第8話 包丁

 少年は、彼女のことが好きだった。

 好きになった。

 少年は、恐怖に駆られた。

 裏切られることがとても怖くなった。

 少年は台所に立っている。目の前には少し濡れた包丁。

 少年は包丁を手に取った。

 手が震える。

 少年は包丁を落としてしまった。

 フローリングシートを小さく抉る。

 頭の中は彼女でいっぱいだった。

 少年はへたりと座り込む。

 裏切られたくない。裏切られたくない。裏切られたくない。裏切られたくない。

 少年の呼吸はどんどん細かくなっていく。

 少年は深呼吸をした。

 落ち着いてくる。冷静になる。

 少年は、包丁を手に取った。

 少年は立ち上がり、包丁をアルミホイルで包んだ。それを鞄にしまう。

 少年の頭の中には、彼女の笑顔しかなかった。他のことは考えられない。

 これが正しいことだと思った。

 間違っていない。これは正しいことだ。

 幸せなまま死ねるなら、それは幸福な人生だ。少年は既に狂っていた。

 少年は、家を出た。

 向かうは彼女の家。

 部屋に入れてもらい、隙を見て腹部を刺す。一度しかしていないイメージトレーニングは、完璧だった。

 彼女の家に向かう電車の中。

 少年は彼女に連絡をした。

「今からそっちに行く」

 要件は伝えなかった。

 電車が揺れる。

 気持ちは揺れない。

 少年の頭の中は常に冷えていた。

 駅から徒歩二十分程度のところに、彼女の家がある。少し時間がかかり、引き返すなら今しかないと告げてくる。

 少年はそんな言葉に耳を貸さない。

 彼女の家に着いた。

 インターホンを押すと、彼女が出てきた。

 部屋着だろうか。Tシャツとチノパンを着ている。少年はそれを見ると心が締め付けられた。

 鞄の中には、目の前の彼女を殺す道具が入っている。

 それを思い出した少年の呼吸は、再び荒くなった。

 彼女にバレないように呼吸を整える。

 彼女は気づかない。

 少年を招き入れる。

 彼女を先頭に二階の部屋へ向かう。

 部屋はとても綺麗だった。

「お茶をもってくる」

 彼女は扉の方へ向き直る。

 少年に背中を向けている。

 彼女のら背中に体当たりした。

 包丁は鞄の中にあった。

 少年の腕は、彼女の肩を周り、前へ。

「ごめん」

 彼女の手が、少年の腕を包む。

「どうしたの」

 彼女の両手が、少年の腕を包む。

「君を殺そうとした」

 彼女の腕はぶらりと垂れた。

「信じられなかった」

 彼女は、少年の腕を解く。

「そう」

 彼女は少年の方を見ることなく、部屋を出る。

 部屋に取り残された少年は、その空間の甘ったるい空気が嫌いになりそうだった。

 しばらくして彼女が部屋に戻ってきた。

 お茶の入ったコップを持ってきている。

 少年は、小さなテーブルの前に座っている。

 彼女がコップを少年の前に置く。

 少年は手に取らなかった。

「ひとつだけ答えてほしい」

 少年は答えなかった。

「私が信じられなかったの?」

 少年は首を横に振った。下を向く。潤んだ目を見られたくなかった。

「人を、人間を、信じられなかった」

 少年は掠れた声で助けを求める。

 頭になにかが触れた。彼女の手だ。

 いつの間にか声色に出ていたらしい。

「どんまい」

 一言呟き、頭を撫でる。

 毛の流れにそって、ゆっくりと。

 少年は下を向き、ボトボトと涙を流し始める。申し訳なさと、恥ずかしさと、惨めさと、嬉しさと。何もかもを流した。

 その夜、少年は彼女の家で朝を迎えた。

 その時に見た夢は幸せだったような気がする。

 少年は、彼女を裏切った。

 彼女を信じなかった。信じられなかった。

 でもそれは仕方がないことだった。

 少年は今まで、傷つきすぎた。

 この傷を気にしないでいい人間もいる。だが、少年は、その人間ではなかった。

 少年は、新しく学習した。

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