いながらも、朝とは言いがたい時間の散歩が日課になってしまっているのだから仕方ないと誰にするわけではない言い訳を頭の中で組み立てる。

「・・・っと、」「きゃっ!!」

意識が漫ろだったためか、曲がり角だったためか、目の前に突然人が現れて避けきれずにぶつかってしまった。最早ほとんど体力もなかった私はすっかりと尻餅を着いてしまった。

「あ、す、すいません。大丈夫ですか?」

「・・・いえ、こっちこそ。よそ見しててすいません。」

すぐ上で困ったような表情をした綺麗な女の人が、こっちを見下ろしていた。膝丈の白っぽいスカートから、パンツが見えそうで見えない。

「どこかお怪我はありませんか?」

「いえいえ、全然です。ちっともです。」

真っ白くて細い足を折って彼女が私の傍に膝をつく。こんな暑い日にアスファルトに膝を着いたら、暑くてたまらんだろうに。そんなことをぼんやりと考えながら、目の前に迫ってきた彼女の白く整った顔立ちを見つめていた。

 お嬢さまっぽい。一言で言えばそんな風貌だ。服装も体つきも髪型も。言ってしまえば、きっと身体も虚弱体質で運動はあまり得意ではないだろう。いや、待て。そういう私も実を言えば虚弱体質で運動はからきし駄目だ。

「あの、立てますか?」

「え?あ、あぁ。はい、すいません。大丈夫ですので。」

思考トリップに入ってしまっていた私を心配してお嬢さまが覗き込んできた。困ったように下がった眉にすら気品を感じる。こんな人と、アサヒはきっと。立ち上がりながら、一瞬そんなことを考えてはてと止まる。アサヒはきっと、なんだ?

「どうかしました?」

ズキン、頭がまた痛くなって考えを一時中断する。それから目の前で心配そうな表情をしているお嬢さまになんでもないです、と笑って答える。お嬢さまは、大きな瞳を少しだけ不安な色に染めたまま、そうですか、と頷いた。

「じゃあ、」「あの、」

これ以上、ここにいたくない気がして立ち去ろうとした足をお嬢さまの大きな声が止めた。まだ、何か言いたいのか。それとも心配なのか。そう訝しげながら振り向いた私にお嬢さまは遠慮がちに

「ここは、どこでしょうか。・・・すいません、私、迷子になってしまって。途方に暮れていたところなんです。厚かましいとは思うのですが、教えていただけませんか?」

何これ、この人時代劇の世界からきたの?途方に暮れるとか、厚かましいとか。現代世界で本当に使う人いるの?たぶん、この人だけだよ。

「あ、えっと、いいですよ。」

「本当ですか?ありがとうございます。」

断る理由もないからなんて安易な気持ちで頷いてから、後悔する。私だってこの辺に住んではいるけど、そんなに外に出る方じゃないから道に詳しいわけじゃない。自分の家の三軒隣りが山田さんだということくらいしか知らないよ。この前、橋本さんを尋ねてきたお婆ちゃんに橋本さんの家を教えることすら出来なかったじゃん。そんなことを心の中で叫びながら、私は目の前で嬉しそうな安心したような表情を浮かべるお嬢さまを見ていた。

「それで、えっと、そうだなあ。駅に行けばとりあえずは、」

問題は解決するな、思って駅に行こうと周りを見回す。そこでようやく私は何かの違和感に気づく。人の気配がまるでしない。確かに、この辺りは人が多い場所ではないが、住宅街で人が全くいないというのはおかしい。それどころが、鳥や猫、動物の気配すらしない。

 あのときの、旅行のときと一緒だ。まるで世界の時間が止まったかのように、ここだけ切り取られたかのように、全くなんの動く気配がない。

「どうかしました?」

「あ、いえ。なんでもないです、駅に行きましょう。」

後ろから聞こえてきたお嬢さまの声に、今日は一人ではないのだから。何も心配することはないだろう。と言い聞かせて歩き出す。幸いにも、ここは前のように知らない土地ではない。毎朝、散歩をしている目を閉じていてもわかるくらいの場所だ。

「すいません、お忙しいのにご迷惑をかけてしまって。」

「いえいえ、全然、忙しくありませんでしたから。」

歩きながら、お嬢さまはそう言って小さく俯いた。長い絹糸のような髪が、さらりとまるでシャンプーのCMのように肩を滑って落ちた。私も髪を長くしたら、こんな風になるだろうかと自分の短い髪を撫でるように掻いた。

「どこかに行く途中だったのではないのですか?」

「はは、ただの散歩です。目的地と出発点が同じ散歩です。」

冗談めいてそういえば、お嬢さまは口元を押さえて小さく笑った。きっと、鈴が転がるように笑うとは、こういうことを言うんだろうと納得した。

「お嬢さまは?どこに行く途中だったんですか?」

「お嬢さま?」

言ってからしまったと思った。お嬢さまはキョトンとした表情をして私を見て、それからまた小さく鈴の転がるような声で笑った。それから、照れたようにほんの少し上目遣いで私を見た。

 なにこれ、マジでかわいいんですが!!私が男だったら、すぐに告白しちゃいそうなお嬢さまの目線を真正面から捕らえながら、桃色の唇がそっと動くのを見ていた。

「ナナミです。私の名前は、ナナミです。」

「な、ナナミさん。」

「はい。私は、知り合いの家に行く途中でした。車で送ってもらっていたのですが、自分で歩きたいと無理を言って降ろしてもらったら、案の定迷子になってしまいました。」

「知り合いの、家?」

おじょ、ナナミさんは私よりも少し背が高い。と、いうよりも足が長い。本当に理想的なお嬢さま体系だなあ。なんて思いながら歩いていたせいだろう、私は曲がり角で見事にまた誰かにぶつかってしまった。

「うわっぶ、」「おっと、」

本日二度目の尻餅をつきそうになった私の腕を誰かの手が引いた。私は、転ぶために片手をまるで鬚ダンスのように体の脇に出したまま、片足を中途半端に折っているというなんとも滑稽な姿勢で立っていた。

「大丈夫?」

ゾワリ、なぜか背中が粟立つ。反射のように顔を上げて相手の顔を確認すれば、なんのことはないおまわりさんだった。

「あ、・・・はい、大丈夫です、すいません。」

「いいえ。ですが、もうすぐ大きな通りに出るので余所見はいけませんよ。」

そう言うと、おまわりさんは笑いながら通り過ぎて行ってしまった。私はというと、おまわりさんが言いながら指し示してくれた大きな通りを呆然と見つめていた。

 おかしい。私は確かに駅に向かって歩いていたはずなのに。今、目の前にあるのは私の家に続く大きな通りだ。

「大丈夫ですか?どこかぶつけられたのですか?」

「あ、いえ・・そうではないのですが・・・あの、」

心配そうに駆け寄ってきたナナミさんが、私の体を見つめたあと私の視線を追って大きな通りのほうに目を向ける。

「あ、私、ここならわかります。ここからなら、わかりますよ。」

「・・・・はあ、」

嬉しそうに笑うナナミさんに少しだけ見惚れながら、私はそれなら話は早いな、なんて思いながらも頭のもう半分ではどうして駅に向かっていたはずなのに反対方向の私の家に着いてしまったのだろうと考えていた。

「暑さに・・やられただろうか。」

「あそこです、あの大きな家が知り合いの家なんです。」

大きな通りを歩きながら、隣から聞こえてきた言葉に私はまたしても呆然とナナミさんが指差した家を見つめる。

「あそこって・・・」「ナナミ!!」

ゾクリ、聞こえてきた声に体がはねた。反射のように前を向けば、そこにいる見馴れた背の高い人影の名前を隣りのお嬢さまが呼ぶ。

「アサヒさん、どうされたんですか?あ、マヒルさんまで!」

ジージーとセミの声がまるで精神波を出しているかのように考えがまとまらない。ぐつぐつと脳が沸騰しているのが出てきているように汗がぽたぽたと背中を、頭を伝う。横にいたはずのナナミさんが、軽やかに駆けて少し距離を置いた正面で驚いたような顔をしているアサヒの前で止まる。ジージーと鳴るセミの声に反応するかのように、ガンガンと頭を何かが叩いている。これは、警告音。これ以上は、進むなという警告音だ。

「ご無事でよかったです、ナナミさん。坊ちゃんも、心配して・・」

追いついてきたらしいマヒルさんも、私を見て驚いたような困り果てたような複雑な顔をした。ナナミさんが、そんなことに気づかずに私を振り向いてとびきりの笑顔でアサヒに言う。

「迷子になっていた私をここまで連れてきてくださったんです。・・あら、やだ私ったら、お名前を聞いていませんでしたね。」

その言葉を聞いていたのか、それともただ口から零れてしまったのか。アサヒの唇が掠れた声で私の名前を形取ろうとする。

 ジージーと言う警告音が、私の頭を破裂させようとするのを辞めた。クリアな音が、弾けるように耳を駆け巡った。

『・・・アサヒは、婚約者の方と一緒に帰省します。』

 ぐつぐつと沸騰していた脳みそが、溶けて汗になって流れきったのか。不思議と汗は引いてた。

「あら。ひょっとしてアサヒさん・・お知り合いですか?」

「ユウヒさん、少し向こうで休憩してください。すごい汗ですよ。」

「・・・・ユウ、」

声を出そうとして開いた口は、言葉にならない単音を零しただけだった。何もいらない、何も欲しくない。何も、何も、

 じわり、じわり、まるで布に絵の具が染みるように記憶の中に、消えたはずの記憶が染みだしてくる。マヒルさんと話した午後、アサヒは誰と帰ってくると言っていたのか。思い出せない空白の一日が、鮮やかに更新されていく。

何が悲しいのか、寂しいのか、わからないからおかしくなりそうな夕方。私はいったい、何を掴もうとして手を伸ばしたのか。茜色に染まった空に浮かんだ、何かが私の名前を、

「・・・よ、」

『ユウヒちゃん、俺に任せてよ。俺が、ユウヒちゃんの嫌がることは全部、忘れさせてあげるから。ね?』

砂糖を溶かしたように甘い声が、脳裏に響いてあんなに真っ青に晴れていた空にくっきりと影を作る。

「な、なんだ、これ。」「ユウヒさん!」「きゃあ!」

三人が私の頭上を見上げて声をあげる。それに釣られるように私も、上を見上げた。私の頭上に影を作った正体が、そこには浮いていた。それは、ふわふわとまるで当たり前のことのように宙に浮いている、島だった。

 いや、正確には島ではなく山に近いのだけど、その姿があまりにも海に浮かぶ島に似ているため、島と言いたくなる。

 その島の端に、太陽を背にして誰かが立っていた。夏だと言うのに、長袖に長ズボン。ご丁寧にポンチョに襟巻きまでしている。すらりと伸びた背丈は、私の知っている中で一番背の高いマヒルさんを軽く越しているように見えた。

 私はこの人を知っている。確信に似た何かが、私の記憶の中を駆け巡る。闇の中に向かって助けを求めたあのとき、確かに私はこの人を見た。この人の手を掴もうとした。

「・・ちょっと、俺のユウヒちゃんに気安く触んないでくれる?」

まるで甘えるように、その人は私の名前を呼んでひらりと島の端から飛び降り、まるであらかじめ決めていたように私のすぐ隣りに降り立った。くるりと緩くカールした髪が、風を受けて柔らかく揺れた。

「誰だ、アンタ。」「ひょっとして、先ほどの警察の方?」

 アサヒとナナミさんの言葉を聞きながら、私は少しの不安とともにゆっくりと横を向いた。そこには、さっきぶつかったおまわりさんが、立っていた。そんなはずはない。飛び降りてきたときは確かに、確かに、確かめるようにもう一度、隣りに立つおまわりさんを見つめた。

「全く。ユウヒちゃんのために、迷宮作ったのにユウヒちゃん自身が入ってきちゃうんだもん。俺、ビックリしちゃったよ。」

おまわりさんが、そう言いながら溜め息を吐いた。そうして被っていた帽子を、空に向かって高らかと投げた。警察帽は、空中で何の変哲もない帽子に変わった。風に乗ることもなく真っ直ぐに落ちてきた帽子を長袖を着た手がキャッチした。その姿はもう、おまわりさんではなくなっていた。さっき、島の端に立っていた男の人だ。

「・・よ、夜中に・・いた、人だ。」

「・・・久しぶり、ユウヒちゃん。大人っぽくなったねえ。本当、すぐにでも攫っちゃいたいなあ。なーんてね。」

涼しげな切れ長の目が、私を優しく見下ろして艶っぽく笑う。私は、ぽかんと口を開けて隣りに立つ背の高い人を見上げていた。私は、この人を知っている。

「・・・アンタ、いったい・・・」

「言ってよ、ユウヒちゃん。今度は、俺に何をしてほしい?ユウヒちゃんが望むなら、この地球だって壊してあげるよ。」

ふわふわの髪を隠すように、大きな帽子を頭に押し付けながら、私に笑顔を向けてくるこの人を、私は知っている。思い出さないといけない、そうわかっているのに、記憶のどこを探しても捜しても、見つけられない。

「・・・と、とりあえず・・・」

「とりあえず?」

何かを言わないと、何を思い出せる。混乱したように真っ白になっていく私の頭と、目の前の三人の表情を見つめながら、私は一つの願望を見つけ出した。

「家に帰って寝たい、かな。」

「・・・いいよ、わかった。」

にこり、なんの憂いもないような笑顔で男の人は笑った。


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