第四章


 次の日から、少女は城の掃除をし始めました。元々、家にいた頃から掃除も洗濯も得意とまではいかなくてもしていた少女は、汚れても良いように埃まみれになったスカートをもう一度着て使わなくなった布を雑巾に縫い直しました。それから、昨晩野獣に教わった階段の下にある掃除用具入れを開けました。

「箒、箒っと、」「あら?私めを呼ぶのはいったいどなた?」

狭い暗闇の中から突然、声がして少女は飛び上がりました。それから、ここでは何でも喋るんだったわ、と思い出し試しにもう一度、今度は呼びかけてみました。

「箒はいったいどこにいるの?出てきてくださる?」

「はいはい、私めはここでございます。」

高いソプラノ歌手のような声がしたかと思うと、少女のすぐ脇からカタンカタンと長い箒が動き出しました。それに道を譲るように少女は、後ろ向きに掃除用具入れから出ました。カタンカタンと音を鳴らしたまま、箒もそれに続くようにして日の光の元に出てきました。

「始めまして、箒さん。」

「始めまして、始めまして。私めは、箒でございます。あまりにも長いことあそこに篭っておりまして・・・あぁ、お日様の光が眩しい。」

箒が、恭しくその長い柄を曲げてお辞儀をしました。すると、すぐそこにいたろうそくが何かを思いついたように、あっと声を上げました。

「どうしたの?ろうそくさん、」

「思い出しました。いや、どうして忘れていたのでしょうか。・・・この箒は、私の家内でございます。」

「・・あら、そうだ。あなた、私めの旦那じゃないの。あらやだ、私めもすっかり忘れていましたよ。そうですとも、あの日、喧嘩をしてここに閉じこもって・・」

箒とろうそくは、懐かしむようにお互いを見つめました。それから、そっと近づいて手を握りました。しかし、その途端、箒の夫人がキャッと短い悲鳴を上げて後ずさります。

「熱い!そうだ、思い出した。あの日もこうしてあなたに触ろうとして火傷をしたんだわ。そうして、そうだわ。」「そうだ、思い出した。それで、お前を探しに行ったが、途中で、ああ、どうして忘れていたんだろう。」

少女は、目の前で繰り広げられる会話を聞きながら、騎士が言っていた言葉を思い出していました。そうして、全てを忘れてしまう前に箒夫人を見つけることができて良かった、と一人安心しました。

「可愛らしい姫さま、どうもありがとうございました。おかげで、私めはこうしてまた再び旦那と会うことが出来ました。」

「いえ、私も嬉しいです。」

「本当に、なんとお礼を言っていいのか。電波姫様は、私たちにたくさんの物を与えてくださっているのに。」

「そんな!私だって、みなさんからたくさん良くしてもらっているんですもの。それに、これから掃除をするのにただ箒を探していただけで・・・そうだ、掃除!箒さんがいれば掃除なんてあっという間に終わるでしょう?力を貸してくださる?」

箒は掃除をするものでしょう?少女はそう悪戯っぽく微笑むと目を細めたまま辺りを見回した。人目につくところは汚れていないものの、暮してみるとこの城は大層汚いのです。そのため、一日中屋敷を走り回る少女のドレスは何着作ってもすぐに埃まみれになってしまうのです。

「ドレスは洗えるからいいけれど、私は毎日野獣さんのところにお風呂を貰いに行くのは、なんだか野獣さんに悪いし・・だから、できる範囲で掃除をしたいの。それに、ついでにこのお城の中も探検したいわ。」

「はいはい。ようございますよ。私めにお任せください。・・みんな、出ておいでな。私めたちのお姫様がお呼びだよ。掃除の時間だよ!」

箒の高らかな声に呼ばれるように掃除用具入れがガタガタと動き、中から次々と掃除用具たちが出てきました。全員が少女に恭しくお辞儀をして一列に並びました。

「まあ、すごい。」

「さあ、さあ、徹底的にやるよ!久しぶりの仕事だわ。それ、掃除、掃除!」

箒の夫人の歌に合わせて、塵取りにモップに箒が一斉に屋敷中に散らばります。箒は踊るように床を掃き、塵取りはステップを踏むようにゴミを集めて行きます。そうしてバケツがどこからか水を汲んで雑巾が空を舞います。まるで舞踏会のようなその光景に少女は口をぱっくりと開けたまま、言葉も発せずに見入っていました。

「綺麗にしましょう、お城の中を。ランプはピカピカ、光るのは、床。掃除、掃除よ、お掃除よ。ゴミはポイポイ、落ちているのはない。掃除よ、掃除。お掃除よ!」

この分じゃ、私の出番はどこにもないかもしれない。少女は、そう思って邪魔をしないようにと、近くにいたろうそくに一言告げ、ここを放れることにしました。

「ろうそくさん、私、ここにいても邪魔になりそうだから・・・別なところにいるわ。」

「あぁ、電波姫。でしたら、庭の掃除をなさってみては?我々は、外には出られませんので、庭の掃除はできないのです。」

「あら、そうなの?じゃあ、そうしてみるわ。あとはよろしくね。」

少女の言葉に、ろうそくは動かない小さなバケツと箒と塵取りを差し出しました。少女は、お礼を言って掃除用具を持ち庭に出る扉に向かいました。

 荒れ果てた大きな庭に出るのは、この城に初めてやってきたとき以来です。少女は、この茫々とした荒野をどうやって自分一人で綺麗にするのか。今度は人手不足に嘆くことになりました。

「ああ、困ったわ。とりあえず、箒で散らばっている草を集めてみようかしら。」

少女は誰に言うでもなくそう呟くと、箒を使って庭の道に落ちている枯れ草を掃いていきます。しかし、屋敷同様にこの庭もとてつもなく広いため、まだ半分もしない内に少女は額に薄っすらと汗を浮かべ、ぺたりとその場に座り込んでしまいました。

「はあ、はあ、これは中々手ごわいようだわ。中の掃除の方が早く終わるわね。」

少女が庭に誰もいないことを良いことに、少し大きめの声でそう言ってベタリと掃いたばかりの道に体を投げ出したときでした。

「おいおい、おじょーちゃん。それはちょっと大胆すぎるんじゃないの。」

「!!」

どこからか、声がしたのです。

少女は、驚いて横になったまま辺りをぐるりと見ますが、真っ青な空が広がっているだけで誰もいません。不思議に思いながらも、ひょっとしたらこの一瞬で眠ってしまっていたのかもしれない。寝ぼけてしまったのかもしれない、そう思っていると、

「いやいや、見えてますよ。おじょーちゃん、スカートが捲れてる。」

「!!!」

少女は、その言葉に急いで立ち上がりました。それから、今度は注意深く辺りを見回します。その間もずっと、低く太い声がクスクスと喉を鳴らすように笑っている声が聞こえています。

「ここ、ここ。君が、噂の電波姫ちゃんだろ?おじょーちゃん。」

「・・・あ、鉄塔の上のガーゴイル、さん?」

「大正解、です。」

声に呼ばれて上を見ると、綺麗な彫刻を施された鉄塔の上に座るガーゴイルの象が、大きな羽を畳んで少女を見下ろしていました。

「ガーゴイルさんも、喋れるのね。」

「そうね、俺も喋ったのは結構久しぶりなんだけど。・・・なにせ、ほら。ここに来る奴って大抵、急いでるから。俺が話しかけると話しがややこしくなるでしょ?」

ガーゴイルは、その恐ろしい姿と低く太い声とは対照的に楽しそうに朗らかに言葉を続けます。

「おじょーちゃんの噂はよく聞こえてきてるよ。ずいぶんな、お転婆ちゃんなんだってな。確かに、会って早々にパンツ見せられるとは思わなかったなあ。」

「ちが、だって、誰もいないと思っていたから!!」

ガーゴイルは、また喉の奥で笑うと背中に生えた銀色の羽をばさりばさりとバタつかせました。確認するように数回動かして、よし、と言うと下にいる少女に言います。

「ちょっと、退けて。降りるから、」「はい。」

 降りてきたガーゴイルは、近くで見ると野獣と同じくらいに大きくて恐ろしい表情をしています。皮膚は、石で出来ているのか固そうに見えます。

「へえ、なるほどな。近くで見ると可愛いじゃない。おじょーちゃんってば、」

「ガーゴイルさんは、大きいですね。それに、固そうです。」

「うん、だろうね。俺も、自分で相当固いんじゃないか、と思う。」

ガーゴイルは、そう言うと鋭い爪をカチカチと自分の腕に当てて軽やかに音を鳴らします。少女も、それに釣られるようにそっとその小さな手をガーゴイルの腕に触れました。

「石、ですね。」「そうだね。俺も、石じゃないかと思ってたわ。」

冷たくすべすべとした石の感触は、屋敷の中にある大理石とは違う。もっと、雑に自然界にあるような、その辺りの山に落ちているような石です。少女は、不意に小さな頃に兄と一緒にこんな感触の石を積み上げて遊んだことを思い出しました。

「おじょーちゃん、ゴミいっぱいついてるよ。葉っぱも、木の枝も。いったい、城の中でどんな生活を送ってきたの。あそこ、今、そんなに汚いの?」

ガーゴイルの言葉に、少女はそういえば今は掃除の最中だったことを思い出しました。慌てて辺りを見回すとさきほどのガーゴイルの着陸でせっかく集めた枯葉や木の枝が無造作に散らばってしまっていました。

「これは、なんとも・・・日が暮れるまでに終わるかな。」

「なに?もしかして、何かしてた?俺てっきり日向ぼっこでもしてるのかと思ってた。」

大きく固い、叩かれたら痛そうな手の平を器用に動かして少女の頭に付いた葉や木を取りながら、ガーゴイルが答えました。低く太い声でしかしどうでも良さそうに間延びした口調は、門番であるガーゴイルでありながらどこか朗らかな性格同様正反対で不釣合いに思えました。

「違います、私掃除してたんです。お城の中もお庭も、とても綺麗とは言えないじゃないじゃないですか。だから、掃除をしにきたんですけど・・私一人で手に負えないのでちょっと休憩してたんです。」

「あーなるほど、確かにちょっと荒れてんね。俺ってどれくらい仕事サボってたんだろう。言われてみれば、荒れてんね。」

ガーゴイルは、少女と一緒にぐるりと周りを見回してそれから、少女の腰をそっと引き寄せました。

「わっ!?なんですか?」

「ちょっと、じっとして。飛びまーす!」

驚いて身を引こうとした少女を固定するように抱えて、ガーゴイルはバタバタとまた羽をバタつかせました。そうして器用に飛び上がります。少女の足はふわりと地面を離れてあっという間に庭を見下ろせるほどの高さ、さきほどまでガーゴイルが乗っていた鉄塔の高さにまでになっていました。

「うわ!ガーゴイルさん、飛んでます!飛んでますよ!」

「そう、俺ってば飛べんのよ。あぁ、本当だ。結構荒れてんね。うわ、あの木なんて枯れちゃってる。ああ、全然気がつかなかったなあ。あ、あそこも、もう花すら着けてない。」

「うわ、足が、足がすーすーします。足元に何もありません!ガーゴイルさん、お庭は、まるで幽霊庭状態です!」

「うん、そうね。俺も今、そう思った。なんで気づかなかったんだろう。俺そんなに動いてなかったのか。ああ、やベーな、危なかったな。」

ガーゴイルとともに庭を低空飛行しながら、少女はそれにしても広い庭だな。と思いました。それから、これを綺麗に戻すにはいったいどうしたらいいんだろう、と考えました。そんな少女の思考を読んだわけではありませんが、ガーゴイルが少女を抱えながら言いました。

「これ、俺がなんとかするからおじょーちゃん、手伝ってくれる?」

「なんとかって?ガーゴイルさんが?」

「そう。・・・そう、俺、確かなんか庭師だったみたいな気がすんだよね。だから、本当は俺がここを綺麗にしておかなくちゃいけなかったんだよ。・・そう、んで、俺確か双子だったんだよ。そうそう、兄貴が裏側の庭にいるんだ。俺たちは、二人で庭師だったんだ。ああ、そうそう。おじょーちゃん、俺のことはガーゴイル弟って呼んで。」

ガーゴイルは、懐かしそうに言いながら次々と色々なことを思い出したようでした。少女は、こうしてたくさんのことを自分のことを大切な人のことを忘れてしまっているというのは、どんな気持ちなんだろうか。どれほど辛いのだろうか、と言いようのない悲しみとこの城にいたら自分もいつかそうなってしまうのだろうか、と不安を感じました。

「ガーゴイル弟さん、このお庭、綺麗になりますか?」

「そうね。・・・ま、大丈夫でしょ。俺に任せてくれれば、行けんじゃない。」

ガーゴイルは、バタバタと石の羽根を少し重そうに羽ばたかせながら庭を隅々まで飛んで眺めました。その間、少女はごつごつと固いガーゴイルの体が痛くて何度か身を捩りました。

「ふんふん、あぁ、なるほどね。うん、わかった。おじょーちゃん、降りるよ。」

なので、ようやくガーゴイルがこう言った時にはホッとしてしまったのでした。

 ガーゴイルは、少女に衝撃を与えないようにそっと地上に降り立ちました。それから、少女のことを放しました。少女はといえば、まるでお風呂場で眠ってしまったときのように体のあちこちがガチガチと痛み、鳴っているような気がして少し伸びをしました。

「弟さん、なんとかなりそう?」

「あぁ、大丈夫そうだな。枯れてる木と花は俺が採るから、おじょーちゃんはそれを一箇所に集めてくれる?」

「はい、弟さん。」

少女の返事にガーゴイルは、その石のような表情を少し緩めました。

 ガーゴイルは、その見た目通りに恐ろしい力を持っているらしく少女の背丈よりも大きな木をいとも簡単に根元から抜いてしまいます。それを少女は目を丸くして見つめていましたが、ガーゴイルがその木をぽいっと少女に向けて投げてこんなことを言うもんですから、どうしたらいいかわからなくなってしまいました。

「じゃあ、おじょーちゃん。これ、どっかに集めて。」

「・・・はい?こ、これを・・ですか?」

「うん。そう。」

これは困った。少女はそう思いましたが、手伝うと言ってしまった手前、断るわけにはいきません。意を決して目の前に横たわる大きな木をつかみました。しかし、少女の小さな手ではどんなに力を入れても大きな木は全く持ち上がりません。

「・・・さて、おじょーちゃん、次は・・・あれ、」

「うぐぐ、ぐぐっ・・」

「あぁ、そっか。おじょーちゃんにはちょっと重かったね。」

「ひゃあ!!」

ガーゴイルは気がついたようにそう言うと、少女がしがみついたままの大きな木をひょいと肩に担ぎました。少女は、手を放そうにもガーゴイルがそのまま動き出してしまったので降りれずに木にぶら下がっていました。

「おじょーちゃんみたいな、おじょーちゃんを見たの久しぶりだから、俺の常識が鈍ってっかも。言ってね、そういうときはちゃんと。」

「はい、わかりました。」

「他の奴らもそうだと思うから。ちゃんと言ってやってね。特に旦那なんてあの姿になる前から、そういうとこがあったから。」

「旦那?」

ぷらり、ぷらり、少女はガーゴイルの肩越しに揺れる景色を見ながら首を傾げました。

「そう、旦那。・・・・あれ、旦那って呼んでたんだよな。ほら、あの人のこと。」

「野獣さんのこと?」

「うん?野獣?・・・・あぁ、そうそう。あの人、俺と兄貴は旦那って呼んでたんだよ。この城の旦那だから、旦那。ま、俺より年下だったからちょっとからかって呼んでたんだけど。・・・・降ろすよ、おじょーちゃん。」

ガーゴイルは喋りながら、庭の中央に木を降ろしました。少女もそっと足を付けて木から離れました。丸く円になっている庭の中央には枯れて水が出なくなっている噴水がありました。

「この噴水は、もう壊れちゃっているのかしら。水が出ているのが、見たいわ。」

呟くように言った言葉に、ガーゴイルは朗らかに、直せるよ。と返しました。

「ま、今すぐは無理だけど。先に庭をなんとかしないといけないだろ。」

ほらほら、とガーゴイルは急かすように少女を次の枯れ木に呼びました。少女は、もう一度、噴水を見上げてからガーゴイルの元に駆け出しました。

 ガーゴイルは、今まで動いていなかったのが嘘のようによく働きました。枯れた木は次々と抜いて、中央の噴水のそばに並べて行きます。少女は、枯れた花の蔓や雑草を少しづつではありますが、抜いて集めました。

「結構あるなあ、すごいね。これで焚き火とか出来そうだ。」

「葉っぱもたくさん集まったから、かなり大きな焚き火になりそうだわ。」

少女も、山のように積みあがった枯れ葉や枯れ木を見つめ満足げに微笑みました。

「片付けは、うまく行けば明日には終わるかもな。新しく植える種がないのが、残念だけど。今、咲いている花を綺麗に剪定するのが優先だな。よし、今日はあと水を撒いて終了ね。暗くなってきちゃったし。おじょーちゃんも、ボロボロだし。」

「え?あ、本当だわ!私、夢中になって、あぁ、ドレスが破けている!!」

ガーゴイルに言われて、少女は初めて自分が泥やら草の汁やらで酷く汚れていることに気がつきました。それに辺りはとっくに陽が暮れ、薄暗くなっていました。

 全てを終えて、ガーゴイルに入り口まで送ってもらう頃にはもう、少女はクタクタに疲れてしまっていました。それに朝ご飯を食べたきりだったのでお腹もぺこぺこでした。

「今日は、どうも。おじょーちゃん。また明日、手伝ってくれる?」

「はい、弟さん。また、明日!!」

そう言うと、ガーゴイルは大きな羽根をバタつかせ、また庭のどこかに飛んでいってしまいました。少女は、それを見送ると大慌てで広間に駆け出します。

「大変だわ、今は何時かしら。」

パタパタと疲れた足を必死に走らせ、少女は広間の扉を開けました。

「あ、野獣さん!」「・・・・電波ちゃん、」

そこには、もう野獣がその大きな体を席に座らせていました。少女が弾む息を整えようとしている様子を野獣はその大きな瞳を開いてじっと見つめていました。

「あぁ、電波姫さま、探しましたぞ!おお、そのお姿はいったい?」

「ごめんなさい。外の掃除をしていたら、こんな時間に・・・」

「本当に、外の掃除かい?本当は、・・・ここを逃げ出そうとしていたんじゃないのか?」

野獣は、鋭い牙を剥くように低く唸りました。少女は驚いたように野獣を見ました。それから、大きな瞳をパチパチと瞬かせ同じように大きな野獣の瞳を受け止めました。

「何を、言っているの・・・野獣さん、」

「本当は、俺の姿が恐ろしいんだろう。本当は、この城が不気味なんだろう。本当は、ここから逃げ出して家に帰りたいんだろう。」

「野獣さん?」

野獣は、がたんと椅子を倒して立ち上がりました。それから、広間の扉の前で驚いたようにそれを見つめている少女に吼えるように叫びました。

「お前も、そうやって俺の元を去るんだろう!!」

あまりの迫力と悲しい拒絶の言葉に、少女は大きな瞳をいっぱいに開いたままポロポロと涙を零しました。

今まで、こんな風に少女の言葉を遮るように怒鳴るようなことをしなかった野獣が、どんなことをしても大きな瞳を細めて優しく少女を見つめていた瞳が、こんな風に鋭い色を宿して少女を睨んだことなんてなかったので少女は頭が真っ白になりました。

 成り行きを見ていた食器たちは、どうしたものか、とおろおろと机の上をさ迷うばかりです。

「ご主人さま、落ち着いてください。」「姫さま、泣かないで、姫さま。」

しかし、少女の涙は留まることなく次々と溢れて頬を伝います。そうして野獣が体を動かした途端に少女は、くるりと踵を返し今入ってきた広間を飛び出しました。

「姫さま!!」

「ご主人さま、なぜあのようなことを!!」

「・・・・本当のことだ。誰が、俺のような恐ろしい怪物を、この城を、愛してくれると思う。そんなこと、あるわけがないのだ。」

パシン、と野獣は乱暴に尻尾を鳴らすと怒りを込め、机の上にあった物を腕で全て振り落としました。

 少女は、広間を飛び出したもののどうしたらいいかわからずに、足が赴くままに走りました。次々と溢れてくる涙のせいで前はよく見えませんが、辛うじて物にはぶつからずにある部屋の前にたどり着きました。

「・・・おや、電波姫、お久しぶりだね。どうかしたのかい?泣いているようだけど。」

それは、初めて探検したときに見つけて以来、少女のお気に入りの場所であるピアノの部屋でした。

「・・・わ、私っ、どうし、たら・・いい、か。」

ひくひくと痙攣したようにしゃっくりをしながら、少女はピアノのそばに行きました。それから、椅子がいないことに気づき仕方なく本の散らばった床にしゃがみ込みました。

「いったい何があったのかな。僕でよければ、話を聞こう。」

穏やかな心地よい声に、少女はピアノに今日の出来事を語り始めました。時々、涙を零しながらしゃっくりで中断しながらも、ピアノは急かすことなく優しく相槌を打って話を聞いていました。

 そうして、野獣から逃げるように飛び出してきたことを話たときにはもうすっかり少女はくたびれてしまって涙もいつの間にか止まっていました。

「なるほど、それはとても辛かったね。電波姫は何も悪くないよ。気にすることはない。明日も庭のガーゴイルを手伝ってあげるといいよ。彼はとても優しい庭師だった。僕は、良く悪戯をして木に登ったりしてたな。懐かしいよ。」

「本当に?ピアノさんが、そんなことを?」

「そうさ。僕はこう見えて行動的なんだ。庭師の兄の方には何回追いかけられたか。」

ピアノは懐かしむように、ラの音を鳴らしました。

「ガーゴイルのお兄さんはどこにいるのかしら。私、今日一日お庭にいたけど、会わなかったわ。」

「兄の方は、裏の庭にいるんだよ。けど、あそこには行かないほうが良い。あそこは、あいつの場所だから。入ったら、また野獣に怒られてしまうよ。」

ピアノの言葉に、少女はまた涙が込み上げてきそうになりましたが、ぐっと唇を噛んで我慢しました。それから、大きく溜め息とともに涙を吐き出します。

「・・・・どんな、性格なの?弟さんと似てる?」

「そうだな。顔はそっくりだったよ。同じ顔で同じ身長で、同じ声だった。だけど、性格は全く逆だ。どこも似ていないんだ、びっくりするくらいにね。兄の方は、ほとんど喋らない。喋っても無愛想でぶっきらぼうで・・・僕は、正直に言うと苦手だった。」

「へえ、想像もできないわ。」

少女は言いながら、弟と同じ姿をしたガーゴイルが全く表情を動かさないところを想像しようとして、それじゃあ普通のガーゴイル像だわ。と思いました。

「そうだね。・・・・あぁ、久しぶりに会いたいな。ピアノになってから、僕は他の誰とも会っていないんだ。君が、来てくれるまでね。」

夜の暗闇の中、少女は目を凝らしてピアノの姿を見つめようとします。しかし、黒いピアノは暗闇の中では辺りの暗がりに溶けるようでうまく捉えられません。

「ピアノさん、」

「電波姫、確かに野獣は怖いかもしれない。あいつは、昔からそうなんだ。誰も信じられない、誰にも心を許せない。悲しいやつなんだ。だから、どうか電波姫、君があいつを救ってあげてくれないかい?僕らを救っているように、あいつも救い出してほしい。」

少女は、言われたことを飲み込むようにじっと黙っていましたが、そのうちにだんだんと眠くなってしまい、体を床に横たえました。

「私、でも、どうしたら、いいか。」

「そうだね。僕らも、あいつをわかってあげることが出来なかった。だから、僕らにもそれはわからないんだよ。でも、電波姫、それでも僕らは願ってしまうんだ。」

少女は、疲れきっていたためピアノの言葉を最後まで聞けずに瞼を閉じてしまいました。

「君なら、彼を、僕らを、元に戻し生かすことができるんじゃないだろうか、と。」

ピアノは、誰もいない闇の中にそっと言葉を落としました。


 朝、眩しさを感じて少女は目を開きました。それから、少女のことを誰かが呼んでいるのが聞こえてきます。

「姫さま、電波姫さま、起きてください、電波姫さま!」

「・・・・ん?」

ゆっくりと声のした方を向くとそこには、時計が立っていました。小さな背を必死に伸ばして少女の腕を揺らしています。

「電波姫さま、朝ごはんが出来ていますよ。それにこんなところで寝ていては風邪を引いてしまいます。」

「時計さん、おはようございます。・・・あぁ、私あのまま眠っちゃったのね。ふぁ、お腹がぺこぺこだわ。」

少女は言いながら、重い身体を起しました。それから、昨晩、自分の部屋ではなくピアノの部屋で眠ったこと、そうしてなぜそうなったのかを思い出しました。

「さあ、電波姫さま。参りましょう。男爵、姫さまを見ていてくださってありがとうございました。」

「いいや、僕も君にまた会えて嬉しいよ。・・時計くん、」

時計はピアノに向かって恭しく頭を下げるとスタスタと歩き出してしまいました。少女は、それに付いていくためにピアノに短く礼を告げ歩き出しました。

「またいつでもおいで。頑張ってね、電波姫、」

背中に向かって聞こえてきた声に返事をする前に少女は廊下に出てしまいました。仕方がないので少女は、今度来たときにしようと思ったのでした。

「夕べは、ご主人さまが・・・その、」「いいのよ、時計さん。私は気にしないわ。それよりも、お腹がぺこぺこ。たくさん食べてまたお庭のお片づけをしなくちゃ。」

少女の言葉に時計が何かを言おうと振り向きましたが、結局少女を見上げただけで何も言わずに前を向きました。

 少女は、広間に入ると食器たちやろうそくに心配され、そうして謝罪されました。少女は、それを笑顔で受け止め、それから出された料理を次々に口に放り込みお腹に収めました。

「電波姫さま、ご主人さまをどうか許してください。」「そうです、どうかこの城から出ていかないでください。」「姫は、何も悪くありませんから、」

口々にそう言う食器たちに、少女は返事をしながらなんとか食事を終えました。夕べのままの泥だらけの服を着替えさせようとした時計の手をすり抜けて少女は、また、庭に行くことを告げました。

「しかし、電波姫さま、」「そうですわ。お恥ずかしいことに私めはまだ、お屋敷のお掃除が終わっていませんの。だから、電波姫さまはお外にいらしても構いませんの。」

箒の夫人の言葉に少女は、同意を得るように笑って首を傾げました。ろうそくは、もちろんですよ。と、言いましたが、時計は渋るように唸りました。

「箒さんの掃除が終わったら、私もちゃんと体もドレスも綺麗にして大人しくしてる。ね、時計さんお願い。」

「電波姫さまは、昨晩のことをもうお忘れですか?」

「いいえ、覚えているわ。けど、だってあれは私は悪くないんだもの。違う?」

少女の言葉に、時計は渋々と言うように頷きました。その途端に少女は、跳ねるように席を立つと昨晩とは全く違う足取りで広間を飛び出しました。

 少女が、昨日と全く同じ姿で現れたのを見てガーゴイルは、とても愉快そうに笑いました。

「弟さん、いったい何がそんなに面白いの。」

「はははっ、いやいや、なんかわかんないけど、笑いが止まらないんだって。」

昨日でだいたい作業が終わった庭を見回すと、隅の方に見覚えのない小さな東屋が立っていました。少女は、笑っているガーゴイルを放ってその東屋の方に歩き出しました。

「はっはっは、・・・あぁ、それね。昨日切った木で作ったの。俺ってば、結構有能な庭師みたいよ。半日でそんなすごいの作ったからね。」

ガーゴイルの言うとおり、東屋は立派でお洒落でどう見ても半日で作ったとは思えないほどです。

「すごい!弟さん!あぁ、私、こんな素敵な東屋で本を読むのが夢だったの。だって、不思議の国のアリスみたいじゃない?白いウサギが出てきたら、私は絶対に追いかけるって決めているの。だって、ついていけばあんなに不思議な世界に行けるのよ。あぁ、でも、今はアリスと同じくらいに私も不思議な世界にいるんだわ。だって、ピアノが喋ってガーゴイルが動くんですもの。」

すっかり元気を取り戻した少女は、キラキラと瞳を輝かせながら東屋の周りをぐるぐると回りました。それを見ていたガーゴイルはまた、愉快そうに喉の奥で低く笑いました。

「おじょーちゃんは、楽しいことを見つける天才だな。そんなに喜んでもらえたら、兄貴だって、目尻を下げて喜ぶだろうよ。」

「それって、裏の庭にいる無愛想なお兄さんのこと?」

「うん、・・・あぁ、そっか兄貴は裏庭にいるんだっけ。どうりで姿が見えないと思った。そうそう、すんげー無愛想なのよ・・って、おじょーちゃん、それ誰に聞いたの?」

少女は、すぐ隣りにきたガーゴイルの顔を見ようとしましたが、眩しいお日さまの光が邪魔をして逆光になってしまいます。

「ピアノさんよ・・・えっと、男爵っていうと通じる?」

「男爵・・・・・あぁ、男爵!!懐かしいな、男爵。俺、あの人に色々いじめられてたんだよ。庭の木に小屋を立てるわ、噴水に魚を入れるわ、ミステリーサークルを作るわ、本当大変だった。」

ガーゴイルの言葉に、少女は昨日のピアノの話以上の悪さにこれは、最早悪戯で済まされる程度ではないと思いましたが、同時に果してあの穏やかなピアノがそんなに恐ろしい悪戯を働くのか、と疑問を抱きました。

「ピアノさんが、そんなことを・・とても、想像できないわ。」

「そうね。あんな綺麗な顔して王子様みたいな姿して、庭中を穴だらけにしてたときは俺も怒りを通り越して驚いたよ。この人、本当何したいんだろうって。」

ガーゴイルの言葉に少女も、一体何をしたいんだろう。と思いました。しかし、ピアノの元の姿が想像できないのでいったいどんな様子だったのか見てみたいと思いました。

 さて、そんな話をしながらもガーゴイルは、少女と一緒に最後の作業に取り掛かることにしました。

「これ、用具庫にまだ残ってたから植えよ。花の種。なんの種かは、わかんないんだけどね。ま、植えてみればわかるでしょ?」

「これをどこに植えるの?」

「うんとね、ここと・・・あそこ、それとこっちね。」

少女が手を広げると、ガーゴイルはそこにバラバラと花の種を落としました。それは、様々な色、形をしていて少女の手にいっぱいほどありました。

 少女はそれを、ガーゴイルが足先で掘った小さく浅い窪みにパラパラと蒔いていきます。そうして軽く土をかけ、ガーゴイルが如雨露で水をかけていくのです。ガーゴイルの体は少女の何倍もあるので手を伸ばすと少女の前にいても、少女の後ろに水を撒くことができるのです。

「本当にガーゴイルさんは、大きいですね。」

「まあ、ガーゴイルだからね。・・けど、俺、たぶん元の姿でも、おじょーちゃんよりも大きいよ。確か、俺お城の中で一番大きかったと思うんだよね。あれ、兄貴のほうが大きかったんだっけ?・・・あぁ、おんなじ大きさか。」

「私、双子って見たことないんだけど、弟さんとお兄さんは、すごく似ているってピアノさんが言っていたわ。けど、性格は似ていないって。」

「そうなのよ、俺と兄貴は全然違う。もう、ほーんと、ぜんっぜん、違うんだよなあ。」

ガーゴイルは、話に夢中になると少し目測を誤るようで少女は、たびたびドレスの後ろに冷たさを感じ、お尻に触れるとしっとりと濡れてしまっていました。

「弟さんは、本当にいい加減だものね。」

「はいはい、次はそっちに移動な。おじょーちゃん。」

ガーゴイルは、聞いているのか、聞いていないのか。朗らかにそう言いながら、ドスンドスンと庭を移動していくので、少女も不服ながらもその後ろをついていきました。

 それからも、少女とガーゴイルは庭に種を埋める作業と綺麗に伐採した木や花に水をあげたりと忙しく過ごしました。

夕方に全ての作業が終わる頃には、少女のドレスは果してドレスと呼べるのかわからないような服になってしまっていました。

「うう、疲れた。ちょっと、休憩。」

「ははっ、おじょーちゃん、また見えてる。」

「もういい。もう、それどころじゃないもの。」

少女は、そう言いながら綺麗にした芝生の上にごろりと寝転がりました。ふかりと柔らかい芝生は、ほんのりと草の匂いがします。

「じゃあ、ちょっとだけ休憩な。おじょーちゃん。」

上からガーゴイルの低い声がおかしそうにそう言ったのを聞いて、少女はそっと目を閉じました。


 段々と暗くなっていく空を見つめながら、ガーゴイルはそっと横で眠る少女の額に手を伸ばします。真っ白で傷一つない白玉のような肌は、昨日と今日の労働で砂と泥で茶色くなっています。頬には、薄っすらと横一文字の切り傷が出来ています。

「ありゃあ、本当にとんだじゃじゃ馬なんだな、おじょーちゃんは、」

楽しそうに笑うガーゴイルの目が、一瞬だけキラリと油断なく動いて城の入り口を見つめました。闇の中で何かが、ゆっくりと二人に近づいてきます。

「・・・・おや、旦那か。お久しぶりだなあ。」

「そうだな、お前にそう話しかけられるのは本当に久しぶりだ。」

「なんだよ、ご機嫌斜めだな。そんなにこのおじょーちゃんが気に入ったのか?」

ガーゴイルの実に愉快そうな言葉に、野獣はただじっと黙って獣のような唸り声をあげるだけでした。それを見てまた、愉快そうにガーゴイルは喉の奥で笑います。

「良かったじゃん、旦那。まだ、世界は明るいかもよ。」

「そんなわけ、ないだろう。俺のこの姿に・・・恐怖しない人間なんていない。」

「はいはい。そうだな、お前はそう信じていれば傷つかないでいられるもんな。そんな姿になっても、お前はちっとも変わんないね。臆病で卑怯な、王子様だ。この子は、こんなにお前のために傷ついているってのになあ。旦那?」

ガーゴイルの言葉に、野獣は鋭い牙を剥きだして唸ります。しかし、ガーゴイルはやはり楽しそうに笑うとゆっくりと立ち上がりました。

「そう怒るなよ。俺は、帰るから。このおじょーちゃんよろしくな。んじゃあ、」

「おい!!」

パサリ、パサリ、柔らかく羽根を羽ばたかせガーゴイルは飛び上がりました。夕日が沈んだ暗闇に、ガーゴイルの楽しそうに笑う低い声が響いています。

「・・・・・・・・・・」

野獣は、しばらく迷った末に芝生で眠る少女に手を伸ばしました。それから、そっと爪を立てないよう気を配りながら、その体を抱き上げました。

 少女は、夢を見ていました。悲しい夢でした。

大事な何かが、次々と手の隙間から零れていってしまうのです。失くしたくないと思うほど、それは消えていって、とうとう何をそんなに必死に守ろうとしていたのかすらわからなくなってしまうのです。自分が、何を失いたくなくて何を守りたいのか。それすら、わからないのです。それでも、自分の手から零れていく何かを少女は繋ぎとめようと手を伸ばしました。

「ダメっ!!」「?」

ビクリ、と体を震わせて少女は目を開けました。それから、手の平に感じるふわふわとした感触にそっと顔を動かして周りを見ます。そのとき、初めて自分が野獣に抱きかかえられていることに気が付きました。

「野獣さん!!」

少女は驚いて思わず体を動かしましたが、ぐらりと揺れ落ちそうになりまた慌てて野獣にしがみつきました。

「あまり暴れると落としてしまうよ、電波ちゃん。」

「ご、ごめんなさい。びっくりしちゃって、」

ふかふかの野獣の毛は思っていたよりも心地よく少女は、そっとその毛に肌を触れさせました。ほんのりとする獣の匂いが少し気になりますが、それでも埃の匂いしかしない城の住人と比べると生きているとわかるその匂いと体温が愛おしく感じられました。

「・・・ずいぶんと、疲れているようだけど。」

「そうなの。私、とっても・・あ、野獣さん!私、とっても汚いわ。降ろして、自分で歩けるから。野獣さんの服まで汚してしまったら大変だもの!!」

少女はそう言って下を見ますが、思ったよりも高いので自力で降りるのは不可能と思い直しました。そこで野獣に降ろしてもらおうとしますが、野獣の腕はしっかりと少女を抱きしめたままで一向に降ろしてくれる気配はありません。

「・・・ねえ、電波ちゃん。それは、わたしが怖いから放れたいの?それとも、」「別に野獣さんのことは今は怖くないわ。それよりも、私、本当に泥だらけなのよ。それにこうして抱えられていると野獣さんに触らないでバランスを取るなんて無理だわ。今だって、こんな風に触ってしまっているもの。」

少女は、ふわふわの毛を指先で弄りながら抗議します。しかし、少女の抗議など聞いていないのか野獣は前を真っ直ぐ見つめたままです。

「別にわたしの服は汚れても構わないよ。元々この姿に服を着ていることの方が滑稽なんだ。獣は獣らしく裸でいればいいんだ。」

「そんな!!そんなことないわ。だって、そうしたら、そんなこと・・・」

少女は抗議しようと顔をずいと野獣に近づけましたが、思ったように言葉が出てこずにただ黙って口をぱくぱくするだけでした。それを、野獣は目だけで見つめていました。

 そうして黙っている間に、少女を抱えた野獣は自分の部屋にたどり着きました。ゆっくりと野獣は少女を床に降ろします。

「さあ、電波ちゃん。服もお湯も準備してある。お風呂を使っていいから、綺麗に洗っておいで。」

「え、ああ、だから野獣さんの部屋なのね。ありがとう、野獣さん。」

少女は納得したように呟いて、気だるい体を動かして浴室に向かいます。前にも、何度か使ったことのある浴室は、前にきたときと同じように美しい彫刻が施してある壁に囲まれた真っ白い世界です。少女は、脱衣所でボロボロな布切れになってしまったドレスを脱いで浴室に入りました。それから、洗い場で身体を泡だらけにします。不意に泡が触れると身体のあちこちがピリピリと痛むことに気づきました。

「きっと、擦りむいたんだわ。木を運んだときかしら。」

少女は首を傾げながら、頭も良い香りのするシャンプーで洗いました。洗いながら、野獣はいったいどこまでを石鹸で洗ってどこからをシャンプーで洗うのかと考えました。

「うーん、少なくとも顔から下はやっぱりボディーになるのかしら。」

少女の髪の汚れはひどくこちらも、頭が泡だらけになるまで洗いました。

 湯船に身体を浸すと、じわじわと疲れとだるさが一緒になって少女の思考を支配しようとしてきました。それに負けないように少女は湯船で身体を動かして伸びをしました。

「あぁ、このままだとまた、外で寝てしまいそう。穴だらけでもいいから、野獣さんのベッドを借りられないか聞いてみようかな。また、座って寝たら、私今度こそ風邪を引いてしまうわ。」

少女は、呟いてから一人でクスリと笑いました。

「でも、野獣さん怒っていなくてよかったわ。これで、前みたいにたくさんお話ができるのよね。」

薔薇の花びらが浮かんでいる浴槽は蕩けるほど、心地よく少女は知らずに気持ちが明るくなってきました。そうして浴室から出たら、野獣に裏庭に行ってガーゴイルの兄に会わせてもらえないか、聞いてみようと思いました。

 野獣は、黙って外を見つめていました。表の庭は、見違えるほど綺麗に整えられてまるで伸び放題だった草木は美しく剪定されています。鉄塔の上に座りきりだったガーゴイルは、今どこかに飛んで行ってしまったらしく見えません。

「もう、とっくに心を失くしたと思っていたが、まだ動けていたんだな。」

少女がきてから、未だ驚くほど城の住人が生きていることに気づかされます。少女といると自分にも感情が残っていることを知ります。

「俺は、とっくに諦めているのに。」

野獣は吐き出すように低く呟くと、窓から視線を外し部屋の中を見回しました。

「・・・ふー、さっぱりした。あ、野獣さん!新しいお洋服をどうもありがとう。」

「・・・あぁ。」

奥の浴室からパタパタと少女が新しい桃色のワンピースをなびかせながらやってきました。身体についていた泥は綺麗に落ちて白玉のような肌には紅い線がまるで模様のように浮かんでいました。

「電波ちゃん、傷だらけだよ。痛くないの?」

「あぁ、なんだかいつの間にか擦りむいていたみたい。けど、大丈夫よ。これくらいすぐに治るもの。」

「ダメだよ。君は女の子なんだから。」

頬に一筋走る紅い線から目を逸らしながら、野獣は少女の腕を掴みました。一瞬、力が強すぎはしないかと不安になりましたが、少女は不思議そうな表情をしているだけなのに安心してベッドまでつれて行きました。

ベッドの脇にある棚から、救急箱を出すと少女の傷口に消毒薬を吸わせた綿を触れさせました。鋭い痛みに少女はビクリと身体を引きますが、野獣はその小さな体を片腕で包むように押さえています。

「じっとして。」「うう、染みる。」

肩から頬まで少女の体はあちこちに傷が出来ていました。野獣は器用に酷い傷にはガーゼを当てて包帯を巻きます。少女は黙って痛みに耐えながらその様子を見ていました。

「野獣さん、器用なのね。」

「まあね。それにしても、電波ちゃん。君はこんなに怪我をしているのに、この傷は昨日の傷だ。どうして言ってくれなかったんだい?」

「え、だって・・・言う前に野獣さんが怒ったから。私、びっくりして飛び出しちゃったし。」

少女は真っ直ぐに野獣を見つめて言いました。野獣は、本当のことで何も言い返せずにうつむいてしまいました。その様子を見て少女は驚いてしまいました。ひょっとすると、野獣は落ち込んでいるのではないだろうか。と思ったからです。

「・・・もしかして、野獣さん。昨日のこと、気にしているの?」

「わたしは、君にひどいことを言ってしまった。君を、あんな風に傷つけるなんて・・」

「そんな、それは私が遅くなったからで、」

野獣は、そっと顔を上げると少女の大きな瞳を覗き込みました。獣のような鋭い瞳が、静かに少女を捉えます。

「ねえ、電波ちゃん。君の目にはわたしはどう見えている?どうして、君はそんなに真っ直ぐにわたしを見つめる?」

「どうっ、て言われても・・」

今までにないほどに、近くにいる野獣に戸惑いながら少女は口を閉じました。背中に触れる野獣の温もりが布を通して肌に伝わってきます。消毒薬を当てたせいか、体のあちこちの傷がチクチクと小さく熱を持って刺してくるようです。

「君は、どうしてわたしを怖がらない。なぜ、俺の傍にいてくれる。」

「野獣さんは、野獣さんだわ。他に何に見えるっていうの?私の目には野獣さんが映っているの。こうして私を心配して手当てをしてくれる優しい野獣さんが、映っているの。」

少女は、無意識に手を伸ばしていました。そうして野獣の頬にそっと手を宛がいました。鬚が少しチクチクとしますが、それでもそれが少女の手を傷つけることはありえません。すぐ横に鋭い牙が見えますが、それが少女の喉笛を噛み切ることなどありえません。少女は、真っ直ぐに野獣の茶色の双眸を見つめています。その瞳には、見馴れた黒い自分の瞳が映っていました。溶けるように重なってどちらの瞳なのか、どちらの色なのかわからないほどでした。

「野獣さんの目に、私がこうして映っているように。私の目にも、野獣さんが映っているでしょう?ただ、それだけのことだわ。」

少女は、そう囁くように言うとそっと手を放しました。それから、ずっと前から決めていたように野獣の頭に生えている獣耳に手を伸ばして触れました。

「私は、野獣さんのそばにいたい。そのことに理由なんているかしら。こうして、野獣さんの耳に触れたいと思うのと同じように、理由なんてないんだもの。」

野獣は、まるで吸い込まれるようにただ黙って少女の微笑む様子を見つめていました。獣である以前であったとしても、自分にはこんな風に柔らかに微笑むことなど出来なかっただろうと、微笑むことなどなかっただろうと、後悔にも似た感情が胸を焦がします。

「電波ちゃん、君は・・・」

不思議そうに野獣を見上げている少女の瞳には、少女が言うとおり野獣の姿をした自分が映っていました。もう、思い出せない人間の姿であったのならば、野獣は一瞬だけそんなことを考えてそれを打ち消すようにきつく目を閉じました。

 ふわふわの獣の耳を思う存分堪能した少女は、次は尻尾に触れたいと思いました。しかし、耳から手を放すと同時に野獣が立ち上がってしまったのであっと、声を漏らしただけで尻尾に手を伸ばすことは叶いませんでした。

「さあ、電波ちゃん。もう、夜も遅い。部屋まで送っていくよ。」

「それなんだけど、私ここで寝たいわ。もう、一歩だって動きたくないの。このベッドの隅を貸してくれない?野獣さん。」

「君は、本当に。」

少女のお願いに、野獣は軽く溜め息を吐きましたが、ほんの少し口元を緩めると恭しく膝を折りました。

「お命じのままに。電波姫さま。」

そう言うと、少女の小さな手を注意深く握るとそのままベッドに降ろしました。

「ありがとう、野獣さん!」

少女は、嬉しそうに笑うとベッドに身体を投げ出しました。そうして瞬きをするように眠りに落ちて行きました。

 野獣は、その様子を見つめて知らずに微笑みました。

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