Losers
鏑屋藍生
敗者たち
5月。空にはわずかな雲だけが浮かんでいる。
Yは久しぶりに、晴れた空気を全身で味わっていた。
ウラン海に住む
その死骸が腐敗ガスで膨らみはじめたのがその5日後、
膨張に耐え切れなくなった死骸が爆発をおこしたのが先月のことだった。
500齢の巨クジラの平均全長は3.2kmにも及ぶ。
その死骸が引き起こした爆発であった。
海が割れるような音が、あたり一面に轟いた。
爆発の衝撃で海面は泡立ち、打ちのめされた魚類やかもめたちが気を失った状態で次々と海面に浮かんだ。
ウラン海の上空には、クジラの臓器や薬品まじりの体液からなる分厚い雲が形成され、そこから血液混じりの科学豪雨が4週間以上も降り続いた。
ウラン海に隣接しているYのホーム・タウンも御多分にもれず、3週間と3日に渡って、絶え間なく降るこの清潔で血生臭い雨に悩まされ続けてきたのだった。
科学豪雨が降っている間は、球法によって外出が禁止されている。
その日たまたま仕事が休みだったYは、いきおい、そこから長い休暇を獲得することとなった。
そして今日ようやく休暇__とは名ばかりの自宅待機であるが__が明け、
久しぶりに職場のあるウラン海沿岸へと向かっているところなのであった。
ふと気が付いて、歩みを止めたときには、異変はすでに、周囲に満ち満ちていた。
雲の流れるスピードが、目に見えて遅くなった。
そら、「麻酔警察」のお出ましだ、とYはひとりごちた。
「
一般の人間は、出生の直後に「LYU」と呼ばれる増幅器を脳の
それどころか、球全体に暮らす人間のごく一部、いわゆる「
では、Yはなぜ彼らの存在を知っているのだろうか。答えは彼の右手にある。
彼の右手、その親指があるべき場所には、いま彼の歩いている道路と同じ素材でできた義指が備え付けられている。
そしてそれをひた隠しにするための義指。
彼の呪われた出自を証明するものは、それで十分だった。
現実が麻痺させられていくのを感じながら、Yは糖分の不足について考えていた。
脳接続された義指の操作には、大量のエネルギーを使う。
Yは慢性的な糖分不足に悩まされていて、きょうもその例外ではない。
と、ここで、数メートル先に自販機の存在を見つけたYは、オアシスを見つけた旅人のように自販機へと駆け寄り、画面をのぞき込んだ。
ここの自販機は、投入したコインの額に応じて自動で飲み物を提供してくれる。このなかでいちばん安価な飲み物は__メロン・スカッシュ。
(メロンという果物がこの球上から消え去ったのはもう数世紀も前の話だ。現在この球に暮らす人間が味わえるのは、メロンによく似た匂いと食感、そしてメロンにはおおよそあり得ないような、強い催眠作用を持った
ポケットをまさぐると、黒錆と
これにいくらの価値があるにせよ、とりあえずこの甘ったるいメロン味の炭酸ドリンクは買えるだろう。
「
ようやく栄養にありつける、といった様子で、Yは投入口にコインを入れた。
予想の通り、コインは最も低級なものだった。
自販機の取り出し口に手を突っ込み、安っぽい緑に塗装された缶を取り出す。
左手で缶を握り、右手の義指を使ってプルタブを引き剥がす。
psh、という音とともに、長年慣れ親しんだ「メロン」の匂いがあたりに広がった。
しゅわ、という音をたてる間もなく、清潔で毒々しい、ライム・グリーンの液体を一気に嚥下する。
Yが缶の中身を飲み干したころには、雲はこれまでのスピードを取り戻していた。
ふいに、義指の先がきりきりと痛んだ。
存在しないはずの指先から、爪が剥がれ、血が噴き出すような感覚がした。
上層を追われた人間は、みなY同様に右手親指を切除されており、その切除された親指はすべて、生体データとして球上のある一点に集約され、保管されている。
「いまはこんな身の上だが、いまに見ていやがれ、いつの日か、必ず取り返してやる。おれの居場所も、親指もな。」
そういって、行き場のない怒りを表すように右手を挙げ_____
「大丈夫ですか?麻酔、もう1ゲージ分打っておきますね。」
Losers 鏑屋藍生 @yu_bicccc
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