第4話 団地をお散歩

「最大の敵は自分自身だ」

・・・とかいかにも頭の悪いアニメの脚本に出てきそうな言葉だが、俺に関しては本当にその通りだ。

ドーベルマンのサンダーを締め落として、俺は家の玄関から一歩踏み出した。

うん、平気だ。

動悸もめまいも地獄の業火も襲ってこない。俺の中の何かが、ここを自宅と認証したようだ。

「はははははははははははは」

「よかったね」

うしろの舞の声も心なしか弾んでて、振り返ると無表情のなかにも目に光がある。いつもの死んだ魚の目じゃない。喜んでくれているのかな。

「ありがとう、きみのおかげだ」

「そうね。思いっきり感謝しなさい」

「わかった」

一年ぶりの娑婆だ。俺は廊下をずんずん歩いて階段を降りる。

ずんずんずんずん。そのまま棟を出た。

「わーい、あはははは、へいきへいきー」

俺はくるくると回った。舞は公園で我が子を見守る母親のようにこっちを見ている。

「走っていいかな」

「転ばないようにね」

走り出すやいなや俺は転んだ。

「いてててて」

やばい、長いこと閉じこもってたからだ。むかしテレビで見たけど、ビンの中で育てられたひよこを外に出したら、広い場所でもくるくる回ることしかできなかったのを思い出した。舞が寄ってきて擦りむいたところをなでている。

「コダマートに行こう」

ジョギングで40秒。コダマートに着いた。うちのベランダからは棟の裏しか見えないので、憧れの光景だ。これからはいつでもここに来て買い物ができる。すごいぞ。夢が広がるなあ。

店の入口のそばの柱にモップみたいな犬のロープが括り付けられてる。主人を待っているのか。そうか、犬は入れないのか。でも俺は人間だから・・・舞が俺の手を引いて店の中に入る。

恐る恐る自動ドアをくぐったとたん動悸、過呼吸、悪意の炎が襲ってきた。

うわあ、やっぱり。俺は犬の縄張りしか受け継いでなかったんだあ。店に入っちゃあダメだったんだあ。

店員がこちらを向いて

「いらっしゃいませえ」

と声をかける。その瞬間炎は弱まった。我慢できなくはないが、ここにいたいとは思わない。俺はふらふらと店の外に出る。

「だめだった?」魚の目に戻った舞が聞いてくる。

「うん、『いらっしゃいませ』はお客さん扱いだからな。一応歓迎されたので、入った瞬間よりましだったけど、やはり自分の家ってわけじゃない」

俺は舞にゼリーこんにゃくを買ってくれと頼んで、つながれた犬の隣で待っていた。犬が仲間だという目でこっちを見ている。多分どっちのご主人が先に出てくるかな、と考えてるな。舞はすぐに出てきた。そりゃそうだ、こっちのご主人様が買うのはゼリーこんにゃくだけだ。俺と舞が立ち去るのを犬が悔しそうに見ていた。

「寮で朝飯を食ったほうがいい。俺もお袋と自分の朝飯をつくる」

「うん。学校おわったらまたくるから、一緒に団地の中を回ろう」

「なんで俺といたいんだ?」

「面白いから」

面白いのか?それはよかった。

朝食でお袋に出歩けるようになったと言うと、「働け」と言われた。もう少し喜んでくれてもいいと思うんだが、この一歩の偉大さがお袋にはわからないらしい。

家で家事をこなし、双眼鏡で見張りをする。今日の見張りはいつもとちがう。なんといってもそこに出かけていけるのだ。



15時に舞がやってきた。

「早いな」

「カバン置いてすぐ来た。出歩いてないんでしょう」

「きみを待ってた。楽しんでくれてるようだから」

「おりこうな犬を散歩させるの楽しい」

ふたりで団地内を散歩する。

団地の北に向かうと、あちこちで俺はパニック障害を起こした。俺がへたり込むたびに舞は引きずって縄張りまでもどしてくれたり、死にそうなペットを介護するように頭をなでてくれた。完全な不審者だよな。事実何人かの住人に変な目で見られた。

俺と舞はベンチに座ってひと休みした。ふたり並んでゼリーこんにゃくをちゅるちゅる食う。

「団地の南半分は歩き回れるみたいだ。あのドーベルマンの実力ならこの町全部が縄張りでもおかしくないのに」

「でも支配はしてない。してても友樹が知らないと意味ないでしょ」

「まあそうだ。パニック障害を起こしているのは俺の脳だ。その脳があのドーベルマンの縄張りをここまでだと決めてるんだろう。だとするとどうやったら北半分に行けるようになる?コダマートで買い物をするにはどうしたらいい?」

「今度は管理人さんを倒したら?」

「あのじいさんか。駄目だ。罪のない老人を痛めつけるなんて、それこそ俺の脳が許さない。お前の自宅は刑務所だと自分に言うだろう」

「コダマートはときどきバイトを募集してるわ」

「バイトは悪くないな。面接でパニック障害を起こして落とされそうだけど」

俺たちは黙り込んだ。

「テニスはできそうね」

ベンチの向かい、金網のむこうに二つのテニスコートがあって主婦たちがボールを打っている。美容と健康のためにこんな重労働をするとは見上げた根性だと思う。たしかコーチがいたはずだが、今はいないようだ。


「縄張りの中にはあるけど、どうかな。犬はテニスコートに入れないんじゃないか?」

舞が黙って指さした。テニスコートのとなりに日よけがあって、そこに例のモップみたいな犬がつながれている。なるほど、テニスはできるかもしれない。

じっと見ていると、さっきまでボールを打っていた女が金網の向こうからこちらをにらんだ。

「ちょっとあなた、女性がテニスしてるのをジロジロ見るのはやめなさい」

漫画に出てくる風紀委員みたいな感じの女だ。つまり美人だがとげとげしい。35歳といったところか。俺と同世代だろう。テニスウェアからすらりと長い脚が伸びている。いいスタイルだ。

「すみません、女性でなくテニスに興味があるんです」

女が笑ったけど、唇が歪んで笑顔というより残忍な顔に見える。

「残念ですけどここは女性限定なんです。女性なら団地以外の方でも大丈夫です。隣のお嬢さんなら入れますけど」

「これは娘じゃありません。近所の子です」

「・・・ずいぶんと仲良しのようで、中学?・・・何年生ですか?」

「どうなんでしょう。舞は何年生なんだ?」

「六年生よ」

小学生だったのか。そういえば学校から帰ってすぐ来たと言ってたが制服じゃない。風紀委員女を見ると顔を引きつらせている。変な噂がたちそうだ。

「あなたが妄想したような関係じゃありません」

「どうだか」

「あの犬も牝なんでしょうね」

「ちーちゃんはいやらしい雄なんかじゃありません。このへんの雄ときたらみんな汚いものでちーちゃんを汚そうとしてるんだから」

「女性限定というのは誰が作ったルールですか?今時おかしいと思うんですが」

「私たちです。利用者がみんな女なので男に入って欲しくありません」

「つまり利用規約にはそんなルールはないんですね。こないだまで男のコーチがいたと思うんですが」

「クビにしました。私たちに色目をつかうので」

「色目はいけませんね」

「ロリコンよりましですけど」

「ロリコンじゃないです」

「ロリコンのなにがわるいの」

横から舞が口を出した。かなりでかい声だ。頼むから黙っててくれ。主婦たちがみんな見てる。腕に絡みつくな。

「最低ね」風紀委員のみけんにたてしわが入っている。

「さよなら、行こう友樹」舞に腕を引かれてその場を離れる。

「おばさん」と呼ばれて、風紀委員がどんな顔をしてるか想像がついたので振り返らなかった。


「恐れていたことが起きたわ」

お袋が帰宅するや殺意のこもった目でそう言ったので、俺は畳の上に正座した。

「団地の人たちみんなが、あんたのことをロリコンだって言ってる」

「団地の人って主婦だけだろ」

「ものを知らないあんたに教えてあげる。主婦が団地のすべてよ。しかも小学生の子供を持つ親にあんたは要注意人物として警告が出回ってるのよ」

なんてことだ。あの風紀委員のしわざか。それにしてもお袋は会社でどうやって団地の動向を知るんだろう。

「定年目前で引っ越しなんて嫌だからね。なんとかして」

俺は午後になにがあったかを話した。

「塩谷さんに謝ってきなさい。あの人、若い主婦のあいだじゃあカリスマだから怒らせたらやっかいなのに。出歩けるようになるや否や、なんであんたはそうなの」

 あの風紀委員は塩谷っていうのか。しょっぱそうな名前だ。なんでカリスマなんだろう。

 お袋によると主婦こそがこの団地のマジョリティーで、その主婦のカリスマが塩谷恭子というあの女らしい。ということはあの女を何とかすればこの団地全部を自由に歩けるようになるかもしれない。よし、謝るのは嫌だから、明日から監視して弱みを握ろう。


 その夜、俺はテニスクラブの建物に忍び込み書類を漁った。テニスクラブは問題なく俺の脳が自宅と判断してくれたみたいだ。ちーちゃんがいたからな。塩谷家の場所が分かった。

 翌日からA3棟の屋上に登り、向かいの塩谷恭子の部屋を監視し始める。これまで俺の部屋からは見えなかった棟だ。亭主とひとり息子の高校生を送り出して家事をこなしている。テニスクラブの書類によると45歳。同世代と思ったらかなり年上だった。35歳に見える45歳というのが主婦たちのカリスマになっている理由の一つだろうな。美魔女というやつだ。男からすれば年相応の35歳のほうが35歳に見える45歳よりいいんだが。いや、一晩抱くだけなら同じかな。

 昼前に団地の外に車で出かけて行った。ちーちゃんも一緒だ。俺の縄張りの外なので監視できないな。くそ、浮気でもしてたら絶好のチャンスなんだが。よし、この間に塩谷恭子の部屋に入ろう。俺は彼女の玄関の前に立ちピッキングでカギを開けた。バイトで警備員をやってた時に教わった技だ。築40年の団地の鍵などたやすく開けられる。だがドアを開いただけで中には入れなかった。パニック障害が起きたのだ。うん、想定していたので別に驚かない。しかたないのでドアの外から観察。玄関はきれいに掃除してある。というかピカピカだ。壁紙も自分で貼ったらしい。落ち着いた薄い色の花柄だ。同じ団地の部屋とは思えないな。あんなにプライドが高そうなのになんで団地暮らしをしてるんだろう。一軒家を買えと旦那をせっついて当然だよな。いつまでもドアを開けて覗いてるわけにもいかないので、ピッキングで鍵を閉めてふたたび監視に戻る。

 塩谷恭子が帰って来た時は百貨店の袋を持っていた。たしか自然食品を扱っているところだ。意識高い系なんだろうな。午後はテニスをするようだ。そちらは昨日見たからもういいかな。なかなかいい動きをしていた。あれで45歳だとすると見事なもんだ。

 引き続きA2棟の監視をつづけると高校生の息子が帰ってきた。友達と一緒だ。あまり楽しそうな感じではない。うつむいて顔色が悪い。息子は部屋に入ったが友達三人は外で待っている。一緒に遊ぶんじゃないのか。息子が戻ってきて何かを渡す。三人は喜んでいる。うん、これはもしかしてアレかな。息子の表情がすべてを物語ってるね。

息子は再び三人に連れ出されて団地から出て行った。いいネタが取れそうだ。


 俺は自宅に帰り、警備員の制服を出した。

俺は大学時代に警備員のバイトをしたことがあり、アイドルのコンサートをはじめいろんなイベントの警護、群衆の整理をした。そのときの教官が頭のイカレた我流拳法の使い手で、どうやれば楽をしながら強くなれるかとか、素手で人を殺す方法などを常に考えて、俺にも教えてくれた。新しい技を考えたから試させろといって、悶絶したことは幾度もあった。あとでその技の使い方を教えてくれたから、それほど恨んではいないが、また会いたいとは思わない。俺はその警備会社の制服が気に入ったので、盗まれたと嘘をついてひとそろい拝借した。弁償はしたのでかっぱらったわけではない。その服のしっかりした縫製やデザインは後にルナティック19でキャラ服を作るときに大いに参考にした。



塩谷恭一(おびえる高校生)

 万引きなんかするんじゃなかった。

今、あの時の自分にあったら怒鳴りつけてぶん殴ってやりたい。僕は500円のイヤホンを盗み、それを不良の先輩に見つかって脅迫され、今はひどいことになっている。今日も二万円とられた。嫌だと言うと髪の毛を掴んで引き回され、腹を殴られた。こんなことがずっと続くんだろうか。この泥沼から抜け出すにはどうすればいい?


 二万円はゲーセンとカラオケであっという間に消えた。ぼくはあいつらが遊んでいるのを見学させられ、また持って来いと言われた。もう暗くなった道をとぼとぼ帰る。お母さんには友達の家で遊んでいるとメールした。夕食を食べないで待ってるだろう。お父さんが帰るのはいつも夜中だ。団地の中を流れる人工の小川にかかる橋の上に人影があった。警備員の格好をしている。管理人さんと掃除夫は見たことあるけど団地の警備員なんて見たことも聞いたこともない。そういうのは自治会の人たちがやるはずだ。コダマートの集金とか?向こうが会釈をしたので僕もして通り過ぎようとしたら、

「マズイことになっているようだね」

と声をかけられた。僕は立ち止った。

「助けが必要なら言ってほしい。俺はこの団地の警備員をしている」

こんな得体のしれない人に話すのはこわい。警察に話すほうがましだ。でも警察はあいつらを死刑にはしてくれない。後で仕返しされるのは目に見えてる。

「一人で悩んでいると悪い方にばかり考えてしまう。そして出口を見失ってしまう。だが誰かに相談すると簡単に解決できることもあるんだ。もちろん解決が難しい場合もあるが、それでも一人よりましさ。ましてや君は高校生だ。まだ世の中を知らない。何が言いたいかというと、きみの問題は簡単に解決できる場合だってことだよ。たとえば異世界の魔物が突如現れると、人は逃げ惑うしかない。だけどアイアンエンジェルズにかかれば・・・」

 途中から何を言ってるのかわからなくなった。セールスマンのセールストークみたいに嘘くさい言葉、嘘くさい笑顔、怪しい制服。だけどそのすべてがマッチしてゆるキャラのような非現実な存在に見える。それは奇妙な信頼感を作り出していた。僕はこの警備員を頼りたくなっている。今は何かにすがりたい。一人で悩むのはもういやだ。

 ぼくは謎の警備員に全部話した。話してて涙が出てきた。

「よく話してくれた。君は勇気を出してひとつ大人になったんだ。」

彼はポンと肩を叩いていった。そしてなぜかゼリーこんにゃくを出してきた。僕たちはベンチに座りゼリーこんにゃくを食べながら、今後のことを話し合った。明日僕がやるべきことを。最後に警備員はにっこり笑っていった。

「では今度はこっちがプロの技を見せてあげよう」



南山(自宅警備員)


翌日、塩谷恭一から電話があった。

「今から向かいます」

不良高校生は昨日と同じようにA12棟の塩谷家で金を受け取り、恭一を連れ出した。形だけでも恭一と一緒に遊んで金を使ったということにしたいのだろう。悪ぶっていても気の小さい奴らだ。本人たちはずる賢いつもりなんだろうが。

不意に恭一が走り出し、一瞬あっけにとられた後、不良たちが追いかける。

恭一はA16棟の前で捕まった。予定通りだ。A16棟はいずれ取り壊す予定で入居者を入れていない。今は無人だ。木立と無人の棟に挟まれた空間で不良先輩たちが恭一にすごんでいる。

「てめえ~なに逃げてんだよお~」

「死にてえのか」

 俺は警備員の制服に目出し帽をかぶり、不良先輩たちの背後から近づいた。一番手前のリーダー格の腎臓にウェーブパンチを叩き込んむ。悶絶して転がるリーダーに気が付き、こちらを振り返ろうとする奴のあごに掌底をくらわし、まだ何も気づかず恭一にすごんでいる最後の一人の腎臓にもウェーブパンチを食らわせた。地面に横たわってうめいている三人。5分や10分は痛みで動けないどころか声も出せないだろう。 掌底を食らった奴は完全に失神している。俺は彼らを見おろしている恭一に早く立ち去れとあごで合図をした。蒼い顔をしていた恭一は、少しの間逡巡したあと、団地の外に向かって走り出した。

 それを見送りながら、俺は結束バンドで三人を手早く拘束し目隠しをして、無人のA16棟に引きずり込んだ。

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