第六章


 少女は、夢を見ました。それは、とても悲しい夢でした。少女は、泣いて泣いて泣いて、涙すら枯れてしまうほど泣きました。

「それは、あなたの未来であり、彼の過去でもあります。」

声がしました。それは、いつだったか聞いたことのある声でしたが誰の声だったのか少女は思い出すことができませんでした。

「ですが、あなたが愛というものを見つけることができれば、これはただの夢で終わるでしょう。」

声は、優しくそれなのに酷く悲しそうに少女の耳に問いかけます。

「ただ、それには覚悟が必要です。一度芽吹いてしまった種は、もう、種に戻ることは出来ません。何も知らない無垢な雛鳥は、痛みを伴い飛び立つのです。」

「・・・私、私は、」

力なく座り込んだ地面は、真っ赤な色をしていました。敷き詰められた薔薇の花びらの上、少女は真っ白なドレスを着てただ、その身を涙で濡らしていました。

「貴女は、それでも愛することを、選び取ることができますか?」

問いかけるように、問い詰めるように、声はそう言い放つと眩いばかりの光になって少女の瞳を晦ませました。

「・・・・・・・!!」

 息を飲むのと同時に、少女は夢から覚めました。

部屋のカーテンはいつの間にか開いていて、燦燦と差し込む光が少女の顔を照らしていました。

「眩しい、わ、」

「おはようございます、電波姫さま。おや?おや?具合でも、悪うござんすか?」

「いいえ、・・・いいえ、そうじゃないわ。大丈夫、おはよう、箪笥さん。」

頭にこびりつくような鮮明な夢を振り払うように頭を振って少女は起き上がりました。今日は、野獣が裏のお庭に連れて行ってくれると行っていた日です。楽しみにしすぎたんだわ、少女は心の中で一人そう呟くと伸びとともにベッドから降りました。

「良い天気で良かったでよござんす。さあ、着替えざんす。」

「今日は、動きやすいのが良いのだけれど。」

そんなことを言いながら、少女はそっと頬に残っていた涙の跡を擦りました。

 朝食も早々に済ませると、少女は野獣の部屋に向かいます。箪笥が着せてくれた服は、ひらりとフリルがあしらわれていて可愛いのですが、どうにも動くたびに足を掠めてくすぐったいのでした。

「もう、どうして外に行くと行ったのに、こんな動き辛いスカートにするのかしら。」

少女は、パタパタと廊下を走りながら箪笥に向けての不満を口に出していました。

「それは、きっと電波ちゃんがそういう服装が似合うから、じゃないかな。」

「あら、野獣さん!!」

笑いを湛えたそんな言葉が上から降ってきたと思ったら、途端に顔に何か柔らかい毛が触れました。視界いっぱいに広がる栗色に少女は、少しだけ獣の匂いを吸い込みました。

「全く。君という子は、広間で待っていてくれといったはずだけど?」

「そうだったかしら。私ってば、すっかり待ちきれなくて。」

もふもふの栗毛に頬つりしながら、少女は笑いました。野獣も、それを受け止めるようにそっとその大きな手の平を爪を立てないように注意しながら、少女の頭にのせました。

少女は、それを感じながら胸の中がちりちりと焦げるように熱が上がるのがわかりました。この熱は、なんだろう。そう思いながらも、少女はそれ以上踏み込むのが怖い気がして何も気づかないように野獣を見上げました。

「そうか。なら、すぐに行こうか。」

少女の瞳には、どこまでも優しい色をした野獣の双眸が写っていました。少女は、初めて見たときに感じた恐怖が嘘のように穏やかな感情を目の前の野獣に抱いていることが不思議でおかしくて野獣の胸に顔を埋めて笑いました。

「私、今なら野獣さんの言うことなんでも聞いてあげられるわ。」

「・・・・、」

しかし、野獣はその姿を愛おしそうに見つめただけで何も言わずにそっと少女の身体を放しました。パシリ、と尻尾を一つ鳴らすとゆっくりと少女を促して歩き出しました。

 日の光が眩しい廊下を進むと、見覚えのある姿が見えました。

「あら、ナイトさんだわ。ナイトさん!!」

「ん・・・ん、おお、でんでんだ。」

少女は、遠くにいる騎士にも見えるように大きく手を振りました。それを横目で見ながら、野獣はなんともいえない表情をしていました。

「電波ちゃんは、本当にこの城の誰とも知り合いになっているんだね。」

「ええ、でも、たぶん、このお城にはもっとたくさんの人がいるんだわ。私の知らない人が・・・」

 挨拶もそこそこに、どこかにふらふらと行ってしまった騎士を見送り、少女と野獣は大きな扉の前にやってきました。それは、野獣の背丈よりも大きい扉でした。しかし、なぜかドアノブはとても小さくうっかりとすればそれが扉だと気がつかないほどです。

「ここから、先が電波ちゃんがご所望の裏の庭だ。」

準備は良いかな。野獣は、少し緊張した面持ちの少女におどけたように尋ねました。少女は、それを聞いてゴクリと喉を鳴らすと一つ深呼吸をします。

「ええ、・・・ええ、いいわ。野獣さん。」

その様子を見つめ、野獣はその大きな手の平で小さなドアノブを掴み、ぐっと扉を開きました。

 瞬間、ふわりと咽返るほどの薔薇の香りに少女は思わず目を閉じました。

「・・・電波ちゃん、」

野獣の優しい声に導かれるように目を開けると、視界いっぱいに恐ろしいほどに真っ赤な色をした薔薇の絨毯とまるで光なんて射さないのではないかと思うほどに黒い空が広がりました。

「まあ、・・・すごい、まるで・・あぁ、でも、」

美しい、なのに、どうしてこんなに悲しいのかしら。少女は、なぜか一瞬だけその美しさに泣きそうになりました。薔薇の花も、淡い紫をした空も、何もかもが美しく絵画のようなのに、だからこそ、まるでこの世界のものではないかの錯覚を感じました。

「足元に、気をつけて。私しかここに入らないから、蔦も階段も、手入れしていないんだ。」

野獣は、大きな手を伸ばしてそっと少女に差し出しました。少女は、躊躇いがちにその手を掴むと、そろりそろりとおよそ階段とは呼べないような石の破片に足を乗せました。

 薔薇の園は、どこまでも広がっているように見えるほど果てしなく続いています。通路にまで伸びた蔦は、油断すると少女の足を切り裂こうとしてきます。通路に落とされている石は、どこから落ちてきたのか、鋭く尖って足を取ろうとしてきます。

「本当にすごいわ、ちょっとでも油断したら私、大怪我をしちゃいそう。」

「そうだね。私の手を放しては行けないよ。電波ちゃんに何かあると私が城の者に怒られてしまうからね。」

「まあ、そんなことはないわ。」

少女はしかしそう言いながらも、話に集中すると足元がおろそかになってしまうので野獣の会話に応じる少女の言葉はいつもよりも少なめです。

「君をここに連れてくるとわかっていたら、もう少しきちんと片付けておいたんだけどね。」

「そうしてくれてるとありがたかったわ。」

ちっとも会話に身が入らない少女の姿を見下ろしながら、野獣はおかしそうに笑いました。

「電波ちゃん、君さえ良ければ抱き上げてあげようか。」

「そうね・・・・え、あ、うわあ!!」

あまりにも、たどたどしい足取りに野獣はたまらず言うとすぐに少女の身体を抱き上げました。少女は、驚いたように身体を跳ねさせると目の前に現れた野獣の首に腕を回しました。重いわ、とか、大丈夫だから、とか言い訳を散々口に出した末に大人しくしがみ付いていることを選びました。

「あそこにある東屋まで行ったら、降ろしてあげるよ。」

ふわふわの毛に顔を埋めるようにして少女は、通り過ぎて行く庭園を見つめていました。悲しくなるほど美しい庭は、蕾も含めて本当に薔薇しか咲いていません。前に、騎士から聞いた言葉が頭の中にゆっくりと浮き上がって少女は知らずに唇を噛みました。

 騎士の無機質な金属音が、耳の中で鳴っている気がします。

あのバラの意味、知ってる?あのバラの花は、この城にいる俺たちなんだ。全てを失くして忘れて、ただの物になると・・あのバラの蕾が一つ花を咲かす。あのバラの花が、満開になったら・・・この城に誰もいなくなったってこと。あの人以外はね。

あの人、それが誰を指しているのか。少女はわかっていたけれど口にすることはできませんでした。ぎゅうっと無意識に強くなったしがみ付く力に野獣は気づかないふりをして歩みを進めました。

 腕の中にある、小さな少女の温もりが、柔らかい身体が、しっとりとした重みが。野獣にとって懐かしく愛おしく、そして酷く悲しく苦しいものでした。だからこそ、触れないように見えないように遠ざけていたつもりで、にもかかわらず、何の躊躇いもなく触れ合えるようになってからの方が、心が痛むのでした。

「・・・野獣さん、私・・あなたのこと、知りたい。もっと、知りたいわ。」

ゆっくりと降ろした少女が、間際に囁くように吐き出した言葉は野獣にとっては激しすぎて鮮やかすぎて応えることはできませんでした。

「さ、そこの椅子に座るといい。辛うじてそこだけは綺麗にできたからね。」

「・・・そうね、あら、この下・・水が流れているのね!!」

少女はそれを黙って悲しそうに見送ると、すぐに気を取り直したように辺りを見回しました。少女と野獣が立っている東屋の下をサアサアと小川が流れていくのを見つけ、その行方を視線だけで追います。どうやら、お城の方に流れているようです。

「あ、わかったわ!!あれが、この前直した噴水に繋がっているのね!あぁ、だから、あの噴水は枯れてなかったんだわ。・・・でも、この水はいったいどこから来ているのかしら?」

途端にキョロキョロと大きな瞳を好奇心で瞬かせて動き回る少女を、目を合わせるのが憚られるのか野獣は窺うように横目で見ました。

「この先に天然の湖があるんだ。そこから、流れてくるんだよ。あそこは山奥だし、私のことを恐れて、やってくる人間はいない。どんなに日照りが続いたとしてもたぶんあそこの水は流れてくるだろうね。」

不意にしゃがんだ野獣は、その長い腕を伸ばして水に触れました。人の手に触れられたことのない水は、ひんやりと冷たく野獣の腕を包みました。

「そうなの。・・・わ、冷たい。」

それに倣うように隣りに腰を降ろし水に触れるとその手を顔に当て、少女は嬉しそうに目を細めました。少女の大きな瞳を縁取る長い睫毛が水に濡れてしっとりと光ります。

「・・・もし、私が死んだら、この庭の薔薇を全て君にあげよう。元々、君は薔薇の花が欲しいと父親に言ったのだろう?」

「・・・そうだけど、野獣さん、どうしてそんなこと?」

「いや、特に理由はないよ。ただ、君が薔薇を欲しがっていたようだから、そう思っただけだよ。」

水を弾いた肌が、どこか泣いているように見えて野獣はたまらず顔を逸らしました。自分の長い爪では少女の肌が湛えた水を拭うことすら凶器に感じたのです。

「薔薇は好きだけど、でも、ここの薔薇はお城の人たちの命でしょう?そんな大事な薔薇を私なんかが貰っていいはずないわ。それに、私・・野獣さんがいなくなったら嫌だわ。」

俯いた少女の言葉は尻すぼみになってしまいましたが、それでも野獣の耳にはきちんと届いていました。

「そうか。電波ちゃんは、この薔薇のことを知っていたのか。・・・そうだよ、この薔薇は、ここの城の者だ。正確には、ここの城にいた者たちの果せなかった命だ。この全ての記憶を失くして物になってしまった人間の本当は生きるはずだった命がこうして薔薇の花として消化されている。・・・全て、私のせいだ。彼らにこんな惨めで残酷なことをしているのは全て私が原因だ。・・・電波ちゃんにだけは、知られたくなかったんだけど。」

「ごめんなさい。ナイトさんに聞いて・・・野獣さん、怒っている?」

「いいや、どうして私が怒るんだい。これは、教えなかった私が悪いんだよ。だけど、許してほしい。私は君にこの呪いについて教えることはできないんだ。だから、もう、これ以上、私が君に話してあげられることはない。」

見上げればすぐに野獣の姿は見えるのに、なぜだか少女は怖くて顔を上げることができませんでした。変わりに覗き込んだ小川に映った自分は泣きそうな顔で笑っていました。ひどく滑稽なその表情を野獣に見られたくなくて少女は慌てて野獣とは反対の方に興味をそそられたふりをして駆けました。

「だけど、野獣さん。私が思っていたよりも裏庭は綺麗だわ。だって、川だってあるし、東屋も、私はもっと酷く恐ろしい場所だと思ってたのよ。」

「君が喜んでくれて何よりだよ。」

ふわり、どこからか吹いてきた風が不意に少女の髪を乱して薔薇の香りを撒き散らします。風に躍る少女の長い髪に伸ばしていた手を、野獣は慌てて降ろしました。

 気づくといつも自分の腕がまるで自分の物じゃないように、彼女に触れたがるのです。長い絹糸のような髪も、凛とした大きな瞳も、熟れた果実のような唇も。まるで重力に呼ばれるように気づけば手を伸ばしているのです。戸惑うように揺れる左右の耳が、ひどく滑稽でした。

「私は、いつか君を襲ってしまう。まるで野獣のように、君のその柔肌に爪を立てるだろう。だが、私は、それでは私は、心まで野獣になってしまう。それが、怖い。」

喘ぐように口から零れたその言葉を少女は聞こえないふりをして川の水にじゃれました。そうしないと瞬時に熱を持った頬で野獣に悟られてしまうと思ったのでした。ぐるぐると回る思考回路を切断すべく少女は、庭を必死に見回しました。そこでそういえば、と一つのことを思い出したのです。

 少女は、野獣の言葉通り薔薇の花壇以外は荒れ果てている庭を見渡しながら、いるであろう双子の庭師の片方を探しました。

「え、あ、でも、確かここに・・・あ、いた!!お兄さん!!ガーゴイルのおにーさん!!」

「・・・・電波ちゃん?」

突然、キョロキョロと辺りを見回したと思ったら、今度は大声で叫ぶ少女に野獣は驚いたように目を剥きました。しかし、少女はそれに気づかずに大きな塔のてっぺんにいる見覚えのあるガーゴイル像に手をふりました。

「ガーゴイルのお兄さん!!双子の無愛想な方のお兄さん!!」

「・・・・・・・・・・?」

長い長い沈黙、ついに投のてっぺんに座っていたガーゴイルが、ゆっくりと動いて少女を見下ろしました。

「やっぱり!!良かった、まだ動いている!!ガーゴイルのお兄さん!!」

「・・・・・・・・・・・誰だ、お前。なぜ、俺のことを呼ぶ。」

確かに同じ姿なのに、同じ声なのに、ガーゴイルの全く違う様子に少女は驚いたように目を見張って、それから小さく笑いました。

「本当にそっくりなのに、全然違うわ。私、弟さんと最初に会っていなかったら、たぶんガーゴイル兄弟はとっても怖い人なんだって思っちゃう。」

「・・・弟?お前が、変わり者のじゃじゃ馬娘か。なるほど、旦那が言ってた通りだな。」

ばさり、ばさり、大きな羽根を震わせるようにして羽ばたきガーゴイルが降りてきました。野獣は少し警戒するように少女とガーゴイルの前に立ちました。

「じゃじゃ馬娘?野獣さん、私のことそんな風に言ってたの?」

「退け、その小娘が俺を呼んだんだ。」「何をするつもりだ?」

背の高い野獣の背に庇われては、どうやってもガーゴイルを見ることはできません。野獣の背に抗議するように言って少女は少し横にずれました。しかし、それを察した野獣もわずかに体を動かしていく手を阻みます。苛立ったように声を上げたガーゴイルに野獣も唸るように返事をします。

「ほお、ずいぶんと小娘を大事にしているようだな。お前のような醜い男も受け入れてくれるとは、あれだけ当り散らした甲斐があったな。」

「黙れ。お前に何がわかる。」

「二人とも、どうしたの。どうしてそんなに、落ち着いて。」

今にも飛び掛りそうなほど毛を逆立てた野獣を抱きつくようにして留めながら、少女はようやく見えたガーゴイルに挨拶をします。

「こんにちは、ガーゴイルのお兄さん。私、貴方によろしく言っておくように弟さんに頼まれたの。」

「ほお、俺の弟に会ったわけか。その様子じゃあ、随分と派手に城の中を動き回っているらしいな。良かったな、旦那。最後の最期にこんな娘がきて。拒み続けた甲斐があったというわけだ。」

これで俺たちも救われる。低く太い声が、あざ笑うようにそう告げると野獣は悔しそうに歯を鳴らしました。

「彼女は、私の妻ではない。」

「・・・まさか、お前、この期に及んで拒んだのか?どこまでも俺たちを貶めたいらしいな。恐れ入った。」

少女は、交わされる会話が何を指しているのかわからずに、ただ野獣の背にしがみつくように抱きつきながら、飛び交う怒声を目で追っていました。

「私ではない。彼女が、拒んだんだ。」

「なるほどな。因果応報ということか。散々好き勝手したツケが回ってきたと思え。俺たちも、それに付き合ってやる。」

「二人とも、いったい何の話をしているの。そんな八つ当たりみたいに。わかるわ、私だってそう言う気持ちのときがあるもの。前に家にいたときに私ってばどうしてじゃが芋を剥いているんだろうって持っていたじゃが芋を投げたり、噛み付いたりしたくなったもの。でも、そんなことしたって意味がないのよ。」

ぶんぶんと怒りで激しく揺れる野獣の尻尾を目で追いながら、少女は怒鳴りあう二人に負けないように大きな声で言いました。口を開いて次の言葉を吐き出そうとしていた野獣とガーゴイルは、少女の声に驚いたようにポカンとその口を開けたままお互いを見合いました。

「・・・っくっく、なるほどな。じゃじゃ馬娘。お前がどんなじゃじゃ馬なのか、よくわかった。なるほど、これなら、旦那も手を焼くわけだ。」

「ど、どういう意味なの、お兄さん。私、今、あなたたちの喧嘩を止めるために。」

ぷんぷんと頭から湯気を出さんばかりに怒っている少女に、野獣は体を反らしそっと手を伸ばして頭を撫でました。

「電波ちゃん、君は本当におもしろいよ。」

ありがとう、付け足したように野獣はそういうと少女の頭から手を放しました。少女は、依然として釈然としなかったのですが、それでも二人がもう喧嘩をしていないので自分を納得させることにしました。

「そう、それなら良いけど。それよりも、ガーゴイルお兄さん。あなたって本当に弟さんにそっくりなのに全然違うのね。私ってば、最初は全然信じてないから、本当にびっくりしちゃった。それにしても双子なのにどうしてそんなに違うのかしら。でも、お兄さんも悪戯好きだって弟さんも言ってたわ。それは、本当かしら?」

途端に元気を取り戻した少女は、喜々として野獣の背中から飛び出してガーゴイルに近寄ります。その余りの勢いにガーゴイルは、面食らったように一歩引きました。それを見ながら、野獣は少しの嫉妬を抱きながらそれでも愛おしいその姿を目に焼き付けるように穏やかな瞳をして見つめていました。

「お、おい、ちょ、なんだ、」

「お兄さんは、石だけど弟さんの石とは違うのね。なんだか、すべすべしているわ。それに、よく見ると作りもなんだか、違って見えるわ。顔というか、牙が、なんというか鋭いんだわ。」

ぺたぺた、ぐいぐい、あまりにも傍若無人な少女の行動にガーゴイルはとうとう我慢できないというように羽根をバタつかせました。

 結局、少女は夕方過ぎまでガーゴイルと一方的に楽しいお喋りを堪能し、城の中に帰りました。

「電波ちゃんは、本当に友人が多いね。」

軽やかに笑いながら、前を歩く野獣の言葉に少女はいったい何を言われたのかわからずに首を傾げました。歩幅が違うのでどうしても野獣と並んで歩くとき少女は小走りになります。それに気づいてか、野獣はいつからか歩幅を少女に合わせるようにしていました。少女は、そのことに気づいていませんでしたが、それでも長い廊下を走らなくて良いのは嬉しいことだな、と思っていました。

「そうかしら。だって、野獣さんのお城でしょう?野獣さんの方が、お友だちがいっぱいいるんだわ。あら、でも、野獣さんはお城の主だからお友達ではないのかしら。」

「・・・・そうだね。どちらにしても、私は君ほど友人を作るのが上手ではなかった。だから、君が羨ましいよ。」

微笑むように喉を鳴らした野獣に少女は困ったように照れたように微笑みました。

「それにしても、あのお庭は少し散らかりすぎだったわ。ねえ、野獣さん、私、明日からあそこのお庭を片付けようかしら。」

「それよりも、電波ちゃんはじゃが芋を剥いたことがあるんだね。てっきり、料理なんかには興味がないんだと思っていたよ。」

「あら、失礼な。私、結構料理上手なのよ。あの家では料理が作れるのは私しかいなかったから。・・・みんな、今頃どうしているのかしら。ちゃんとご飯を食べているかしら。」

「・・・・・」

「あ、そうだわ。野獣さん、今夜は私がご飯を作るわ!私が、料理が上手ってことをお城のみんなにも教えてあげるの。本当よ、私の作るハンバーグは弟の大好物だったんだから。」

「そうだね。それじゃあ、お願いしようか。私も、君の作るハンバーグを食べてみたいよ。」

長い廊下を歩きながら、少女は自分の料理の中でも自信があるものを挙げていきます。そうしてその中で野獣が食べたいと言ったものを作ってあげることにしました。

 いつも食事をする広間には、まだ夕方ということもありほとんど誰もいません。少女は、また汚してしまった服を着替えに一度部屋に戻ってから、厨房に行きました。

「今日は、姫さまがお料理を?」「そんな、私たちにお任せくださいな。」

「え、ご主人さまにお出しする?」「まあまあ、それなら、そうと」

口々に様々を言う食器たちに一つ一つ返事をしながら、少女は照れ屋の冷蔵庫に食材を確認していきます。

「あ、ご、ございますです。こちら、です。はい。」

「じゃあ、これとこっちで作れるかしら。」

手馴れた手つきで食材を調理していく少女を壁に掛かったまま見ていたフライパンは、一頻り感嘆した後、嬉しそうに言いました。

「ほお、ずいぶんと手馴れてらっしゃる。こいつあ、あっしが口出すことはないでございいやすなあ。」

「あら、そんなことないわ。久しぶりだから、勘が鈍っているもの。料理長さんの手助けが必要よ。」

少女は、楽しそうにそう言うと壁からフライパンを降ろしてコンロに乗せました。

「そうですかい?なら、遠慮なくいかせてもらいやすよ。」

「お手柔らかにお願いします。料理長さん。」

少女は、エプロンの紐をきゅっと結ぶと袖もぐいと捲くりました。久しぶりに作る料理です。それに初めて野獣に出す料理でもあります。

 少女の手料理が、並ぶのを黙って見ていた野獣は一通りが揃うとはたはたと左右に振れていた耳をぴんと立てました。

「すごいな、電波ちゃん。いつもの料理に劣らないよ。」

「でしょう!久しぶりにしてはとてもうまく出来たと思うのよ。」

得意げにエプロンをつけた胸を張ると、少女はいつもの場所に座りました。そのまま、くたりと机に頭を乗せて目を閉じました。

「・・・お疲れ様。では、電波ちゃん。君の手料理を食べても良いかな?」

「ええ、もちろん。たぶん、味は大丈夫だと思うけど・・・」

机に顎を乗せたまま、不安そうに野獣を覗き込む瞳を感じながら、野獣はフォークを取りました。それをじっと見つめながら少女は、息を飲むように顔を持ち上げました。

「・・・・うん、・・・うん。とっても美味しいよ。」

「ほ、本当に!?本当に、美味しい?」

ぱくり。ぱくり。野獣は、じつに滑らかな動きで食べ物を口に運びます。少女は、それを不安そうに祈るように見つめ、上擦った声で尋ねました。

「本当に、美味しいよ。電波ちゃんは、本当に料理が上手だったんだね。」

「良かったあ。これで美味しくなかったら、私どうしようかと思ったの。でも、野獣さんにそう言ってもらえて本当によかったわ。あぁ。」

安心したら、お腹が減ったわ。そう呟くと少女も自分の手料理を口に運びました。

 野獣は、とても良く食べ、そして良く喋りました。まるで自分の全てを見せようとしているようで少女は少しだけ不安になりました。

「ねえ、野獣さん。今日は、いったいどうしたの?」

「・・・電波ちゃん。美味しい食事のお礼に、私から一つ贈り物をしたいんだけど。」

「いいのに。だって、これは私が勝手に作ったのだし。それにお礼と言うなら、この食事が、お庭に連れて行ってくれたお礼だわ。」

少女の慌てた様子に僅かに微笑んだ野獣は、静かに席を立つと優雅に少女の足元に跪きました。そしてそっと少女の小さな手を取りました。

「私の部屋に来ていただけますか、電波姫さま。お見せしたいものが、あります。」

少女は、その上品な仕草に胸がきゅうと苦しくなりました。心臓が煩いほどに跳ねているのは、野獣の優しい指が自分の指を包むように握っているからでした。

 変なのは私の方だわ。いったい、どうしてしまったというの。

戸惑いと困惑を抱えたまま、少女は野獣に手を引かれ僅かに灯りのある見慣れた廊下を、ゆっくりと歩いていきました。

「野獣さん。私に、見せたいものって?」

「秘密だよ。でも、きっと、電波ちゃんは喜んでくれるはずさ。」

見上げるほど高い位置にある野獣の瞳が、僅かな灯りを反射してキラキラと輝いているようでした。その瞳が少女を捕らえて細められた途端、少女は呼吸ができなくなるほど胸が詰まりました。

やがて、二人は野獣の部屋に着きました。少女は、戸惑うように野獣を見上げましたが、野獣は少しおかしそうに口角を上げただけで何も言ってはくれませんでした。そうしていつものように野獣の部屋に入った少女に野獣は静かに、躊躇うように手を放しました。

「いつかの鏡を覚えているかい?電波ちゃん。」

「ええ、覚えているわ。野獣さん、この壁に掛かっている大きな鏡よね。確か、思い浮かべた人を見せてくれる。」

「あぁ。そうだよ。」

少女は、野獣の言葉も突然放れてしまった手に寂しさを感じる理由もわからずに、困ったように瞳を動かしました。野獣は、少女のそんな様子をただ見つめながら、そっと少女の小さな肩を押して鏡の前に立たせました。

「・・・野獣さん?」

「さあ、電波ちゃん。思い浮かべるんだ。今、会いたい人たちを。」

「・・・会いたい、人たち?・・・ひょっとして、これがお礼の贈り物?」

少女の言葉に、野獣はそっと微笑んだだけですぐに放れてしまいました。少女は、なんだか、はぐらかされたような気がしましたが、それでも家族がどうしていたのか知りたいと思っていたので目の前の大きな鏡を見つめながら、一心に家族のことを思いました。

 不安そうな表情をした少女が映っていた大きな鏡が、だんだんと歪み淀みそうしてぼんやりと全く違う景色が映り始めました。

「・・・お父さま?」

数ヶ月前に別れた父親が、懐かしい家の暖炉の前に座っていました。そのまわりを心配そうに兄弟たちが覗き込んでいます。

「どうしたのかしら、なんだか、様子がおかしいわ、野獣さん。」

視線を外すことなく少女は近くにいる野獣に声をかけました。野獣も興味を惹かれたように一歩足を動かして少女の横に並びました。

「顔色が、相当に悪いようだ。」

「本当だわ。まさか、お父さま・・病気に?」

少女の言葉を引きついだように父親が、身体をくの字に曲げて苦しそうに咳をしました。途端に少女は弾かれたように鏡に縋り涙を流して父親を呼びます。

「お父さま!お父さま!しっかりして、お父さま!!死んではだめ。お父さま!!」

「電波ちゃん、落ち着いて。向こうに声は届かない。落ち着いて。」

慌てたように少女の身体を後ろから抱きすくめると、野獣はその大きな手で少女の目を覆いました。その腕に手を乗せたまま、少女はしばらく悲しみを吐き出すように泣きました。

 どれくらいそうしていたでしょうか。やがて涙を流すことも止め放心したように動かなくなった少女を野獣は相変わらず抱きしめたまま、確かめるようにそっとできるだけ優しく名前を呼びました。

 少女は、わずかに驚いたように肩を震わせました。それを返事と受け取り野獣はそのまま優しく続けました。

「落ち着くんだ、電波ちゃん。ここで取り乱しても事態はなんら解決しないよ。深呼吸をして脳に空気を送り込んで。さあ、考えて。どうしたらいいか、考えて。」

「・・・・・ど、どうしたら、いいか?」

腕の中にいる小さな愛しい人。どうしたらいいかを考えるのは私の方だ。いや、考えずとも答えなんてわかっている。

「行っておいで、電波ちゃん。会いに行くんだ。そうして看病をしてあげるといい。」

「え、でも、お城は?」

「大丈夫。行っておいで。私は、ここで待っているから。」

言いながら、言葉ではそう言いながら、少女を抱きしめる腕は凍りついたように動かない。動かせない。このまま腕を開いたら、少女が飛び立ったまま戻ってこないのではないかとそう思うと怖い。野獣は、わずかに歯を軋ませながら笑った。

「いいの?野獣さん、本当に、」「いいよ。さあ、電波ちゃん。」

ゆっくりと明るさを取り戻す少女の声に野獣は痛みを堪えながら、腕を開きました。長く滑らかな少女の髪が舞うように踊り野獣の手から熱いほどの温度とともに離れていきました。野獣は、温もりを掴むように自分の手を握りました。しかし、再び閉じた手の平には何の温度も宿っておらず寂しさに似た空虚さだけが、今一度野獣を攻め立てるようにその胸を疼かせるばかりでした。

「そうと決まれば早いほうがいいね。よし、今すぐ準備をしよう。」

胸に疼く感情を打ち消すように明るく吼えると野獣は尻尾を鳴らしました。

 ろうそくたちに道すがら今のことを説明し、野獣は少女の部屋に向かいました。ろうそくと時計は話を聞いて一瞬何かを言いかけるように口を開きましたが、すぐに思い詰めたような表情をして黙ってしまいました。

「あ、あの、野獣さん。口を挟むようだけど、私、私、馬に一人で乗れないし、ここから家までの道がわからないわ。だから、その、」

「大丈夫だよ、電波ちゃん。君をこんな森の中で一人で出すなんてことしない。安全で安心な帰路をきちんとさせてあげよう。」

「でも、どうやって?」

部屋についた少女は、周りの家具たちが忙しく帰り支度をしてくれているのを見つめたまま、ポカンとその動きについていけずにベッドに座ったまま目の前にいる野獣に質問をするのがやっとでした。

「電波ちゃんは、もうお忘れかな?ここが魔法の城だということを。」

「え、・・・まさか、魔法のカーペットが?それとも、空飛ぶ箒?でも、私、そんなの乗ったことがないから。」

わたわたと興奮と不安が混じったように慌てだす少女を見ながら、野獣がおかしそうにくすりと笑いました。

「大丈夫。電波ちゃんはただ寝ているだけでいいんだ。」

野獣は、せっせと荷物をつめていく家具たちに顔を向けてすまなそうに目を伏せました。そんな野獣の様子に気づかず、少女は首を傾げて野獣の次の言葉を待ちました。しかし、野獣はそのまま何も言わずに、ろうそくに持ってこさせた大きな箱に少女の今まで作ってもらった服や宝石、書物を詰めさせる作業に行ってしまいました。

「・・・ただ、寝ているだけって。そんなはずはないわ。ひょっとして野獣さんは私をからかっているのかしら。ううん、野獣さんがそんなことするはずはないわ。」

少女は野獣の言葉を信じるように頷くとベッドに何か仕掛けがあるのかもしれないと、布団を捲ったりベッドの下を覗き込んだりしてみましたが特に何も普段と変わったところはありません。

「電波姫さま、いったい何をなされているのですか?お忘れ物なら、この箱にお入れください。この箱に入れたものは、電波姫さまとご一緒にお家に届けられますから。」

「・・・え?私、こんな大きな箱持てないわ。」

ベッドから頭だけを下げて下を覗き込んでいた少女の顔を横から眺めながら時計が慌しく言いました。少女はそのままの姿勢でまじまじと大きな箱を見つめました。いつの間にか箱の中には溢れんばかりの物が詰め込まれ、とても少女一人では持ち上げることすら敵わないほどになっていました。

「大丈夫です。箱さえ閉まれば、あとは勝手に届きますから。」

「と、届く?どういう、意味?」

まるで常識であると言わんばかりの時計の言葉が少女には全く理解できず、ベッドから頭を垂らした姿勢のまま、少女は逆さまの時計を見つめていました。やがて、上から軽やかな笑い声がして少女の身体はふわりと柔らかくほんの少し獣の匂いがする何かに包まれました。

「そんな格好でいると、頭に血が昇ってしまうよ。電波ちゃん。」

「野獣さん!私、頭に血が昇る前に頭が混乱しているから大丈夫よ。」

すぐ目の前で優しく光る双眸が、どこか少し寂しそうに見えて少女はそっと野獣の頬に手を添えました。大きな猫のような瞳には、野獣と同じくらいに淋しそうな表情をした少女自身が映っていました。

 栗色をした獣の耳、ぴんと張ったひげ、笑うと見える鋭い牙、どこまでも優しい瞳。どれも、目を閉じるよりも容易く思い浮かべることができます。少女は、まるで記憶を辿るようにその一つ一つに指先で触れました。野獣も何も言わず、まるで少女の指の感触を神経に焼き付けるように喉を鳴らしています。

「・・・・電波ちゃん、そろそろ時間だ。」

やがて、野獣は少し掠れた声でそう囁くと名残を惜しむように少女の身体を抱きしめました。今までにないほどの強い力に少女は戸惑うように野獣の名前を呼びました。

「困ったな、こんなに・・・好きになるつもりはなかったのに。」

「大丈夫よ、野獣さん。私、すぐに帰ってくるわ。お父さまが無事に病気を治せばいいんだもの。」

少女の肩口に埋めた言葉は、少女の耳に届けるための言葉ではありませんでした。不意に込み上げた悲しみと不安を打ち消すように少女は明るく言いました。それから、まるで母親が小さな子どもにするように頭を優しく撫でました。

「そうだね。その、通りだ。・・・じゃあ、電波ちゃん。手を出して。」

「手?こう?」

引き離すように放れた身体が、勢いに任せるようにグンとベッドに降ろされました。気づくとベッドに座らせられていた少女は、さっきまであんなに近くにあった野獣の温もりが急になくなってしまったように感じられて少しもどかしく思いましたが、野獣の手が自分に差し出されているのを見て、慌ててその上に手を乗せました。

 野獣は、その小さく細い砂糖細工のような指を愛おしそうに自らの指で撫でると反対の手でそのうちの一本に小さく美しい指輪をはめました。

「・・・これをはめて寝ると、次の朝目が覚めると君は自分の家のベッドにいる。その逆もまた、然りだ。いいね?」

「え?・・えっと、ええ、なんとなくはわかったわ。この指輪が魔法の指輪なのね。これをはめて眠ると夜の間に魔法がかかって私は元の家のベッドにいる。そういうことね?」

「そう。大正解だ。この箱も一緒に君の家に行く。君の服のほかにもいくつか宝石を入れておいた。薬代などに換金して使うといい。」

「だけど、本当に・・そんなこと。」

少女は戸惑うように野獣と指輪を交互に見ました。野獣はおかしそうに喉を鳴らすと、少女の額をそっと押しました。

「論より証拠だ。寝てみるといい。」

「ええ、そうね。そうするわ、ええっと帰るときも同じようにするのよね?」

もう慣れたベッドに身体を横たえながら、少女は不安げに指輪に触れました。ふわり、と少女の額を野獣の優しい手が撫でました。

「あぁ。では、おやすみ、電波ちゃん。」

「ええ、おやすみなさい、野獣さん。」

少女は、その手を感じながらそっと目を閉じました。優しく愛撫する野獣の手の心地よさに少女はあっという間に眠りに落ちてしまいました。

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