第9刑 昔、女ありけり――A

 7月も終わりに近づき、夏が本格化してきたこの頃。夏休みのため、しょう利里りりは自宅で暇を持て余していた。


 ちなみに乃述加ののかは、総長に呼び出されて、先日あった『《罪人》巨大化事件』の報告や整理をさせられている。これでもう3回目だ。苛々が溜まっているのか、彼女はこのところ酒と煙草の量が増えていた。健康面で心配になるが、本人は至って平気そうな顔をしている。


 テレビのリモコンを適当に押し、画面を眺める利里。特別面白い番組はやっていない。どこもかしこも、ワイドショーや所謂昼ドラの再放送だ。


那雫夜ななよはこういうの、好きそうだけれどね……」


 ここにいる2人、興味を示すような番組は特にない。


百波ももなみ先輩って、どういうテレビが好きなんですか?」


 何気なしに訊いてみる晶。利里は団扇で全身を扇ぎながら答えた。


「特撮系かなぁ。子供の頃に夢中で見ててね。以来虜なのね。『魔法戦士・ルビードラゴン』とか、『スポーツカーポリス』とか、知らない?」


「ごめんなさい、分からないです……」


「世代が違うしね。謝るほどの事じゃないのね」


 ソファから立ち上がり、テレビの主電源を切る利里。それからはテーブルの上に乱雑に積んであった漫画雑誌を手にしている。


 暇である。それしか言葉が出てこない。平和なのはもちろんいいことだ。だが、普段から緊張感を持って過ごしている身としては、こうもすることがないと、異様に気が緩んでしまう。


 乃述加が買い置きしている珍味を適当に頬張っている利里。そんな彼女を見ていると、晶はふとした疑問が湧いてきた。


「百波先輩は、処刑人になる前はどう過ごしていたんですか?」


 面食らったように、黙ってしまう利里。前にも似たようなことがあったが、彼女にとって過去のことは触れてほしくない領域なのだろうか。


「話したくないのであれば、構いませんが……」


「いいやー。まぁ、思い出すのが辛い、っていうのはあるけれどね」


 雑誌を置き、手をウェットティッシュで拭くと、利里は語り始めた。


「私さ、ここに来る前は、こんなサバサバした性格じゃなかったのね。もっと内向的で、周りのことなんかどうでもいい、って感じ」


「今だと、とてもそうは見えませんね」


「茶々入れるね。私が変われたのは、乃述加のおかげかな。あの人がいなかったら、私はどうしていたか、分かんないや」


 そう言えば、初めて出会った時に利里は言っていた気がする。「乃述加の娘だ」と。あれはどういう意味だったのだろう?


「百波先輩は、どうして乃述加さんの家に来たんですか?」


 抉ってくるね、と利里は笑う。だが瞳は笑っていなかった。どこまでも寂しそうな、虚しい色を放っている。


「あの人はね、私を拾ってくれたの。母を亡くして、父に裏切られた私を。まだ子供で、どうすればいいのか分からなくなって、途方に暮れていた私の、家族になってくれたのね」


 嬉しさと申し訳なさの混ざったような表情。口にするのが、どこまでも辛そうだった。


 利里でもこのような顔になるのか、と晶は思う。以前那雫夜との出会いを教えてもらった時も、辛そうではあったが、どこか誇らしげに見えた。


 だがこうして家族のことを語り始めると、どこまでも沈んでいく。きっと、葬式の棺桶の中の人の方が、余程穏やかな顔をしているだろう。


「ここまで来たら、最後まで語らせて欲しいのね。まぁ、夏の暑さに頭をやられた、バカ女の戯言として、聞き流して頂戴」




        × × ×




 あの頃、幸せを感じた日はあっただろうか。


 物心ついた時から、両親の間には大きな大きな亀裂があった。顔を合わせれば常に言い争っていた。母の罵詈雑言を子守唄にし、父の怒号を目覚ましにして、利里は育った。


 生まれた時から、笑顔なんて見たことがなかった。だから、その作り方を彼女は知らなかった。優しい声色さえ使えない。他人との接し方を、喧嘩以外で知らないせいで、友達と呼べる存在もいない。


 一応、学校には通わせてもらえた。しかし楽しいと思うことはなかった。当時の利里にとって他人とは、忌み嫌い、罵るべき存在として、認識されていた。傍に来たら「気持ち悪い」。話しかけてきたら「あっちに行け」。


 まともなコミュニケーションなど取れそうにない。先生から何度も注意された。「お友達を傷つけてはいけません」と。が、そう言われても利里には、傷つけるという行為が分からなかった。なぜなら、そういった行動を取るのが当たり前だと思い込んでいたから。


 ――何が楽しくて生きているのだろうか。笑顔も、優しさも、友達も作れない利里。これではまるで、動いているお人形だ。歩いて、口を利いて、食事をするお人形。どこからどう見ても、不気味な呪いのアイテムではないか。


 どうやら幼い彼女が考えていたことは、両親も思いつくことだったらしい。ある晩、父と母の言い争いを聞いてしまった。


「もううんざりだわ! 毎日毎日、学校から電話が来るの。あの子のことで。別に私があの子をどう育てていようと、関係ないでしょう!?」


「だったら、どうして学校なんかに通わせている? 家の中にしまっておけばいいだろう」


「そんなことをしたら、余所に示しがつかないでしょう!? 子供を学校にも通わせられない、無能な親だって!!」


「実際にお前は無能だろう?」


 そこから先は、何を言っていたのか分からない。ギャンギャンと、野犬の鳴き声のようなものが延々と聞こえていただけだ。時折、何か鈍い音がしていた。朝になって見てみると、床に傷がついていたり、食器が割れていたりした。


「(私がいるから、駄目なのかな)」


 利里は、自分が生まれてくる前の両親を知らない。物心ついた時から不仲だった両親。もしかすると、自分のせいではないのか?  2人があんなに揉めるのは。


 自分が2人の生活の荷物になっているのではないか? 利里の中で、そんな不安が広がり始めていた。しかし彼女は、こんな時にどういう表情をすればいいのかも知らなかった。悲しい顔ができない。涙の流し方も分からない。


 胸の内でもやもやと渦巻く不安を、吐き出す術がなかった。だから胸は、どんどん黒いものを溜めこんでいく。日に日に重くなっていく。まるで鉛玉を詰められたように、息苦しくなっていく。


 怖い。「赤ずきんちゃん」のオオカミさんのようだ。腹に赤ずきんちゃんとおばあさんの代わりに、石を詰められ、川でおぼれ死んでしまったオオカミさん。当時の利里は自分をオオカミさんに重ねていた。胸が重たい。お腹の奥に石が入っているように、堅くて重い。今にも水の中に落ちて、沈んでしまいそうだった。


 ある日、利里は言い争っている両親に訊ねた。別に喧嘩を止めて欲しかった訳ではない。自分が原因ではないかという疑念を晴らしたかったのだ。自分は関係ないのであれば、気に病む必要がなくなる。もしも自分が原因であるとすれば――、その時はその時で、自分なりに行動する。そう心に決めて。


「お父さん、お母さん。2人はどうして、いつも喧嘩ばかりしているの?」


 そう言われた途端に、2人は仮面を被った。気持ちの悪い、満面の笑みの仮面。明らかに作り物である。


「別に僕たちは、仲が悪いわけではないよ」


 父はそう言った。嘘であることは見え見えだった。いかにも空っぽな言葉。どんな感情も籠められていない。聞いている方が虚しくなった。


 母も続いて言う。


「ほら、言うじゃない。『喧嘩するほど仲がいい』って」


 そんな言葉知らない。


 利里はもう両親が信じられなくなっていた。元から信用していた訳ではないが、今回のことでなおさらその気持ちが深くなった。自分には本心を語ってくれない。顔を合わせては揉めてばかり。彼らが求めているものが分からない。


「もうやだ。もうやだよぅ…………」


 口からはそんなことばかり漏れる。だが涙はこぼれない。泣き方を、知らないから。




 ある時、父の言動がおかしくなっていることに気がついた。これまでは母が話しかけると、毎回派手に言い返していたのに、まるで母の声が聞こえなくなったかのように、反応しなくなった。これには母も疑問を抱いたようだ。


 そして数日後、その理由が分かった。父は家の外に女を作っていた。しかも1人ではない。キャバクラのキャスト、援交相手の女子高生、会社の後輩、その他、両手の指を使ってなんとか数えきれるくらいの人数を相手にしていた。


 家の外で散々女遊びをしていたから、もう妻に見向きしなくなったのである。だがその結果、生活費も浪費していった。家族を養うはずの金で、赤の他人を喜ばせていたのだ。それだけではない。酒や煙草の量も増えた。家の中に異臭が蔓延するくらいだ。


 そして何より、母や利里に手を上げる回数が多くなった。殴る蹴るだけではなく、時には包丁や金槌なんかも持ち出して、斬りつけたり殴ったりするようになった。


 そうなってから、利里はあまり家に帰らなくなった。帰ったら何をされるか分からない。頭がおかしくなってしまった父は、すぐに利里に手を上げる。変貌した父に苛立ちを覚えている母に、八つ当たりされる。傷つけられることが、怖くて仕方がない。だが誰かに相談することもできず、夜遅くまで出歩くようになった。


 この時の彼女は、小学校3年生。まだ9歳だ。夜中も街中を歩いていれば、当然補導される。家や学校に連絡が行く。学校の人間は、理由も問わずに怒る。両親は、手間をかけるなと殴る。もう八方塞がりだ。




 そんな生活を初めて、2年。ある晩帰宅すると、家の中から異様な臭いを感じ取った。室内を満たしている、酒や煙草の臭いではない。もっと鉄臭い何かだ。利里はこの臭いが、傷つけられた後の自分が発しているものと酷似していると気が付いた。血だ。血の臭い事態は、普段から嗅いでいるため、慣れている。


 しかし今回ばかりは落ち着いていられない。濃さが尋常でないのだ。消臭剤の香りを上書きするために、空気中に散布したのではないかと思えるくらいの濃度。悪寒がして、靴を脱ぎ捨ててリビングへ向かうと、その臭いの元が分かった。


「お母さん、それ………………?」


 床に横たわる、全身のあちこちが捻じれた人間。どう見たって命はない。両腕とも肘から下がちぎれ、顔面には無数の穴が開いている。ここまで来ると、いっそ清々しい。利里の中に、怖いだとか、気持ち悪いだとか、そういった感情は湧いて来なかった。


 それよりも問題なのは、ぐちゃぐちゃになった母の隣に立っている異形の方だ。一見宇宙飛行士のようだ。金魚鉢のような透明なヘルメット。首から下はダイビングスーツに似たものに身を包んでいる。しかし袖からは白く濁った触手が伸びている。その触手は時折「バチリ、バチリ」と火花を飛ばしている。ヘルメットの中はまるで朽ち果てた髑髏どくろだ。


「あなたは誰?」


 ぐちゃりと水を滴らせながら、異形は利里に歩み寄る。


「ああ、僕はもう駄目だなァ……」


「お父さんなの?」


 声で分かった。間違いなくこれは父だ。


「お父さん、どうしちゃったの? 何でお母さん、倒れているの?」


 情けない声を出しながら、父は歩を進める。


「ごめんなぁ。でももう、お父さんはお父さんじゃないみたいなんだぁ」


「やめて! 来ないで…………誰か助けて!!」


 ここでようやく、硬直していた足が動いた。もつれながらも、必死に玄関まで駆けていく。外に出てマンションの他の部屋の住人に助けを求める。しかし周囲は水を打ったように静かで、誰も出てきてはくれない。まるで異界に迷い込んだようだ。


 ぐちゃり、べちゃりという足音の感覚が短くなってきた。振り返る余裕はないが、父が小走りになっているのが分かる。どうして? 利里を捕らえるためなのか。


 すぐ後ろに気配がやって来た。もう駄目だ。母のように、あちこちをちぎられて殺される。あんな姿にはなりたくない。


 利里はここで初めて、涙の流し方を覚えた。死の淵に立って、ようやく人間として当然の機能に目覚めたのだった。


「(私は生まれてきちゃダメだったのかな)」


 そんな考えが頭を過ぎった、次の瞬間。


 バタバタバタ!! と、階段を駆け上がって来る者たちがあった。この時利里は何が起きているのか分かっていなかったが、後に彼らが《罪人》を狩る“処刑人”と呼ばれる存在であることを知る。


邪庭やにわくんは少女を保護して!」


「分かりました!」


 銃を構えた男たちが、利里の脇を通り過ぎる。驚いている間に、彼女は自分より少しだけ年上に見える女性に抱きかかえられていた。


「あたくしたちが来たからには、もう安心ですわ」


 落ち着いた声で笑いかけてもらい、気が緩んだのだろうか。利里の意識はここで途切れた。

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