第3刑 繰り返す悪夢―B

「どうしましたの!? こんな傷だらけになって――――!」


 家に帰るなり、乃述加ののかに傷の具合を診られた。後々まで残るような傷はないと言われ、安心する。だが不安要素は尽きない。あの《罪人》は一体誰だ? 口調や身体つきから想像するに女性だろう。だが結局動機などは隠れたままだ。


「僕、帰り道に、《罪人》と戦って…………」


 告白した瞬間、利里りりが、


「それってどんな奴だった!?」


 と問い詰めてくる。


「蜂みたいな姿でした。そして、全体的に線が細くって、多分女性だと、思います」


 最後まで聞いた利里は首を傾げる。


「女性? あなたを襲った《罪人》が?」


「はい、それに、左手首に針が生えていたんです。だから、きっと、あいつが今回の事件の、犯人じゃないかな、って」


 乃述加と利里はしばし顔を見合わせた後、また首を傾けた。


「調査部の情報とは違っていますわね」


「え?」


 2人はテーブルの上に広げられていた資料をしょうの手に持たせる。


那雫夜ななよも協力して調べていたのですが、今回の事件の犯人は、どうやらこの男らしいですわ」


 そこにあったのは一人の男の略歴。林新太はやしあらた、61歳。現在はG地区の地区会長を務めている。色々書かれていたが、最も注目するのは、マーカーの引かれている1番後ろの文。『半月前、孫を交通事故により亡くしている』。


「そんな、まさかこれって――!」


 容疑者は孫を亡くしたばかり。そして被害者は皆家族でいるところを殺害されている。これはまるで。


「そ。ただの腹いせなのね。『嫉妬』の大罪に堕ちた、哀れな老人のね」


 そこから乃述加と利里は、推測を語っていった。

 被害者をいろは順で殺害していたのは、「次はお前だ」という恐怖心を植え付けるため。1番の狙いは、幸せな家族の日常を奪うこと。なお、彼の孫をひき殺したドライバーはすでに逮捕されており、被害者たちとは一切関わりのない人物である。よって容疑者の行為は完全に独りよがりのものだ。

 その話を聞いた晶は唇を噛んだ。


「酷い。どうしてそんなことができるんですか? 自分は、お孫さんを喪って、本当に辛い思いを、したのでしょう。でもなぜ同じ思いを、他人にも与えようと、するんですか?」


「自分の奪われたものを持っている奴らが、相当憎かったんだろうね。普通なら、自分が味わった悲しい思いは、他人には背負わせないようにしようって考えるものだけど」


「それだけ『嫉妬』が勝ったのですわ。羨ましい、という感情を殺意に変換してしまう大罪を抱え込んだのよ」


 晶にはその感情が理解できなかった。父親を喪った時、確かに悲しかった。あまり一緒にいられることのなかった父だが、それでも死んでしまったと聞くと、辛かった。だがだからと言って、他人の父親を見て嫌悪感を覚えるということなんてなかった。確かに寂しいだとか、羨ましいだとか、そういった感情は抱いたかもしれない。しかし憎く思えることはない。自分は自分だし、他者は他者だ。自分とは違う存在の人生にとやかく文句をつけるなんて発想はしなかった。


「これ以上被害者を増やす訳にはいかないのね。明日起きたらすぐ、こいつの家にカチコミよ」


 早起きできるように、ということなのか。利里は言うとすぐに就寝支度を始める。晶は乃述加に付き添われながら、自室へと身体を引きずった。寝巻に着替えて布団に寝かせられる。


「なるべく現場を見て欲しいのですが、無理はしないでくださいまし。よほど辛いようでしたら、明日は留守番でもいいですから」


「ありがとうございます。でも、僕にでないとできないことも……」


「さっき襲撃してきたという、《罪人》のことですか?」


 図星だった。

 けれど何だか話題を切り出すのが辛くて、しばし黙る。


「大丈夫。決して無駄な情報ではありませんから。このタイミングで、事件の調査に関わっているあなたに目をつけているということは、無関係とは思えませんもの。きっと何か繋がりがあるはずですわ」


邪庭やにわ部長……」


 ほっと顔の筋肉を緩めると、額を小突かれた。


「もうっ。家にいるときくらい、そんな堅苦しい呼び方はやめてくださいな。もっと親しげに話していいんですのよ」


 それは、事務的な関係でいたくない、ということか。

 乃述加は利里や那雫夜、晶のことを我が子のように考えている。だから仕事上の肩書で呼ばれることを嫌うのだ。仕事中ならば構わないが、日常の時間まで『部長』なんて呼ばれたくない。もっと親しげに接することを望んでいた。


「乃述加さん、僕、絶対活躍してみせますから……」


「はい。期待していますわ」


 乃述加に額を撫でてもらっていた晶は、どんどん微睡んでいく。やがて深い眠りへと誘われた。彼が眠ったのを確認すると、乃述加は1度リビングに戻った。それと同時に、利里も自室から姿を現す。


「那雫夜に電話したら、明日すぐ来るって。これで戦力的には問題なしね」


「でも……気になりますわね、晶の見た蜂型の《罪人》のこと」


「容疑者は男。でも目撃した怪しい奴は女。――人間の姿と《罪人》の姿で性別が変わるなんてこと、これまであったのね?」


 あごに手を添えて考えるが、


「いえ、なかったと思うわ。けれど擬態能力持ちだとすれば、その可能性も……」


 だが、きっちりとした答えは出なかった。

 やはり明日、何が起こるか確かめなければなるまい。




        × × ×




 翌朝7時。那雫夜が来るとすぐに、4人で車に乗り込み、容疑者宅へ向かった。あらかじめ晩のうちに警察や調査部、捕縛部の面々も呼んである。いざと言う時、地域住民への避難勧告や護衛を任せられるように。


 目的地に着くと、まずは乃述加がインターホンを押しに行った。晶たちはまだ車内で待機だ。容疑者が罪を素直に認め捕まるというなら、この車で護送する。だが抵抗した場合、この場で戦闘が起こることになる。そうなった場合は、なるべく住宅街からは引き離さなければならない。4人の役割分担は、乃述加と那雫夜は直接戦闘。利里と晶は開けた場所に誘導することとなっていた。


「大丈夫かね……」


 助手席に座っている利里が、送風口に付けられた消臭剤を弄りながら、心配そうに呟く。人工香料の香りが車内には漂っていた。容疑者宅の門の前で、乃述加が背伸びしながらマイクに何か話しかけているが、3人にその声は届いていない。


「一触即発にならないことを願うばかりだわん」


 朝が弱いのか、那雫夜は少し眠そうだ。

 注意して上司の交渉を見ていると、


「あ、入った」


 乃述加が家の中に案内されている。詳しい話は、人目につかないところで、ということか。


「くっそ。これじゃ私らには分からないのね」


 舌打ちした瞬間、利里の携帯に乃述加から電話がかかって来た。応答マークを押すも、スピーカーの向こうからは何も言われなかった。どうやら電話で話の内容を伝えるつもりのようだ。利里は那雫夜と晶にも聞こえるよう、電話を操作した。


 今のところは、衣擦れの音だけが伝わってくる。

 ガチャリ、とこれは扉の開閉音か。その後すぐに着席の気配。


『それで。君は私がここ最近起きている殺人事件の犯人だと、考えているのかね?』


 老爺の声。これが林新太か。61歳と資料にあったが、どうもそれ以上に歳を食っているような印象の声だ。


『ええ。間違いであれば、大変申し訳ありませんわ。その際には全ての非礼をお詫びいたします。けれど現段階では、あなたが犯人の最有力候補であることは違いありませんの』


 乃述加は下手に本心を隠そうとはせず、単刀直入に出ている。空気が張りつめているのが、電話越しでも伝わって来た。


「(乃述加……。慎重にお願いするのね……)」


 彼女は真っ直ぐな心根ゆえに、少し行き過ぎるところがある。ここでも無意識の内に相手の神経を逆なでして、暴れさせないか、心配で仕方がない利里である。

 だが、かなり意外な結果になった。


『――ここまで来て、隠し立てはできますまい。そうだ。私が連続殺人事件の犯人だよ』


「「「『!!!!????」」」』


 その発言を耳にした瞬間、4人は一斉に息を飲んだ。まさかこんなにあっさり認めるとは思いもしなかったからだ。言い訳も一切せず、素直に自分の犯した罪を口にしている。


『あなた、《罪人》ですわね』


 そこからさらに事情聴取が続く。


『ああ。化け物になって、何人も殺したよ』


『目覚めたのはいつ頃ですの?』


『最初に殺しを行った時ですな。孫の命を奪われたことで、私は塞ぎ込んでいた。もうあの無邪気な笑顔を見ることができないのだと、まるで自分の視界を奪われたように、真っ暗な世界に落とされていた』


『人々を手に掛けたのは、嫉妬の感情から?』


『そうだ。私と裕太ひろたは二度と会えないのに、奴らはのうのうと笑って生きておった。それが許せなかった』


 許せないのはテメェの方だ! と、利里は車の窓ガラスにひじ打ちしていた。

 いくら自分が辛い思いをしたからといって、それを他人に押しつけていいはずがない。まして、大切な命を奪われたからと、他者のそれを否定するのなんて、間違っているどころの話ではない。


『そこまで認めるのであれば、罪を受け入れるということですわね? ご同行願いますわ』


『…………そうしよう』


 その会話を最後に、通話が途切れた。乃述加は容疑者を連れ、家から出るらしい。

 車内に大きなため息が広がった。利里のものだ。


「なぁんか、胸糞悪い事件だったのね」


「ええ。何かしっくりこない。あんな簡単に犯人が自白して、はい逮捕、で終わっても遺族は納得しない」


「でも、逮捕するに越したことはありませんから……」


「そうねぇ。ま、捕まった以上すぐに処刑されるでしょ。何だか消化不良だけど、これで全部お終いにしないとやってられないのね」


 乃述加が犯人を連れて出て来る。それと同時に、林の身柄は捕縛部員が確保し、護送車に入れた。それを眺めていると、乃述加が車の窓をコンコンと叩いた。


「誰か1人、護送車に同乗してくださいませんか? 晶は経験がありませんし、利里か那雫夜が」


「それじゃあ私がいくのね。3人は後ろからついて来て」


「はい。お願いしますね」


 利里が助手席から降りると同時に、乃述加が運転席に乗る。

 犯人を乗せた護送車が動き出す。それに続いて、彼女らが乗るワゴン車も発進する。


 ここで済んでいれば、何も問題はなかった。




 護送車内。右側に利里。左側に捕縛部員の男につかれた林新太は、しきりに何かを呟いていた。利里はその声にそっと耳を澄ませる。


「裕太……。大丈夫だからな。お前のことなんか、知らん顔して生きている連中は、みんなおじいちゃんがお前の居る所に送ってやるからな……」


 聞き取った瞬間、利里は懐に忍ばせておいた拳銃を林の頭に突きつけた。


「も、百波ももなみさん!? 何をしているんですか?」


 彼女の行動に面食らった捕縛部員は、口をぱくぱくと開閉している。

 やけにあっさり捕まったから、抵抗はしないものと、勝手に思ってしまっていた。そうだ。こいつは《罪人》。期待する存在ではないし、情けをかける存在でもない。だが本人は自分が《罪人》であると語っているが、まだその姿を見せた訳ではない。人間態しか明らかになっていない以上、撃つことはできない。実は一般人だった自称罪人の男を、『E.S.B.』の職員が誤って処刑した、なんてことになったら、世間からは非難轟轟だ。それは避けるべき事態だろう。だから、まだこの男は殺せない。


「裕太、大丈夫、こいつらもお前の所に行かせるから……」


 だが、許可が下りる時が来た。

 林の姿が変貌していく。全身が堅い針の毛で覆われていく。その武器になる体毛が車内を荒らした。


「こいつっ!!」


 利里は迷わず、頭に突きつけた銃の引き金を引く。それはまるで意味を為さなかった。やや弾丸がめり込むだけで、分かり易いダメージもない。


「やっぱり、一般の武器じゃダメだ!!」


 悪態をついている隙に、喉を掴まれた。まずい。


「さぁ、君も死んでおくれ。死んで、向こうで裕太のお友達になっておくれ……」


 不気味な調子で言葉が紡がれる。この男、本当に自分勝手な妄想で、人を殺し続けて来たのだ。こんなことで自分が救われると、孫の慰めになると、本気で考えているのだろうか?


「誰が、あの世なんかに、行くもんか――――ッ!!」


 ポケットから取り出した十字架を、左腕の腕輪にセット。そこから飛び出したホログラムが、《罪人》を跳ね除けた。

 道路に焦げ跡をつけながら護送車は緊急停止する。扉が無理矢理外され、利里は《罪人》の首根っこを掴んで下車する。幸い、市街地は通り過ぎていた。留置所へと向かっている山道に差し掛かった辺りだ。ここならば思う存分力を発揮できる。

 利里は《罪人》を殴り飛ばすと、声高々に宣言する。


「百波利里の名において、貴様に死刑を執行する!!」




 山道に近づいた辺りで、前方を走っている護送車に異変が起きた。蛇行――というより震えている。カタカタと、まるでその車だけが地震に巻き込まれているように。道が悪い訳ではない。内側で何かが起きているのは明白だった。


「まずい! まさかあの男、抵抗を始めたんじゃ!」


 荒れた運転に巻き込まれないよう、乃述加はワゴン車のスピードを少しだけ緩める。それでも引き離されないような距離にはついている。


 ドン! という花火の打ち上げに似た音と共に、護送車の後部の扉が開く。そこから出て来たのは、執行体勢になっている利里と、針の蓑を纏ったような怪物の姿だった。


「利里!」


「やっぱり……。あたくしたちも行きますわよ!」


 口ではそう言ったものの、乃述加は車を止めようとはしなかった。むしろスピードを上げていっている。彼女が何をしようとしているか察した那雫夜と晶は、足を踏ん張り、手すりを掴む指に力を籠める。


「利里!! 避けなさい!!!」


 窓を開けると同時に、車外に向けて叫ぶ乃述加。耳にした瞬間、利里は大きく横へ飛び退いた。直後、ワゴン車と《罪人》が衝突する。大きな衝撃と共に車は停止。《罪人》は後方へと跳ね飛ばされた。

 乃述加、那雫夜、晶の三人は車を降りると、流れるように左手首の腕章へ十字架を装着する。


『エグゼキュージョン システム ブート!』


 処刑人の姿になり、利里に加勢する。


「大丈夫ですの!?」


「見りゃ分かるでしょ、てんてこ舞いだよ! あのクソジジイ、ぶつぶつ何か言ってると思ったら突然あの姿になったのね。抵抗するなら抵抗するで、もっと早くきっちりした態度を見せて欲しいのね」


 4人は一度《罪人》から距離を取って、その姿を観察した。パッと見る限り、それはまるで昔の行商人か何かだ。肩から膝までの丈の蓑で全身を覆っている。フードもあるため頭も例外ではない。厄介なのは、その蓑に無数の針が生えていることだ。まるでハリネズミかハリモグラ……あるいは、ヤマアラシのように。


「これまで事件の凶器も、全身に生えたあの針か」


 第三の事件の時、被害者はあれで木に打ち付けられていた。全ての事件で共通して、あれを犯行に使ったと考えて間違いない。


「結局反省する気はなさそうね……。とっとと処刑しちゃいましょ!」


「待って利里!」


《罪人》に襲いかかろうとした利里を乃述加が制止する。気合を空回りさせられた利里は不服そうな顔をする。


「殺す前に確かめたいことがありますの。あなた――1つ質問よろしいかしら?」


 乃述加は林と対話をしようとした。だが《罪人》は暴れることをやめようとしない。すると、これでは仕方ないと言わんばかりに、

 ダァァン!!


 乃述加は敵の両足の腱を撃ち抜いた。負傷部から青い液体を流しながら、前方へ倒れ込む《罪人》。全身の針をガサゴソ言わせながらもがいている。


「あなた、5年前の事件とは何か関係があるの?」


「5年前……? 何の話だ」


「昔も今回同様、家族を狙った無差別殺人を行った《罪人》がいましたの。そいつはあたくしと、あたくしの上司が解決したはず。けれどまた酷似した事件が起きた。その理由ですわ」


 地面に臥す怪物は、「知らない」と言いたげに首を横に振っていた。


「違う、違うんだ……」


 うめき声と泣き声をブレンドしたような声を絞り出し続ける《罪人》。乃述加は器用に、針の生えていない肘の内側や首元を押さえて拘束している。


「私はただ、裕太だけに苦しい思いをさせたくなかっただけなんだ。1人だけ死ぬなんて不公平だ。みんな死んでしまえばいい。そうすれば、かわいそうな子なんていなくなる……」


 あまりにも身勝手すぎる犯行動機。利里は「テメェ!」と叫んで殴りかかろうとするのを、那雫夜に止められていた。晶も晶で、胸の奥にふつふつと嫌悪心が湧き上がってくる。

 拘束する力を少しずつ強くしていく乃述加。


「大人しくしてくださいまし。あなたが《罪人》であると分かった以上、我々は庇うことができない。永久に出て来られない監獄に入れるか、この場で処刑するかの二択。罪を償うことすら許されませんわ」


「殺したければ殺すがいい。私は裕太の無念を晴らせればそれでいいんだ。私自身がどうなろうと関係はない」


 どこまでも話の通じない男だった。この状況でもまだ、自分の行為が孫の為になったと考えているようだ。

 もう対話は諦めた。ここから先が、処刑人の真の仕事だ。


「あなたの命奪うこと――お許しくださいな」


《罪人》のこめかみの辺りに銃口を押し当てる乃述加。彼女の指が引き金にかかり、爆音が弾け――。


「キャアッ!」


 かしゃんと、拳銃が地面を転がる。初めは何が起きたのか、4人の処刑人は理解できなかった。今の瞬間、乃述加が何者かに攻撃を受け、拳銃を落としただけでなくバランスを崩して《罪人》の拘束を解いてしまったということに気が付くのに、数秒を要した。


「――! お前は!」


 真っ先に襲撃者に気が付いたのは晶だった。彼はその者に昨日襲われたばかりだったせいで、なおさら早く判断できた。

 その場に現れたのは、昨晩コンビニ帰りの晶に襲いかかって来たあの《罪人》だ。左手首にある針の先が、怪しく薄紅色に光っている。


「なぁるほど……。これが晶を襲った奴だね」


 サバイバルナイフを構えた利里が、ワスプ・ディシナとの距離を一瞬で詰めた。喉元にはナイフを突きつけ、腹には拳を押し付ける。


「アンタ何者? 何が目的でこんなことしてるのね。目障りだよ」


「アタシからすれば、お前らの方が邪魔者だ」


 にらみ合う2人。だが先に動いたのは、利里でもワスプ・ディシナでもなかった。

 ヒュッ! と矢が放たれる。素早く反応した《罪人》はわずかに首に切り傷を負いながらその場を離れ、木の枝に掴まる。さらにそこに向けて、続けて矢が飛んでいく。


「那雫夜、焦り過ぎなのね」


「利里を傷つけさせはしない」


 鼻息を荒くした那雫夜が、鋭い眼光でワスプ・ディシナに狙いを定める。だが狙われている側はあまり危険を感じてはいないようだった。4番目に放たれた矢を、《罪人》は右手で捕まえる。それから視線を移した。その先にいるのは、針だらけの《罪人》。


「――みんなの、仇だ」


 ワスプ・ディシナは枝から跳んだかと思うと、乃述加の拘束を離れて逃げ出そうとしている林の前に立ち塞がった。


「よくもまぁ……今日まで生きていたものだな」


「何だお前は。何をしに来た!?」


 返事はない。

 次の瞬間、《罪人》の姿でなくなった林新太が倒れていた。


「!!??」


 何が起きたのか、その場にいた誰もが理解できずに目を剥いた。林は苦しそうに首元を抑えている。次第に泡を吹き始めた。彼の胸には15センチくらいの針が刺さっている。そこまで確認して、処刑人たちはようやく彼が毒に冒されていることに気が付いた。


「あれが、あの女《罪人》の能力……?」


 林は息がどんどん荒くなり、露出して見えている肌が紅潮してくる。顔面は目から涙、口から唾液が絶え間なく流れており、見る者に生理的嫌悪感をもたらしていた。《罪人》になって応戦しようにも、それほどの体力も残っていなさそうだ。


「アンタのせいで、アタシはこんな醜い姿になったんだ。アンタに家族も、日常も奪われた。だから今度は、アンタが全部失くしちゃいなよ」


 冷ややかな口調で、ワスプ・ディシナは林の正面に立つ。掻き毟っている手を退けて喉元を鷲掴みにする。そして右手に握りしめていた鏃を、毒が注入された患部に突き刺した!

ぐちゃぐちゃと音を立てながら、水漏れのように血があふれ出る。


「死んじゃえ」


 冷ややかなその一言と共に、林の肉体はおがくずのようにぼろぼろと崩れた。

 満足したように掌を払うワスプ・ディシナ。彼女は《罪人》の姿のまま、その場を立ち去ろうとする。


「お待ちなさいな」


 乃述加がそれを引き留める。


「あなたは何者? なぜ林新太を殺害したの?」


「アタシは――」


 ワスプ・ディシナのシルエットが一瞬歪む。だがすぐに首を振って人間の姿になるのを堪え、


「アタシは家族の仇を打とうとした。それだけだよ」


 そう吐き捨てると、背中に半透明の羽を展開して飛び去った。




        × × ×




 色々なことが消化不良に終わった。

 結局、犯人・林新太の動機は孫を理不尽な事故で奪われた腹癒せに、身の回りの家族の幸せを奪おうとした。要するに八つ当たりという結論に至った。


 5年前に起きた事件と酷似していたが、そちらの犯人と林との関係性は見当たらず、偶然似通った事件が発生したのだと、乃述加は結論付けた。


 犯人が死亡した以上、もう執行部が出張る必要はない。あとは事後報告を待つばかりである。




 翌日。切れていた洗剤やティッシュペーパーなどの消耗品を買いに、ドラッグストアーへ向かう晶。彼らの心のもやもやを反映するかのように、朝から雨が降り続いていた。何もこんな日に出かけなくてもと初めは思ったが、このところ忙しかったせいで、まともに買い物もできていなかった。乃述加と利里は『E.S.B.』ではそれなりの地位にいるので、調査部や連絡部とのやりとりがまだ少し残っている。晶に雑用が回ってくるのは必然だった。


 住宅街から商店街へ向かう途中の橋の上。晶はそこに見知った顔がいるのに気付いた。吉川杏樹だ。何かあったのか、思いつめたような表情で増水した川の流れを眺めている。あまりにも深刻な顔つきなため、話しかけるのが躊躇われたが、このまま無視するのも気分が悪い。彼女の元まで移動し、恐る恐る声をかけた。


「杏樹さん。どうかしましたか?」


「!?」


 いきなり声をかけられて、杏樹の方も面食らっていた。だがすぐに態度を取り繕い、


「考え事。私はどうして、今ここにいるのかなって」


 随分と抽象的な考え事だ。それは今この場にいる原因を知りたいのか、生きている意味そのものを問いたいのか。この無理して作ったような笑顔を見るに後者だろう。

 ひとまず、雨に濡れっぱなしの彼女を雨傘の中に入れてあげる。このままでは風邪をひいてしまう。


「杏樹さん。雨に打たれ続けるのはあまりよくありませんよ――? どこかで雨宿りでもしません?」


「どうして――――――?」


 息を飲むような呟きを耳にし、晶は杏樹の方を向く。彼女は泣いていた。雨のせいではない。傘に入っているのだから、目じりから絶え間なく液体が流れ落ちるわけがない。黒光りする涙が、雨で汚れた頬を洗っていく。


 晶はどんな表情をすればいいのか分からなかった。彼はこの時初めて、「自分は他人の痛みに鈍感なのではないか」ということを自覚した。父の葬儀ですら泣かなかった。小学校の卒業式の日、数人だが感極まって泣いてしまっている子がいた。その理由が理解できなかった。もしかしなくても、自分は冷たい人間だ。


 そう、自分を情けなく思ったばかりなのに。


「どうしてあなたは、そんなに優しいの――?」


 杏樹は冷たい晶を否定した。褒められたはずなのに、良いように捉えられたはずなのに、晶の胸は弾丸で貫かれたように、痛み、温かいものが内側から流出していく。


「僕は、そんな……」


 返す言葉が見当たらない。顔も上手く作れない。

 どうすればいいのか分からなくなり、錯乱したように杏樹の腕を掴んだ。


「え……、え?」


 困惑する彼女をそのまま引っ張る。


「あなた、どこへ行くつもり?」


 そんなの晶にも分からない。

 ただ曇天と雨粒を眺めながら、見える道を進んでいく。


「とりあえず、雨のない場所に行きましょう」


 空から降ってくる何かが、身体に痛くて仕方なかった。

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