第五章


 パタパタ、パタパタ、少女が廊下を走る軽やかな音が、屋敷に優しく響きます。その後ろを追いかけるように時計が叫びます。

「姫さま、姫さま!はしたないですよ、そんな格好で。」

「大丈夫よ、だって私ちゃんと下着を着ているもの。はしたなくなんてないわ。」

何事かと掃除中の箒夫人と塵取り夫人が、手を止めてそちらを見ました。短い足を必死に動かす時計の前を、走る少女は今日も新しいドレスを着ていました。少女は、外で遊び、城を探索し、毎日のようにドレスを布切れにしていましたが、洋服箪笥はそれでこそ作り甲斐があるってもの、と張り切り毎日毎日、ドレスを作るのでした。

 そのこと事態に何も問題はないのですが、その裾が問題でした。城中を走り回る少女にとって裾の長いドレスは邪魔でしょうがないのです。そのため、度々少女はドレスの裾を捲り上げて結んでしまうのです。

「そうは、申しましても。姫さま、そんなに捲り上げてしまっては、あぁ。」

時計はその度に、こうして注意して結び目を解こうとするのですが、少女はそれを笑いながら振り切ると捲し上げた裾から、健康的な太ももを覗かせながら走るのでした。

「あはは、また、時計さんの負けよ。私、ここに来るまで運動はあまり得意ではなかったけれど。ふふ、このお城の中では私、負けなしね。」

「あらあら、姫さま。今日はどこに行くのですか。私めにお教えくださる?」

走り去る少女に、箒夫人が尋ねると風に乗せるように楽しそうに叫ぶ少女の声が

「わからないけど、今日は雨だからお城にいるわ!!」

箒夫人と塵取り夫人は、顔を見合わせて楽しそうに笑いました。つい数ヶ月前まではこの城はまるで廃墟のように静まり返り、ただ死を待つだけの場所でした。しかし、今は、こうして少女が城中に喜びを蒔いて歩いて明かりを灯していきます。

「本当に。」「素敵なお姫さまが、最後のお客様でよかったわ。」

塵取り夫人は、軽やかにステップを踏むと箒夫人とともに歌いながら掃除を再会しました。

 パタパタ、パタパタ、少女が走る足音に合わせてその隣りを尻尾を振りながら着いてくるのは、椅子。

「あら、チェア。あなた、昨日はいったいどこにいたの?私、ピアノさんの部屋から、野獣さんの部屋まで探したのよ。ひょっとしたら、ナイトさんのところにいるのかと思ったけど、ナイトさんってばどこにもいなくて。」

「いす、いすいす。」「ボクも、昨日はお姫さまを探してたんだよ。」

跳ねるように歩く椅子の背に乗っていた、小さなティーカップが少し膨れたように声を出す。それを聞きながら、少女はくすくすと笑う。

「じゃあ、今日は久しぶりに三人で遊びましょう。それなら、機嫌を直してくれるかしら、ティー?」

少女は、ゆっくりと膝を折ると椅子の横にしゃがみ、ティーカップの側面を軽く撫でた。するりとした陶器は、少女の柔らかい指先を滑るように流れた。

「いいよ。しょうがないから。・・・・で、どこに行く?」

「そうねえ。外は雨が降っているから、ダメよね。あ、でも、バルコニーだったら大丈夫かしら。あそこなら、屋根もついているし。外にまるで出るわけじゃないから、ティーもついて来れるでしょ?あぁ、でも、やっぱりダメかしら。ドレスをびしょびしょにしたら今度こそ怒られちゃうわ。」

でもなあ、少女は未練たらしく窓の外を見つめます。先日、ようやくガーゴイル弟と完成させた庭と花壇とそれから、東屋がとても魅力的に少女を誘惑します。

「あそこなら、屋根があるし。でも、外にチェアとティーを連れて行くことはできないし。あぁ、でも、どうしましょう。」

「いす、いすいす!!」「外は嫌だよ。ボク、出られないもん。電波姫さま、今日は中で遊ぼうよ。」

「そうねえ。うん、わかったわ。今日は、お城の中で遊びましょう。」

少女は、未練を断ち切るように勢い良く立ち上がると、クイーン側の二階に向けて歩き出しました。何度も探検しましたが、そこは前まで誰かが暮していたようで他の部屋とは違い探索のし甲斐があるので少女もティーもお気に入りの場所でした。

「ようし。行くぞ、やろーども!お宝をこの手に入れるぞ!!」

少女は、まるで海賊にでもなり切ったように、首に巻いていたスカーフを取ると頭にきゅっと被りました。そのせいで首元が大胆に開いてしまいましたが、この方が海賊っぽくてかっこいいかな。なんて思い気にしませんでした。

「えいえい、おー!!」「いすいす!!」

こうして少女もとい海賊団は、部屋を一つ一つ開けていくことにしました。

 「と、いうわけでこれが戦利品なの。」

ドレスを太ももまで捲り上げ、首元は胸元まで大胆に開いた、海賊仕様のドレスを着た少女は喜々としてピアノの側で午前中の武勇伝を披露しました。もちろん、ティーカップと椅子も合いの手を入れることを忘れません。三人は、部屋の中を航海し、シーツの山を蹴散らし、埃もごみもなんのその。光輝く宝物を見つけ出したのです。

「なるほど、それは、すごいね。」

「そうでしょう。そうでしょう。そうなのよ。」

キラキラと瞳を輝かせるその姿に、ピアノは今ほど自分の姿がピアノでよかったと思うことはなかったな。と、一人溜め息を吐きました。雨が降っているせいで部屋の中は薄暗いですが、それでもピアノには少女の白玉のような肌と絹のような髪がしっかりと見えていました。

「写真なんかも見つけたのよ。すっかり色あせちゃってて顔はわからないけど、でも、この後ろに写っているのは、このお城よね。ピアノさん、知っている?」

少女は、ずいとピアノに向けて戦利品である写真を差し出します。ピアノは、黒々としたその身体に反射するように映る写真を見つめて、小さく息を吐き出しました。

「ずいぶんと、懐かしいね。これ、どこの部屋にあったんだい?」

 色あせてセピア色になった写真には、まだ美しかった頃のこの城と先日少女が綺麗にした庭の噴水が見事なアーチを描いて水を噴き上げている風景をバックに幾人もの人々が並んでいる様子が映っていました。どの人物も顔は色あせてしまっていて見えませんでしたが、それでもピアノには微笑んでいるということがわかりました。

 正確には、思い出したのでした。

「えーっ、と・・・どこにあったんだったかしら。確か、そう、扉に絵が描いてあったわ。ずいぶんと汚くなっていたけど、あー・・・たぶん、何かの花の絵だわ。」

「・・そうか、そうだろうね。」

写真の中央に写っている女性は、美しい花のようなドレスを着ていました。いつも、その視線を追いかけていたことを、ピアノは胸を刺すようなくすぐったい痛みとともに鮮やかに思い出しました。

「この人たち、誰なのかしら。ピアノさん、知っている?」

中々、欲しい返事をくれないピアノに痺れを切らして少女は少し強めに尋ねました。しかし、ピアノは細いソの音で溜め息を吐くとそれきり黙ってしまいました。

 少女は、どうしていいかわからずに隣にいたティーに視線を送りました。ティーも、困ったように右に左にステップを踏みました。

「ボクも、あんまり、昔のことは知らないから。」

「うーん、困ったわね。」「いす、いすいすいす!!」

少女は、仕方ないので黙って椅子の背中を撫でてあげることにしました。

「それでね、ピアノさん。私、また、あのタクトが飾ってある部屋から楽譜を持ってきたのよ。えーっと、・・・・あ、あった。これ、これよ。前にあそにあった楽譜を演奏したらピアノさんとっても喜んでいたでしょう?だから、私とチェアでまた探してきたの。たぶん、これはピアノ用だと思うんだけど。あの部屋、色々な楽器があるからわからないのよ。・・・チェア、ちょっときてちょうだい。私、ピアノを弾きたいの。」

チェアをピアノの前に座らせると少女は、少し腰を浮かせながらそれに座りました。それから、チェアに重くないかと尋ねるともうすこしだけ体重をかけました。

「電波姫ちゃん。君は、このお城にきてどれくらいになったかな。」

「え?・・うーんと、そうねえ。・・・・」

ピアノの問いかけに少女は、楽譜を広げながら考えます。正確に数えているわけではないのでわかりませんが、少女はそうねえ。を三回ほど繰り返した後、たぶん一ヶ月くらいじゃないかしら。と答えました。

「そうか、もう、そんなに経つのか。電波姫ちゃんは、このお城をどう思う?」

「このお城を?広いし、楽しいし、だけど、ちょっと汚いのが弱点ね。」

「・・・・好き、かい?」

ピアノは、窺うように声を潜めて尋ねました。少女は、ピアノの鍵盤に手を置いてそれでもお喋りを止めないピアノを不思議に思いながら、窓の外に広がる雨模様を見ていました。

「明日は、雨がやんでいるといいんだけど。・・・・・私、このお城のこともっと知りたい。このお城にいる人たちのこと、もっと知りたい。ピアノさんのことも、チェアのことも。それから、野獣さんのことも。・・・これが、たぶん、好きってことなんでしょ?」

「そうだね。・・・だけど、まだ。」

それじゃあ、足りないんだ。ピアノは、それ以上は口には出さずに少女が触れている鍵盤に意識を集中させました。そうして少女の柔らかな指先を感じていれば、他のことを考えずにいられるからでした。

 もう、時間がないとわかっているのに。もう、どんなに頑張っても無理だとわかっているのに。どうしても、どうしても、彼女なら、彼女だったら、と期待してしまうのです。彼女なら、この城にかけられた悲しい宿命を、神秘的な魔法を、切ない思いを、吹き飛ばしてしまうんではないだろうか。と。

「彼を、愛してあげておくれ。その無邪気な心で。」

その声は、少女が奏でるピアノの音に紛れて少女の耳に届くことはありませんでした。

 

 結局、そのあともピアノはあまり言葉を発することはなかったので仕方なく少女は早々に部屋を出てしまいました。

「今日は、ピアノさんなんだか変だったわね。チェア、なんでかわかる?」

「いす、いす。」

歩きながら、足元にいる椅子に尋ねますが、少女はあぁ、そうだったわ。と、思い出したように天井をみあげました。

「私、チェアの言葉がわからないんだったわ。」

「でも、電波姫のピアノ、上手だったよ。」

肩の上で負けじとそう言うティーカップに少女は、くすくすと楽しそうな笑い声を返しました。

「ありがとう、ティー。あなたは、本当にレディの扱いってものをわかっているわ。将来は、たぶん、相当な貴公子になれるでしょうね。」

少女の言葉に、ティーカップは持ち手まで真っ赤にして喜びました。

 さて、早々にピアノの部屋を出てきてしまった少女と一向はふらふらと行くあてもなくお城の中を歩き回りましたが、途中でそれにも飽きてしまい少女は、廊下に座りこんで籠の中に何か面白いものはなかったか、と真っ赤なカーペットの上に一つ一つを広げ始めました。

「・・・あら、」

少女のまわりを囲むように放物線が描かれたところで少女は、小さな分厚い本を見つけました。普通の文庫本くらいのサイズなのですが、中身がどうやら小説やエッセイとは違うようなのでいったい何の本なのかをピアノに尋ねようと持ち出したのでした。

「あぁ、これが何なのか、私すっかり聞くのを忘れていたんだわ。うん、どうしよう。これから、ピアノさんのところに戻るのもなんだかだし・・・」

少女の視線はしばらく困ったように辺りをさ迷った後、すっかり退屈して廊下の真ん中で寄り添うようにして眠ってしまっている椅子とティーカップを捕らえました。

「・・・・・せっかく眠っているんだもの。起したら、可哀想よね。うん、そうだわ。」

誰に言うでもなく少女はそう呟くと籠のものを仕舞うこともせずに、小さな本だけを手に持つとなるだけ静かに駆け出しました。


 一人でいるとさすがに昼でも、ちょっと怖いなあ。少女は、キョロキョロと辺りを見回しながら、記憶だけを頼りに野獣の部屋を目指します。

「あぁ、失敗したわ。地図くらいは持ってくるんだった。私ってば、こっち側はあんまり来たことがないから・・・うんと、こっちであってるんだったわよね。」

ほとんど一本道であるにも関わらず、このお城は構造が中々に複雑怪奇になっていて階段を登って降りて登らないと行けない部屋があったり、登って扉を潜って登らないと行けない階段があったりとまるでパズルのようになっているのです。

 騎士が一緒のときには迷子にならないように、案内をしてくれるのですが、生憎と今日はどこにもいないようです。

「はあ。えーっと、それから・・・」

雨が降っているせいで昼間だというのに、薄暗い。最初は大丈夫かと思っていた一人でのジャック側。いくら歩いても中々つかない目的地に少女は少し不安になってきました。それに追い討ちをかけるように、すぐそばにあった大きな窓が大きな音の振動に震え、一瞬激しく光ります。

「!!!!」

その眩しすぎる光に照らされるように廊下の向こうに巨大な影が揺らめきます。

ビクリ、少女は肩を大きく震わせて正面に見えた影を見極めるように凝視します。

「・・・だ、だれ?」

声を出せば、恐怖は薄れると言いますので少女は震えながらも精一杯に声を出します。しかし、自分で思っていたよりもその声は小さくもう一度激しくなった雷の音で掻き消されてしまいました。

「・・・・・・・・?」

ゆっくり、そんな表現がしっくりと来るほど遅い動きで影が動きます。しかも、暗くてよく見えませんが、どうやら少女の方を向いたようでした。

「!!!!」

驚きと恐怖で少女の喉がひくりと鳴りました。闇の中でギラギラと光る双眸はしっかりと少女を捕らえています。逃げ出そうか、少女は一瞬そんなことを考えましたが、カクカクと足が震えてうまく走れる自信はありません。

 窓を振るわせるほどの振動で鳴る雷の音が嫌でも恐怖を倍増します。稲光が照らすたびに巨大な影が近づいてきているのがわかります。

「人間か、珍しい。そして、うまそうだ。」

ぴしゃり、ぴちゃり、何かが滴る音とともに細く高い声がそう言いました。それは本当に背筋が凍るほど不快な声音でした。

 少女は、カタカタと振るえながら目の前に迫る得体の知れない何かが近づいてくるのを見ていました。

「うまそうだ、」

廊下いっぱいに黒い影が広がって少女の視界全てが真っ黒になりました。生臭い息とともに大きく吸い込まれそうになります。

食べられる。少女はそう思い目を閉じました。

「やめろ!!」

 獣の咆哮に似た激しい叫び。雷と間違うほどにビリビリと空気を震わせるその声に少女は聞き覚えがありました。それから、身体を何か暖かくて柔らかいものに包まれました。ほんのりと鼻を掠める匂いは、嗅ぎなれた獣の匂いです。

「やじゅう、さん、」

少女の頬を掠めるように、野獣は廊下を疾走し少女と黒い何かの間に立ち塞がります。ぐるぐると警戒とも威嚇ともつかないような低い声を発しながら、野獣は姿勢を低くします。黒い影は様子を窺うように大きくなったり小さくなったり、まるで風に揺れる布のようにしていました。

「この娘は、俺のものだ。去れ。触れることは許さん。」

バリバリと凄まじい音を立てて稲妻が光ります。バチバチと窓ガラスを割りそうなほどの勢いで雨粒が窓を打ちます。まるで夜のように暗い廊下で睨みあったまま、野獣と影は動きません。

「お前の物?この城に、お前の物など一つもない。全て、なくなる。」

「違う。違う、この城も、この城の全ては俺のものだ。去れ、今すぐに!」

カッカッカ。黒い影が喉の奥から吐き出すように笑いました。それは、聞いただけで胸が抉られるようなそんな笑い声でした。

 野獣は、腹立たしそうにペシンペシンと何度も尻尾を鳴らしました。それすら、黒い影は楽しむように、笑いました。

「全て、なくなる。その人間も、お前も。なくなる。」

「黙れ!!」

野獣は迷いを振り切るように飛び跳ねると黒い影に向かって行きました。バチバチ、バチバチ、雨粒が弾丸のように窓を撃つ音に紛れて獣が吼え、鳴く声がします。少女は、ただじっと何も見えないほどの暗闇を見つめていることしかできませんでした。

 どれくらい、たったでしょうか。一瞬、最後に残った雷が眩いほどに光りました。それまで何も見えなかった少女の瞳がその灯りを借りて廊下の向こうを捉えました。

 男の人?栗色の流れるような綺麗な髪をした背の高い男の人だわ。

確かに、一瞬ではありましたが、少女はその男が大きな鎌を持った骸骨と対峙しているのを見ました。しかし、そんなはずはありません。相変わらず、聞こえてくる音は獣の唸り声です。

「去れ!あの娘に、手を出すな!!」

ひと際、大きな咆哮とともに野獣がそう言うとそれきり、何の声もしなくなりました。

「・・・・・野獣さん?」

震える声で少女は彼の名前を呼びました。雨も雷も静かになった廊下。聞こえてくるのは、少女の弱弱しい呼吸の音だけです。

「野獣さん!」

もう一度、今度ははっきりと大きな声で叫びました。ドクドクと脈打つように大きくなる心臓の音に掻き消されて野獣の声が聞こえないのではないだろうか、と不安になります。

「・・・・電波、ちゃん。無事かい?」

「野獣さん!・・・あぁ、野獣さん。野獣さん、あぁ、野獣さん。」

小さな返事とともに闇の中からゆっくりと野獣の姿が浮かび上がります。それを見た途端、少女は弾かれるように野獣に抱きつきました。

そうして、そのふわふわとした柔らかい毛に顔を摺り寄せるようにして何度も野獣を呼びました。野獣は、少しだけ戸惑うように耳を動かすと爪を立てないように注意しながら、少女の背中に手を触れました。

「電波ちゃん、君が無事で良かった。」

それだけを吐き出すように言うと、野獣は今までにないくらいに強くしっかりと少女の小さな身体を抱きしめました。野獣の大きな体は、温かくて力強くて少女は安心しました。今頃になって少女はひくひくと喉を震わせ泣き出しました。


 すっかり腰を抜かしてしまった少女を野獣は抱き上げて自らの部屋まで運んでくれました。少女は、野獣の腕に抱えられながら、そわそわと落ち着かない気持ちで野獣のあちこちに視線を滑らせていました。

「ご、ごめんなさい。野獣さん、私ってば、いつもこうしてもらっているわ。」

「そうだね。でも、私としてはこうしているほうが、安心できるよ。」

「どうして?あら、野獣さん。肩のところ・・・あ、腕のところも怪我しているわ。さっき、私を庇ったときに?どうしよう、大変!大丈夫よ、私歩ける!」

「じっとしていて。部屋に着いたら、君の好きなだけ私に触って構わないから。今は、じっとしてくれ。」

降りようとじたばたと暴れ始めた少女に野獣は呆れたように溜め息を吐きながら、優しく言いました。その言葉に、少女はちょっと迷った後、渋々はいと返事をしました。

野獣はその様子を目を細めて見つめていました。

「ほら、着いたよ。」

囁くように言うと、野獣はゆっくりと身を屈めて少女が床に降りやすいようにしました。少女は、足をしっかりと床に着けて降りると自分の足に力が入ることを確認しました。さっきまでは、どんなに力を入れてもふにゃふにゃとまるでこんにゃくのようで立つ事などままならないほどでした。

「野獣さん、座ってて。私が手当てしてあげるわ。あら、でも、救急箱はどこかしら。ええっと、あ、野獣さん。いいの、私がやるから。あ、・・・じゃあ、救急箱だけ、出してくれますか?」

パタパタと跳ね回るように荒れ果てた部屋を走る少女を、野獣は酷く眩しいものを見るように目を細めて見ていましたが、やがてゆっくりと立ち上がりほんの少しの間、自分の手を悲しそうに見つめるといつものように歩き出しました。

 野獣の傷は、思ったよりも深く少女は泣きそうな顔をしてその傷を手当しました。

「ごめんなさい。野獣さん、痛いでしょ?痛いに決まっているわ。だってこんなに、うう。ごめんなさい、」

「どうして電波ちゃんが、謝るんだい?これは、私が勝手にしたことだ。」

「でも、私が勝手に迷子になったから。・・・でも、一体あれはなんだったのかしら?野獣さん、知っている?私、あんなの初めて見たわ。まるで、そう、お化けみたいだった。」

少女の言葉に、野獣の耳がピクピクと揺れましたが傷の手当に夢中になっている少女はそれには気づきませんでした。

「電波ちゃん、包帯がずれそうだよ。」

「あら、いけない。でも、あぁ、怖かった。野獣さんが来てくれなかったら、私いったいどうなっていたのかしら。今まであんなの見たことなかったのに。なんでかしら?」

「今日は、雨だったからね。きっと、暗闇に乗じてやってきたんだろう。」

「野獣さん、知っているの?あの、お化けが何だか。」

「知っているよ。今は、半分君のお城だけど。一応、ここは私のお城だったからね。」

野獣は、ほんの少し悪戯に言いました。それに、笑いながら、少女は包帯を巻きます。ふわふわの毛は、包帯を巻くのに少し邪魔だわ。そう思いながら、少女はくるくると小さな手を必死に動かして大きな野獣の腕に包帯を巻いていきました。

 野獣の腕は大きくて少女は、不意についさっきまでその太い腕に抱きしめられていたことを思い出して顔が熱くなるのを感じました。しかし、なぜ、こんな気持ちになるのかわからず、それを野獣に悟られてしまうのも恥ずかしく何も気にしていないふりをしました。

「あれは、なんだったのかしら。また、雨の日になったら来るのかしら。怖い。」

「電波ちゃん。」

知らずに少女の頬をポロポロと零れていた涙を、野獣が爪が当たらないように指の背でそっと拭います。その柔らかく優しい感触に少女はまた、涙が溢れてくるのを感じます。

 野獣さんは、こんなにも優しいのに。こんなにも、温かいのに。どうして。

「私、私は、・・・・っ、」

自分の胸をじりじりと締め付けるこの感情を、熱く滾るようなこの想いを、どう言葉にして野獣に伝えればいいのか。少女は、どうしてもわからずにただ、涙を次々と流すばかりでした。

 そんな少女を見つめ、野獣は彼女の涙の原因を知らないまま、ただ涙を拭っていました。そうして、少女の身に危険が迫る前に彼女を解放しなくてはならないだろうと思うばかりでした。

「そういえば、電波ちゃん。いったい、何の用事で私のところに来たんだい?」

手当てが、終わり、窓の外を見ていた野獣が思い出したように少女に尋ねました。少女は、片付けていた救急箱をパタンと閉じるとしばらくポカンと口を開けて野獣を見ていましたが、やがて何かを思い出したようにあぁ、と身体を跳ねさせました。

「そう!そうなの。私、ちょっと野獣さんに聞きたいことがあって。ええ、っと・・あら、」

少女は、パタパタと野獣に見せようと持ってきたはずの小さな本を探して体のあちこちを叩いたり、手を突っ込んでみたり、捲ってみたりしました。

「で、電波ちゃん!」

野獣は、ひらりとお腹が見えるほど捲り上げられたスカートから視線を慌てて逸らすと、戸惑うように声を上げました。バタバタと慌てる姿をじっと見つめながら、少女もわあっと気づいてすぐにスカートを元に戻します。

「あ、あの、ええっと、」「・・・・・君は、とんでもないレディだな。」

少女の困ったような表情を見て、野獣は堪えきれないと言うように笑いました。それは、前に見た吼えるような笑い声ではなく呆れたように、愛おしむように、静かに優しく微笑んだようでした。少女は、その微笑を見て胸が一瞬、締め付けられるように苦しくなったのを感じました。その苦しさは不快なものではなくてなぜかほんのりと甘いような切ないような感情で、今まで少女が体験したことのない感覚でした。

「私、本を持ってきたの。今日、たまたま見つけた本で・・・何の本だかわからなかったから、野獣さんに聞こうと思ったんだけど。あぁ、さっきの廊下に落としてきちゃったみたい。ごめんなさい。」

「・・・いや、いいよ。明日にでも、拾いに行こう。今日は、もう、君を外に出したくない。ここから、出したくない。」

野獣は、低い声でそう呟くと何も感情が篭らない瞳で、だけど少しだけ欲の灯った瞳で少女を見つめました。しかし、少女はその瞳の色を理解できずにただ、素直に野獣の言葉に頷きました。少女も、また、外に出てあの幽霊に会うのは嫌だったからです。

「・・・じゃあ、明日。一緒に拾いに言ってくれる?」

「あぁ、いいとも。」

返事を返しながら、野獣は自分の心に宿った感情を振り払うように首を振ってまた、窓の外を睨みました。雨は止んでいましたが、相変わらず暗い雲が立ち込めていました。

お前の物?この城に、お前の物など一つもない。全て、なくなる。全て、なくなる。その人間も、お前も。なくなる。

不快と恐怖が混じりあったような死神の声が、まるで耳にこびり付いたように放れない。何度も思ったことだというのに。何度も知ったことだというのに。今さら、いったい何を恐れるというのか。わかっている。期待なんてしていない。それでも、それなのに、

この娘は、俺のものだ。去れ。触れることは許さん。

あの時、なんの躊躇いもなく口から出た言葉は、本心だった。いつか、いなくなる。そうわかっているのに。彼女の眩しい笑顔を見ているだけで、彼女の明るい声が囁くように笑うだけで、どうしようもないくいらに愛おしくなる。彼女は自分の物だと、狂おしいほどに心が掻き乱される。触れたい、抱きしめたい、誰よりも、誰よりも、

「あ、野獣さん。救急箱を片付けたいのだけど、野獣さん?」

「・・あぁ、すまない。貸してごらん。私が、片付ける。」

考え事を振り払うように野獣は尻尾を振ると、少女の手から救急箱を受け取りました。少女は、少しだけ不思議そうに首を傾げた後、野獣の向こうに見える窓を見て呟きました。

「雨はすっかり止んじゃったのね。ああ、でも、まだ、ご飯までは時間があるわ。だけど、今日はもう、この部屋から出たくないし。あーあ、本を落としてきたのが残念だわ。」

少女のつまらなそうな様子を見つめ、野獣は困ったように耳を伏せました。長いこと、一人で過ごしてきたこの部屋に少女の喜びそうな物はなに一つありません。

「・・・そうだね、困ったな。電波ちゃんが、喜びそうなものは何もない。さて、どうしようか。」

「・・・ねえ、野獣さん。私、たった一つだけこの部屋でもできることを知っているわ。だけど、そのためには必要なものがいくつかあるの。それが、ここにあるのなら、私、夜ご飯まで退屈せずにいられる自信があるわ。」

野獣の前にやってきた少女は、その大きな瞳をキラキラと輝かせています。野獣は、ちょっと戸惑うようにその瞳を見下ろしていましたが、やがて覚悟を決めたように小さく溜め息をつきました。

「なんだい?私にできることなら、なんでも。」

「本当?やった。あのね、野獣さん、ここにブラシはあるかしら?私、ずっとずーっと、野獣さんのその毛をブラッシングしてみたいと思っていたの。だって、あんまりにもふわふわなんだもの。ねえ、いいでしょ?野獣さん、いいでしょ?」

野獣の腰にしがみつくようにして、少女が尋ねます。野獣は、おかしそうに喉の奥で笑うと、その流れるような髪にそっと手を乗せました。

「いいよ。今日は、怖い思いをさせてしまったお詫びに、電波ちゃんのしたいことをしてあげよう。待っていて、ブラシを持ってくる。」

「わーい!!やった!ありがとう、野獣さん!!」

少女は、ぴょんぴょんと跳ねるように喜ぶとさっそく床の片づけを始めました。


野獣の毛は、思った以上に滑らかでブラシを入れるとまるで吸い込まれるようにブラシが流れていきます。少女は、くふふと楽しそうに笑いながら膝に置かれた野獣の頭をブラッシングしていきます。

最初は、座るとかいいから、なんて言いながら遠慮していた野獣も最後にはとうとう折れて少女のふっくらとした健康的な太ももにそっと頭を乗せたのでした。

「野獣さん、気持ち良いでしょ?」

「あぁ、そうだね。こんな風に人に触られたのは初めてだよ。」

さらさらと梳かす栗色の毛は、本当に柔らかくて少女は何度も何度もブラシをその毛にかけました。野獣は、よほど心地よいのか、時折グルグルと喉を鳴らして目を細めます。

「ねえ、野獣さん。また、雨の日はこうしてブラッシングしに来てもいいかしら?」

「・・・ここに来るのは、危険だよ。また、あいつが出るかもしれない。私は、君を危険な目に遭わせたくない。少なくとも、クイーン側にいれば安全だ。奴もまだ、あそには出られないだろうからね。」

「そんなこと、言われても。なら、野獣さんが迎えにきてくれればいいんだわ。そうしたら、あのお化けに会っても大丈夫でしょ?」

「電波ちゃん、君という子は・・・本当に。」

ふわふわ、ふわふわ、少女は指に野獣の毛を絡めながら必死に打開策を模索します。

「だって、私、野獣さんともっと一緒にいたいんだもの。それに、あのお化けに会っても野獣さんがいれば、守ってくれるでしょ?」

「なるほど、電波ちゃんはとんだ小悪魔ガールのようだ。城中を手玉にとっただけでは飽き足らず、私までも手中に収めんとしている。」

「まあ、私、そんなつもりじゃ・・」

野獣の楽しそうな声に、少女は抗議するように気持ち良さそうに揺れていた耳をペタンと潰してみました。しかし、野獣は気にも止めないようにピクピクと耳を動かして喉の奥でくつりと笑いました。

「冗談だよ。いいよ、雨が降ったら、迎えに行くよ。電波ちゃん。」

「もう、野獣さんって時々とっても意地悪だわ。」

ずっしりと膝にかかる重みは、野獣の存在を少女に伝えていてなんだかとても幸せでした。

しかし、少女の指を感じながら野獣は、この幸せが長くは続かないことを知っていました。彼女の身を危険にさらすわけにはいかないと。長くここで過ごすほど、彼女が大切になっていきます。しかし、だからこそ、彼女がここにいてはいけないと思うのです。

そうだね、電波ちゃん。私は、とても意地悪なんだ。だから、君を突き放して傷つけて、なのにこうしてそばに呼んで追い出さなくてはいけないとわかっていながら、いつまでも放したくないと思っているんだ。

もう、遅い。わかっている。だけど、それでも、君が笑うから。

それからというもの、少女は暇さえあれば野獣の部屋に足を運ぶようになりました。雨の日は、野獣に迎えにきてもらい、天気の良い日はお供に椅子とカップを連れて。

「野獣さん、野獣さん、これこれ。この本なんだけど。」

少女は、パタパタと長い廊下を走ると慣れた様子で野獣の部屋の扉を開けました。

「電波ちゃん、君はこの部屋を自分の部屋と勘違いしているのかい?」

「そうね。私、最近ここによく来てる気がするわ。でも、それよりもね。」

また新しい服を洋服箪笥が拵えたのでしょう。真新しい黄色と緑の淡い色をしたスカートを靡かせながら、野獣のすぐそばに座りました。

「ずいぶんと懐かしい本だ。こんなものどこで見つけてきたの?」

「ピアノさんの部屋よ。これ、野獣さんの本?これ、何語なの?野獣さん、読める?」

「あぁ、私のだよ。けど、今はもう読めないよ。残念だけど。」

野獣は、穏やかな顔で少女を見つめてその頭に手を触れさせました。

「そうなの。残念だわ。あぁ、野獣さん。今日はとってもいい天気よ。私、ガーゴイルさんと東屋で待ち合わせしているの。それじゃあ、いってくるわね。」

パタンと本を閉じると、少女は来たときと同じように跳ねるように立ち上がり部屋を飛び出していきました。

 少女は、まるで空を自由に飛びまわる小鳥のように屋敷の中を気ままに飛び廻っていました。そうして、誰もが忘れてしまっていた住人を見つけ出しては、まるで始めから知っていたように明るい世界に引っ張っていくのです。

「俺は、期待してしまうよ。君が、そう微笑む度に、何度となく期待してしまうんだ。」

扉の向こうに消えていく小さな後ろ姿を見つめて野獣は誰に言うでもなく呟きました。

 少女は、階段を駆け足で降りると正面の扉に向かって行きました。

「うわっ!?」「きゃっ!?」

ちょうど現れた騎士と危うくぶつかりそうになりましたが、騎士の冷たい腕が少女の手を掴みました。

「おいおい、あんた危なすぎ。いくら慣れてきたからって前もろくに見ないとか。」

「あ、ナイトさん!久しぶりだわ。この前、ちょっと聞きたいことがあって探したのにどこにもいなくて。」

「あぁ。俺、一箇所にいないから。放浪癖があるから。んで、何?」

「え?」

「俺に聞きたいこと、あったんでしょ?なに?」

騎士は、少女の腰を捕らえたままカチャリと顔と思われる部分を近づけるとキラキラと光る銀色に少女の困惑した表情が映ります。

「・・・・えっ、と。・・・忘れちゃったわ。だって、ずいぶん前だったんだもん。」

「なんだよ。でんでんはやっぱ馬鹿だなあ。」

「でんでん?!まだ、それで呼ばれてたの!?」

「んで、そんなに急いでどこ行くつもりだったの?」

近くでキラキラと光る騎士の顔と思われる場所が、カシャンと軽やかな音をたてて傾きました。首を傾げているのだろうと、少女は難なくわかるようになりました。少女にとって人ではない物たちに囲まれているのが、普通になっていたからです。

「弟さんのところ。」

「お、弟さん?誰の、弟さん?」

騎士は、少女の腰から手を放すとまるで少女が会いに行くと言う弟さんを探すかのようにキョロキョロと辺りを見回し始めました。

「ガーゴイルの弟さん。ナイトさん、会ったことある?」

「がーごいる?・・あぁ、あの庭にいる奴か。俺、あの人怖いんだよね。なんか、適当じゃん。言うこともやることも。どこまで本気でどっから嘘なのかわかんなくてさあ。よく騙されたりしたんだよ。」

「へえ。」

ガーゴイルさんと会ってから、人間関係がよくわからなくなってきたわ。なんて思いながらも、少女はそれがなんだか楽しくてたまりませんでした。地図をほとんど完成させてしまったところだったので、少女は次はお城の人間関係を図式にしようかしらと考えました。

「で?でんでんは、そのがーごいるの弟さんに会いに行くのか。全く、あんたはあっちこっち行きたいとこに行けて羨ましいよ。俺なんて、辛気臭いジャックの中でしか歩き回れないってのに。」

拗ねたようにそう言うと、騎士はほんの少し見上げるようにして窓の外に顔を向けました。恋焦がれるようなその気持ちを少女は理解することなく、ただ見つめていました。

「そうだわ。ジャックの方で、私変なお化けに会ったのよ。ナイトさん、知っている?」

「変な化け物?・・・・あの人のことじゃなくて?」

「あの人?・・違うわ。野獣さんじゃない。もっと、こう、不気味、というか。怖い、・・そう、本当にお化けみたいな。」

少女の言葉に、えー、お化けえ、とカチャカチャと首を傾げました。それから、あぁ、と納得したような声とともにカシャンと手を叩きます。

「それって、なんか黒いマントみたいなの着てた?」

「着てた!着てたわ。身体全体を覆うくらいの大きなマントを。」

「あー、なるほどね。それ、死神だよ。俺も時々会うんだ。けど、あいつ、俺らにはあんまり興味ないみたい。まあ、自分がどうこうしなくてもその内手に入るからだろうけど。あんた、あれに会ったの?よく無事だったな。」

騎士は関心したように、笑うと硬い金属の手で少女の頭を撫でました。金属になってしまった騎士の指ではもう、少女の絹のような髪を感じることは出来なかったのですが、それでも騎士は優しく絹糸のようなそれに触れました。

「死神!?本当に?本当にあれは死神だったの?私ってば、本当によく無事だったわ。あぁ、でも、野獣さんが来てくれなかったら、本当に危なかったわ。あぁ。」

「え?あの人があんたのこと助けたの?なんで?」

「・・・?」

感じることのない感触を楽しむように行ったり来たりを繰り返していた騎士は、驚いたように手を止めるとまじまじと見つめました。それから、心底不思議そうに自分を見上げている少女に対して、へええ。とか、そうなんだああ。と、尊敬ともからかいともつかないような声を出しました。

「あんたさ、只者じゃないと思ってたけど、本当に只者じゃなかったね。・・・俺、あんたのこと、嫌いじゃない。」

「はあ、あ、ありがとう。ナイトさん。」

突然にそんなことを言われた少女は、困ったような照れたような表情でお礼を言いました。

「と、いう訳でね。私、なんだかわからないけど、ナイトさんに好かれているようなの。」

東屋にやってきた少女は、さっき分かれた騎士とのやりとりをさっそくガーゴイルに話し

ました。ガーゴイルは、それを東屋の屋根に乗りながら聞いていましたが、時々、楽しそ

うに笑っては懐かしいなあ。と、少しだけ寂しそうに言うのでした。

「そういえば、ナイトさんは弟さんのこと苦手って言ってたわ。弟さんは?ナイトさんの

こと、覚えている?」

「ええー。あぁ、まあ。なんとなくね。俺ってば、他の人より一人でいる時間が長いから、

色々と忘れていることが多いみたいなんだよねえ。」

ガーゴイルは、ばさりと伸びをするように羽根を大きく広げました。

「そうなの?」

「そう。うーんとね、待ってね。今、思い出す・・・ああ、そういや、前に庭に生えてい

る木の実食えるよ。とか、言ったら、マジで食ってたな。どう見ても、食用じゃなかった

のにね。確か、小さい頃だったから、見た目ではわかんなかったのかも。」

「あぁ。それで、弟さん、ナイトさんに嫌われているのね。」

怖い、と言っていた言葉の意味をしっかりと理解した少女は、内心このお城ってみんな怖

い人ばっかりだわ。と少し驚きました。

「なんかね。ちょっと、からかいたくなっちゃったのよ。わかるでしょ?子猫とかさあ、

そういう小動物ってさ、からかいたくなるでしょ?」

ガーゴイルは、楽しそうにそう言うと屋根の上から、顔だけを逆さまにして出しました。笑っているのか、鋭い牙を口の端から見せて、もちろん、おじょーちゃんもね。と、実に楽しそうな声音で言うのでした。

「私、小動物じゃないわ。」

「そうね。そうね、でも、俺から見たらおじょーちゃんは、小動物なわけよ。大きさもだけど、その反応とかくりくりしてるところとか。」

ガーゴイルは、ふざけたように、がおーと吼えながら口を大きく開けました。ガーゴイルは、石でできた石像でしたがその作りはとても精巧で口の中までしっかりと牙が生えていました。少女は、それを覗き込みながら、これでもぐもぐと噛まれたら相当痛そうだわ、とごくりと生唾を飲みました。

「・・・弟さんって本当、意地悪ね。ねえ、裏のお庭にいるお兄さんも、そんなに意地悪なの?」

「え?あー・・いや、どうだったかな。基本的に俺とあんま変わんないよ。背丈も、声も、顔も、だけど、喋り方は違うかな。でも、意外にいたずら好きだよ。よく、俺の真似とかしてたし。城の奴らも、俺たちのこと見分けられなかったから。」

「へえ。会ってみたいなあ。あなたとそっくりなお兄さんに。」

呟くように言って、少女はお城を見ました。裏と表のお庭は、まるでお城が仕切るように建っているので片側から向こうを見ることは、出来ません。ガーゴイルに乗せてもらうことも考えましたが、ガーゴイルはどうやらお城より高くは飛べないらしく何度試しても向こうを見ることすら叶いませんでした。

「・・・まあ、あれだな。どーしても見たくば、道は一つってね。」

ひらり、顔を垂らしたままガーゴイルは、身体を投げ出し、身を翻して地面に降りました。

「なあに?」

ぐうっと首を伸ばして少女の顔を覗き込むと何の光りを映さない瞳が、それでも楽しそうに細くなったように見えました。

「頼むのよ。旦那に。裏のお庭が、見たいって。だって、あそこは旦那の庭だからさ。」

「野獣さんに?・・・でも、たぶん、ダメって言われるわ。それに、私、野獣さんをまた怒らせてしまうのが、怖い。嫌われてしまうのが、怖いの。」

もじ、もじ、躊躇うように戸惑うように少女はスカートの端をいじります。前に怒られたときでさえあんなに悲しかったのです。前より仲良くなった今、野獣に怒鳴られることを想像しただけで悲しいような切ないような気持ちになります。

「・・・なるほど。なるほど。おじょーちゃん、可愛いねえ。」

「・・・なんなの、みんなして。今日は、私をからかうのね。」

ガーゴイルは、その大きく硬い手でわしわしと少女の頭を撫でました。重くないように力は込めずに、優しく穏やかに手を動かすのは中々久しぶりでガーゴイルは、その動かしづらさがなぜか少し嬉しくもありました。

「だから言ったでしょうが、小動物はからかいたくなるって。」

ガーゴイルは、楽しそうに喉の奥で低く笑いました。

 午後、日が暮れるのがすっかり早くなってしまったので少女は夕方から夜までピアノの部屋で過ごすことにしました。ピアノの周りを楽しそうに跳ね回る椅子を見つめ、少女は朝から昼まで騎士とガーゴイルにからかわれたことを話しました。

「ね、みんな酷いでしょ?ピアノさん、どう思う?」

少女の話を優しく促しながら、聞いていたピアノでしたが最後に頬を膨らますようにして言われた言葉に堪らず、軽やかなラの音で笑い出してしまいました。

「それはずいぶんと散々だったんだね。だけど、羨ましいな。電波姫は、どこにでも行けるんだから。僕は、こうしてここを動くことが出来ずに一人ぼっちさ。」

「・・ナイトさんも、同じことを言っていたわ。それに、ガーゴイルさんも。」

少女は、少しだけ開いたカーテンの隙間から窓の外を見ました。ちらちらと輝く星に彩られて僅かに裏の庭が見えます。爛漫と咲き誇る薔薇は夜の闇ではその燃えるような紅色さえ見つけられません。不意に少女は、この庭に行かなくてはいけないような気持ちになりました。この広いお城でたった一人、それはどんな気持ちかしら。少女は、小さく誰に言うでもなく囁きました。

「電波姫、僕にも約束してくれるかい?もう、危ないことはしないって。死神には、僕は会ったことがない。だけど、奴にとって君はこのお城で会うことができる唯一の煌く命なんだ。もう、死が決まっている僕らとは違う。まだ、その炎を燃やす真っ赤なアンタレスなんだ。だから、お願いだよ。電波姫、」

僕の前から、消えてしまわないで。請うように祈るようにピアノは今まで聞いたことのないくらい悲しそうな声を出しました。少女は、きゅうっと胸が締め付けられるような気がしました。このお城でピアノがこうして話しが出来るのはたぶん、少女だけです。時計やろうそくだって足を運ぶことは出来るでしょう。ですが、万が一にもその途中でピアノのことや、行く場所を忘れてしまったら、ピアノだけではなく時計やろうそくもお城の一部になってしまうのです。

「もちろん、もちろんだわ、ピアノさん。私、何度だってこうしてピアノさんとお話に来るし、死神さんに会ったら絶対に逃げる。ううん、会うようなことはしないわ。だから、ピアノさんも、ちゃんと私が来たらお話してね。」

そっと触れた鍵盤は、そんなはずはないのに僅かにしっとりと湿っているような気がしました。それを撫でるように音を鳴らしてから、少女はゆっくりと深呼吸をしました。埃っぽい部屋の空気は、今では少女の一部です。

「君が、いる限り僕はこうしてここにいるよ。電波姫、大切な僕の小さなプリンセス。」

「・・・まあ、ピアノさんまで。やっぱり、このお城にいる人はみんな意地悪ね。そうやって私をからかってばっかり。」

ピアノの言葉に、照れ隠しのようにおどけて笑うと、少女は足元に落ちている楽譜をいくつか拾い上げました。椅子を呼ぶとそれにふんわりと腰掛け、譜面台に楽譜を乗せます。

「さて、今日はその曲を仕上げてしまおうか。題名は、決まっているんだ。僕の愛しの電波姫。なんてどうだい?」

「まあ。ピアノさんってば、そんな意地悪ばっかり言ってると、曲を譜面に書き取ってあげないんだから。」

少女の言葉に、ピアノは軽やかに笑いました。

 その日の夜、少女は心を決めたようにきゅっと手を握りしめて野獣が来るのを待っていました。ガーゴイルやピアノの話を聞いて一つ、決めたことがあったのです。

 九時を告げる鐘が鳴り、今や慣れ親しんだ野獣の咆哮が聞こえてきました。せっせと料理の後片付けをしていたお皿やカップたちは、慌てたように動き出します。

「姫さま。お茶のお代わりはいかが?」

「ありがとう、ティーポット夫人。いっぱいくださる?私、喉がからからなの。」

お代わりをもらおうと差し出したカップを持つ手が、小さくカタカタ震えているのが見えて、ポットは眉を潜めました。

「どうなさったの?電波姫さま。お手が震えていますわよ?」

「・・・・本当だわ。あぁ、私、なんだかわからないけど、緊張しているの。簡単なことなの、裏のお庭を少しだけ見せてほしいって野獣さんにお願いしたいの。だけど、あそこは野獣さんの大切なお庭でしょう?あぁ、絶対にダメって言われるわ。」

少女は、キョロキョロと視線を辺りにさ迷わせて困ったように笑いました。ポット夫人は、そんな少女の言葉を聞いてたっぷりと入っている良い香りの紅茶を溢さんばかりに驚きました。

「だめ、だめだめだめです!そんなの絶対に許されるはずがありません。せっかくご主人さまと姫さまが心を通わせ始めたというのに。そんなことを頼んではいけません!」

ポットの猛反対に少女はたじろぎながら、確信に満ちた瞳でポットを見つめました。

「だけど、それでも、私はあの薔薇を見なくてはいけない気がするの。どうしてだか、わからないけど。私、そうしなくちゃいけないと、そう思うの。」

「電波姫さま。」

ポットが、まだ何かを言おうとするのと同時に広間の扉が勢い良く開きました。マントを羽織った野獣が、いつものようにゆっくりと静かに広間に入ってきます。

「こんばんは、電波ちゃん。」

「こんばんは、野獣さん。」

ポットは何か言いたげに少女を見ましたが、野獣が少女の正面の席に座ったのを見て恭しく礼をして(その拍子に机に少し紅茶を溢して)下がってしまいました。

「今日は、晴れてよかったね。君が外で飛び回るのが、私の部屋から見えたよ。」

「まあ、本当に?私ってば、全然気がつかなかったわ。」

少女は驚いたのと恥ずかしいのとで頬を赤く染めて俯きました。そんな少女の様子を野獣は頬杖をつきながら愛おしそうに目を細めて見つめていました。

「やはり、君は眩しい光の元にいた方が良い。今日改めてそう思ったよ。」

野獣の言葉に少女はほんの少し何か引っかかりを感じましたが、その正体を確かめる前に少女の口は、野獣さん、と目の前のその人のことを呼びました。

ん、と頬杖を突いたまま野獣は、優しく相槌を打ちました。少女は、カラカラに乾いた口を開いてきゅうっと小さな手の平を握りしめて、野獣さん、ともう一度、今度は少し大きな声でその名前を呼びました。

「私、私、裏のお庭に行きたいの。野獣さんの大切なお庭だってことは、わかっているわ。だけど、私、どうしても裏のお庭に、行きたいの!!」

一気に捲くし立てるようにそれだけを言うと、野獣は驚いたように目を大きく見開いたまま、少女を見つめていました。少女は、それすら気づかずにはあはあと息を吐き出して吸ってを繰り返していました。やがて、野獣は思案するように目を伏せると一つ二つ、溜め息を吐きました。少女は、整った息をしながらそれを聞いていました。野獣さん、怒ったかしら。そんなことを考えながら、野獣からの言葉を待っていました。

「・・・そうだね、そろそろ、そうした方がいいのかもしれない。」

「・・・だめ?・・ですか?」

野獣は、相変わらず目を伏せたまま呟きました。それを否定と取った少女も悲しそうに目を伏せて真っ白なテーブルクロスに視線を落としました。

「いいよ、電波ちゃん。君を裏の庭に案内しよう。」

「・・・・え、・・・・え、・・・ええ?」

穏やかに野獣は笑うと妙に明るい声でそう言いました。まさか、こんなにあっさり許可をもらえるなんて思っていなかった少女は、しばらく言葉を飲み込めずにポカンと口を開いたまま、穏やかに光る野獣の大きな瞳を見つめていました。

「ふふ、君が言ったんだよ、裏庭を見たいって。」

「でも、本当にいいの?だって、あそこにはいくなって。」

「・・・そうだね。でも、もう、いいよ。君は、特別だ。」

困ったように、それでいて恥ずかしそうに野獣は少し大きな声で言いました。少女は、ほんの一瞬だけ驚いたように目を見開いてから、嬉しそうに顔中で笑いました。

「本当!?ありがとう、野獣さん!!私、本当に、本当に嬉しい!!野獣さん!」

ぱたぱたと嬉しそうに跳ねる少女を見つめる野獣の瞳はどこか悲しげでしたが、少女はそのことに気づくことはありませんでした。

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