第7話オルレアンの華

 誰かが、扉の前に立っている。

 いつもは素通りする癖に、今日は矢鱈と長い時間そうしている。

 基本、俺のことは放置なんじゃないの?

 俺がこうなって以来、ずっと。

 そう決めたんじゃないの?

 呼ばれても、俺は絶対に部屋を出て行かない。

 みんなの前に姿を現さない。

 だって、こんなの見せたくないし。

 嫌な想いにさせたくないし。

 これは俺が弱いだけで、皆が悪いわけじゃないし。

 不快な思い、させたくないから。

 もう、いないものとして扱ってよ。

 いない存在は、返事をしない。

 置物のようになって、部屋の隅に蹲るだけ。

 膝を抱えて、座り続けるだけ。

 なのに。

 「絃護兄さーん!」

 どんどんどん、と扉を叩く。

 しかも、だんだん激しくなっている。

 俺をそう呼ぶ人間は、一人しかいない。

 誰かは分かっている。

 「もう朝だよ!」

 知ってる。

 時計くらい読めるし。

 「いい加減起きなって!」

 それは、夜普通に寝てる相手に言うことで、昼夜逆転の俺に言うことじゃない。

 確かに、朝起きて夜眠る生活をしてない俺が悪いとは思う。

 でも、しょうがないじゃん。

 夜、寝れないんだから。

 寝たばっかなのに、もう起きろとか酷。

 知らないわけじゃないのに。

 いつもは放っておくのに、何なの?

 今日に限って、どうして起こしに来るの?

 引き籠りのクズ野郎なんて、いない設定にしといていい。

 お前だって、俺みたいな兄がいるのは恥ずかしくてしょうがないんだろ。

 「早く支度しないと、間に合わなくなるんだから!」

 間に合わなくなるって、何。

 俺には行かなきゃならないとこなんか、ないけど。

 登校拒否ってるの、引き籠ってんの。

 無理に引き摺り出すなって、言われてんだろうが。

 「聞いてるの、絃護兄さん!」

 聞いてるけど、返事をしないだけ。

 今にも扉をぶち破る勢いでいるんだけど。

 必死過ぎ。

 「・・・・・・何なの。何の用なの」

 応えない限り、ずっと扉を叩かれ続けるのだろう。

 煩いし、壊れると困るしで、仕方なしに。

 引き籠り場所がなくなったら、俺は引き籠りを続けられない。

 「今日は寧々ちゃんの結婚式だって言ったよね?」

 結婚式?

 寧々ちゃんが?

 「寧々ちゃん、結婚式するの?」

 「そうだよ!」

 「結婚するの?寧々ちゃんが!?」

 「そうだよ!」

 「今日!?」

 「そうだって言ってんだろ!」

 「聞いてない」

 「言ったっつってんだろ!お前が聞いてないだけだろうが!」

 そうかも。

 どうでもいいことは、憶えてない自信があるから。

 でも、そんな重要なことを俺がどうでもいいことに分類したとか。

 どうかしてたんだな。

 いや、現在進行形でどうかしてるんだけど。

 寧々ちゃんというのは、俺たち兄弟の幼馴染の女の子だ。

 俺とは歳が一回り離れてるから、幼馴染というのかどうかってとこはあるけど。

 あと、果たして女の子と呼んでいいのかどうかって。

 本人が訊いたら、ボディーブローをお見舞いされるだろうから内緒で。

 寧々ちゃんは、皆のマドンナ的存在で、幼い頃から近所の男連中を引き連れていた。

 同性の女子からは妬まれていたが、そんなことをするだけ無駄で虚しくなるほど、彼女は美人だった。

 どうして、世界の最も美しい顔とかに彼女が選ばれないのか不思議なくらい。

 男たちに尽くされることに慣れていて、それは当然だと思っている。

 特に、俺たち兄弟は家が隣だから、毎日毎日良いように使われてきた。

 長男は貢がされ、次男は足代わりに使われてきた。

 それでもいいと、兄弟たちは思っている。

 誰一人として彼女の特別にしてもらえるとはなく、何処かの誰かと結婚する彼女を、わざわざ見に行かなくてはならない。

 苦痛ではないのかといえば、別にそんなことはない。

 最初から、相手にされるわけがないと知っているのだ。

 自分たちは彼女の奴隷。

 それで幸せだ、と。

 歪んでる。

 「招待してくれるだけ、いいでしょ」

 「・・・・・・ご祝儀を搾り取ろうとしてるだけじゃないかと思う」

 というのが、今の俺の感想だ。

 歳が離れているせいか、俺は全く彼女にそういう感情を持っていない。

 それ以前に、彼女の本性を知っているから、女というものが怖すぎて、全然そういう気持ちに目覚めないのだ。

 だから、神谷紗由に命令されても、滅茶苦茶白けただけで、感動できなかったのだと思う。

 「俺、行くって返事してないし」

 「でも、兄弟で行くってしちゃったし」

 「勝手に?」

 「しょうがないでしょ。兄弟宛だったんだから」

 「幾ら住所が一緒だからって、一纏めにするとか・・・・・・」

 その程度なんだよね、その程度。

 「行こうよ、絃護兄さん」

 「行かないよ」

 全然その気にならない。

 だって、

 「結婚式ってさぁ、新婦の未婚の友人が男を探しに来るとこでしょ。そんなの無理。無理無理無理無理無理無理無理」

 引き籠りのコミュ障は、三秒だって持たないよ。

 「流石に中学生を捕まえには来ないって」

 其処までの身の程知らずは五人か六人くらいだよ、と答える。

 そんなにいるの?

 中学生が成人する頃には、三十過ぎじゃん。

 対象外過ぎる。

 「圏外」

 悲しいかな、賞味期限切れってやつ。

 「僕も。(∀`*ゞ)エヘヘ」

 「お前、年上好きじゃん」

 「フリ、フリ」

 「・・・・・・」

 恐ろしい。

 「欲しいものいっぱい買ってもらう為でしかないよね」

 ドラァァァイ。

 「兎に角、行こうよ。兄さんたちも、待ってるし」

 「俺は、スポンサー見付けるつもり、無いから」

 どうせ、永くはない人生なんだし。

 逃げたい、逃げたい。

 総ての辛くて怖いものたちから。

 傷つきたくない。

 当たり前じゃんか。 

 「無理。行けない」

 「まだ、言うの?」

 「言う」

 免疫ねぇなぁ、と呟く。

 「そんな怖い女の人ばっかじゃないよ」

 「それもあるけど。物理的に、無理」

 「どういうこと?」

 説明しなきゃ、解らないだろうからするけど。

 「・・・・・・お前、最近俺と会ってないだろ」

 「兄さん、ずっと引き籠っているからね」

 自慢じゃないが、かれこれ一年近く、直接会ってない。

 「ずっと引き籠ってるって、どういう状態になるか分かる?」

 「状態も何も・・・・・・」

 考えたことなんか、無いと思う。

 こいつには、引き籠ってない状態が当たり前なんだから。

 世間の「まともな」人間全員が、そうだ。

 普通の状態が当たり前で、そうじゃないことなんて考えもしない。

 想像なんか、できるわけがない。

 「結婚式なんか、とんでもない。人前に出すことすら、恥ずかしいよ」

 そんな状態の俺を、連れてきたりして。

 逆に兄弟たちが寧々ちゃんにボディーブロー喰らうわ。

 人生一度きりしかない、晴れ舞台なんだから。

 誰と結婚するんだか知らないけどさ。

 「どうしても連れて行きたいなら、事前にどうにかさせなきゃいけなかったね」

 「前もって言ってたじゃん」

 「忘れるよね、記憶から抜け落ちるよね。行きたくないから」

 「・・・・・・何だよ、その論理」

 故意にやったことじゃない。

 一応、寧々ちゃんには申し訳ないと思う。

 我儘で女王様な幼馴染は、性格は開き直っていて、嫌な奴じゃない。

 サバサバして、男勝りなとこは正直羨ましいと思う。

 同性からの妬みも、

 「何か言った?ブス」

 「煩いぞ、ブス」

 で片づけてしまう。

 後から聞いた話だが、俺が学校に行けなくなって引き籠った原因を作った神谷にも、

 「お前みたいなのが、絃護くんを好きだとか(笑)」

 中学生相手に大人気ないが、

 「うるせぇ、黙れババア」

 神谷に凄まれても、

 「せめてデブかブスか、どっちかにしろ。両方でくんな、草生える」

 普通はデブをやめるだろうが、相変わらず神谷はデブでブスな状態らしい。

 学食の菓子パンを毎日一食二十個も食べていれば、そうなるだろうとのこと。

 てか、食い過ぎだな。

 「寧々ちゃんに、おめでとうって気持ちはある・・・・・・」

 だけど、こんな俺が行っちゃいけない。

 寧々ちゃんのご両親も、俺の事情は知っているし、いい人だから本心で俺に来てもらいたいって思ってるんだろうけど。

 相手方がどう思うか。

 俺みたいな知り合いがいるってなったら。

 「寧々ちゃんの迷惑だから・・・・・・」

 寧々ちゃんには、寧々ちゃんが幸せになる権利がある。

 いつまでもずっと、俺たちの幼馴染のお姉さんってわけにはいかないんだから。

 「お前から、おめでとうって伝えといて」

 「・・・・・・しょうがないなぁ」

 あまりにも状態の悪すぎる俺を連れて行くのは無理だと、漸く分かってくれたらしい。

 全く納得は、してないけれど。

 「兄さんは具合が悪くて欠席する、ってことにしとくよ」

 「ありがとう」

 寧々ちゃんのことだから、今日が結婚式じゃなければ、あとで怒って乗り込んできそうだけど。

 もう、お隣には住まなくなるし、それもなくなるかな。

 ちょっと、寂しいかも。

 「兄さん、少しでもいいからちゃんと窓開けて、空気を入れ換えるとかしなよ」

 「うん」

 ずっと俺が家に居るのだと思っているから、言うんだろうな、そういうこと。

 実際は、夜中に散歩してますけどね。

 「気を付けて」

 「はいはい」

 廊下を歩き、階段を下りる足音がして、やがて消えた。



 やっと、静かになった。

 変な形で、起こされてしまった。

 もう一度寝直すか。

 そう思ったけれど、俺は昨日(正確には未明)からベッドを使って寝ていない。

 床の上に、ごろってなってた。

 というのも、ベッドには例の少女がいるからだ。

 そっと、近付いて様子を窺ってみた。

 ベッドの上では、相変わらず、件の少女が眠っている。

 目を覚ます気配は、やはりない。

 よく眠っているらしい。

 微かに寝息が聞こえる。

 生きてはいる。

 しかし、起きない。

 余程疲れているのか。

 精神的なダメージを負っているのか。

 深く深く、眠っている。

 さて、どうしようか。

 死んでいるわけではないから、いつか必ず、目を覚ます。

 命に別状がない筈なので、いつ目を覚ましてもいい頃だ。

 「・・・・・・そうか」

 もう、いきなり起きてもおかしくないんだ。

 それに気付いたら、急に落ち着かなくなった。

 ドキドキする。

 今、起きられても、俺はどうしたらいいのか分からないのに。

 目が醒めたらこんなとこ、なんて嫌だろうな。

 びっくりするんだろうな。

 おまけに、こんなゴミが近くにいてさ。

 最悪でしかない。

 だからって、彼女を何処かにやることは出来ない。

 俺が出て行くことも出来ない。

 ずっと同じ空間にいるしかない。

 「・・・・・・」

 それにしても、・・・・・・女の子か。

 これくらいの女の子なんて、見たことがないわけじゃないけど、久しぶりだ。

 意識がある状態を知らないから、どんな子かは全く分からない。

 もしかしたら、寧々ちゃんみたいかもしれないし、神谷みたいかも。

 寝てれば天使、とはよく言ったもの。

 見れば見る程、幼い。

 細い首で、細い手足だ。

 まるで人形みたいだ。

 こういうのが好きで、見てるのが堪らない性癖の人がいるというのも納得だ。

 段々おかしく、なりそう。

 大人の女は怖いけど、幼い少女なら。

 寧ろ、可愛いだけの少女なら、自分を傷つけもしないし、夢を見ててもいい・・・・・・なんて思ってしまいそう。

 総てがそうだとは言わないし、思わないけど。

 幼い少女を拉致や監禁したりする連中も、ただ静かに自分の世界で自分が幸せでありたいだけなのかも。

 外の世界なんか、関係ないしどうでもいい。

 周りがそれを、犯罪だとか何だとか言って、罰を与えても、全く理解が出来ない。

 本人には、それは悪いことではないから。

 ただ、傍に居る。

 自分の世界に、引き入れたから?

 だけど、外の世界は酷過ぎるから、出て行かない方がいい。

 少女をそんなところに居させたくない。

 そんなことより、自分と幸せであってほしい。

 自分と同じと思うのは間違っているかもしれないが、割りかし本気で信じている可能性がある。

 俺は、この束の間で構わないと思っている。

 名も知らない、何も知らない、この少女の眠りに。

 そういうわけか、俺は癒されてしまう。

 「可愛いなぁ・・・・・・」

 昔、何処かで拾ってきた「うさちゃん」に似ているからかもしれない。

 「うさちゃん」。

 涙が出た。

 チビの頃を、思い出した。

 幼かった。

 もっと世界は狭かった。

 外の世界なんて知らなかった。

 でも、そんなもの必要なかった。

 ずっと、そのままが良かった。

 良かったのに。

 「うさちゃん」がいなくなって、俺は外の世界に居ることが増えていって。

 違和感しかなくて、でも其処に場所を作らなくちゃいけなくて。

 作ることに疲れて、それは簡単に崩れて。

 何だったんだろう。

 何処にもない。

 ・・・・・・教えて。

 辛くて、苦しくて、悲しくて、寂しさしかない。

 これを後、どれくらい続けたらいいのだろう。

 少女を見る。

 どんな夢を見ているのだろう。

 美しくはないのかもしれない。

 優しくもないかもしれない。

 でも、俺のこの世界よりはましだ。

 こんなリアル。

 だったら、俺もこのまま眠ってしまおうか。

 二度と目覚めないようになってしまおうか。

 その方法を探すことを、手段を得ることを、俺は未だ諦めてはいないのだ。 



 引き籠りのコミュ障だが、俺は案外人と対面していなければ饒舌かもしれない。

 見ず知らずでも、気の合う他人となら話すことは出来るらしい。

 要するに、俺という存在を許容してくれる相手だ。

 匿名性の高いネットの中は、確かに無責任に他を不必要に貶める。

 何をしても罪の意識など生まれない。

 他人を落とすことで、リアルでの評価の低さの鬱憤を晴らす。

 俺スゲェェェェェェェェェェェェと思われたい。

 「イイネ」の数やら、映えを求めるのも、結局そういうことじゃないかと思う。

 俺の主な生息地は、動画サービス「キラキラ」だ。

 動画にコメントを付けて楽しむキラキラ動画や、生放送番組にリアルタイムでコメントを付けられるキラキラ生放送等がある。

 俺は、正直コメントは邪魔なので、非表示にしてるけど。

 気軽に誰でも、中学生でも、引き籠りでも投稿が出来るのがいい。

 前も行ったが、ゲーム実況とかはしてなくて、自作の曲をボーカルアンドロイドに歌わせたものを、動画投稿しているだけだ。

 次男三男の影響で、俺は小学校低学年の時から、楽器の演奏が出来る。

 楽器といっても、ギターとかベースとかそういう系。

 次男と三男は、若気の至りでそれぞれ友人たちと、音楽バンド的なものをやっていたから。

 人前で演奏することはなかったけれど、次男は俺の下手くそな演奏を聴きたがった。

 お世辞でも上手いと褒められれば、嫌な気はしなかった。

 俺は調子に乗って練習を繰り返したので、人並みに弾ける自信はある。

 自分の楽器は一本しか持ってないが、引き籠もる前から俺は音を奏でること、曲を作ることが好きだった。

 引き籠った後も、変わらない。

 ただ、自分が歌うことは出来なくなったので、代わりにボーカルアンドロイドに歌ってもらっている。

 歌うのも、きっと好きなままだと思う。

 だけど、声が出ない。

 言うまでもない、学校に行けなくなったのと同じ理由で。

 神谷と、神谷のいいなりになった連中は、俺の全てを貶した。

 二度と歌うなと、喉にゴミを詰め込まれた。

 歌えなくなった俺は、弱いんだろうか・・・・・・。

 俺の曲を、一番に褒めてくれたのがふーみん。だ。

 俺という存在が、どんなであろうとも、赦してくれたのもふーみん。だ。

 ふーみん。のお陰で、そこそこやれている。

 今、俺をフォローしてくれているのも、みんな、ふーみん。繋がりだ。

 Lightだって、ふーみん。がいなければ、動画内で俺を普通に友達と紹介してくれることはなかっただろう。

 そのLightが、今日も実写を投稿している。

 『摩天城』前から始まる動画なのだが、なんとその内部を探るとか言っている。

 無謀な奴だ。

 あそこは迷路みたいに入り組んでいるから、一度足を踏み入れたら二度と戻れないとも言われているのに。

 尤も、そう言われる所以は、別にあるのだが。

 危ないことが好きな奴だ。

 命知らずというか。

 先日の掃討作戦で、『摩天城』は酷い有様だ。

 皆、辛うじて生きているだけの状態で、着の身着のままただただ途方に暮れている。

 ただでさえ貧しく、どうにか生きている人たちだというのに。

 彼らをたくさん殺して、それで何だというのか。

 パルチザンがどうだとかいうけれど、そういう連中が立ち上がるような世の中にしたのは誰だ。

 一番悪いのは、政府の方じゃないのか。

 其処までして、権力にしがみ付きたいの?

 馬鹿なの?

 なんて、怒りは普通に沸いてくる。

 Lightの動画を見ていたら、本人からWAVEが届いた。

 写真が添付されている。

 「・・・・・・?」

 崩れかけた教会の写真だった。

 白い花がその周りを囲うように咲いていて、美しい。

 其処がスラム街の奥だなんて、言われなきゃ分からないような。

 どうして俺に、これを送ってきたのかは、分からない。

 何も言ってこないからだ。

 ただ、写真が一枚。

 何だというのだろう?

 一応聞いてみたが、

 「俺の始まりの場所。久々」

 というだけで、やっぱり訳が分からない。

 ふーみん。にも送ったらしく、懐かしいねと言っていたとのことだった。

 懐かしいという感想とは。

 首を捻る。

 不意に外で鐘が鳴った。

 午後五時を知らせる為のものだ。

 子供に帰宅を促す、アレ。

 俺は、ずっと家ですけどね。

 皮肉を言ってみても、楽しくない。

 だが、帰宅時間を知らせる以外にも、あの鐘には役目があったようだ。

 本日限定で。

 ごそごそと、何かが動く音がした。

 ベッドの上の布団だ。

 生き物ではない布団が、動くことは有り得ない。

 其処に寝ていた人だ。

 「・・・・・・!」

 ばさっと、起き上がった。

 いきなりだった。

 ホラーゲームの驚かし要素的な。

 それ系のゲームは、苦手じゃない。

 でも、ゲームじゃないから、俺は危うく声を上げそうになった。

 失念していた。

 そうだ、この部屋には俺以外に人間がいたのだった。

 空から降ってきた少女。

 あの少女が、俺のベッドで体を起こしている。

 まだ完全に意識を取り戻していないのか、ぼんやりした顔をしている。

 俺は、それを少し離れたところから見ている。

 まるで、こっちの方が此処に慣れてない人のようだ。

 小学生が相手でも、女子ならいちいち緊張。

 次に、相手がどのような行動に出るか。

 怯えなくてもいいものを、ガクブルだ。

 「・・・・・・??」

 漸くこの場所が全くの初めてで、しかも此処に居る理由に思い至らないと気付き、首を傾げる。

 此処が何処であるのかと何故此処にいるのかを知ろうとして、少女は辺りを見回した。

 「・・・・・・!」

 「!?」

 少女の視線は、部屋の隅に固まっている俺に辿り着いた。

 耳と尻尾を立てて、息を詰めた状態の俺は、もう既に逃げ場を探している。

 どういうわけか、自分の部屋なのに。

 本当に逃げたくなるのは、少女の方だろう。

 知らない場所で、知らない野郎と同じ空間。

 こんな恐怖って、ないだろう。

 「・・・・・・」

 少女は、逃げようとはしない。

 悲鳴も上げないし、恐怖に顔を歪める様子もない。

 ただただ、大きな目を丸くして、俺を見つめている。

 布団から体を出して、ベッドから立ち上がり、一歩、俺に近付いた。

 「!!」

 まさか、距離を詰められるとは思っていなかったので、俺の方が壁に寄る。

 結構もう、部屋の隅なので、すぐに背中がぶち当たった。

 怯えて、シャーシャー言ってるのは、俺だけ。

 何故か、少女は怖がりもしない。

 こんなの、変でしかない。

 てか、何で俺が怖がってるの。

 怖いことなんて、何もないでしょ。

 ただの女の子相手に。

 幾らコミュ障だからって。

 「・・・・・・え・・・・・・っと」

 何か無言でいるのはいけない気がして、言うことを探す。

 難易度が高い。

 「こ・・・・・・こん・・・・・・ばんは・・・・・・?」

 とりあえず、挨拶だ。

 初対面同士なんだし。

 これだけなのに、メッチャ勇気が要った。

 「・・・・・・」

 なのに、少女は何も言ってくれない。

 無視ですか?

 心が早速、折れそう。

 こんなゴミ屑とは、口をきいて下さらないのか。

 聞こえてはいるみたいで、反応らしきものもあるのに。

 金色の長い睫毛の生えた瞼を、ぱちぱちと動かした。

 少女は、全てにおいて色素が薄い。

 髪や眉毛や睫毛は金色だし、肌の色も雪みたいに白いし。

 大きな丸い目は、なんと蒼(?)だし。

 これは全然、大和民族らしくないなと気づく。

 平たい顔族とは、到底呼べそうにない。

 フツーに外国人だった? 

 「・・・・・・って、やっぱり日本語は通じないのか」

 こんばんはが、日本の挨拶だと知らないなら仕方がない。

 「Good eveningでいいのかな・・・・・・」

 英語圏の人かも分からないけど。

 日本人からすると、欧羅巴系の人って、何国人かの区別が出来ない。

 「・・・・・・」

 英語で言ってみたものの、少女は何も返事をしてくれない。

 怖がっている様子ではないから、単に俺が嫌われてるだけ?

 てか会った瞬間に嫌われてるって。

 やっぱり、この伸び放題の髪のせい?

 一応、毎日風呂には入っているんだけど、清潔感はないよね。

 たとえ子供でも、嫌われるのはそれなりに堪えるっていうか。

 悲しい気持ちになった。

 「話しかけて、スミマセン・・・・・・」

 俺は、彼女に背を向けて、壁に向かって座った。

 いつも以上に、死にたくなった。

 「・・・・・・」

 少女が動く気配がある。

 つい、振り向いて見てしまう。

 こんなゴミに見つめられて、いい気持ちじゃないだろうけど。

 もう殆ど使われていない机の上に、置きっぱなしの筆記用具を手に取る少女。

 B5のノートに、シャープペンシルを使って、さらさらと何かを書いている。

 俺の距離では、微妙に見えない大きさの字だ。

 見せて示してくれるけど、読めない。

 英語ではないようだ。

 読む為に近付いた。

 普通に日本語だ。

 「『こんばんは』・・・・・・」

 俺への挨拶だ。

 「『日本語わかる』

 「そ、そうなんだ・・・・・・」

 日本語は通じるようだ。

 なのに、喋ってくれないのは。

 「・・・・・・『声が出ない』」

 声が出ない?

 「え・・・・・・?」

 少女が手で、自分の喉を押さえている。

 喉をどうにかしてしまったらしい。

 或いは、精神的な何かが原因で。

 「『貴方と喋れない。ごめんなさい』。・・・・・・良いって、そんなの」

 そりゃ、嫌われたと思って傷ついたけど。

 俺が嫌なわけではないんだ。

 なんか、凄く・・・・・・安心した。

 俺と話すのに、少女はB5のノートに文字を書く。

 俺がそれを読み、言葉を返す。

 そうやって話をした。

 「え、・・・・・・っと。あなたは、誰なんですかね?」

 「・・・・・・」

 少女は、自分の名前らしきを書いている。

 俺はすぐに、自分が名乗っていなかったと気付いたので、

 「俺は・・・・・・、どうだっていいでしょうけど・・・・・・立花絃護です」

 本当に、まさに名乗るほどの者ではない。

 名乗るほどの者ではなさ過ぎるくらいに。

 台詞が、ただただカッコ悪い。

 「・・・・・・『ぼくは、』えっと、なんて読むのかな・・・・・・『ここ』?」

 そのまま読んでも、少女の名前になりそうになかった。

 昔からの常識的に読んではいけない系の名前か。

 流行っぽい名前に、読んでみた。

 「・・・・・・」

 訂正されなかったので、多分合っている。

 「こ・・・・・・こんばんは、ここ・・・・・・ちゃん」

 自分で自分が恥ずかしくなり、照れた。

 俺が「ここちゃん」とか。

 穴掘りしたい。

 『こんばんは。絃護さん』

 「絃護さんは、ちょっと・・・・・・やめて」

 『どうして?』

 ここちゃんが、不思議そうに首を傾げる。

 確かに、俺はそういう名前だけど。

 そんな風に呼ばれた経験がないから。

 「俺のことは、絃護って呼んでいいから」

 『いちご。可愛い名前』

 「言わないで。・・・・・・結構気にしてる」

 ひらがな表記は、まず女と間違えられる。

 で、あからさまにがっかりされる。

 『じゃあ、いっくんだ』

 「え?」

 いっくん?

 『いっくんなら、恥ずかしくないよね』

 「ドウデショウ・・・・・・?」

 それはそれで。

 でも、

 『いっくん』

 と、笑顔で呼ばれたら。

 「なぁにぃ?」

 って、返事するしかなくない?

 でも、俺って「いっくん」って柄じゃなくない?

 それをちょっと言葉に出したら、

 『そうかな。だって、いっくん可愛いから』

 「可愛いぃぃぃぃ!!??」

 大きな声が出てしまった。

 だって、可愛いって。

 俺を!

 ろくに顔も見えないでしょうに。

 俺、今、髪とか伸び放題。

 『様子が可愛いの』

 明らかに自分より年下の女の子に言われるとか。

 ショック受けるべき?

 けど、・・・・・・何か嫌な気がしない。

 きっと、俺のことをこれっぽっちも、馬鹿にしてないからだね。

 本気で、そう思ってるんだ。

 ・・・・・・俺に、好意的でいてくれるの?

 何か、優しいな。

 『此処は、いっくんのお家?』

 「そう」

 正確には、俺が兄弟で住んでいる家で、俺が引き籠ってる部屋。

 『いっくんは、誰?』

 「えっと・・・・・・立花絃護ですけど」

 さっきも名乗った。

 『立花絃護は、どういう人?』

 もっと細かく自己紹介がいるってことか。

 とは言っても。

 特筆することとかないんだよね。

 勇者でも、正義の味方でも、何でもない。

 ちょっと考えて、言ってみた。

 「・・・・・・十三歳の男子です」

 見れば分かるってね。

 事情があって、この部屋に引き籠ってますけど。

 心が弱くて、学校に行けなくなっただけ。

 戦うことが出来なくなっただけ。

 諦めただけ。

 ゴミだよ、ゴミ。

 生きてるだけ無駄な、燃えないゴミ。

 何の役にも立てない、ただ息をしているだけ。

 何て無駄な命。

 しつこく生きてて、すみません。

 まぁ、それくらい。

 『きょうだいがいるの?』

 どういうわけか、ここちゃんの目が輝いている。

 其処、食いつく?

 「うん・・・・・・いるけど」

 男ばっかだけど。

 揃って図体がでかいから、まぁウザいよね。

 しかも、むさいよね。

 『どんなきょうだい?』

 「それは・・・・・・」

 見るのが一番、分かり易いけど。

 それは、絶対無理。

 「兄弟って感じ」

 分からない説明をしてしまった。

 ここちゃんは暫く考えて、そっか、というように頷いた。

 まさか分かったのだろうか。

 『ぼくには、いなかったから。どんななのかなって思ったの』

 「ふーん」

 俺は、兄弟がいるのが当たり前だから。

 一人っ子がどんなかが、逆に分からない。

 でも、今川焼を均等に分割とかしなくて良くて、一個を一人でまるまる食べられるんだとしたら、いいなぁ。

 食べ物のことで争うのは、毎度大変だから。

 三十六時間も睨み合うとか、馬鹿でしょ。

 『訊いてもいい?』

 「どうぞ」

 俺に答えられることとかなら。

 風が何処から吹いてくるのとか、どうして雨が降るのとか。

 子供は何処からやって来るのかとか。

 そういうのは訊かないでね。

 特に、子供。

 『お腹が空いたら、どうしたらいいの?』

 と、ここちゃんが尋ねるのと同時に、

 「今の・・・・・・お腹の虫?」

 見た目にそぐわず、結構な音で鳴いている。

 生きているから、お腹も空く。

 当たり前のことだった。

 「・・・・・・何か、食べますか?」

 この部屋の中には、大したもの無いと思うけど。

 一応探してみるけど、ドクペくらい。

 しかも、飲み物だし。

 『・・・・・・』

 ここちゃんの虫は、更に切ない声で鳴く。

 意識を失う前から、ずっとお腹が空いていたのかも。

 「冷蔵庫」

 台所の冷蔵庫になら、何かあるかも。

 何でもいい。

 ドクペよりは、いいだろう。

 ただ、一つ問題がある。

 台所に行くには、当たり前だけど部屋から出なきゃ。

 いつもなら、この時間にはもう、普通に兄弟の誰かが家に居る。

 この一年、誰とも顔を合わさないようにしてきた。

 会いたくない。

 いつも、外に出るのは、皆が寝た後だ。

 これからもずっと、そのつもりだった。

 だけど、ここちゃんのお腹は限界だ。

 夜中になるまで我慢して、なんて言えない。

 ただ幸い、今日は俺以外、寧々ちゃんの結婚式に行っている。

 流石に、まだ帰ってこないだろう。

 寧々ちゃんのことだ、二次会への参加も強制だ。

 美しい幼馴染の命令を、拒める筈がない。

 「・・・・・・」

 覚悟を決めた。

 台所へ行こう。

 ここちゃんを連れ行く。 

 何が好きか、何なら食べられるか。

 俺には解らなかったから。

 扉を細く開け、廊下に誰もいないことを確認するとか。

 階段を降りきるまで、安全かどうかとか。

 目を凝らして、耳を澄ませて。




 誰かがいるわけがない。

 やっぱり、まだ帰ってきてない。

 気配もない。

 台所は、朝のうちに片付けられていた。

 冷蔵庫を開ける。

 今朝炊いて余った白飯と卵とカニ蒲鉾がある。

 「・・・・・・炒飯とか、食べられますかね?」

 『ちゃーはん?』

 「御飯を炒めて、味付けした的な」

 『フライド・ライスだね』

 「多分」

 中華料理屋で出してるみたいな、大層なものじゃない。

 本当に、ただ炒めただけの。

 『美味しい』

 「そ・・・・・・ソウデスカ」

 お世辞でも、そう言ってくれて嬉しい。

 『初めて食べた味だけど、美味しい』

 「俺なんかが作ったものを、喜んでくれてアリガトウゴザイマス」

 ゴミ臭くて食べられないとか言われたら、どうしようかと思った。

 ・・・・・・でも、此処だけの話、料理は苦手じゃない。

 こうなって、ずっと家に居るようになって、独りの時に何かを作るのが、好きだったりする。

 基本、皆と活動時間がずれているから、食事は自分で用意してる。

 最初の頃は、次男が三食作ってくれてたけど、俺が食べることが出来なくて、食べられる時に食べられるものを勝手に食べるようになった。

 それを見越して、さっきみたくおにぎりが用意されてることもある。

 栄養バランスの良い、とは言えないけど、一応普通に人間の食べ物。

 今までは、ずっと自分で作って自分で食べて、それだけだった。

 それを、今は、俺じゃない他の人が食べている。

 食べてくれている。

 美味しいって。

 これは、・・・・・・嬉しい。

 ここちゃんは、笑顔が満開だ。

 つい、見つめてしまう。

 知らなかったんだけど。

 御飯を美味しそうに食べる女の子って、

 「・・・・・・可愛いなぁー」

 しみじみ、思う。

 ちゃんと味わうことが出来るって、素晴らしいな。

 『・・・・・・?』

 目が合ってしまった。

 俺が、あまりにも永く、見つめてたから。

 てか、普通の声量で、可愛いなぁーとか言っちゃったんですけど。

 ・・・・・・気持ち悪いとか、思われてないかな。

 こんなゴミに好意的な気持ちを、向けられてさ。

 『・・・・・・あの・・・・・・た、食べる?』

 気まずさは、ここちゃんも感じたようだ。

 てか俺が気まずくさせた。

 「ごめん。欲しくて見てたんじゃなくて」

 『じゃ、どうして?』

 「・・・・・・」

 まさか、きみが可愛くて、なんて言えないでしょ。

 歯が浮くじゃんか。

 「他人に料理を振る舞った経験がなくて。味が、分からなくて」

 『美味しいよ?』

 「うん。だから・・・・・・良かったなぁって思ってました」

 まぁ、嘘じゃないよ。

 『そうなんだ』

 もしかしたら、まだ納得してないかもしれないけど。

 俺が答えるとは思ってなくて、一瞬考えてから、炒飯を掬ったスプーンを口に運んだ。

 単にお腹が空きすぎてただけかも。

 食べるのに集中する彼女を、十分くらい見ていた。

 よく食べてるのに、なかなか食べ終わらない。

 食べるのは、早くないようだ。

 物凄い空腹状態でこうだから、普段はもっとゆっくりなのかな。

 普通の摂食風景。

 「・・・・・・良かった」

 俺は、思わず呟いてしまった。

 『?』

 ここちゃんが、首を傾げる。

 「いや、・・・・・・何か」

 こんなこと、言っていいのかな。

 俺が、言ってもいいのかな。

 深く考えると、二度と言えなくなる。

 言わなくていいことかもしれない。

 だけど、俺はこの言葉を呑み込みたくないと思った。

 黙り続けていたら、今までと変わらない。

 せめて、此処では口に出して言ってみようか。

 ちゃんと聞いてくれる、人がいるなら。

 不思議。

 彼女には、想いを話せそう。

 「ここちゃん・・・・・・やっぱり、ちゃんと・・・・・・人間みたいだ」

 『??』

 変なことを言ってる自覚はある。

 彼女を見て、犬とか猫とかと間違える人はいないだろう。

 仏蘭西人形みたいな外見だけど、それは比喩で、本気で人形と思うわけじゃない。

 「あの・・・・・・天使か何かと、思ったんですよ」

 天使か何か。

 って、要するに、何かは無くて。

 天使だと思った。

 『どうして?』

 ここちゃんの、スプーンを持つ手が止まる。

 食事の邪魔をして、悪いと思うけど。

 「だって、・・・・・・」

 あまりに綺麗・・・・・・過ぎて。

 こんな綺麗な人が、この世にいるなんて思うわけがない。

 「・・・・・・」

 どういう表情で、自分がいるのかも分からない。

 胸が痛い。

 優しく、柔らかい彼女の瞳の中に、俺が映る度。

 こんな風に、俺が人の顔を見て、目を合わせて話をするのは、引き籠って初めてのことなんだ。

 全然、嫌じゃない。

 何かが、温かくなった何かに、空っぽだったところが満たされる。

 濁って、汚れたものが、綺麗になっていくのか分かる。

 「・・・・・・空から、降って来たから」

 降って来たというか、・・・・・・降りてきた?

 緩やかに、眩い光に包まれて。

 俺は、それを本当に、心から、綺麗だと思った。

 天使は、きっとこんな風に地上に降りてくるんだろう。

 『・・・・・・』

 ここちゃんが黙る。

 少し考えて、凄い真顔で、

 『空から降ってくると、天使なの?』

 と言った。

 「いや、そういうわけでは・・・・・・ないんですけど」

 どんなに、それが綺麗だったか。

 誰だって、あれを見ればそう思う筈なのに。

 『ぼく、・・・・・・空から降って来たの?』

 「うん」

 それが単に空中からなのか、成層圏とかからなのかは分からない。

 大気圏を突破して来たとは思えないけど。

 「・・・・・・覚えてないの?」

 ここちゃんは、しきりに首を捻っている。

 つまり、彼女が何故あんな風に空から降りて来ることが出来たのかは、彼女自身にも分からないのだ。

 「それまで何処に、いたのか訊いてもいいですかね?」

 うん、と頷く。

 『ぼくが生まれたのは・・・・・・』

 「そんな前からじゃなくていいよ」

 個人情報が欲しいわけじゃない。

 「空から降って来る前だけでいいですから」

 空の上にいた、としか答えようがないかもしれないけど。

 『飛空艇に乗せられてたの』

 「ひくうてい」

 それは何だ、と考える。

 馴染みがない単語だ。

 というより、身近じゃない。

 知らないわけじゃないけれど・・・・・・。

 「大日本皇国軍とかしか持ってないアレですかね」

 『ぼくも知らないけど、多分』

 皇国軍の飛空艇に乗せられてたとは。

 当たり前だけど、一般人は乗れない。

 二年間の兵役で、空軍に配属になれば乗る機会もあるかもだけど。

 兵役は基本、健康な成人男子に課せられるものだ。

 しかも、抽選。

 俺の兄弟は、長男も次男も三男も四男も、皆免れた。

 ここちゃんみたく幼い子が、兵役の筈がない。

 あとは、将校クラスの軍人の子女とか、軍人と親交のある華族だけど。

 このボロボロの貫頭衣を着て、華族ではないだろう。

 可能性として、とても悲しいことに思い至ってしまったけど、彼女がそうかどうかなんて、俺には確かめられない。

 こんなに小さな女の子なのに、可哀想すぎる。

 「俺の知識に間違いがなければ、飛空艇って、そこそこの高さを飛んでますよね?」

 少なくとも、帝都スカイツリーにぶつかりそうになるような高さではない。

 「フツー其処から、落ちますかね」

 てか、どうやったら落ちるの?

 当然、甲板なんて物はないだろう。

 窓は・・・・・・開くかもしれないが。

 開けちゃいけない窓を、間違って開けたとかいうのじゃ、お間抜けすぎる。

 『飛空艇が襲われたの』

 「飛空艇が?誰に??」

 皇国軍の飛空艇を襲うなんて愚か者が、この世にいるとは思わなかった。

 テロリスト?

 『摩天城』とか『星姫』とか、そういうの?

 スラム一掃の報復?

 『知らない。変なゴーグルとマスクの集団』

 「ふーん」

 それじゃ、解らない。

 てか、ゴーグルとマスクって。

 某星の戦争を思い出すんですけど。

 なんてインパクトだ。

 『ぼくは、逃げようとして』

 「まぁ、そうなるよね。怖いもの」

 そんな変なのが、いきなり現れたら。

 「何されるのか分からないもの」

 どんな理由があるにせよ、ならず者に違いは無い。

 だって普通の人は、飛空艇を襲わないでしょ。

 『そうじゃないの』

 「ん?」

 (。´・ω・)ん?

 『飛空艇が、あの人たちが、襲われてる間に、逃げようと思ったの』

 「・・・・・・誰から?」

 ゴーグルとマスクの怪しい集団からじゃなく?

 『ぼくを捕まえてた人たちから』

 「ここちゃんを捕まえてた人たち」

 というのは、ゴーグルとマスクの連中ではない。

 そいつらは、飛空艇を襲撃した奴らだ。

 その時点まで、ここちゃんとの接点はなかった。

 『ぼくは、飛空艇に囚われてたの』

 飛空艇は、誰の持ち物だ?

 「大日本皇国軍・・・・・・」

 皇国軍に捕まってた?

 「えっ・・・・・・どうして?」

 小さな女の子が、軍に何をするでもないだろう。

 たとえどんな犯罪に手を染めていようと、それは警察の管轄だろう。

 『分からない』

 「分からない」

 本人の身に覚えがないって。

 「じゃ、ただ生きてただけで、捕まったの?」

 『そう』

 ここちゃんが何処で暮らしていたかは、知らないけど。

 「それって、なくない?」

 確認なんて必要ない。

 有り得ないことだ。

 『ある日突然、あの人たちが来たの』

 ある日突然、来ていい人物ではない。

 軍人だ。

 『いきなりすぎて、よく分からなくて』

 少女が軍人と対面させられた時、どうしたらいいのだろう。

 誰も、正しい対処法を知らない。

 『困ってるうちに、捕まって』

 「何の説明もなく?」

 『うん』

 行進の妨げになったとかでもなく。

 理由はあったのだろうが、それはあいつらしか知りえない。

 『ずっと、鎖に繋がれてたの。ちょっと、痛かった・・・・・・』

 「・・・・・・」

 ちょっと、どころではなさそうだ。

 見れば、跡が残っている。

 手首と足首に青黒く。

 それは手錠と足枷だろうか。

 「・・・・・・首にも」

 犬のように、其処に鎖をつけられて、引っ張り回されたんだろうか。

 何て痛々しい。

 『逃げても、良かったよね?』

 と、ここちゃんが尋ねる。

 「良かったと思うよ」

 と、俺は答える。

 寧ろ、逃げるべきだった。

 飛空艇襲撃の混乱に乗じて、彼女は逃亡を図ったのだ。

 問題は、其処が遥か遥か高い空の上だったってことなんだけど。

 『襲撃してきた人たち、全員じゃなくても殆どの人が、飛空艇の方にいると思ったの』

 乗り移って来てたって意味ね。

 『だから、こっそりぼくも乗り移っちゃおうかなって』

 「何に?何処に?・・・・・・襲撃してきた人の船に?」

 『そそ』

 「それを使って逃げようと思ったの?」

 『そそ』

 「え?だって・・・・・・」

 その船を操縦してる人が、残ってただろうに。

 『残ってるとしても、二人か三人くらいかなって思ったの』

 「どうして?」

 『飛空艇よりはずっと小さい船だったし。全員で五十人も乗ってないよねって』

 飛空艇の襲撃に遭いながら、短い時間でそのように判断して。

 『二人か三人なら、斃せるかなって』

 「斃せる?」

 えっ、・・・・・・誰を斃すの? 

 斃しちゃったら、誰がその船を操縦するの?

 『操縦してる人だけ残せば、地上までは降りられるかなって』

 「・・・・・・」

 なかなかぶっ飛んだ思考をお持ちかもしれない。

 空の上じゃなきゃ、あとは何処へも逃げられるって?

 確かに。

 『失敗しちゃったけど』

 「そのようですね」

 だから、空から降って来てしまったと。

 『でも、どうしてぼく・・・・・・助かったのかな』

 飛空艇から落ちてしまったのに。

 「着陸間近で、通常よりも低空を飛んでたから・・・・・・なのでは?」

 とは言っても、高層ビルよりは高い位置だっただろう。

 生存可能な高さではない。

 しかも、あんな風に光を纏って降りてくるなんて、リアルでは有り得ないことだ。

 あれが夢だったのではと問われれば、そうかもしれないと答えてしまいそうだ。

 中二病を発症した、俺が記憶を都合よく改変したとか。

 だからって、ここちゃんが無事だった理由になんかなってないけど。

 『そっか。そうかもね』

 ここちゃんが、にこっと笑う。

 絶対違うだろ、と突っ込むところなのに。

 そんなわけあるか、って。

 『ぼく、運が良かったんだね』

 「・・・・・・」

 冗談ではなく、本気で思っているようだった。

 まぁ、今更気にしてもね。

 生きてるんだから、いいんじゃないの。

 俺も、何かそう思うようになってしまった。

 奇跡的にマンションの十階から落ちて助かった赤ちゃんもお話とは、次元が違う高さだったんだろうけどね。



 『ぼく、まだ食べてていい?』

 俺の話がひと段落したと判断し、そう訊いてきた。

 「うん」

 俺も、炒飯食べようかな。

 どうせ、まだ兄弟は帰ってこない。

 その前に、俺のご飯を食べないと。

 俺は、自分の分を取りにキッチンへ向かった。

 「・・・・・・」

 ふと、窓の外を見た。

 猫がいた。

 あの猫だと思う。

 「にゃーん」

 一声鳴くと、ただそれだけでひらりと身を翻して去っていった。

 何の用だったんだ?

 首を傾げつつ、ダイニングテーブルに戻る。

 「・・・・・・」

 一瞬、何処に座るか迷う。

 隣、は変だし。

 向かい側か。

 まだ、残り半分くらいをもぐもぐ食べてる。

 ここちゃんの邪魔をしないように、静かに座る。

 それにしても、食べるのが遅いんだな。

 口も手も、小さいな。

 スプーンを上げさせするのも、ちょっとまだ頼りないんだな。

 頬に、ご飯粒が付いてるの、可愛いな。

 「あの、ご飯粒、ついてますよ」

 何処?という顔をしたので、

 「此処」

 剥がしてあげた。

 俺の指の中に残った一粒のご飯は、自分の口の中に。

 何の気はなかった。

 『・・・・・・いっくん』

 と、ここちゃんがもじもじする。

 少し頬が赤くて、何故か照れている。

 『どうして、そんなに見てくるの?』

 「あ」

 見つめすぎちゃった。

 自分がどんな表情になってたかなんか、気づいてなかったけど。

 困るくらい、見つめちゃった。

 もう、ご飯粒が付いてる、なんていうのを言い訳に出来ない。

 「ごめん」

 まさか、本当のことは言えないよ。

 可愛かったから、なんて。

 大体、俺にそういう感情があることさえ。

 だって、相手、女の子なのにね。

 「・・・・・・凄く申し訳ないと思うんですけど。ここちゃんのこともう少し、訊いてもいいですか?」

 俺が聞きたいと思ったのは、彼女が何者であるかということ。

 個人情報は要らないって言ったばっかなのにね。

 ごめんなさい、スミマセン、本当はきみのことを、とても知りたくなりました。

 だって、いちいち可愛いきみのことを、知らないままでいるとか無理でしょ。

 興味があるから、知りたいと思うでしょ。

 何も、解らない。

 本当にきみは、自分が何故、皇国軍に捕らえられたのかを知らないの?

 「ここちゃんは、捕まる前は何処で暮らしていたの」

 少し考えて、ここちゃんが答える。

 『・・・・・・新宿』

 「新宿?」

 此処から、そう遠くはない。

 ただ、俺はもうずっと永いこと行ってない。

 引き籠りだから、っていうのが一番の理由だけど。

 「最近、治安が良くないっていうのに」

 そんな街で、ここちゃんは一体何をしていたというのだろう。

 其処まで踏み込んでいいのか、そんな権限ないよって思うけど。

 やっぱり、俺も含めて、子供のいる場所じゃないから・・・・・・。

 『・・・・・・ぼくが、まだ小さい時に』

 まだ十分小さいだろう、というツッコミは無し。

 『とても酷いことがあったの』

 「酷いこと」

 それは、どういう意味だろう。

 『目の前で、人が亡くなったの』

 「それは、・・・・・・交通事故とかで?」

 毎日のように報道される、全国各地での痛ましい交通事故。

 俺も、まだ引き籠る前に、現場の一つを通りかかったことがある。

 その事故から一か月としない頃だった。

 無関係の俺でも、献花台とかを見ると涙が込み上げてきた。

 事故があったまさにその時、現場に居合わせたのだとしたら、相当なショックを受けただろう。

 心的外傷後ストレス障害になっても当然だ。

 『交通事故とかじゃない。殺されたの』

 「殺された」

 って。

 穏やかじゃないんですけど。

 殺人現場に遭遇したってことじゃないの。

 それって、危うくここちゃんも殺されそうになってたとかじゃないの。

 殺す側によって一方的に選ばれた人たちが、たくさん死傷させられた事件なら、幾つか心当たりがある。

 向こう側の勝手な都合だから、被害者側にはどうしようもない。

 世の中に不満を持った人が、街中に車で乗り付け、無差別に他人を斬りつけ刺し殺す。

 自分の命は果てしなく重く、他人の命が驚くほどに軽い。

 世の中の風潮と言ってしまえばそれまでなんだけど。

 『その事件を、誰も正しく理解してないの』

 ここちゃんは難しいことを言うなぁ、と思う。

 犯人の心理を知ろうというのだろうか。

 もしかしたら、本人ですら分かってないのかもしれないのに。

 人を殺したい衝動を持つ人と、そうではない人。

 それではない人に、衝動を話したところで一生分かってはもらえない。

 衝動の存在ですら。

 『・・・・・・あの人は、みんなに殺されたの』

 あの人が皆を殺した、ではなく。

 言い間違いじゃない。

 それが、ここちゃんの表情で分かった。

 ペンを持つ手が、スプーンを持つ手が、震えていた。

 そんな力ない筈なのに、今にもペンを真っ二つにしそうなくらい、強い力を加えていた。

 『それを見た時、ぼくは思ったの』

 あの人という人が、目の前で殺された時。

 『こんなの、間違ってる』

 「うん・・・・・・」

 ここちゃんがそう思ったなら、間違っていたんだろうな。

 皆が殺したのは、間違っている。

 『だから、ぼくは・・・・・・』

 しかし幾ら訊いても、ここちゃんが新宿に居た理由と繋がらなかった。

 その酷いことというのは、新宿で起きたのだろうか。

 例えそうだとしても、どうしてここちゃんが・・・・・・?

 ここちゃんのことを知ろうと思ったのに、余計分からなくなった気がする。

 ただ、これだけは言える。

 この子は、見たままの、ただ可愛いだけのお人形ではない。

 ちゃんとした意思があって、感情があって、生きている。

 徐々に殺されていくようにしか生きられない人たちとは違う。

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