第28話 気に食わない
電話口で酷く狼狽した声を上げる雫。
話も要領を得ない。
「落ち着いて?雫、今は安全なのか?」
『どうしよう!どうしよう!アキさんが!シンさんも早く!』
ダメだ、相当に混乱している。
何とか落ち着かそうと色々と考えていたら、雫から小嶋さんに電話が変わった。
『雫は龍二達に連絡してくれ。あ、山口さん、すみません。っく…今あの男が現れて、ナイフで刺されました。』
いきなりとんでもない事を話し出す小嶋さん。痛みからか、苦しそうな声だ。
「小嶋さん、刺されたって、大丈夫なんですか!雫は?雫も怪我をしてるんですか!?」
『雫も殴られましたけど、軽傷です。』
「そうですか…いや小嶋さん!救急車は?警察には連絡したんですか!?」
雫の事を聞いて、少しホッとしたが、小嶋さんは大怪我だ。
『救急に連絡したら、そのまま警察にも連絡を取ってくれるそうで、間もなく来ると思います。』
「そうですか…兎に角、救急車か警察が来る迄は警戒して下さい!俺もそっちに向かいます。」
『山口さん!こっちには来ちゃダメだ!あの男、多分今度はあなたを狙ってるみたいなんだ。』
マジかよ!
でもまぁそうなるよな。ウチの場所とか…知ってるんだろうなぁ〜。
絶対に調べてる筈だよ。
となると、どうするか。一緒に居るマヤも危ないな。
『ぐっち』から家まで20分程だが、今は丁度中間くらいだ。
雫の家から俺の家までは30分はかかる。
「わかりました。取り敢えずこっちも警察に連絡します。一度電話を切りますね。気を付けてください。」
『そっちも気を付けてください。あの男、言ってる事もめちゃくちゃで、まともじゃなかった。』
警察を呼ぶ為に一度電話を切った。
だが、すぐに通報はしない。
気に食わない。
俺にも許せない人間はいる。
愛情を踏み躙る奴、男も女も。それと、女を力で従わせようとする男。
俺を狙ってる?はっ!上等だよ!一発ぶん殴ってやらないと、気がすまん。
俺は別に喧嘩が強いって訳じゃないし、ナイフが怖くない訳でもないが、この前から散々雫にあんな顔をさせやがって、俺だって腹が立ってるんだよ。
刺されたら刺された時だ。死にたいなんて思ってないが、生きる目的もないんだ。
やれるもんならやってみろ。
「あー、マヤ。ここまで来てもらって悪いんだけどさ、『ぐっち』に戻ってくれるか?」
「何かあったの?って言うか、あったんだよね?警察とか聞こえたし。もぅ、チカのバカタレ…」
最後に何か小さく呟いた言葉は聞き取れなかったが、今はそんな事より、急がないとな。
「また今度話す!悪いな!」
ちょっと!とマヤが呼び止めようとしてるが、俺は奴を迎え撃つ為に自分の家まで全速力で走った。
煙草止めようかな…
走ったは良いが、すぐに息が上がる。
「ぜぇ〜、ぜぇ〜。くそっ!来るなら来てみろ。」
なんとか家の前まで辿り着いたが、格好がつかないな。誰にも見られてなくて良かった。
息を整えて待つこと暫し、暗がりの向こうから、走って来る男が見えた。
アイツだな。なんだあの顔は。
青い顔をして、目は血走り落ち窪んでいる。
鼻と口から血を出した後があるが、それを無造作に拭き取ったのだろう、鼻から下が赤い。
こいつも走って来たんだろう。息が上がってるぞ。バカが。
「おい!お、おまぇあぁぁ!ぶっ、ぶっころすぞぁー!」
「何言ってるかわかんねーよ。何がしたいんだお前。」
汚ねぇな…なんでここ迄堕ちたんだ?わけわかんねーよ。
たかが女に振られた位でとは言わねぇ。
そりゃ大事な人に振られたら、傷も付くし、死んでしまおうと思うことだってあるかもしれない。
だが、コイツのそれは、自業自得だ。
愛する資格も、愛される資格も、自分から投げ捨てて、踏みにじったんだ。
一人で苦しみ、反省も出来ないうえに、相手に八つ当たりするようなガキは、ぶっ飛ばしてやる!
目だけは爛々として不気味だが、流石に体力の限界なのか、フラフラになりながらも此方に走って来て、俺にナイフを振り降ろす。
いくら何でもそれは当たらないだろ。舐めてんのか。
難なく躱して奴の左頬を思い切り殴りつけた。
いてぇ!拳が、指が折れたか?
俺の拳を受けたクズは、ぶはぁ!と言いながら地面に倒れた。
「よし、今警察を読んでやるからな。もう大人しくしてろ。」
倒れたまま動かなくなっている男を見下ろして、携帯を取り出した。
くそっ、ちょっとスッキリはしたが、右手がいてぇ。
慣れない左手で携帯を操作していると、不意に声がかかった。
「シン?」
ああ?戻れって言っただろうが、マヤ。
倒れていた男が、その声を聞いて急に起き上がる。さっきまでフラフラだったのに、どこにそんな体力が残ってたんだ?クスリのせいか?
マヤに向かって走り出した。
俺も慌ててそれを追いかける。
「マヤ!逃げろ!」
「ええ?何これ?」
男に何とか追いついて、肩を掴む事に成功したが、今度は俺に向き直ってナイフを振り上げた。
「この!邪魔するなぁ!」
もうこいつ、自分の目的も忘れてるんじゃないか?口端から泡を飛ばしながら叫んでいる。
あ、これは不味いな。切られる。
覚悟を決めた瞬間、この場にそぐわない声が聞こえた。
「はいはい。そこまで。」
マヤがナイフを持っている男の腕を掴み、捻りあげた。
………は?
何それ?どういう事?
「ねぇシン。余り危ない事されると、困るんだけど?!」
「あぁ?!何言ってんだよ。」
「こういう輩はさ、アンタが思ってる程チョロくないんだよ?火事場の馬鹿力っていうのかな、急に考えられないような力で暴れたりって、この!」
男は腕をきめられ痛そうな顔をしていたが、激しく暴れだし、ゴキン!という音をさせ、マヤの腕から離れた。
腕、外れただろあれ…
痛くねぇのか?
「ちっ、ほらね?」
面倒臭そうな顔をして、マヤは俺と男の間に立つ。
「ほらねって…おいマヤ、危ないから下がってろ。んで、警察に連絡してくれ。」
「警察には連絡済み。いいから任せて。」
何なんだこいつ。
普段『ぐっち』でのダメダメなおっぱいしか見てないから、ギャップに驚いた。
ただのおっぱいじゃなかったのか?
伊達にデカくないって事か。あれって実はおっぱいじゃなくて筋肉なんじゃねえの?
「シン?何か変な事考えてない?」
エスパーかな?
「うんにゃ!見事なおっぱいだなぁって。」
「まあね!」
何の話してんだ俺は。あぁ、手が痛ぇ。
そんな存在を無視されたような会話が気に食わなかったのか、男は激昂した。
「なんなんだよ!お前らぁ!なんで思い通りにならないんだよ!いい加減にしろ!」
「いい加減にするのはあんたでしょ?」
おいおい、お前落ち着き過ぎだろ、マヤ。
勝ち目が薄いと感じたのか、真っ赤な目を更に充血させ、怒りに顔を歪ませた後、左手でナイフを拾い、此方に背を向けて走り出した。
「逃げたな。追いかけるか…」
男を追いかける為に走り出そうとしたその時、走って行く男の前に一台のバイクが止まった。
「あれ?大将?」
バイクから降りたのは、紛れもなく大将だった。
自分の逃げ道を塞がれた男は、怒り狂ってナイフを振り上げた。
「バカが、ナイフってのは突くもんなんだよ!」
足刀でナイフを持つ手を蹴り上げた。
男の腕が跳ね上がり、ナイフも飛んで行く。
驚愕の表情をしている男の前で脚を素早く戻し、コマのように回転しながら男の顎に後ろ回し蹴りを叩き込んだ。
男は糸の切れたあやつり人形のように、膝から崩れ落ちた。
「なっ!!大将つえぇー!」
「流石龍二さん、やるなぁ。」
「いや、お前もおかしくない?俺かっこわりぃ〜…」
「ふへへ、シンも格好良かったよ?バッチリ撮影しといたから!今度ヤラせて?」
「お前…ダメだ、突っ込む余裕が無い。」
そんな緊張感の無い会話をしていると、男の襟首を掴んで引き摺りながら大将がこちらに来た。
「シンちゃん、大丈夫だったかい?雫ちゃんに聞いて急いで来たけど、間に合って良かったよ。」
「あ、いや…なんか頭が追いついてない。」
「ははは、取り敢えず師匠も雫ちゃんも大丈夫だ。マヤちゃん、後は任せてもいいかい?」
「おっけー!龍二さん、今度一杯奢ってね?」
「ははっ、ボトルサービスするよ。シンちゃん、手が腫れてるな。すぐに病院に行こう。」
「あ、ああ。」
呆然としている俺を置いていって、二人で会話を終わらせ、俺に話しかけてくる。
言われてから思い出したかのように、手が痛み出した。
俺の意気込みは、空回りした感が否めないな。
まぁいい。取り敢えずこれで一段落かな?
遠くから聞こえていたパトカーのサイレンが近付いて来たようだ。
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