シャラの角のなきがら 中編

 シャラの花を角に飾り、トコトコ坂を上る鹿でしたが、風が角を撫でるたびに、本来はもっと早く歩けるはずの足をとめ、気を配りながら進みます。


 話し相手のシャラの花は、流れる景色を見ながらも、動くことのなかった過去と比べ、ふしぎに思うことを鹿にききました。

「君たち動物は、こうやって動いていると、疲れる思いなどしないものかね。思えば私も、一度“嵐”というものに襲われたことがあった。あのときはまだ私も、身の丈半ばの青いつぼみで、飛ばされないように身を固めていたよ。」


 シャラの花は思い出し、しみじみと浸った声で言いました。動きながら世界を見たいとは今の話。花がかつてつぼみのころは、さまざまな景色を見るよりも、花そのものを咲かせたいと思っていたのでした。

「動いてはいないけれど、あのときはひどく疲れてしまったと、ちょうど今思い出した。身を動かすという事は、花にすぎない私からすれば、きっと疲れることにちがいない。それに比べ、君たちにとっては疲れは、ほんのささいなことなのだろうか?」


 シャラの花が気遣ってくれていることが鹿にはよく分かりました。ですが、先程まであんなに角を、重く、苦しいと思っていた事なんか、さっぱり忘れてしまった鹿は、動物として生きる意見を、正直に、素直に、答えました。

「いや、やはり僕ら動物であっても、歩きっぱなしでは疲れてしまうだろう。だから僕らも、動いたり、休んだりして、いろいろと歩き回るんだ。それ、小川が見えてきたぞ。」


 シャラの低木があったのは、もう隣の山のこと。鹿は話しこみながら、山のかなり上まで着いてしまいました。この山には水源があり、そこからほんの小さな川が生まれ、下流につながっています。

 さらりさらりと水が流れているのが、茂みの間に見えました。背の高い木に囲まれていますが、こんなに細いおもちゃの川にも、お日様は光を注いでくれているのでした。にごりの無い、澄んだ水流でございました。

「ここの水は冷たくておいしいよ。さいわい、他の動物はいないみたいだ。ちょっと飲んで、今度は開けたところに行きたいな。」


 川べりにやってきた鹿は、首をかしげて水面に口を付けました。舌のひらからのどの奥へと、氷のように冷たい水が駆け抜けてきました。こんなに美味しい水なのですから、皆で分け合ったらどんなに美味しい事でしょう。

 ですが鹿は、長らく目立つ角に悩まされていたこともあり、すっかり気むずかしい考え方をするようになっておりました。そこで、この角を見る他の動物がいない孤独を、さいわいだと考えるようになっていたのです。


 さて、鹿から見えないところに、一匹のカエルが休んでいました。カエルは休む時も川のすぐ近くで休んでいます。川に近ければ近いほど、カエルを食べてしまう敵が現れたときに、すぐに水へ逃げ込むことができるのです。

 とはいっても浅い川であるために、一目散に飛び込んだとしても、鳥やヘビから身を守れるかは分かりません。ただ、そんなことは夏の光の中に忘れ、短い草の間から半分だけ頭を出して、うとうとと居眠りをしておりました。

 そこへ突然“にゅっ”と出てきた鹿の顔。鳥よりもずっと大きい鹿の顔。少しくらい離れていても、カエルを驚かすには充分大きすぎました。寝ぼけまなこの覚めぬまま、カエルはポツンッと音を立てて、水の中へ飛び込みました。


 まだ飲み始めたばかりでしたが、近くでの水しぶきに面食らった鹿は、勢いよく頭を上げて、すぐに「しまった!」と思いました。宙をゆらゆらと舞いおりて、シャラの花の白い体は、ついに川に落ちてしまったのです!

 即興劇は山の上でのことでした。自然は恵みでありながら、危険も時には顔を出します。水の流れは決してゆっくりとは言えず、また枝や葉に引っかかる時分には、花はどうなってしまうことでしょう!いち早く引き上げなければ、花は無事で済みません。

 鹿は大慌てでかけていき、花の流れを先回りして、前脚をざんぶと川に突っ込みました。鹿にとってこれほど速く走ったのは、角の生え変わる以来のことでした。そして、川上から縷々と流されてきた、濡れた小さなその体を、角でそっと、すくいあげました。

「ごめんよ、シャラの花!まさか君を落としてしまうなんて!ああ、なんでこんな油断をしてしまったんだろう!けがはないかい!?」

 必死で謝る鹿でしたが、シャラの花は気にする様子をおくびにも出さず、自らの無事をうったえて、鹿をはげますのでした。

「大丈夫、大丈夫。私も流された時は、ほんの少しだけはらはらしたが、君が見捨てずに助けてくれると信じていたさ。しかし水流に揺られるのも、君の角とはまた違ったおもむきがあって、ちょっとした旅気分になれたよ。だから、気にすることはない。」

「ええっ、君は川に流されながら、そんなことを考えていたのかい!?肝の座った奴だなぁ。」

「うん。もっとも、君の足が速すぎて、すぐにこの旅は幕引きになったがね。水の流れは早かったが、君が必死でかけてきて、その上通り越したのを見たら、私は冷たい川に流されたはずなのに、川を上っていくかのような気になったよ。」

 あまりに気さくなシャラの花、これには思わず鹿も笑ってしまったのでした。

なにより、もはや角と一体となった友人が無事でいてくれたことが、鹿には嬉しかったのです。仲の良いふたりの笑い声は、林の間から川に乗って、どうやらねぼすけカエルのところまで届いたようです。



 鹿とシャラの花は、開けたところに出てきました。背の高い杉がなく、上を見るとぽっかりと、空という穴が浮いて見えました。なるほど、だから空は空というのかもしれません。

 林を抜けてきた鹿には、この空がちょっとまぶしく感じました。ゆっくりと休める場所へ行って、落ち着きたかった鹿にとって、自分より背の低い植物しか咲いていないこの空間は、普段、角を気にせずに横になって休める、限られた場所でありました。いつもそこを休む場所としていましたから、シャラの花を乗せるこの日であっても、自然とこの場所へ足を運んだのでした。

 ところが開けたこの間には、限りある日差しを求め、いろいろな植物が咲いていました。無口で寡黙な木々とは異なり、ひそひそざわざわ、いろいろな声が、足元から聞こえてきたのでありました。

「鹿のやつがシャラを飾って歩いているぞ。」

「ほんとうだ。偉そうな角に、ちっぽけな花がついてるぞ。」

 いつもは踏みつけられているタンポポが、角の上のシャラの花を見つけて、生意気そうに野次を言いました。かれらは、シャラの花のように枝に咲く花ではありません。さらにその下の大地に、根を張って生きる花です。

 鹿はバツが悪そうに通り過ぎようとしましたが、ずぶといわりにひねくれ者なタンポポたちは、ひづめの下から声を上げます。

「ちょいと鹿さん、お待ちなさいったら。シャラの花をつけているが、いったいどうして気取っているんだい。君にも分からないとは言わせまい。そんな杜撰なことをされたら、花は枯れるか、散ってしまうことをね。我々は体をもちながらで、初めて実や種をむすぶことができるものというのに。」


 話を聞いていたシャラの花が、鹿を庇うように口をはさみます。

「やあ、タンポポたち。私はシャラの花。世界を動きながら見たくなって、少しの間と知りながら、鹿君にお世話になっている。元々は大人しく旅の話を聞いていたが、いちど私自身が世界を見てみることにした。私の願いを叶えてくれる、大きくて優しい友達に、わあわあ構わないでくれないか。」

 枝で育ったシャラの花は、凛とした声で語りかけます。その輪郭に柔らかな物腰が現れていましたが、それと同時にシャラの花は、けっぺきな白さをもあわせ持っているのです。そして、伝えたいことを伝えるときには、常に底堅い自信がありました。「想いは伝わる」、という自信です。


 そんなシャラの花でありましたが、タンポポたちは互いに、信じられないと疑う口ぶりで、ひそひそと話しこみ始めました。

「世界を見たいだって?」

「なんだってわざわざ、そんな苦労をするのか?」

「なぜ、なぜ、分からぬよ。」

ひときわ若いタンポポが、はっきり通る声で言いました。

「そんな話には、気を疑ってしまうな。我々はまだ種だったころに、風に飛ばされ吹かれながら、なんとかこの日向に降り立つことができたよ。もしこの運命をさけうるならば、旅なんて苦労はしたくなかったし、もう二度とごめんだよ。まったく。」

タンポポはそう言い捨てると、鹿たちには見切りをつけるように、ざわざわと種時代の頃の苦労自慢をし始めました。


「なんだい、あいつら。シャラの花の気も知らないで。」

「いや、いいのさ。」

かまうな、かまうなと、シャラの花は鹿をなだめていいます。

「いろいろな生き物が、いろいろな生き方をしているんだ。この広い世界には、きっとまだまだ思いをはせるだけの、余地が残っているってことさ。結構なことじゃないか。」

 シャラの花は今まで、旅をしてきた動物や、それより小さい虫たちの話を、分け隔てなく聞いていました。これくらいの考え方の違いは、シャラの花にとってなんでもないことだったのです。

「なら、君の誠実な話は、タンポポたちに伝わらなかったわけかい?」

「いや、そうともいえない。たとえ私を通して伝わらなかったからと言って、じきに彼らが、彼ら自身をもって、わかるときが来るのかもしれないよ?」

余裕を感じさせる様子で、シャラの花は答えます。


「彼らはまだまだ若い。というのも、自分たちがその種を、風に乗せて送り出す側に立つことになるなんて、まだ分からない様子だった。旅ゆくものを追い詰めすぎると、いざ自分がその役割を頼む時に、きっと苦しむことだろう。」

シャラの花は、タンポポをあわれんで、「そのとき、潰れてしまわなければいいのだが」と添えた。

 シャラの花にとって、「伝えるべきこと」は自分を通してである必要はなかったのです。その時その時で、伝えるべきだと思ったことを伝え、いずれ来たる「身を持って知ること」に準備させるために…。それがシャラの花にとって、もっとも大切なことであると知っておりましたし、自信のありかにもなっていたのでした。シャラの花自身も、だから聞き伝えで終わらせず、旅に出ることを決めたのです。


 自分よりずっと小さいながらも、頼りがいのある友人が、角についていてくれることが、鹿には誇らしくも、ちょっぴり恥ずかしい気がしたのでした。そしてよりいっそう、軽率な物言いは控えようとちかったのです。

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