第3話 対ドーベルマン

 掃除はけっこう大仕事だった。壊れたテレビを粗大ゴミに出す必要がある。役所が指定する粗大ごみシールを貼って出さなくてはいけないが、なぜかそのシールの代金(千円)は俺が出すことになった。自宅だから仕方ない。6時に舞を学園寮に返して、晩飯。風呂に入って11時に寝た。

翌朝6時、目を覚ますと、お袋がものすごい目で俺をにらんでいる。

なにかしたっけ。

横を向くとパジャマ姿の少女が、腕を俺に絡みつけて寝ている。

なるほど、状況は分かった。

悲鳴をあげたり、驚いて飛び上がったりしたほうがいいのだろうか。でも寝起きでとてもそんなテンションは無理。

俺はお袋に「なんでこいつがここにいるの?」と訊いた。


俺がお袋に問い詰められていると、舞が目を覚まし「おはよう」と挨拶した。

「おはよう。なぜ俺の布団で寝ているんだ?」

「うん、寮でよく寝られないから、うちに戻ってきた」

「きみのうちはとなりだ」

「友樹が昨日からとなりも自宅になったって言った。だからここがあたしの家」

そうなるのか。そしていま「友樹」って呼ばれたよな。昨日は「南山さん」「おじさん」と呼んでいただろ。

お袋の目がさらにけわしくなった。

「それでよく眠れたか?」

「ぐっすり」

「それはよかった」


 俺が朝飯を作っている間、お袋が舞に、息子を犯罪者にしたくないので、一緒に寝るのはやめてくれと言っている。いやその前にいろいろ言うことがあるんじゃないのか。この子はベランダから当然のように家宅侵入してるぞ。そして当然のごとくうちで朝飯を食っている。

舞は寮のテーブルに「自宅で寝る」と書置きしてきたので問題ないと言う。

そうなのだろうか。そうでもなかった。

朝から夕日丘学園の職員が心配して見に来た。

中年のやばそうな女だ。

舞はあろうことか俺の家のドアを開けて職員に挨拶した。

これはあまりよろしくない。職員が片眉をあげて俺を見ている。

彼女を連れて帰るとき、俺のTシャツを見ながら

「アニメがお好きなんですか?」と訊かれた。

翻訳すると「ロリコンじゃないでしょうね」な気がする。

俺は「いや、これは仕事関係の商品です」と答えた。

嘘ではない。

言外に「アニメにさほど興味はない」という意味を嗅ぎとったとしたら、それは彼女の勝手だ。そんなことはない。


お袋が仕事に出て一人になると俺は外出計画に頭をひねった。

双眼鏡でベランダから団地内をひたすら観察する。504号室のベランダも使えるようになったので、監視エリアがぐっと広がった。

テニスコートをのたのたと動き回る主婦。

歩道のベンチに座っているホームレス。

公園で遊ぶ幼児と見守る母親。

学校から帰ってくる学生たち。


その日はなにも思いつかなかった。

俺はひたすら監視することにした。

夜になっても舞は来なかった。

途中何度か仮眠をとりつつ俺は双眼鏡で監視を続ける。

夜中でも明かりがついている部屋はある。

いったい何の仕事をしているんだろう。

夜が明けたころ団地の道を犬を連れた少年が歩いていた。

早朝の犬の散歩。

俺はあの少年を毎朝見ていた。

彼らは東の歩道を北上し、西の歩道を南下する。

おそらくあの少年の家は団地の南にある一戸建て。毎朝二本の通りを使ってこの団地内をぐるりと回っているらしい。

時々犬が街灯や木に小便をしている。

大きな黒いドーベルマン。怒らせたくはない相手だ。

アレに対抗できる犬はここら辺にはいないだろう。

俺の頭の中で電球が光った。

ということは、あいつを倒せばこのへんの縄張りが手に入るんじゃないか?

とはいえ奴と戦うには俺が奴のところにいくか、奴が俺の家に来るかしなければならない。

前者は・・・それができれば苦労はしていない。自宅を出た俺は戦うどころではない。となると・・・

 やるべきことがわかってきた。思わず笑みがこぼれる。


その日、北見舞がやって来ると俺は土下座をして頼みごとをした。

「やってもいいけど、それだいじょうぶなの?」

「もちろんだ、君がひどい目にあうことはない。面倒はかけるけど」

「そうじゃなくて、友樹がボロボロになると思う」

「ならない」


犬尾三太(ドーベルマンを散歩させる少年)


 朝起きるといつものようにサンダーの散歩に出た。

太陽が昇るところを見るのはいい気分だ。おごそかになる。

サンダーは時々電柱に小便をかける。

僕は霧吹きの先を切り替え、水鉄砲のように水をかける。

サンダーが不満そうに見ている。

古平団地に入ると空気が良くなる。

車も少ないし、団地の中は緑が多い。

それにしても広い団地だ。外周を回ると30分以上かかるだろう。

ママは「あんな団地は貧乏な人が住んでて、みんなうちみたいな一軒家に住みたいと思ってるのよ」とここの人たちを見下している。

でも団地のおばさんたちはみんな挨拶をしてくれる。年寄りが多いけどいい人たちだと思う。

いつもの団地の歩道を歩いてると、ごみを出している女の子と目が合った。

背が高くて細め。すごくかわいい。

ぼくよりちょっとだけ年上に見える。少しドキドキしながら通り過ぎようとしたら声をかけられた。

「あの、ごめんなさい。ちょっといい?」

ぼくは立ち止った。声もきれいだ。

「はい?」

「じつは大きなゴミを出したいのだけれど、家にだれもいなくて困っているの。

手伝ってくれると助かるんだけど」

女の子でしかも美人に言われたら手伝わないわけにはいかない。

僕は舞い上がってOKした。

団地の5階だというので、サンダーを外の街灯につなごうとしたら、彼女がその犬も連れてきてという。

僕はサンダーを連れて5階までエレベーターで上がった。

彼女の家は奥から二番目だった。ドアを開けると他人の家のにおい。

「あの、サンダーは?」

「一緒に入ってきて」

僕は靴を脱いで、サンダーの足をハンカチでぬぐい中に入った。

中は片付いているけど、人が住んでいる感じじゃない。テレビのセットのような、変な感じだ。そして座敷に大きなテレビがあって、画面が裂けていた。

「これを出したいの」

「うん。これどうしたの?」

「悪い人に壊されたの。そいつは落ちて死んだ」

「え?」

僕は思い出した。ちょっと前にあった事件のことを。

「ここがその部屋なの?君はもう大丈夫?」

「ええ、ありがとう。でも施設に移るからここを掃除してる」

「そうなんだ」

「犬をあげてもらったのは、ここにあいつの幽霊がいるからよ」

「え?」

「幽霊は犬が嫌いらしいの。だから追っ払ってほしくて入れてもらったの」

冗談で言ってるんだろうか?でも彼女は全然笑っていない。

僕は彼女がすこし怖くなった。もしかして、ひどい目にあったことで頭のねじが飛んでいるのかもしれない。

「幽霊を信じてるの」

「ええ、あなたは信じないの?」

「見たことないから」

「テレビを運びましょう」

僕たちはふたりでテレビを持ち上げる。

「おとなしくしてろよ」とサンダーに声をかけて、エレベーターに向かった。



サンダー(少年が連れている犬)


 気に入らない。

この少年はせっかく俺が縄張りに小便をつけて回っているのに、いちいち洗い流しやがる。いずれ教育してやろう。こいつの親も偉そうにする。まとめて教育してやらないとな。

俺が小さくて弱い間はそれでよかった。だが今や俺は強者だ。この界隈に俺より強い生物はいない。道路をぶんぶん走っているあの自動車というやつは別だ。あいつらはものを考えないからな。どうでもいい。

散歩の途中、少年は人間のメスに声をかけられ、ホイホイついてゆく。まったくやめて欲しいもんだ。俺の散歩だぞ。

でかい石の建物に入り、箱に入ったら動いた。ちょっとビビって漏らしそうになったがガマンした。

ドアが開いたら俺たちは高いところにいた、そしてメスの部屋に入った。

少年とメスはしばらく会話すると荷物を抱えて出ていった。

俺はというと、反対側の窓が気になる。

誰かがずっとこちらの気配をうかがっている。

気に入らない。俺はうなった。

ベランダに男が現れた。

こいつは敵だとすぐに気が付いた。


俺はそいつにとびかかった。



南山(自宅警備員)


 ベランダから部屋に入るとき、すでに犬はうなっていた。俺を敵だとわかっている。

テレビを捨てて戻って来るのに3分。舞がいくらか引き延ばすかもしれないが、長くて4分だろう。そんなに時間は必要ない。ドーベルマンを相手に1分以上戦うなんてごめんだ。ボロボロになるに決まっている。俺は19秒ですべてが終わると計算した。

 犬がとびかかってきた。予備動作はほとんどなし。立った状態からいきなりこちらに大ジャンプした。犬、猫はこれができる。驚いた時に筋肉がびくっとなる、あの収縮をつかって驚くべき動きをする。

思った通り、奴は俺の喉笛めがけてとんできた。俺は右の掌底で犬の左顔面をぶっ叩く。同時に左腕を犬の首に回す。ワン・ツーとやってはいけない。ボクシングじゃない。全部ワンで同時にやること。防御と攻撃は同時だ。ドーベルマンの弱点は首。荒っぽいところではその弱点をカバーするのに、鋭いとげのついた首輪をつけたりする。こいつの主人がそんな飼い主じゃなくてよかった。俺は遠慮なく腕で犬の首を締めあげた。



犬尾三太(ドーベルマンを散歩させる少年)


 僕が噂の事件現場に入ったってクラスメートに話したら、みんなどんな顔をするだろう。そしてそこにいたのが長身のとびっきりかわいい、いや、美人の女の子だと言ったら。

僕は顔がにやけるのを必死で抑えていた。

「幽霊なんかいないんじゃないかな」

「いないといいわね。でもこの団地に住んでると変なことが多くて」

「どんなこと?」

「手みたいな足をしたおじさんがいたり」

「え?どういうこと」

「ゆっくりおろして。ええ、これでいいわ」

「足の形が手みたいなの?」

「そう言ったの。それに夜、公園から奇妙な声がしたり、石の柱が光ったり」

「石の柱って、団地のあちこちにある、ええと、オブジェ?」

少女がうなずく。オブジェという単語を何とかひねり出して僕は嬉しくなった。正確な意味はよく分からないけど。

「毎朝犬を散歩させてるけど、特に気づかなかったよ。みんな挨拶してくれるし、いい団地だと思うけどな」

「挨拶はするけどやっぱり他人よ。すぐ近くで犯罪が起こっててもみんな気が付かない。見えても見ようとしない。でもちゃんと見て通報してくれる人もいる。」

「きみの家の話?施設に行くって夕日丘学園のこと?」

「ええ」

「近いね」

また会えるといいなと思ったが、恥ずかしくて口には出せない。

なるべくゆっくり歩いて五階に戻る。別れる前に名前を聞いてもいいんだろうか。

そう考えながらドアを開けた彼女に続いて部屋に入る。

リビングに犬が横たわっていた。

頭が真っ白になった。

「サンダー!どうした?」

彼女が腹が立つほど冷静に言った。

「あいつが出たのね」

「幽霊?そんな・・・」

わずか三分前には元気だったのに、サンダーはめちゃくちゃ強いのに、信じられない。

「生きてる?」

彼女に言われて僕はサンダーの胸に耳をあてる。その瞬間、サンダーがビクンと痙攣したかと思うと、一瞬で僕の下から飛び出した。玄関のほうに駆けていき、ドアを二三度ひっかいてこちらを見る。

「よかった。元気そう」

彼女の声は暗くて深い穴から聞こえたようだった。

振り返ると感情が抜け落ちたような彼女の顔。

なんで僕はまた会いたいなんて思ったんだろう。

今僕は怖い。

彼女は何かにとり憑かれているようにみえる。

「僕、帰る」

玄関に行きサンダーのロープを握ってドアを開ける。

うしろから「ありがとう」と声が聞こえたが、僕は振り返らずにサンダーに引かれるまま階段を駆け下りた。

団地の外に出てやっとおちついた。サンダーは不安そうにきょろきょろしている。なんだかひとまわり小さくなったみたいだ。僕は明日から散歩のコースを変えようと思った。



南山(自宅警備員)


 犬が失神したのは18秒目だった。計算より1秒早く終わった。

ベランダでゼリーこんにゃくを食っていると、段ボールをべりべりはがして北見舞が入ってきた。もう突っ込まないぞ。どっちも俺の家だし。

「あの子帰った」

「そうか」

俺はゼリーこんにゃくを一つ彼女に投げる。

舞は受け止めて封を切り、チューと吸った。

「ゼリーこんにゃくは吸ってはいけない」

「あたしは吸うのが好き。吸うのは自由」

「それはそうだ」

「みんなが決まりを守っていたら、世界はつまらない」

「そうだな。俺も今日は他人のペットの首を絞めて失神させた」

「友樹はドーベルマンに勝てるんだ」

俺は舞のほうを向いてさわやかな笑顔で言った。

「自分の家では最強さ。なんたって俺は自宅警備員だからな」


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