第二章
少女が足を踏み入れると、次々に部屋に明かりが灯って行きます。少女の後ろを歩いていたはずの父親はいつの間にか、少女の後ろに隠れるようにしてしまっているのです。少女はなるほど、きっとそれくらいここは怖いところなんだろう、と思いましたが、それ以上にまるで本の中の世界のようなこのお城にドキドキと胸が高鳴っているのがわかりました。
「あら、お父さま、あれは何かしら?」
「うん、あれがこの屋敷のメイドたちのようだよ。」
大きく広い玄関を抜けるとそこには、蝋燭と時計があるはずのない顔とういうものを少女たちに向けて生えているはずのない腕で恭しく挨拶をしているのです。もう、少女はたまらず笑顔になってしまいました。まさか、自分は夢を見ているのではないか、と思うほどです。
「よくいらっしゃいました。ベル様、どうぞこちらへ。」
「あら、そんなまさか。時計が喋るなんて、私の名前を呼ぶなんて。」
「お名前は、そちらのお父様からお伺いしていました。」
「嘘よ、そんな蝋燭まで!!あぁ、私はどうしたらいいの。」
少女としては、もう嬉しくてたまらない故の発言でしたが、時計たちにしてみれば自分たちのせいでご主人さまの大切なお客さまを驚かせてしまったのだ、と慌ててしまいました。
「あぁ、ベルさま。どうか逃げずにこちらにいらしてください。」
「ベルって呼ばなくていいわ。私、その名前があまり好きじゃないの。あら、どうして私が逃げると?」
蝋燭が足元を照らしながら、時計が前を歩きながら、少女は楽しそうにあたりを見回しました。
「しかし、では何とお呼びすれば?」
「この城が怖くはないのですか?ベルさま、」
「だから、ベルはやめて。まるで呼び鈴みたいじゃない。私、あの鈴の音嫌いなの。本を読んでいる最中にあの音が鳴るとまるで無理矢理現実世界に連れ戻されるみたいな気持ちがして嫌なの。・・怖いなんてとんでもないわ。本当にファンタジーの中にいるようなステキなお城よ。そうだ、私のことは電波ちゃんって呼んで。悪口だけと私結構気に入ってるの。だって、そうじゃない?電波よ、なんか出してそうでステキだわ。あ、そうだ、もしかしてこのお城そのものが竜になったりなんてことはないの?あったらステキだわ。」
危うく息をするのも忘れてしまうくらいに長々と少女は喋るものですから、蝋燭も時計もひどく驚いて彼女は一体何者なのかと不思議に思いました。今までも、何人かこのお城にきましたが、そのどれもが今少女の後ろにいる父親のようにありとあらゆる物音に怯え、すぐにでも逃げ出してしまおうとする人ばかりでした。
「あぁ、ベルや。ベル、少し落ち着きなさい。」
「わかってます。でもでも、お父さま。」
「あの、で、電波姫。このお城は残念ながら竜にはなりません。」
「ろうそくさん、今、なんて?電波姫?すごく可愛い名前!!嬉しい、私、そんな名前で呼ばれてみたかったの!!」
「お褒めに預かり、光栄です。電波姫。」
すっかり少女の頭から、お城と竜は消えたようでした。少女はこうして頭からさっきまでのことをポロポロと零すことがよくありましたので、父はもう何も言うまいと口を閉じてしまいました。
「それにしても、本当に大きな階段だわ。あ、もしかしてこれが夜になるとすべり台になるなんてことは?」
「ありません、電波姫。だいたいにして今はもう夜に近い時間でございます。」
そう言った時計の鼻の辺りから、ハトが出て八回ほど鳴きました。どうやら、八時のようです。
「あら、まあ。ステキ!ハト時計なのね、あなた。」
もはやベルは込み上げる笑顔を隠しきれません。すぐ下の足元にいる時計にそっと手を伸ばし、優しく撫でました。時計といえば、そんなことをされたのは初めてで、驚いてしまい時間でもないのに、ハトやら何やらがいっぺんに飛び出してしまいました。
「こ、これは・・なんともすごい方だ。」
ろうそくは足元を照らしながら小さく呟きました。その明かりだけを頼りに二人は階段を上りました。広い天井には大きなシャンデリアもあるのですが、もう何年も使っていないのか、その存在すら忘れているのかクモの巣や埃が絡み付いていました。
「すごく大きな窓だわ。わぁ、窓の下には大きな庭があるんだわ!!すごい、もっと明るいときに見たかったわ。私ね、庭といえば一つ憧れがあるの。東屋?あの庭の中にある小屋のようなところでお昼寝をして、アリスみたいに不思議の世界に迷い込んでみたいの。あぁ、ろうそくさん、時計さん、ここの庭はどんなかしら?」
またしても、息継ぎはない。少女はどうやらテンションが高くなると一気に喋るようなところがあるらしいと時計とろうそくは思いました。今まで、恐怖で息ができなくなる人間はたくさんいましたが、少女のように興奮で息をしない客人ははじめてでした。
「この方なら、ひょっとしたら、」
「あるいはもしかすると・・」
ろうそくと時計の頭の中に浮かぶ思いなど知らない少女は興奮で高鳴る胸を叩きながら、広間へと入っていきました。
「まぁ、すごい!お父さま、お父さま、見てください!!」
豪勢な広間に準備された美味しそうな食事に少女は嬉しそうに父親の袖を引きます。しかし、父はこのままこの可愛らしい娘をこの屋敷に置いて帰らねばならないのかと思うと悲しみで胸がはち切れそうでした。
「あぁ、そうだね、ベル。これが私たち親子の最後の晩餐になるんだ。よく味わって食べようじゃないか。」
「まぁ、」
そう言われて初めて少女は自分がこれからどうなるのかを思い出したのです。この食事が終われば、父は自分を置いて一人で家へと帰り、ひょっとしたら自分はこの城の主である野獣に食べられてしまうのかもしれないのです。
途端にさきほどまでの興奮はどこへ行ったのか、少女の胸は不安と悲しみでいっぱいになってしまいました。もう、あの家には帰れない。優しい兄や弟、ようやく仲良くなれた姉や妹にも、もう会うことはできないのです。なにより哀れな父は一人で森の中を行かなくてはならないのです。
「ベル、どうしたんだい?」
「・・・いいえ、お父さま。なんでもないわ。」
それでも、ここで辛い顔をすれば父親が悲しむから、と少女は必死に平静を装って食事をしました。
一通り食事を済ませ、時計やろうそくたちの姿を少女が探し始めた頃、どこからか凄まじい音がしました。その音は屋敷中に反響し、空気をビリビリと震わせ、父親はすぐにあれが野獣の声だとわかりガタガタと怯えだしたのです。
「あぁ、ベル。ベルや。」
「お父さま、一体どうされたの?どうしてそんなに怯えているの?この大きな音は一体なに?」
そう少女が口にしたと同時に、広間の扉が勢い良く開き、大きな音と共に、恐ろしい顔をした大きな獣が入ってきたのです。獣は口から鋭い牙を覗かせ、大きな瞳で少女たちを捕らえるとしなやかな動きととても大きな獣とは思えない俊敏な身のこなしで近づいてきました。
「・・・、」
父親はとういうともう恐怖から口は動かずにただ椅子に座って目を開けているので精一杯でした。少女はといえば、そのあまりの恐ろしさに震え上がってはいましたが、それでもなぜか野獣から目を離すことができません。
「お前は、ここに喜んできたのか?」
「はい、喜んできました。」
目の前まできた野獣は、少女の倍くらいの大きさでした。しかし、すぐに野獣は少女と目線が合うように膝と思われる間接を屈めたため少女の目には恐ろしい顔の上で揺れるフワフワの焦げ茶色の耳が見えました。
獣耳、キターーーーーっ!!
なんてことを少女が思ったかどうかはわかりませんが、その可愛らしい耳を見て、緊張は少し和らぎ少女は野獣の目をまっすぐに見つめることができました。
「はい、喜んで来ました。」
大きな瞳がほんの一瞬、零れそうなくらいに大きく見開かれました。
「お前はなかなか、優しい子だね。」
猫が喉を鳴らすときによく似た形に目が細められ、今度は少女がとても驚いてしまいました。なぜなら、野獣の瞳はとても優しかったように思えたからです。
「わたしは、お前にお礼を言うよ。ところで父親のほうは明日の朝にここを出て行けばいい。外はもう暗い。そのかわり、もう二度とここに来ようなんて思うな、いいな?」
じろり、鋭い目で見つめられ父親はカタカタとまるで人形のように首を上下に振りました。その間も、少女はパタパタと揺れる野獣のふさふさでふわふわの尻尾を見つめていました。
「じゃぁ、ベル。さようなら。」
「え、あ、さようなら、野獣さん。」
野獣はきたときと同じように俊敏で優雅な動きで部屋を出て行きました。それと入れ違うように、先ほどのろうそくと時計がどこからか姿を現しました。
「さ、電波姫。お部屋にご案内します。」
案内された部屋は、階段を昇ってすぐの場所にありました。桃色をしていると思われる扉には、美しい羽根を広げる蝶の彫刻が施されていました。
「まあ、綺麗な扉。開けると、蝶の羽根が左右に分かれるようになっているのね。」
「ああ、ベル。早く入ってしまおう。」
ガタガタと震えるように辺りを警戒しながら、父親は少女を部屋の中に押し込みました。
「広い。それに、とっても清潔だわ。他の部屋もこんなに手入れが行き届いているのかしら。だとしたら、私、ここに住むのはそんなに難しいことではないように思えるわ。」
「そんなわけないだろう。お前はきっと、明日には食べられてしまうよ。あぁ、私の可愛いベル。お前をこんなところに置いていくなんて本当に心が張り裂けてしまいそうだよ。」
すまない、すまない。と、父親は何度も泣きながら謝りました。しかし、当の少女は試しに腰掛けたベッドのあまりの柔らかさに早く横になりたくてたまりませんでした。
「ねえ、お父さま。もう、横になりましょう。私、ここに来るまで長い間馬に揺られていて・・なんだか、とても疲れてしまったわ。」
「それもそうだ。お前にとってはとても長旅だったね。さあ、横になろう。そしてたくさんお話しよう。」
父親は、涙を拭って少女の腰掛けるベッドの隣に作られた簡素なベッドに横になりました。しばらく名残惜しそうに色々な話をしていた父親と少女でしたが、やがていつの間にかぐっすりと眠りに落ちてしまいました。
その夜、少女は不思議な夢を見ました。夢の中で少女はキラキラと光り輝く美しい城に華やかなドレスを纏って座っていました。
「勇敢で気高く慈愛に満ちた少女よ。あなたはとても良い行いをしました。あなたのその心にやがて唯一の愛が生まれたとき、あなたはたくさんの人を救うことができるでしょう。その愛が本当に真実ならば、あなたは迷わず進みなさい。」
そんな声とともに少女の周りを白く透き通った羽根を持った妖精が飛び回りました。少女は、頷くように目を伏せると自分の元にやってくる誰かの足が視界に入りました。
「・・・あなたは?」「ベル、君は私を、愛してくれるかい?」
その顔を見ようと、上を仰ぐとそこには
目を開けると、いつもと違う天井がありました。少女は、戸惑うように瞬きをして思い出したように身体を起しました。
「・・・お父さま?」
昨夜、隣りにいたはずの父親の姿を探しますが、そこにあったはずの簡素なベッドも、そこに横になっていた父親も、もういませんでした。
「・・・もう、お昼近くなのね。あぁ、おとうさま。お見送りも出来なかった。無事に、家に着いているといいのだけど。」
溜め息を吐くように少女は言うと、寂しそうにカーテンの隙間から、外を覗きました。
さて、父親が帰ってしまった城には少女がポツリと残されているだけになりました。
「・・もし、今日の夜あたりに早速私が食べられるのだとしたら、その前にこのお城の中を見て回りたいわ。何しろ、夕べは暗くて、あまりよく見えなかったんだもの。」
少女はぱたぱたと走ると、城のあちらこちらを見て回りました。荒れている部屋やクモの巣のはった廊下、キレイに掃除された部屋や美しい彫刻のある廊下、様々でしたがそのどこにも、人間の姿はありませんでした。
「なるほど、ここはキッチンなんだわ。」
覗き込んだキッチンでは人が一人もいないのに、次々と美味しそうな料理が出来上がっていきます。
「どうして?まさか、幽霊じゃないでしょうね。」
「まぁ、違いますよ。お嬢様!」
「あら!!これは、ポット?ポットがお喋りしているの?」
不思議に思ってあたりを見回す少女の目の前に、ふくよかな顔をした白い陶器のポットといくつかのカップが現われました。
「はじめまして。私はポット夫人ですわ。そして、この子たちが私のかわいいカップたちで・・ほら、ご挨拶なさい。」
しかし、カップたちは照れてしまったのか、ポットの後ろに隠れてしまいました。ただ一つ、端の欠けたカップだけが前に出ると少女に向かいぴょんとひと跳ねしました。
「こんにちは、電波姫。ボク、ティー!!よろしくね。」
「まあまぁ、よろしくね。かわいいぼうや。」
くすくすと少女が笑うと、カップはやはり恥ずかしそうに笑いました。
「おや、電波姫。どうかしましたか?あ、お腹が空きましたか?」
「あ、いえ、ちょっとお城の中の散策を、」
奥から、ろうそくも出てくると恭しくお辞儀をしました。
「ほう、でしたら、くれぐれも庭もバラにはお手を触れないようにしてください。」
ろうそくの言葉に少女は首を傾げます。
「庭のバラに?どうして?・・そういえば、父が持って帰ってきたのも、バラの花だったわ。何かあるのかしら?」
少女は自分の中の好奇心が、わくわくと盛り上がってくるのがわかりましたが、続けられた時計の言葉に神妙な表情で頷くしかなくなりました。
「あそこにあるバラは、ご主人さまのですから。何人もとにかく触れてはいけないのですよ。」
「まぁ、あの野獣さんのなのね。わかったわ、だったら触らない。」
「電波姫、城の中を散策なさるのでしたら、こいつをお連れください。椅子のチェアです。城中を、知り尽くしております。」
椅子はどうやらピアノ用の椅子のようでくるくると少女の回りをまわると飾りとしてついているふさふさの紐をまるで尻尾のようにぱたぱたと振って見せた。
「かわいいけれど・・はじめまして、チェア?」
「・・・いす!!」
「言い忘れていましたが、チェアは犬でございます。」
「いすいす!!」
「あら、鳴き声はいす。なのね。ふふ」
何から何までヘンテコなこのお城が少女は楽しくてたまりません。次々と起こる出来事に少女はこのお城が好きになりました。
「いすいす!いすす!」
どこが背中なのか、わからないけれど座る場所を撫でてやると、椅子は気持ち良いのかくうくうと甘えた声で鳴きます。
そうして、少女はキッチンの住人たちに別れを告げると椅子とともに城の散策に戻ることにしました。
「それにしても、あなたはたぶんピアノの椅子よね?ピアノの椅子があるってことは、ピアノもあるのかしら。私、実はこう見えてピアノを弾けるのよ。」
「いす、いすいす!」
少女は本とピアノが好きな少女でした。別荘に移ってからは、ピアノがなかったため久しく弾いてはいませんでしたが、今どうしてもピアノに触れたいと思いました。もしかしたら、これが最後かもしれないと思ったのです。
「・・なあに?ここ?この部屋に入りたいの?」
「いす!」
カリカリと椅子が一つの部屋の前で止まり、扉を引っかきます。大きな木のアーチのような美しく質素な扉でした。彫刻のようなプレートには“知識と音楽の扉”と書いてありました。その文字を読んだとき、少女の心の中学二年生がドキドキと跳ねました。
「まあ、どうしましょう。知識と音楽の部屋ですって。いったい、何があるのかしら。ここは入っても良い部屋よね。チェア?」
「いすいす!!」
楽しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる椅子とともに少女がその扉を開けました。誰かがよく使っているのか、他の全く使われていないような部屋と違い、扉がすんなりと軽く開きました。
「・・おや、チェアじゃないか。久しぶりだな。お前がこの部屋に入ってくるのはいつ以来だろうね。」
「・・だ、誰か、いるの?」
「おや、これは・・珍しいね、客人かい?」
カーテンの閉まった薄暗い部屋の中から聞こえてきたしゃがれ声に少女は静かに問いかけました。
「僕は、ピアノだよ。それ以上でも以下でもない。・・・お嬢さんは?もう少しこちらにきて姿を見せてくれないかい?ついでに久しぶりにカーテンを開けてくれると嬉しいんだけど。」
ピアノの言葉に少女が少しの間、躊躇っているうちにパタパタと椅子が、部屋の中に入っていってしまいました。仕方がないので少女もそれを追いかけていきます。
「いすいす!」
「あ、ちょっと、チェア!!」
踏み入れた部屋は、とても広い丸い間取りで窓が奥に一つあるだけで、あとの壁は全て本棚になっていました。まるい部屋の中心に大きな一台のピアノが置かれています。椅子は嬉しそうにそのピアノの足元に擦り寄っていきました。
「おやまあ、これは・・・なんとも小さなレディだ。はじめまして、」
「本当にピアノだわ。どうしたら、このお城の中で普通の人と会うことができるのかしら。」
「いすいす!」
少女はそっとピアノの前まで歩いて行くとぐるりと部屋の中を見回しました。天井まで届きそうなくらい本がありました。
「お気に召しましたか?電波姫、」
「ええ、とっても。・・・あら、どうして私の名前を?」
「おや、違ったかい?チェアがそう言っていたもので。」
「いす。」
「・・・ピアノさん、チェアの言葉がわかるの?」
少女が驚いて尋ねるとピアノはさもおかしそうに空咳をしました。
「ピアノとその椅子だからね。多少のことはわかるんだよ。」
「いすいす。」
少女はすり寄ってきた椅子を一撫ですると、大きなピアノをよく見ようとカーテンを開けることにしました。
「・・それにしても、大きな窓ね。どうやって開ければいいのかしら。ピアノさん、わかる?」
「ひもだよ。端のほうに紐があるだろ?それを引くんだ。」
少女はピアノの言葉に従い、紐を捜し引きました。ばさーっという音とともに視界が一気に明るくなり、少女は思わず目を閉じ眩しさから一歩二歩とよろけてしまいました。
「うう、眩しい・・・」
「おお、明るくなった。これでようやく電波姫のお顔をちゃんと見ることができるよ。」
目が未だ光に慣れずにちかちかしているものの、何とかまわりを見られるようになった少女は改めて部屋の本の多さと家具の美しさに驚きました。
「すごい・・これって、全部・・あ、でも、すごい埃だらけだわ。」
床に積んであった本を一冊手に取った少女は表紙がざらつく埃で見えなくなってしまっているのが、少し残念に思えました。
やはり野獣さんは、本を読まないのね。
そんなことを心の中で思ったのです。
「本が好きかい?電波姫、」
「ええ、とても。あ、ピアノも好きよ。弾けるの。」
少女はそう言ってピアノの蓋を開けました。
「・・埃だらけ。このままだと私、電波姫じゃなくて埃姫になりそうだわ。」
少女は着ていたスカートで鍵盤の埃をさっと拭きました。いくつもの部屋の中を見てまわるたびに、少女はそんなことをしていましたのでいつの間にか少女のスカートはふわふわの埃とざらざらの砂だらけになってしまっていました。
「ふふ、随分と汚れているね。どうやら君はとんだおてんばさんみたいだね。」
ピアノの言葉も聞かず、少女は椅子を呼ぶと軽く座りました。それから、何度か重くないか、と尋ねると鍵盤に手をのせました。
「ピアノさん、弾いてみてもいいかしら。」
「あぁ、もちろん。僕はピアノだからね。」
少女は久しぶりに触れるピアノにうきうきと胸を弾ませながら昔、よく弾いていた曲を記憶だけを頼りに弾き始めました。
ピクリと野獣のふわふわの耳が動いた。何かのメロディが聞こえてくる。
「・・・、」
ピアノの、音?
そう思ってはじめて野獣はずいぶんと前から音楽を聞いていないことに気づいた。
あの頃は毎日のようにピアノを弾いたりしていたというのに。
いつも、何かのメロディの中で生きていたというのに。
「いつの間に、わたしは心まで・・・獣になっていた。」
そう呟いて己の醜い手を見つめた。
長く鋭い爪が、触れたものを傷つけようとしている。
腹立たしく尻尾をぴしゃりと床に打ち付けた。それから、酷く悲しそうな声で何かをどこかにぶつけるように大きく吼えた。
その声は人気のない屋敷に響き、けれども唯一の人である少女の耳には届くことなく消えた。
夕食の時間になりました。あちこちの部屋を大急ぎで見て回った少女でしたが、見て回ればまわるほど、広く大きなこのお城じゃ楽しいアトラクションのように色々なおもしろいものがあるのです。
「あぁ、せめてもう一日。もう一日、食べるのを待ってくれたらいいのに。」
お昼ごはんもとても美味しかったので、少女は夜ご飯が楽しみになっていましたが、いざ夜ご飯の時間になってみれば自分が食べられるのだという事実をまざまざと思い出してしまったのです。
「どう思う?チェア?」
「いす!いすいす!」
「うーん、ピアノさんと違って私じゃあ、チェアの言っていることがわからないからな、うーん。」
少ししゃがむように膝を折って椅子を撫でてやると、椅子は気持ち良さそうに尻尾をパタパタと振った。少女はそれを幸せそうに眺めてから夕食を食べるために広間に向かって走り出しました。
「電波姫、夕食はいかがですか?」
時計とろうそくの言葉に少女はこくこくと頷きました。幸せそうなその表情にお茶を注いでいたポットは嬉しそうに笑いました。
「おや、そろそろ九時ですね。」
「では、もう一人分準備しますか。」
「そうですね、では姫ごきげんよう。」
ぱたぱたといなくなっていく時計やろうそくを見つめながら少女はなるほど、これは最後の晩餐なのだろうと心の中で思いました。
「九時になったら、何があるのかしら。」
けれども、口に出た言葉は自分でも予想以上に楽しそうな声で九時の鐘がなるのを待っていました。
九時の鐘がなるのと同時に夕べと同じ大きな音が響きました。それはやはり屋敷中の空気をビリビリと震わせ、びくりと体を硬くした少女が見つめた扉がばーんと大きな音をたてて開きました。
「!」「・・・」
入ってきたのはやはり夕べと同じ獣のような姿をした大きな野獣でした。夕べは気がつきませんでしたが、マントやズボンを身に着けているようでした。
「や、やじゅうさん、だわ。」
「やあ、ベル。食事中に騒がしくしてすまなかったね。」
野獣はそう言うと少女から少し離れた場所に座りました。少女はきっとこれから胡椒やら何やらをかけられて食べられるのは自分なのだろう、と怖くてたまりませんでした。そのため、食事のこともすっかり忘れてただじっと野獣を見て体を震わせていました。
「ご主人さま、お食事の支度は整っていますよ。」
「あぁ、わかった。・・ねえ、ベル。そんなに怯えないでおくれ。」
大きな大きな猫のような目が悲しそうな色を滲ませて少女に訴えるように言いました。しかし、もうすぐ食べられてしまうかもしれない少女は、恐怖でカラカラに乾いた声で
「・・・肉が、硬くなるから、ですか?」
ようやくそんなことを言うだけで精一杯でした。野獣はしばらくぽかんと少女を見つめていましたが、やがて何かを考えるように真剣な表情になりました。じっと少女を見つめる瞳はまるで心まで見透かすようです。
あぁ、どうしよう。私は何か言ってはいけないことを言ってしまったのかしら。それとも体が緊張していても肉は硬くならないのかもしれない。
少女がそんなことをぐるぐると頭の中で考えていると急に、野獣が低い声で訪ねました。
「お前はわたしに食べられたいか?」
「た、たべられたく、ない・・です。す、少なくてもあと一日、あと一日は、」
少女の小さな願いに野獣は興味を引かれたように耳と目を、ぴくりくるくると動かしました。
「あと一日?あと一日生きながらえて何をする?」
野獣の問いに少女は意を決して息を吸い込むと吐き出すように喋りました。
「私、私、このお城が大好きになりそうなんです。だって、まるで本や物語の中に出てくるような、こんな不思議なお城なんて本当にこの世界に実在しているとは思わなくて、それなのにここでは時計やろうそくがお世話をしてくれて、ポットがこうして自らお茶まで入れてくれるんですもの。私、それでもう、本当に、もう」
今日一日だけで見つけた、たくさんのこのお城のいいところを次々と思いつくまま、口にする少女を驚いたように大きな瞳をさらに大きくしていた野獣は、しかしだんだんと体を小さく揺らし、最後には牙が見えるくらい楽しそう口を大きく開けて笑いだしました。そのあまりの大きさにあと一日あったら何をするかを喜々として語っていた少女はピタリと動きを止め、何事だろうかと、また体を硬くして野獣を見ました。
「あははっ、」
「や、野獣さん?」
「ははっ、おっと、これは失礼。ふふふ、ベル、君は面白い子だ。ふふっ、大丈夫。安心して、わたしは人は食べないよ。」
「・・え?た、食べない?」
今度は少女がぽかんとして野獣を見つめました。その全てが大きく開かれた少女の表情を見て、野獣はまた笑い出しました。
「ははっ、はははっ、そこまで驚くとは。だから、ベル。君は明日からも、この城を自由に好きなだけ、探検していい。」
野獣はそう言うと瞳を優しい色で満たし、微笑んだ。
「・・それじゃぁ、・・あぁ、もう。なら、もっと一つ一つをゆっくり見るんだったわ。もう、私てっきり、食べられちゃうのかと」
そこまでで少女は我慢できずにポロポロとガラス玉のような大きな瞳から涙を零しました。
「・・ベル、」
「あぁ!!電波姫様!なぜ、泣いておられるのですか?」
「姫さま?あぁ、どうしたらいいんだろう。」
「まあまあ、ほら、大丈夫ですよ。姫さま、ほらほら。」
「泣かないで!!電波姫!!」
どこから出てきたのか、少女のまわりには時計やらポットやらが集まり、口々に思い思いの言葉で少女のことを励まし、慰めました。
「ごめんなさ・・・私、安心・・して、」
まるでうさぎのように目を赤くして、弱弱しく言いながら少女はろうそくたちに笑いかけました。
野獣はその様子をおかしそうに、ただ目を細めてじっと見ていました。
「姫、姫、まあ、目がまるでうさぎのように真っ赤だわ。」
「どうなさったのですか?」
「本当に、大丈夫だから。ほんの少し、私もわからないの。けど、今は涙が止まりそうにないの。」
ポロポロ、ポロポロと落ちてくる雫をカップたちが慌てたようにカップの中に集めたり、もう本当に机の上はてんやわんやです。
「きっと、安心したんだろう。そのまま泣かせておいてやれ。」
野獣の声に机の上にいた時計やろうそくたちは後ろ髪を引かれながら、それぞれの持ち場に戻っていきました。
ただ、ティーカップたちだけは未だ楽しそうに落ちてくる涙を集めていました。
「・・ねぇ、ベル。お前には、わたしは本当に感謝しているんだよ。こんな醜いわたしの城を好きになろうとしてくれる。」
「み、醜い、だなんて。確かに酷い姿だけれど、それは醜いとは違う気がします。・・けれど、美しくはありません。」
「そうだろうね。君は正直な優しい子だ。」
野獣はとても悲しそうに目を伏せた後、思い出したように少女に尋ねた。
「そういえば、ねえベル。なぜ、みんなは君のことを姫とか何とかと呼ぶんだい?」
「あぁ、それは・・私、ベルって呼ばれるのはあまり好きじゃないんです。だから、私、村の人から電波ちゃんって言われていたからそれでそっちの方がなんだかステキだから、そう呼んでほしいって言ったんです。」
「なるほど、おもしろいけれど・・・それは悪口、だね。」
「ええ、知ってる。でも、いいんです。私にはベルのほうが悪口にしか聞こえないんだもの。」
たくさんの涙を集めたカップたちが嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねるのを少女はじっと見つめていました。
「そうか、では、わたしも電波ちゃん。と、呼ぼうかな?」
「本当に?ふふ、なんだか嬉しいわ。このお城では私のことを誰もベルと呼ばないんですもの。」
野獣の言葉に少女は嬉しそうにぱっと顔を上げ、残っていた食事をぺロリと平らげました。それから時計が持ってきたデザートをこれまた美味しそうに食べているといつの間に隣りに座っていた野獣に名前を呼ばれました。
「ねえ、電波ちゃん?わたしの妻になってくれないかい?」
少女は、びっくりして野獣の耳やら尻尾やらを大きな瞳で見た後、自分でも驚くほどキッパリと震える声で答えました。
「いやです。野獣さん、」
それを聞いて野獣はとても悲しそうな顔をして、力なく頷きマントをさっとひるがえして歩き出しました。そうして扉の前で少女を振り返ると寂しそうに
「おやすみ、電波ちゃん。」
そう挨拶して広間を出て行ってしまいました。後に残された少女は野獣のあの悲しそうな表情が思い出されては溜め息を吐いていました。
「はあ、なんて可哀想な野獣さんなの。こんなステキなお城に住んでいるのに、あんな怖い姿でたった一人で、でも、いくらなんでも結婚だなんて。」
そう呟いて少女は家にいる家族たちを思いながらベッドに入りました。昨日はすぐ隣りに父がいたのに、とほんの少し寂しい心地がしました。
次の日、朝早く目を覚ました少女は、そういえば着るものが一着もないことに気がつきました。どうしよう、と考えていると部屋のクローゼットがこほんと、咳を一つしました。少女が驚いてそちらを見ると、クローゼットが次々と美しい服を出してくるのです。
「まぁ、もう、ここでは何もかもが動いて命を持っているのね。すごいわ、じゃあ、まさかこのベッドも?」
くすくすと楽しそうに笑うと少女はベッドから降りて何かを確かめるようにぐるりとそのまわりを見て回りました。しかし、ベッドは動く気配も顔もなく、ちょっと残念そうに案心したように笑うとクローゼットに向かいました。
「素晴らしいお洋服ばかりだけど、どれも私には少し大きいかも。」
「大丈夫ですわ、電波姫、ちょっとばかり採寸さえさせてくだされば、すぐにお体に合うようにお作りしますの。」
「本当に?すごいのね、このお城って。」
「お任せあれ。」
こほんと、クローゼットが咳をすると、どこからか次々とメジャーやら何やらが、やってきて少女の体を測り始めました。
それにしても、すぐってどれくらいかしら、今日中にできるのかしら。なんてことを思いながら少女はぼんやりと外を見ていました。
「おや、電波姫さま、おはようございます。」
結局のところ、すぐといっても夜になるらしいため、少女は昨日と同じ服で今日一日を過ごさなくてはならないことになりました。
「おはよう、時計さん。今日はちょっと遠くまで探検したいんだけれど。」
「でしたら、お昼は持ち歩けるものがよろしいでしょうか。」
「そんな、大丈夫よ。お昼くらい抜いたって死んだりしないわ。」
「ダメです、だめです。われわれがご主人さまに叱られてしまいます。」
「うーん、そうなの?」
朝食を食べようと席に座ると、すぐに美味しそうな食事が運ばれてきました。もちろん、皿が自分たちでやってくるのです。
「電波姫、おはようございます。夕べはよく眠れました?」
「おはよう、ポットさん。それから、ティーもおはよう。とてもよく眠れたわ。ベッドもふかふかで良い匂いだったもの。」
「そうなんだ。でも、ボクはもうずいぶんと食器棚でしか寝てないよ。」
「まあ、そうね。ティーはティーカップなんだものね。眠るときは食器棚なのね。ふふ、そう考えるとおもしろいわ。」
あら、でも、もうずいぶんとってことは昔はベッドで寝ていたこともあるってことよね。そう考え、どういうことだろう。と首を傾げた少女が口を開くと同時に足元でいすいすと不思議な鳴き声がしました。
「あら、チェア、おはよう。あなたは毎晩どこで寝ているの?」
「いすいす、いすいす、」
「チェアは番犬だから、外で寝ているんだ。」
「そうなの?・・だったら、二人とも私のお部屋にいらっしゃいよ。そうすれば、いいんだわ。」
「いす?いすいす。」
「本当に?そうしたら、ボク久しぶりにベッドで寝れるんだ。」
「ダメよ、坊や。あなたはママと食器棚で眠るの。」
「・・残念だけど、そういうことになりそうだよ。」
ママには怒られたくないからね。端の欠けたカップが呟きました。その仲の良い姿に少女は少し心の中が寂しくなりましたが、足元の椅子を撫でてその気持ちをやり過しました。
「姫、ではお昼はサンドイッチなどでよろしいでしょうか。」
「あら、本当にいいの?みんな大変じゃない?」
「そんなことございませんよ。ほら、もう間もなく出来上がります。」
少女はほんの少し考えてから、時計に向かって一つお願いをすることにしました。それに時計はもちろんです。と恭しく頭を下げました。そうして少女はサンドイッチと温かい紅茶の入ったかごを持って椅子と端の欠けたカップを連れて探検に出かけました。
探検といっても広いこのお城を一日でまわるのは無謀なので、地図を作りながら一つ一つを時間をかけて探検していくことにしました。そのために時計に紙とペンを用意してもらったのです。
「さて、迷子にならないように、そして正確な内容にしたいから、きちんと一部屋一部屋を見ていくわよ。部屋の中までしっかり見ていくの。いいわね、ティー?チェア?」
「うん、任せてよ!」
「いすいす!」
足元に椅子を、そしてかごの中にはカップを連れ、少女は楽しそうに城中の探検に船を漕ぎ出しました。
気分は冒険家。もしくは海賊です。開ける部屋、開ける扉、その中のすみずみまで知りたいという好奇心で少女の心はわくわくと高鳴っていました。
「ふふ、行くぞ!やろーども!!」
「おー!!」
まずは、広間やキッチンがある一階を攻略することにしました。一階だけでも、とても広いのでどうやら一日かかりそうです。
「ここはきっと、ティーの知識が必要になりそうだわ。」
「うん、一階のクイーン側だったら任せて。ボクの庭だよ。」
「・・・うん?く、くいーん?何それ。」
「あのね、このお城は真ん中で半分になっててね。ほら、その階段の真ん中の踊り場に王様の絵があるでしょう?あそこがキングでそこから二股に分かれた階段の右がクイーンの側。左がジャックの側なんだ。で、ボクたちがいるのがクイーン。」
自信満々に言う、カップの話を聞きながら少女はさっそくそれを紙に書いていきました。右がクイーンで左がジャック。真ん中はキングで私たちがいるのが、クイーンのほう。
「だとしたら、昨日私が行ったピアノさんのいる部屋はクイーン側の一番端っこね。」
「それは、クイーンの塔だよ。」
「なるほど、それじゃあ、ジャックの塔には何があるの?」
昨日の簡易探検ではジャックのほうは暗かったため少女は見に行かなかったのでした。
「・・ジャックの塔には、ご主人様が住んでいるんだ。」
「野獣さんね。まぁ、だとしたら野獣さんはわざわざ、はるばる遠くからご飯を食べにきているのね。」
一枚の紙では足りないほど、この城は広いのです。そこの一番端から、ほぼ真ん中の広間まで野獣はわざわざ食事をしに来ているということになるのです。
「それは、電波姫がいるからだよ。それまでは、ご主人様は毎日ご飯を食べているわけじゃなかったから。」
「・・・まぁ、そうなの。どうしてかしら。」
そんなのわからないよ、と呟いたカップに少女は心の中で考えました。
きっと私が逃げないように見張っているんだわ。
思いついた結論に少女は少しだけ悲しくなりました。そんなことしなくても、私は絶対に逃げたりしないのに。
「私ってば、信用されていないんだわ。当然よね。野獣さんとはまだ会って間もないんだもの。きっと、もう少ししたら信じてもらえるわ。」
少女のそんな言葉にカップの暗い声が答えます。
「ご主人様は誰のことも信用しないよ。あの人はもうずっと、心をあの塔に閉じ込めちゃったんだ。」
「閉じ込めちゃった?どういう意味?」
しかしこの問いかけにカップは答えずに、かごの中に入ってしまいました。
「・・なんだか、謎が多いのね。このお城って。」
「いす!」
少女の溜め息に似た呟きに同意するように椅子が一つ鳴きました。
暗い部屋の中、何も聞こえない。
「・・・・・。」
ほんの少し、何かを期待するように野獣は耳を澄ませていた。
「わたしは、」
ほんの少し指を動かして野獣は自らの口元に触れた。
久しぶりに笑った気がした。
久しぶりに笑えた気がした。
彼女ならば、あるいは、ひょっとしたら、
「 」
小さく声に出した願いは、空気をざわつかせて、けれど誰の耳にも入ることなく消えた。
そうして野獣はまた苦しそうに呻くと、それを吐き出すように大きく吼えた。
その声は屋敷中を悲しく木霊した。
胸の中をざらつかせて、
少女は、ふうと溜め息を吐くと窓の外を見つめミルクティーを飲み干しました。窓の外はほんのりと暗くなっていて朝見ていた美しい景色はどこにも見えなくなってしまいました。
「外のバラ園を見るのを忘れてたわ。あぁ、でもあそこは行ってはいけないんだ。時計さんたちに言われたのよね。あれは野獣さんのバラなんだって。知っている?ピアノさん?」
少女はくるりと振り向くと部屋の中心にあるピアノに尋ねました。ピアノの周りを椅子が楽しそうに跳ね回っています。
「あぁ、知っているよ。彼はあのバラに他人が触れるのを、とても嫌がっていた。今でもそうなのか。全く変わらないんだ。」
「・・・ピアノさん、野獣さんと仲良しなの?」
「どうしてそう思うのか、聞いてもいいかい?」
少女は床に広げていた今日一日の探検の成果である地図を見つめ、そうね。と考えるように顎に手を当てた。
「わからないけど、そんな気がした。ではだめですか?特に理由があったわけじゃないの。ただそう思っただけ。違ったなら、ごめんなさい。」
ピアノは楽しそうに笑うと、電波姫ちゃん、と少女を呼んで鍵盤の蓋をぱくりと開けました。
「お詫びなら、また何か曲を弾いておくれ。」
「そうね、ピアノさんがそう言うのなら。そうそう、私、今日の探検であるお部屋で楽譜を見つけたの。これをちょっとの間だけ借りてきたから、ピアノさんで弾いてみようと思うの。」
少女はがさがさとお昼を食べ終わり、物が少なくなったかごから楽譜を何枚か取り出しました。ピアノはしばらく黙っていましたが、ほんの少し困ったような声で少女に尋ねました。
「それはひょっとして、扉にタクトがはめ込まれた部屋じゃなかったかな、えっと・・部屋の中にバイオリンとかが、ある・・?」
「あぁ、そうね。そうよ、ピアノさん!あれは、タクトだわ!!私、あれが何だったのかちっとも思い出せなくて、チェアに聞いたけどチェアはびっくりするぐらい興奮していて扉を開けてくれって言っているみたいに扉を引っかいたり、くるくる回ったりするものだから、私の方も焦っちゃって。そう、タクトだわ。それで・・えっと、バイオリンよね。ふふ、なんだかあのときのチェアを思い出したらおかしくて笑っちゃう。ふふ・・あ、あぁ、あったわ。バイオリン!部屋の隅に立てかけてあったの。私、バイオリンは弾いたことがなかったから触らなかったけれど、あのお部屋にはそういえば色々な楽器があったような・・」
いつものごとくぺらぺらと喋る少女にピアノはそう、とさきほどと同じように少し困ったように呟くとまた、少女を呼びました。
「ねえ、電波姫ちゃん。君は楽譜を読めるでしょう。その持ってきた楽譜を弾いてくれる?」
「あぁ、そうだったわ。もちろん。私、そのためにこの楽譜を持ってきたんですもの。ふふ、あら・・でも、」
どうしてピアノさんはあの部屋のことを知っていたのかしら。まるで見たことがあるみたい。けど、そんなはずないのに。そう思いながら少女はそっとピアノの鍵盤に手を乗せました。
少女はパタパタと広間に入りました。夜ご飯の支度はもうとっくに始まっていました。
「わー!!ごめんなさい。ごめんなさい!私ってばすっかりピアノを弾くのに夢中になっちゃって。あ、時計さん。紙をもっとたくさん欲しいの。・・あ、あとこれ。お昼ごはんのサンドイッチとミルクティー。本当に美味しかったわ。」
足元をぴょんぴょんと動き回る椅子を踏まないように気をつけて避けながら、少女はキッチンの流しまでかごを置きに行きました。
「あぁ、電波姫!座っていてくだされば、私がやりますから。」
「では、明日もお昼は持ち歩けるメニューにいたしましょうか。」
「!!ここの料理長さんはフライパンさんなのね!私、てっきり冷蔵庫さんあたりだと思っていたわ。」
「あぁ、はい、ぼ、ぼくは見習いな、なんです。」
時計の言葉は少女に届くことはなく新しい発見をした少女はキラキラと瞳を輝かせてキッチン中を歩きまわります。
「あら、本当に冷蔵庫もお喋りするのね!ふふ、すごいわ。フライパンさんの方が料理長なのに、体が大きい冷蔵庫さんは見習いだなんて。なんだか、おもしろい。」
「き、恐縮ですっ、」
「こら、電波姫。あんまり褒めないでやってください。照れるとこいつの体温が上がって食料がダメになっちまう。」
「ふふ、まあ、それはごめんなさい。」
少女は触れていた冷蔵庫から慌てて手を離すと、かごの中からカップと地図を取り出しました。カップは一言二言少女と話してから、ぴょんぴょんとポットの元に帰っていきました。
「じゃぁ、フライパンさん。冷蔵庫さん、今日の夜ご飯もお願いしますね。」
「はい。もちろんですとも。」
「さあ、電波姫さま、お座りください!」
「はーい、あぁ、私お腹がぺこぺこだわ。」
少女は時計についてパタパタといつもと同じ場所に座ると思い出したように言って笑いました。
「あぁ、そう言えば私、時計さんかろうそくさんに聞きたいことがあったんだわ。二階に行ってきたのだけれど。二階はまるでホテルやペンションの客室みたいだったの。それに誰か住んでいたみたいだったし。ねえ、あそこには誰が住んでいるの?」
少女の言葉に時計はろうそくと視線を合わせました。しかし、すぐにろうそくが悲しそうにふうと溜め息を一つ吐きました。
「いいえ、いいえ、電波姫。もう、ずいぶんと昔にあの部屋に住んでいた人々はどこかに行ってしまったのです。この城を捨てて行ってしまったのです。」
「もう、戻ってはこないの?誰も残ってはいないの?」
「・・えぇ、もう、誰も。誰一人として戻っては来られないでしょう。」
「どうして?どうしていなくなってしまったの?」
少女の言葉にろうそくはそっと遠くを見るようにどこかをじっと見ていましたが、九時を告げる鐘を聞いて
「私たちはもうこれ以上お話することはできません。あとはご主人さまに聞いてください。もうすぐいらっしゃいますので。」
その言葉が終わると同時に昨晩と同じように空気を振るわせるほどの野獣の叫び声が聞こえてきました。
「・・野獣さんなら、知っているのね。」
「ええ、電波姫。ご主人様が一番よく知っております。」
悲しそうなうろたえるような表情をしたろうそくをじっと見つめていた少女はガタンと扉が開く音でそちらを見ました。
「こんばんは、電波ちゃん。」
「こんばんは、野獣さん。」
ふさふさの尻尾にぴんと立っている耳。昨日と何も変わらないその姿に少女はじっと野獣を見つめていました。
いつもあの姿だわ。あ、でも、私もいつもこの服って思われているのかしら。
「・・・・それにしても、今日もまたすごい姿だ。」
「まぁ、私の考えていたことをわかるの?野獣さん、私も同じことを考えていたのよ。口に出したわけでもないのに。どうして野獣さんには分かってしまったのかしら。」
「電波ちゃんは、時々一人言みたいに話しかけてくるね。」
「独り言?そうかしら。」
少女は右に左に首を傾げて考えてみますが、何のことか自分ではわからないので、もう考えるのはやめてさっきろうそくに聞けなかったことを訊くことにしました。
「そういえば、私、野獣さんに聞きたいことがあったんだわ。ねえ、野獣さん。私ね、今このお城を探検しているのだけれど、二階にはお部屋がたくさんあるでしょう。あそこに住んでいた人たちはどこに行ってしまったのかしら。部屋の中は今でもいろんな物があって、私宝探しをしているみたいだったわ。」
「なるほど。だから、そんなすごい姿をしているわけだ。」
野獣は一人で納得したように頷くと少女の質問には答えずに料理を運んできたろうそくに尋ねました。
「クイーン側の浴室は使えるか?そろそろ、この娘を風呂に入れてやるべきだと思うが。」
「はい、ご主人様。私どももそう思いましたが、もう長いこと誰も風呂など使っておりませんでしたので・・・もう、使い物にならないのです。」
「そうか、それもそうだな。・・・なら、わたしの部屋の浴室を使うか。」
野獣はじっと考えるように少女を見つめていましたが、やがてくりくりと大きな瞳を動かし、時計に言いました。それを聞いて驚いたのは少女のほうでした。
「じゃぁ、じゃぁ、野獣さんはお風呂に入っているのね。」
「・・まぁ、そりゃあね。では、電波ちゃん。食事が終わったらお風呂に入るから・・彼女の新しい服は、ないのか?」
「いえ、今、洋服箪笥が作っております。久々のお嬢さんということもあり、だいぶ張り切っているようで・・・ですが、もう間もなくできるかと思います。」
「なら、あとでわたしの部屋まで持ってくるように。」
「はい、ご主人様。」
少女はもぐもぐと出された料理を食べながらも、じっと野獣とろうそくとのやりとりを見ていました。
ジャック側の廊下は薄暗く、うっかりしていると野獣の大きな背中すら見失ってしまいそうでした。
「・・・電波ちゃん、大丈夫かい?」
「はい、けれど、暗くて迷子になってしまいそう。」
少女は言いながら、どうして野獣はもらったランプを使わないのだろうと不思議に思いました。そうすれば、こんなに歩きにくくはないというのに。
「あぁ、そうか。わたしはこの暗さでもあたりの様子が見えるから、これくらいがちょうどいいんだけど・・・灯りを点けてほしい?点けても、怖がらないと約束してくれるならこのランプを君にあげよう。」
「怖がる?一体、ここには何があるのかしら。野獣さん、お願い。怖がらないと約束するから、ランプをちょうだい。」
少女はもう、このお城を巨大なアミューズメントパークくらいにしか考えていませんでしたので、怖いはずはなくむしろ興奮してしまうかもしれない。と思いました。
そんな少女の言葉に野獣は、黙ってランプに火を点けるとそれを少女に差し出しました。さっきまでの薄暗い世界から一変して、煌々とあたりを温かい色でランプが照らしています。
「・・・ねえ、電波ちゃん。これでしっかりとわたしに付いて来れるだろう。」
「はい、野獣さん。」
くるりと前を向いた野獣を追いかけながら、少女はランプで明るくなったあたりを見ました。
美しい彫刻や絵が壁に描かれていたクイーン側と違い、こちらのジャック側には美術品や芸術品などが置かれたり、飾られたりしています。しかし、そのどれもがまるで獣が暴れまわったかのように、壊され破かれ引っ掻かれたり齧られたりしたような跡がついていました。
これ、もしかして、みんな・・野獣さんが、
歩いている靴が、何かの破片を踏んだのっかぺきんぺきんと音を出します。少女はハッとして前を歩く野獣の足を見ました。それと同時にペシンと野獣は尻尾を鳴らして小さく呻きました。
「どうだい、電波ちゃん。灯りを点けたほうが怖いだろう。見えないほうが良い事だってあるんだ。」
「これ、全部・・・引っ掻いたり、齧ったり・・」
「あぁ、わたしだ。まさかここまで人を入れる日が来るとは思っていなかったよ。毎日、毎日、この城に引きこもっていると時々何もかもが我慢できなくなる瞬間があるんだよ。この醜い姿も、そしてそれを他人に見られたくなくて外にすら出られない自分も、何もかも、何もかも。」
野獣は忌々しそうに呻くと壁にかかった、べろりと引き裂かれ捲れ、もう何の絵なのかもわからない絵に触れました。そのうめき声がひどく苦しそうで少女は一歩、知らずに野獣に近づいていました。
「この世界も、全てを壊してしまいたくなる。負の感情を抑えられなくなる。わたしは、体も心も獣になってしまうんだよ。」
「野獣さん、」
あの日の私のようだ、と少女は思いました。自分には何もできないのだと、そう思ったあの日の私だ。
自分が嫌いでたまらない、あの頃の私。
こんなに素敵なお城に住んでいるのに、野獣さんはひどい孤独の中にいるんだ。
少女はそっとランプを降ろしました。灯りは足元を照らすだけで、あたりの景色も野獣の顔も見えなくなりました。
「・・・さて、行こうか。電波ちゃん、足元に気をつけて。」
ぱしん、野獣の尻尾が鳴って、少女はそれに続くようにランプをほんの少し前に出して歩き出しました。
入った部屋は、外や今まで歩いてきた廊下と同じように暗く、少女は少しだけ怖いと思いました。きっとこの部屋も廊下と同じように荒れているだろうことはランプを掲げなくてもわかったからです。
「そこの奥に浴室がある。わたしはまだ入っていないから、綺麗なお湯だよ。服はもうすぐだろうから、上がるまでには置いておくよ。」
「・・・はい。」
少女は何を言っていいのか、わからなくてただようやくそれだけを返すとランプを持ったまま、ぱたぱたと浴室に向かいました。野獣はそれを見つめたまま、ただ立っていました。
浴室は思った以上に美しく、外のような引っ掻き傷はありませんでした。薔薇の花びらが浮いている湯船は広く、久しぶりに入る大きなお風呂はとても気持ちがいいのでした。
「はあー・・良い湯だわ。このまま、体が溶けてしまいそう。」
脱衣所で服を脱いで、少女は初めて自分が埃や砂だらけだったということに気づいたのでした。
「このお城はまるで夢の中にいるみたいだから、どうにも現実味がなくなっちゃうのね。」
夜ご飯を食べれば、部屋までろうそくに案内されて、そのまま何も考えずにベッドに潜り込み、そのまま朝を迎えたのでした。
「ふあー・・あぁ、もうだめ。眠くなってきたわ。この後、部屋に帰るのがめんどう。・・野獣さんのところで寝かせてもらえないかしら。」
温かく良い匂いのする浴槽にだらりと体を投げ出し、少女はぼんやりと呟きました。
それでも、なんとか上がると脱衣所の棚には少女がさきほどまで着ていた服の代わりに質素な桃色のガーゼ生地のワンピースが置いてありました。着心地が柔らかいそれは、どうやら寝巻きのようでした。
「あぁ、新しい服に清潔な下着に、温かいお風呂。もう、本当に眠いわ。」
そう呟くと少女は、くたりと座りこんでしまいました。
「上がったかい、電波ちゃん。」
しかし、少女は眠気に勝てず、桃色のワンピースが置いてあった棚に寄りかかったまま、すやすやと眠っていました。
「・・・本当に、変わった娘だ。」
野獣はほんの少し驚いたように目を大きくすると少女に手を伸ばしました。しかし、その自分の手に長い爪があることに気づきそっと引きました。
翌朝、少女が目を覚ますとそこは夕べの美しい浴室でした。体からするりと毛布が落ちてほんの少し冷たさを感じました。
「・・あぁ、私ってばあのまま眠ってしまったんだわ。それにしても、野獣さんは私が一晩中お風呂に入っていたと思っているのかもしれないわ。だとしたら、私ってばそうとうおかしい子だと思われたわね。あら、でも、それなら・・・この毛布は?」
少女はいつものように一通り一人で喋ると、そのまま毛布をもって浴室を出ました。おかしな姿勢で寝た為か、体のどこも痛みます。
「うう、骨がパキパキ言っているわ。もう、どんなに眠くてもちゃんとベッドで寝るようにする。あら、野獣さんがいない。」
朝の光の中、昨日は見えなかった部屋は広くそして必要最低限の家具以外は何もありませんでした。
「・・ここに野獣さんは一日中?あぁ、あんなところにも傷が。どうやったら、あそこに噛み付けるのかしら。私じゃどんなに飛んでも届きそうもないわ。でも、きっと野獣さんは届くのね。なんたってあんなに大きいんだもの。あら、これは何かしら。大きな、鏡ね。けれど、」
何も映らないわ。そう言おうとした少女の言葉はガチャリと扉の開く音で声にはなりませんでした。
驚いて振り向けば、そこには手に薔薇を持った野獣が立っていましたので、少女は安心したように笑いました。
しかし、野獣は少女のその笑顔の理由がわからず、疑うように眉を寄せるだけでした。
「おはよう、電波ちゃん。何をしているんだい?」
「あら、野獣さん、綺麗な薔薇!!あぁ、そうか、庭にある薔薇の手入れをしていたのね。あぁ、そうなの。野獣さん、この鏡、とても大きいのに何も映らないのよ。それから、私は一晩中お風呂に入っていたわけじゃなくて・・うーんと、違うわ。えっと、これ。この毛布、野獣さんのでしょう。どうもありがとう。」
「・・・・とりあえず、どういたしまして。この薔薇が欲しいなら後で部屋に持っていかせるよ。それから、その鏡は・・・・電波ちゃん、今一番見たい場所や人を思い浮かべながら、触れてごらん。」
「・・?」
野獣の言葉に少女は首を傾げながら、家に帰ろうとしていた父の姿を思いました。果して無事に帰れたのか。ずっと気になっていました。そうして鏡に手を触れますと、今まで黒く濁っていた鏡に、家に帰り着き、兄や姉に出迎えられている父の姿が見えてきました。
「あら、お父さまだわ!!良かった、ちゃんと家に着いたんだ。それにお姉さまやお兄さまも、あんなに喜んでいて、あぁ、良かった。」
「・・・けれど、誰も、電波ちゃんがいないことを悲しんではいないようだ。君がわたしに食べられているかもしれないのに。」
「野獣さん?」
忌々しげに野獣は低く呻ると、パシンと尻尾を鳴らしました。夕べ廊下で見たときと同じような表情でした。
「だから、わたしは、人が嫌いなんだ。」
いつものようなろうそくの光ではなく、差し込む太陽の光の中で見る野獣はいつもと同じはずなのにキラキラと光を反射する美しい毛並みも、悲しそうに伏せられた瞳も、威嚇するように見える牙も、どこか違って見えました。
「・・・やじゅう、さん。」
思わず、少女は手を伸ばしてそのふわふわの毛に触れました。途端にびくりと野獣は体を跳ねるようにして一歩退き、驚いたように目を大きく開いて少女を見つめました。それから、威嚇するような声を出して
「・・・わたしに、触るなっ!!」
「ご、ごめんなさい。野獣さん、」
「朝食の支度がもうできているだろうから、もう、行くんだ。」
「野獣さん、」
「勘違いするな、お前が特別なわけじゃない。わたしにとってお前はただの人質だ。食べはしないが、馴れ合うつもりもない。」
鋭い瞳が、一瞬だけ少女を捉え、それからすぐに逸らされました。まるで少女を拒絶するように野獣は後ろを向いて、それきり少が部屋を出て行くまで一度も振り向きませんでした。
ベッドに置かれたままの毛布に、野獣はそっと手を伸ばした。触れれば、まだ温かくそこから少女の匂いがするような気がして、なぜだか心がざわざわと逆立った。
「特別なわけじゃない。今は、物珍しいだけだ。すぐに彼女だって、わたしを怖がり、いなくなる。」
少女の小さな手が柔らかく触れた場所に、手を当てた。
何の感触もしない、ただの毛だ。
獣の、毛だ。
「だから、だから、人は嫌いなんだっ。」
吐き出すように叫ぶように野獣は吼えるとベッドに置かれた毛布をその爪で引き裂いた。
少女の温度も匂いもなく。ただ糸が散らばった。
少女は、野獣のことが頭から離れず、一日の探検すら上の空でした。野獣に触った手を何度も開いて閉じて、見つめていました。
「・・・何かしら、このモヤモヤした気持ちは。私が野獣さんを怒らせてしまったのよね。けど、なんて謝ったらいいのかしら。」
窓の外に見える美しい庭園には、色鮮やかな薔薇が咲いています。
「あの薔薇の花、綺麗だったなあ。それにしても、どうしてあのとき野獣さんに触ったりしたのかしら。そうしたら、あんなに怒らせたりしなかったのに。もう、今夜は会いに来てくれないかもしれないわ。」
そう思いながら少女は、広間に入り、食べ残してしまったお昼を謝りながら、流しまでもって行きました。
フライパンさんたちには、こんなにすぐに謝れるのに。今夜、野獣さんにもこんな風にすんなりと謝れるかしら。
「・・・電波姫さま、どうかなされたのですか。今朝から元気がないようですが。」
「いいえ、何も・・・私、野獣さんを怒らせてしまったみたいなの。あぁ、本当に、今夜はきてくれないかもしれないわ。けど、私どうやって謝ったらいいのか。わからないの・・」
「電波姫、」
ポロポロと涙を流し、泣き出した少女にろうそくや時計は顔を見合わせて驚いたような顔になりました。
「私、私、野獣さんに嫌われてしまったわ。」
「大丈夫ですよ、電波姫。泣かないでください。」
「そうです、電波姫さま。」
「でも、きっと、私、ここを追い出されちゃうわ。私、私、ここにいたい。」
「あらあら」「いす!!」「電波姫!」
次々運ばれてくる料理には手を付けることもせずにまるで子どものように泣く少女の周りにはまたしても、食器やら家具やらが集まってきました。
「これは困った。ご主人様をお呼びしなくては、」
「いいや、ご主人様は九時にならないときてはくださらない。」
「電波ひめ、とりあえず落ち着いてくださいな。」
「お昼もあまり召し上がっていない。お腹は空いているはずなんだ。」
「ほらほら、電波姫。」「いすいす!」
何とか泣き止んでもらおうと、必死になるろうそくたちの願いも虚しく少女は一向に泣き止む気配はありません。
「私、私、ここにいたいっ、ここにいたいのっ」
「まぁ、そんなにこのお城を気に入ってくださったのね。もう、電波姫さまは本当にいい子ね。」
「ボクも、電波姫にはずっとここにいてほしいよ。」
「いす!」
「うわーん、ティーもチェアも大好き!」
そんなカオスなことになりつつある広間に、九時の鐘が鳴りました。
「九時だ。さあ、お前たち、電波姫はご主人様に任せて、各自持ち場に戻るんだ。」
ろうそくの言葉に、カップたちは納得のいかない様子でしたが、いつものように屋敷中に響き渡るような吼え声を聞くと、しぶしぶというように動き出しました。
「ど、どうしよう。野獣さんが、きてしまうわ。」
さきほどまでは、野獣が来なかったらと泣いていた少女でしたが、今度はどう謝ったらいいだろうか、と頭を抱えました。そんな少女の悩みなんてちっとも知らない野獣はいつものように扉を開けると、大きな目で少女を捉えました。
「・・・・やぁ、電波ちゃん。こんばんは。」
「こんばんは、野獣さん。あの・・・あの・・」
いつもは余計なくらい口から言葉が出てくるのに、今は一つも何も思いつかないのですから、少女は困ったようにぱくぱくとするばかりでした。
「・・・ねえ、電波ちゃん。・・はい、」
「え?・・・まぁ、綺麗なバラ!今朝のバラね。野獣さん、ありがとう。」
「どういたしまして。棘なんかは、取ってあるから、このまま花瓶に入れて大丈夫だよ。」そっと机に置かれたバラの花束を見つめ、少女は嬉しそうに微笑んだ。それから、自分の正面に座った野獣にもう一度、ありがとう、と伝えると何かを思い出したようにはっとしてまた口をぱくぱくしました。
野獣はそんな少女を見つめ、いったいどうしたのだろうかと首を傾げました。いつもはうるさいくらいにぺらぺらと声を発する少女が、今日はぱくぱくと声を出せないかのように口を動かすばかりで、何も喋りません。それどころか、目の前に並んだ料理のどれにも手をつけていないようでした。
「ねえ、電波ちゃん。今日は・・どうしたんだい?なんだか、様子が変だけど。」
野獣は今朝のことを覚えていましたが、それが少女にこんなに影響しているとは思ってもいませんでしたので、きっともう帰りたくなったのか、親が恋しくなったのだろうと思っていたのでした。
「野獣さん、私、ここにいたいの。ここが好きなの。このお城にいるのが、楽しいの。だから、お願いします。私のこと、嫌いにならないで。ううん、嫌いになってもいいから、ここからは追い出さないで。私、ここで暮していきたいの。このお城が好きなの。野獣さん、野獣さん、お願いだから。私を外に出さないで。ここにいていいなら、私、もう野獣さんに触らないって約束するわ。だから、」
「・・・・、」
喋らないと思ったら、今度はいつものように息継ぎをせずに喋り続けるのだから本当に。
野獣は困ったように眉を下げて少女を見ていましたが、やがてふうと溜め息を吐きました。それがあまりにも大きな音でしたので、少女はビクリと身体を震わせて口を閉じました。また、野獣を怒らせてしまったのかもしれないと思ったからです。
「安心して、電波ちゃん。わたしは、君を追い出したりはしない。」
言われた言葉に少女は、しばらく驚いたように野獣を見ていましたが、やがてさきほどバラを受け取ったときのように嬉しそうに笑うと、本当に、本当に、と野獣に何度も尋ねました。そうして、野獣がおかしそうに笑いながら頷いたのを見て、安心したように背もたれに身体を預けました。
「あぁ、良かった。本当に良かったわ。私、もうずっと、そればっかりが心配で・・どうしたらいいか、わからないくらい不安だったの。あぁ、安心したら、お腹が減っちゃったわ。ふふ、あぁ、ありがとう。野獣さん、大好きよ。」
ありがとう、大好き。そんな小さな好意の言葉でしたが、野獣の心にとっては、久しぶりに聞く温かい優しさとなり染み込んでいきました。
「・・・電波ちゃん、君は本当に・・」
野獣の呻くように言った声は、ひどく掠れていたため、机の向こう側にいた少女には届くことはありませんでした。
それから、二人は少女が話す、このお城の不思議なところと、少女が考えたそれにまつわるストーリーを聞きながら食事をしました。食事が終わると、野獣は思い出したように少女の名前を呼びました。
「なあに、野獣さん。」
「わたしと結婚してくれないか?」
「!!」
少女はまたしても、口を大きく開けて驚いてしまいました。それでも、やはりきっぱりと自分でもわからないほど迷いなく
「いやです、野獣さん。」
そう答えました。それを聞くと野獣は、やはり悲しそうに頷いて広間の扉に向かっていきましたが、一瞬迷ってから
「・・・入りたくなったら、いつでも浴室を使いにきていい、から。」
そう言って出て行きました。
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