第33話 正反対の二人

 その女は俺に、まるで遊びに来た友人に掛けるような声を向けた。


 自分の目的も一瞬見失ってしまうような、不思議な感覚に囚われて、俺は間抜けな言葉を返した。


「あ、ああ。お前が扉を開けてたから入れたのか。」


 女は少しだけムッとして、柔らかに微笑んだ。


「私は『花蓮』よ。お前じゃないわ。」


「そ、そうか。俺は『眞』だ。」


 こんな状況で自己紹介をする自分が馬鹿みたいで、俺も少しだけ微笑んだ。


「じゃあシン。貴方は死にたいのね?」


「ああ、そうだな。花蓮も今から死ぬのか?」


 お互いに微笑み合いながら、死にたいのかと言葉を交わし、その余りにも場違いで穏やかな雰囲気が滑稽で、可笑しくなった。


「フフッ、そうね。私も今から死ぬつもりだったけれど、シン、良かったら少しお話しない?」


「くっ…あはは。ああ、俺も花蓮と話してみたいと思ってた所だ。」


 俺は花蓮に近づき、柵越しに手を差し出した。


 花蓮はその手を取り、俺を自分に引きつけ、抱き締めてきた。


「さぁシン、私をそっちに戻してくれる?」


 俺は花蓮を抱き締め、本来母から与えられる筈だった女性の温もりを感じながら、柵の此方に引っ張り戻した。


 母親から最後に抱き締められたのは、一体何時だったろうか。


「さて花蓮、どうする?その辺に座って話すか?」


 柵の内側に戻って俺からそっと離れ、スカートをはたきながら花蓮は、俺の質問に少し考え、ニッコリと笑って言った。


「私の部屋に案内するわ。すぐ近くだから着いてきなさい?コーヒーくらいは出すわよ?」


 予想外の提案だったが、今の俺には遠慮なんかなんの意味もなさない。人に遠慮するのは、その先に続く人生があるからだ。


 それにしてもこの女、やけに上から目線だ。

 命令されるのは好きじゃないが、そのせいか、遠慮する気も無くなる。


「じゃあ、呼ばれようかな。」


 だから俺は遠慮なく花蓮の提案を受け入れた。


 すぐ近くだと言っているので恐らくはこのマンションの住民なのであろうと思った。


 果たして、花蓮の部屋はこのマンションの一室だった。いや、一室と言って良いものか…


 屋上から階段を降り、エレベーターの前まで行くと、その先に扉があった。

 エレベーターから降りたら左に5部屋、右には扉がある。そんな造りになっていたようだ。


 花蓮はその扉を開け、先に進んで行く。


 なるほど、左の3部屋分の敷地をこいつの家族は占有しているようだ。


 恐ろしい程の金持ちなんだな。そんなヤツがなんで死にたがるのか。まぁ、人にはそれぞれ事情があるのだろう。


「さぁ、入って。適当に座って待ってて。コーヒーを入れてくるわ。」


 半端じゃなく広いリビングに通され、経験した事の無いような座り心地のソファに座った。


 あまり生活感の無い部屋を見回し、自分とは住む世界が違うと言うのを、身をもって感じていた処に、花蓮がコーヒーカップを二つ手に持ってやってきた。


「どう?凄いでしょ?」


 自慢するような言い方だが、その言葉とは裏腹に、花蓮の表情は暗かった。


「この部屋にはね、私しか住んでないの。生活感も無い部屋でしょ?」


 こんな広い部屋に一人で?両親はどうしたのだろうか。


 俺のように、いないのか?


「私は父親にこの部屋を与えられて、ある事をしないといけない。なんだと思う?」


 なんだ、親はいるんじゃないか。


「さぁな。金持ちの考えなんか俺には分からん。」


「そうね。私にも分からないわ。金持ちの親が何を考えてるのかなんてね。多分もっとお金が欲しいんだわ。」


 花蓮は何もかもに絶望したかのような微笑みを俺に一瞬向けて、天井を眺めた。


「私はこの部屋で、父親が決めた私の婚約者を誑し込まなければならないのよ。」


 よく聞く政略結婚のちょっと過激な感じだろうか。


 確かにこの容姿なら、そんな役割でも十分に役目を果たすのだろう。


 まるで、人形のような完璧な美しさ。

 特にその目は、まるで宝石の様な光を放っている。


 つまり、何の感情も秘めていない、作り物の美しさ。


 ただ、美しいだけの女を好きにしたい男には、ここは最高の場所なのかもしれない。


 俺は、嫌だな。

 俺は、人間がいい。


 あぁ、いや。

 美しいかは別として、俺だって似たような目をしているのだろう。


 花蓮も、俺のような死んだ目をした男なんて、興味は持てない筈だ。


「そうか、売春婦のような事をさせられるのが嫌で死のうとしたのか…」


 俺は無表情で答えた。死ぬ事を決めた者同士、何となくわかる。今更憐れみなど欲しくないだろうし、ただこの女の最後になる言葉を聞いてやろうと思った。


「ちょっと違うわね。人間になれない事が分かったの。私は父親にとって道具でしかないし、それでも私はそこでしか生きられないのよ。」


 俺には理解出来ない類の話だ。

 何故なら、俺とは全く正反対の理由で死のうとしているようだから。


「俺の話も少し聞いてみるか?」


「そうね。私の最後の言葉を聞いてくれたのだから、貴方の最後の言葉は私が聞いてあげるわ。」


 俺は死のうと思うに至った原因を語った。

 花蓮は俺の話を淡々と聞いてくれた。


「そう。私達は正反対の理由で同じ結論に至ったのね。」


「そうだな。俺はこの先が全く見えない事に絶望した。」


「私はこの先が型にはめられて見え透いている事に絶望したわ。」


「くっくっくっ…」


 俺は笑いを堪えきれなかった。


「フフフッ…」


 花蓮も思わず笑い出した。


「ねえシン!最後に何かやり残した事はない?もしあるんだったら、それをやりましょ?それが終わって貴方が嫌じゃなかったら、一緒に死んでくれる?貴方の事、気に入っちゃった。」


 俺はまたしても笑ってしまった。

 気に入ったから一緒に死ぬのか?


「ああ。いいよ?花蓮みたいな綺麗な女性と一緒に死ねるなら本望だな。」


「フフっ。最後にこんな素敵な出会いがあるなんて…さぁ、やり残しはないかしら?」


 いつしか俺はこいつと話している事で、心の中が洗われて、なんの憂いもなく死ぬ覚悟が出来ていた。


 空っぽになった心は相変わらず。

 だけど、その中に溜まっていた悪い感情が浄化され、思い残しなんか消えてしまったかのような気分だった。


「俺も最後に花蓮に会えて良かったよ。スッキリした気持ちで死ねる。やり残しか。特に無いが強いて言うなら…」


 花蓮は優しく微笑みながら俺の答えを待つ。


 少し考えた。

 そうだな…

 男として産まれてきたのだから…


「童貞を捨てたかった…かな?」


 花蓮は呆気に取られたかのように、目をまん丸にして俺を見ていた。


 俺は言ってしまった事を少し後悔して、恥ずかしくなって俯いた。


 そんな俺を見た花蓮は、堪え切れないとでも言うように、会ってから初めて大笑いを始めた。


「フフっ…あははは!シン、あなたって…フフっ。」


 そんなに笑わなくてもいいだろ。

 笑い過ぎて涙まで出てるじゃないか。


 少し腹が立ってきて、何か言ってやろうと口を開きかけた所で、花蓮が言った。



「フフっ…いいわシン。今からセックスをしましょう?」


 涙を拭いながらそう言う花蓮の瞳は、楽しそうな人の感情をちゃんと浮かべていて、出会って間もないけれど、一番美しく見えた。

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