第4刑 独りぼっちの女王蜂―A
上着をハンガーに掛け、ソファに腰を落ち着ける。モニターには延々と新曲や映画の宣伝が流れていた。
「えっと……」
ここに入ったのは雨宿りのためであり、特別遊びたかったというわけではない。何か歌うでもなく、お互い視線を合わせるでもなく、ただ座っていた。
沈黙は何分間続いていただろうか。5分にも思えるし、1時間にも思える。
先に口火を切ったのは杏樹だった。
「ありがとう。連れてきてくれて」
「いえ。あのまま濡れっぱなしというわけにもいかないでしょう」
とりあえず返事はしたが、その後が続かない。再び空気が止まる。
「アタシね、何をすればいいのか分からなくなっちゃったんだ」
今度も口を開いたのは杏樹だった。
だが瞳の中には穴が開いていて、晶を見ているわけではない。かといって独り言でもない。彼女の記憶が、レコーダーで再生されていく。
「5年前。アタシは家族を亡くした。父さんも母さんも、妹も。――殺されたんだ、あの化け物に」
化け物、というのは《罪人》のことだろう。過去を語る杏樹の口角が、だんだんと上がっていく。
「どうしてアタシだけ生き残ったんだろうね、意味分かんないや。友達の家に遊びに行ってさ、帰りが遅くなっちゃったんだ。8時くらいだったかな? 家に着いたら、変な人たちがいて、救急車とパトカーも停まってて。怖くなって逃げ出した。次の日だったよ。街の電気屋さんのテレビで、アタシの家族がニュースに出てた。一家3人が何者かに殺されちゃったって。初めは何言ってるのか分かんなかった」
次第に杏樹の双眸から、本物の涙が溢れてくる。
時々咳き込みながらも、追憶は続く。
「何で……何で殺されなきゃならないんだよ! 母さんが、父さんが、
晶は彼女に何と声を掛ければいいのか分からなかった。「ご家族はそんな風には思っていませんよ」とでも決めつけるべきなのか。「僕も同じことを考えたことがあります」と同情した方がいいのか。きっとどんな言葉を選んでも、杏樹を傷つけることに変わりはないだろう。
嗚咽を上げる杏樹の背中を擦ろうと、晶は彼女のすぐ隣に座った。そして背中に触れた瞬間、気が付いた。
異様に細い。まるで何も食べておらず、身体を造ることができていないみたいだ。
「杏樹さん、あなたは――」
あなたは、何と訊こうとしたのか。そこで言葉を詰まらせてしまった晶は、続きが思い浮かばない。ただ骨と皮ばかりになった彼女に、かける言葉など見当たらなかった。
「生きる気力もないままあの日から動いていた。だけど半月前、ようやく見つけたんだ。あの化け物が、アタシの家族を殺したに違いない。だから、アタシは――」
噛み締めた唇から赤黒い液体が滲み、溢れる。杏樹もその先は発言しなかった。
「杏樹さん。今日は色んなことを忘れて、遊びましょうか」
晶はカラオケの予約機を手にとって提案する。
いきなりそんなことを言われた杏樹は、面食らっていた。
「苦しいこと、悲しいこと。色々あるかもしれません。でもそんなこと全部を忘れられるくらい、他の事に熱中しましょう。せめて今日1日くらいなら、そうしても許されるはずです」
「……何ソレ? あなた馬鹿じゃないの? 私にはそんな資格ない。もう私は、この世に居場所なんかないんだから」
怒ったように、まだ生乾きの上着を纏って部屋を出て行こうとする杏樹。彼女の手首を掴み、晶は笑う。
「今だけは、僕が杏樹さんの居場所になります。友達になります。だからそんなこと言わないで。苦いもの全部吐き出して、これからを見つけましょう。お手伝い、しますから」
晶自身も、どうしてこんなに彼女に深入りするのか、分からなかった。家族を喪った彼女に同情したから? 父が死んだときの自分と彼女を重ねたから? どんな理由があるのかは理解できない。それでも力になりたいと願った。
「どうして……?」
涙交じりの声で、再び杏樹はそう問いかける。
「どうしてそんなに、アタシに優しくしてくれるの? きっともう、生きてもいない存在なのに」
お互い、もう自分の行動理由なんて分からなくなっていた。ただ何かに突き動かされるように、動き、言葉を紡ぎ、どうにかしようとしている。
「アタシにはもう生きている価値なんてないんだよ?」
「でもまだ動いてる。死んだ訳ではありません。またこの世界に居場所を見つけられる」
晶は適当に知っている曲を予約した。この場の空気に似つかわしくない、軽快な音楽が流れる。
決して歌が上手い訳ではない。それでも、詞に乗せて思いを吐き出すことはできる。
それを見ていた杏樹も、歌を口ずさみ始めた。
今だけは、過去も今も未来もない。2人だけがここにいた。
× × ×
別れ際に2人は携帯の番号とメールアドレスを交換した。
「何かあったら、連絡ください。また力になりますから」
「ありがとう。少しだけ、心が晴れたような気がする」
踵を返し、杏樹は晶のいない方向へと歩いていく。彼女の後姿を見送ってから、晶は曇天を仰いだ。雲はもう内側に溜まったものを吐き出してしまったようで、雨粒が落ちてくることはない。
「杏樹さん、また会えるでしょうか」
再開の時を楽しみに思う晶だった。
「ごめんなさい、遅くなりました!!」
家に帰ったのは、もう日が傾いた時刻だった。
玄関には鬼の形相の
「遅い! こんな時間まで何をしていた、小僧!」
「えっと、知り合いが雨の中立っていたので、一緒に雨宿りを……」
「知り合い?」
玄関に荷物を置いて、ひとまず2人はリビングへ移動する。
「あんたまだこの街に来たばかりでしょ? 知り合いなんているの?」
「先日聞き込みの最中に会った人ですよ。
「ああ、あの三つ編ジャージの人ね。なぁに、雨宿りなんて言って、個室に誘い込んでイイコトでもしてきたのね? 可愛い顔して結構ゲスいのね、あんた」
「そんなことしてません! ちょっとカラオケで歌ってきただけです!」
「カラオケといえば、エロい行為が発生しやすい場所ナンバーワンじゃないの。やっぱりしてきた? ちょっと強引に? それとも結構ラヴい感じに?」
「だからしてませんって!!」
ひたすらセクハラ発言を繰り返す先輩を振り払い、キッチンへと向かう。冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注いでいると、リビングのソファに座っていた
「晶。それは本当ですの?」
「はい。何だかとても疲れているようで……。心配だったので声をかけたんです」
「そう……。それで、その方の名前、もう1度言っていただけます?」
「吉川杏樹さんですが、どうかしましたか」
コップを水で濯いでから、自身もリビングへ戻る。
見ると乃述加は険しい表情をしていた。どうやら『吉川杏樹』という名前に引っかかっているらしい。
「もしかして乃述加さん、杏樹さんのことご存じなんですか?」
「いえ……。直接知っている訳ではありませんわ。その子、何かあなたに話していない?」
「話して、くれました。杏樹さん、5年前にご家族を亡くしているそうです。それも《罪人》に殺されたって。それでようやくその仇を見つけた、とか」
やっぱり……、と乃述加は指先で顎を撫でている。何が「やっぱり」なのか、晶には理解できなかった。
首を傾げていると、彼女は立ち上がり、自室へ入って行った。利里もよく分かっていないようで、怪訝な顔をしている。
やがて乃述加は1冊のファイルを持って来た。
「これを見てください」
開かれたページに載っていたのは、5年前に起こった、家族を狙った連続殺人事件の記事だった。そして乃述加が指差した場所にはこう記されていた。
『3件目。被害者名。吉川
「――!! 吉川って、まさか」
顔面蒼白になる晶。乃述加は静かに頷いた。
「あなたが会ったと言うお嬢さん。おそらくこの事件の生き残りですわ」
それを聞いた利里は、おどけるような仕草で疑問を呈示する。
「ちょい待って。どうしてその子の名前はここに載っていないのね?」
「それが分からないんですの。あたくしもずっと、3人家族だとばかり思っていましたわ。まさかもう1人いただなんて」
「犯人は? 《罪人》なの?」
「ええ。3件目、最後の被害者が出た数日後に、あたくしとクリスティーナ――晶のお母様で処刑しましたわ」
浮かぶのは謎ばかりだった。どうして杏樹の情報出回っていないのか。犯人の動機は? 今回の事件とは何か関連があるのだろうか。
「この事件と今回の事件、非常に酷似していましたけれど、林が5年前のことに関与していた可能性はないですわね。そもそもあの男が《罪人》に覚醒したのは半月ほど前。犯行が行えるはずありませんわ」
「そこで気になるのは、その林を殺害した《罪人》ね。あいつは何者なのかって、話だけど――」
少しだけ言いにくそうに、けれどはっきりと、利里は発言した。
「晶。その吉川杏樹って子が、あの《罪人》なんじゃないのね?」
聞いた瞬間晶は立ち上がり、大声を張り上げていた。
「そんなはずありません! 彼女が《罪人》だなんて……。だって、僕はあの《罪人》に襲われているんです。杏樹さんはそんなことをするような人ではありません!!」
必死になって否定しようとする。だが心の奥のどこかで、そうではないかという考えていた。もしかすると、最初に戦ったあの瞬間に既に勘付いていたかもしれない。でもそうとは思いたくなかった。
「ワスプ・ディシナは
「2つの仮説を合体させると、納得がいくのね。あの女は林を自分の手で殺そうとした。だから先に、邪魔になりそうな処刑人を襲った。標的を晶にしたのは、3件目の事件が起きた時に晶が自分に事件の調査として話しかけてきたから。この時点であいつは晶が処刑人だって分かっていたのね」
指を折りながら利里が話を纏めていく。
首を横に振り「嘘だ、そんなはずない」と晶は否定する。けれど利里や乃述加が仮説を立てる度に、彼の内側には「それが真相ではないか」という考えが徐々に色濃くなっていった。
「杏樹さんが《罪人》だなんて――」
「落ち着くのね。まだ仮定の話。誰もそうだとは言い切ってない」
利里の言う通りだった。今ここで話しているのはあくまで仮の話だ。それでも晶が杏樹が《罪人》であると思い込んでしまうのは、彼が最もその可能性を疑っているということを意味していた。
「ちゅーか晶。どうしてそんな数回しか会ったことのない娘に、そんなに肩入れしているのね? まさか本当に惚れている訳じゃないでしょ?」
「それは、よく分かりません……」
彼女に恋をした、というのとは違うだろう。だがその過去を聞き、今の自分と重なるところを見た以上、親身にならずにはいられない。家族を殺され、そのことをずっと恨み、心の底に憎しみを育てた杏樹。父の死に疑問を抱き、単身で調べようと思い立った晶。家族の思い出を黒く育んだ2人は、同属と言えた。
だからこそ、晶は杏樹に感情移入しすぎたのかもしれない。彼女の心を救う。そのやり方で、自分も救えるかもしれないと考えたのかもしれない。
「(本当に……僕は酷い人です。自分のことしか考えられない……)」
3年前。父が死に、母に連れられ渡米したばかりの頃。いきなり生活環境ががらりと変わり、言葉も通じない異国で過ごす日々は、苦痛でしかなかった。晶は学校でも孤立していた。正確に言えば、周囲を拒み続けた。誰かと繋がろうなんて考えられない。その時その場に立っていることで精いっぱいだった。
ある晩、オレンジジュースで母の晩酌に付き合っていた時のことだ。グラスを持っていない手で晶の肩を抱いたクリスティーナは、呵呵大笑しながら言った。
「自分のことで手一杯の奴が、無理に周りに気を配ろうとすんじゃねぇよ。まずはお前が今の環境に慣れるこったな。周りと打ち解けるのはそれからだ」
「まずは、僕が……?」
「ああ。お前が変われば、次第にお前を包んでいる世界は変わるよ」
「でも、やっぱり怖いよ。僕が皆の迷惑になっているんじゃないかって思うと……」
「バカ野郎ォ。言ったろ、まずはテメェの心配しろってな。自分のことも考えられない奴が、他人を心配する資格なんてねェんだよ」
そう言いながら、クリスティーナは歯を見せて「ニカッ」と笑った。息子から見れば、どこまでも格好よく、どこまでも遠い母だった。
「(僕は今、誰の心配をすればいいんですか? ――教えてよ、母さん)」
携帯電話に手が伸びてしまう。アドレス帳を開き、母の番号を表示する。だがここで彼女の助けを得ては、これまでとは何も変わらない。せっかく覚悟を決めて日本に来たのに、やっぱり1人では何もできない弱虫なのだと、自分を罵る思いになる。
電話の画面を、1度は消した。しかしそこであることを思い立ち、再びアドレス帳を開く。今度表示したのは、先刻教え合ったばかりの、杏樹の番号だった。これなら。今自分にだけできること。それは杏樹を――。
「ッッッ」
音を鳴らさずに息を飲む。こめかみから頬を伝って、嫌な汗が流れていく。手先が震える。今頭の中に浮かんでいる考えは、組織に対する反逆行為かもしれない。こんなことをしては処刑人失格である。それでも晶の心の内では、杏樹を助けたいという思いの方が勝っていた。どうせ、自分は処刑人になったばかり。組織に対する思い入れもない。早いうちに首になっても構いはしない。悪いことだと分かっていても、そんなことばかりが胸中をぐるぐると回っている。
「どうした晶。顔が怖いのね」
不安そうな声音で問いかける利里。声を掛けられた瞬間、晶の喉は、今度は「ごくり」と音を立てた。乃述加も心配そうな顔で晶を見ている。
そんな彼女らを裏切るような行為に走ってもいいのだろうか。晶の心は自分自身への呵責で押しつぶされそうだった。
「(それでも僕は、杏樹さんを)」
携帯を握りしめ、視線を送ってくる利里たちを振り向かずに、自室へ入る。
すぐさま杏樹のアドレスを開き、メールを打った。
『先輩たちがあなたが化け物ではないかと疑っています
すぐに逃げてください』
胸の鼓動が早くなる。息が詰まりそうなのは杏樹を心配する心からか、それとも利里や乃述加への後ろめたさからか。
ヴーン、と携帯が震えた。メールを送ってから2分も経っていない。
杏樹からのメッセージは、ごく短いものだった。
『明日の朝、初めて会ったあの公園で待っています』
それだけでは、彼女の意図を読み取ることができなかった。
晶と直接会って別れの挨拶をしたいのか。だが彼女には、そんなことをするメリットがない。もしかするとその機会に狙われるかもしれない。飛んで火に入る夏の虫、となりかねない行動だ。
しかし晶には、「どうして?」と返事を送ることができなかった。彼女の真意をこの場で知ってしまうことが怖かった。
「はい」と心の中で返事をするのが精いっぱいだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます