シャラの角のなきがら 後編

 シャラの花が角に咲き、もう何度目かの朝がやってきました。容体はもはや痛々しく、美しい白の花びらはくすみ、元の花がなんだったのか、すぐには分からないほど萎えてしまいました。かぐわしい匂いも残っておらず、どうにも元気が感じられませんでした。


 ですが、どんなに身がみすぼらしくなっても、鹿にとっては大切な友人であったので、最後の時が来るまで、鹿は花を守ることに決めていました。優しくいたわるように、汚れてしまった花に、いつもどおり呼びかけるのです。

「聞こえるかい、シャラの花。昨日はあっちの崖までいったね。そこから、人間たちの里を見下ろしたな。」

「あっちの…崖かい?」

もうろうとする声で、シャラの花は聞き返しました。

「うー、そうだった、そうだった。人間という生き物は、なにやらよく働いていたな。そうか、私たちは、“市場”を遠くから眺めたん、だったな。」

「そう、君は随分と不思議なことを言っていた。働くことは、優れた事なんだってね。僕にはよく分からなかったが…」


 鹿は思い出したように、言葉を添えます。鹿はシャラの花がどれほどよく物事を知っているか、よく分かっていました。そして、花の容姿が痛んでも、かの花への尊敬は、確かに言葉にこもっておりました。

「彼らが身にまとっている、大きな幕のようなものを、小さく切って、それぞれ持ち帰っているように見えた。あれが本当に君の言うほど、優れた事なのか、正直なところ僕にはまだ、どうにも掴めていないんだ。だって、君のしてくれてるみたいに、話を聞いてくれている訳ではないし、僕ができるように、険しい崖を飛び上がっている訳ではないしね。」


 だからこそ、鹿は気になりました。決してシャラの花に、反発して言うわけではありません。慎重な鹿はシャラの花に、教えを乞いたかったのでした。なぜ、それが優れた事なのかということを、間違えて理解するわけにはいきません。


「かれら、人間は…」

 シャラの花は振り絞るように、ゆっくりと言葉を繋ぎました。シャラの花はひとりごとなのか、鹿と話しているのかもう、分からないのです。分からなくてもかの誠実な態度を、守ろうとするかのように聞こえました。

「彼らを、お互いに、養っているのさ。」


 花のとぎれとぎれに言う事には、人間は“社会”という名の群れを作るというのです。その群れの中で人々は、人々が必要なものを作りますが、一人で生活の全てをつくることはありません。


 ある人間は幕-布とやら―を他の人間にゆずってもらい、衣というものを仕立てます。また、別の人間は布そのものを紡ぎ、食べ物をもらって生きています。別の人間は畑を耕します。そして、育った作物を取り替えてもらうことで、誰かの作った衣を身に着け、汗を拭くのです。自分のできる役割を担い、お互いに交換し合って、人間たちは暮らしています。これを“働く”というのです。


 働く人間に、意味の無いものはありません。忙しい人間に意味の無いものはありません。意味がなければ、長く続くこともなく、すぐに消えゆくからです。だから、存在していることはすべて意味があるのです。


「たとえ、ちっぽけな存在に、見えたとしても、なんの取り柄もないように、見えようとも、きっと役割は、あるものさ…そう、鳥たちから聞いていた…」

「…なるほど、やはり流石はシャラの花。」

「…違うんだ、私が、すごいんじゃない…私は、ただ、偶然、君より先に、聞いていた、だけなんだ…」

 シャラの花の言葉によって選ばれた、一字一句の伝え事にも、無駄なことはありません。それは弱り切った今さえも、かたく変わらぬことにございません。

 

 鹿はシャラの花にすっかり感心しっぱなしでした。聞いていて痛々しいほど、具合が悪いのは分かるのですが、もっとずっと一緒にいたいという焦りが、鹿をまくし立てているようでした。

「次の場所へ、いってもいいかい?今度僕が行こうと思う場所は、別の人間の暮らす群れだ。今の話を聞いて、僕はもう一度、人間というのを見たくなった。やはり、僕はシャラの花を褒めたいみたいだ。僕は君からきいたことで、またひとつ賢くなった気がする。」


 いつも慎重な鹿が、いつになく緊張した面持ちで、シャラの花に提案しました。

なら、いいさ…

確かにそう、シャラの花はそっと言いました。


 人の里へ歩きながら、鹿は考えあぐねていました。きっと彼ら人間を見ていれば、また新しい学びを、シャラの花から施してもらえるのでしょうから。それにしても、人間か。ただ馬を走らせて、弓矢で僕らに襲い掛かったり、お互いに石を投げ合いながら、戦いあう種族というものでも、ないみたいだ。

 鹿は今まで、人間の戦う顔しか、見る機会がありませんでした。血走った目や、武器を突き立てたその傷に張り付く、卑しい笑い声にしか、触れることがありませんでした。でも、だけど、やはりシャラの花の言う事には一理あるように思え、うわ言のように、人間か、人間か、と口の中で言葉を転がしていました。



 気付いた時には、鹿は花へ告白をしていました。

僕は本当は、この角の本質の使い方を知っていた、と。



 いらないと思ったのは、使い方が分からないからではありません。鹿は角の使い方を知っていました。かつてこの若い鹿も、群れの中で暮らしていました。そうして子供の頃の鹿は、まわりの大人のオスたちと同じように、大きくて丈夫な角を持ちたいと思っていました。そして角に幼い憧れを抱きながら、父母に寄り添って夢を見ていました。

 しかし、ある日のことです。くもりにくもった暗い昼です。がつーんがつーんと鋭い音が、森中の空気を震わせました。激しく角で傷つけあう、鹿同士の戦いが、群れという身内の中で繰り広げられました。幼い鹿はすっかり縮こまり、物陰から見ている事さえできず、お母さん鹿の体に首をうずめ、息を殺して耐えていました。その日を最後に、彼のもっとも身近な鹿が、一頭、群れからいなくなりました。


 可愛そうな鹿は、あれほどまで憧れていた、角の正体を知ってしまいました。若いオスにとって鹿角が、どんなふうに使われるのか。誇り高さなんてありません。取り繕いようもありません。どうしようもなく、どうしようもない、やるせなさがこみあげてきて、振り払いきれませんでした。失望というツタが角に絡みつき、その日から鹿は、角はみにくく重い物であると、涙を枯らしながら暮らしていたのでした。

 

 あの他者を打ち据える鹿の、攻撃的なまなざしを、一度疑問に思ってからは、大人になって生えてきた、頭上の無神経なかんむりは、不要なものになっていました。あのときの恐怖はなんど振り払おうとしても、後から後からむくむくと、限りなく生えかわる角のように、頭の中を征服し続けるのです。

 本当に僕たちの角は、戦う為だけにあるのか、それを信じられなかった鹿は、身内でも戦いを止められぬ群れから、離れて逃げてきたのでございました。


「僕が、間違えているんだろうさ。このよそから見て美しい角は、代々鹿にそう使われてきたんだ。たとえ夢でもいいからと、忘れてしまえるならむしろ良かった。なんてつまらない、角の在り方だろな。なんでこんなに、僕は悲しいんだろな。僕はこの角を、なくしてしまいたい。でも、でも。」

そうなのか…鹿君… では君は、角の、あいしかたを…しりたかった…それだけ…

「…え?いまなんて…」

 何と言ったのか、いや本気でそれを言ったのか、それを聞こうとした時、鹿はふいに、角から何かが離れた気がして様子を伺いました。そして、悟った鹿は、急に鹿おどしに打たれたような寒気に、全身の筋肉を強張らせました。


ああ、


ああ。

しわくちゃになって、色もにじみ、崩れて形の残らぬその花は、既に絶命しておりました。


 鹿は頭上の友人の、眠りを静かに憐れみました。そして、すっ、と一粒の涙が、頬を伝って足元に落ちました。いえ、その一粒を追って、あとから熱い涙が、こんこんと湧き出てきて。その濡れた草に目を落とせば、あの日、川で濡れてしまった花と同じくらい美しかったのです。

 意識が旅立っても花は堕ちず、長い一日が終わるまで、小さく軽いその身を、鹿へと預けていました。


 シャラの花の咲いていた角は、以前の角と何も変わらないものへと、戻ってしまったわけですが、鹿にとってもう角は、邪魔なものではありませんでした。この角には花が咲いていたという“思い出”が寄りかかり、身を長く這わせ、新しい芽吹きを迎えます。


 鹿は考えを改めました。確かに咲いていた花が、せめて恥じぬように、自分の角をもっと愛でてみせようと、鹿は思うことにしました。それはきっと、かつて見た群れのオスとは異なった使い方になるかもしれません。力強くもはかない角が、誰かに傷をつけないために、慎重に考えを巡らせることが、次の鹿のやりたいことになりました。今ではそれを考えながら、脚を重ねて眠るのです。

 最後に角は親切な友人と、一体となれたのが救いでした。そして花を通して、鹿もまた、角と一体となる事が出来たのでしょう。



 やがて、季節は巡り、角の生え変わる時期になりました。鹿の足元には、より重くどっしりとした角が横たわっておりました。

 鹿は黙って角のなきがらを見下ろしていました。雲に隠れて弱く照らすお日様と、風にそよぐ草花。冬の静かな夕方に、耳を澄まして聞き取ろうとする、鹿の姿がありました。

 鹿は何も語るよしがありません。何を語るべきだというのか、何が語られぬままになっているのか、分からないのです。そして、座して構える角もまた、黙して何も語りません。もはや、角が微笑むことも、相槌を打ってくれることもありません。この角が、かつてのように気取った物の言い方で、学びを与えてくれたのなら、とそこまで考えて、鹿はため息をつきました。


 ようやく鹿は、見下ろしていた角との名残を断ち切り、軽くなった頭を横に振りました。

「この角の問題は、最初から僕自身だったわけだ。」

 もう鹿には邪魔だった角は見えていないのです。その目に映るのは、長らく席を外していた、かえるべき同族の群れのことのみでありました。

「黙って去ってからというもの、僕は角に取りつかれていたみたいだ。でも、僕にもやりたいことができたんだ、シャラの花。君が教えてくれたことを、今度は僕が教えてあげるべきなんだ。角の、素敵な使い方を。」

鹿の頭に角はありませんが、意味を失い抜け落ちた角も、春にはまた生えてきます。


 鹿は踵を返し、山へと消えていきました。


 お天道様に見守られたタンポポが、風に乗せてそっと綿毛を飛ばしました。もうしばらくすると、乾いた寒さの季節がやってくるというのに。ですがなにか新しい命が、挿げ替えられてはえ変わりゆき、新しいものとしてうまれてくることが、私たち人間にとっても、なんとなく嬉しい事なんだと、私には思えてなりません。あなたはどう思いますか。


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