本当の気持ち
「戻ったんだよ。朝起きたら男に戻ってたの」
「でもなんで?」
「わかんないけど、モテる男になれた、ってことかな?」
千尋は蛇ノ塚さんのことも黒羽根さんのことも言わなかった。そんなこと軽々しく言ったらはたいているところだわ。
「だからって本当に戻るなんて」
まだわたしは言わなきゃいけないことがあるのに。あっという間に置いていかれてしまったような気分だった。
焦りが生まれる。男に戻った千尋にわたしが伝えてまたややこしいことになるかもしれない。でも何も言わないわけにもいかない。これは先にちゃんと告白した二人との約束でもあるんだから。
「あぁ、伊織ちゃん来てたのか」
はしゃいでいる千尋とは対照的に私の心と同じくずいぶんと暗い顔をしたおじさんが玄関から顔を出す。
「千尋が今度は元に戻ったと言い出してね。原因はまったく分からないんだ。もっと時間があれば、千尋も協力してくれないし」
「嫌に決まってるでしょ!」
「おじさんは相変わらずで安心しました」
「僕は全然安心できないよ」
千尋はわたしの前に立ったまま、頬を膨らませておじさんを睨む。前の千尋なら間違いなくわたしの背中に隠れていたのに。本当にすっかりと変わってしまった。どこに出しても恥ずかしくない立派な男の子になってしまった。
「お父さんずっとこの調子なんだよ。家じゃ話しにくいから他のところで話そう」
「中学のジャージ着てる人連れまわすのはねぇ」
「じゃあ伊織の部屋にいこうよ。なんだか落ち着くし」
玄関先で嘆いているおじさんをフォローする気もないみたいで、千尋はわたしの手を引いていく。力強さも戻ってきている。トレーニングの成果が出てるのだろう。
「いいわ。それなら着替えなくてもいいし」
近所くらいならジャージでも構わない。男に戻ってもどこか無防備な千尋を連れて、わたしは部屋へと戻った。
部屋は結構片付いている。この間黒羽根さんが来たからそのときに掃除したばかりだ。ちょっと人が来ないとサボっちゃうからね。
「あ、お菓子がたくさんある。珍しいね」
「あぁ、もらったのよ」
黒羽根さんが持ってきてくれたお菓子はまだまだ残っている。たくさん食べると太っちゃうのにずっと目につくところにあるから精神が鍛えられるわ。
「もらいものってことは仕事のやつ? 食べちゃダメかな?」
「レビュー依頼じゃないから別にいいわよ」
たまに新商品を食べてその感想をSNSに投稿してほしいという仕事の依頼が来る。フォロワーがたくさんいるわたしが投稿すれば有名になるっていう寸法だ。
「じゃあ、遠慮なくいただきまーす。なんか男に戻ったらお腹が空くんだよねぇ」
「気のせいでしょ」
千尋はわたしの部屋に何があるかよく知っている。勝手にコップを取り出してペットボトルの麦茶を注いだ。
「あ、これ結構おいしいかも」
千尋は楽しそうにお菓子を食べ漁っている。わたしの気持ちも知らないでまったくのん気なものね。嬉しそうな千尋の顔を見て、私はふと気付いた。
もしかして、今って最大のチャンスなんじゃ。
二人きりの密室、私にとって一番落ち着く場所。蛇ノ塚さんの言っていた告白に最高のシチュエーション。
もう先延ばしにはできない。このまま男の子に戻った千尋に男のわたしが告白するなんておかしい。まだ女の子だった千尋のイメージが残っている間に言ってしまわないと、きっと言えなくなってしまう。
「ねえ、千尋。なんで男に戻ったの? 心当たりがあるんじゃない?」
「え?」
ズルい質問だった。答えは知っている。でも聞かずにはいられない。千尋が二人から告白されたときどう思ったのか。そのとき頭の片隅にでもわたしの顔が浮かんだのか。気になって仕方がなかった。
「僕は」
千尋がお菓子を置いて口を開く。
「七緒と薫に告白されたんだ。僕が好きだって。でもモテる男になれたのかもわからないし。それで男に戻ったとも限らないし」
「わたしはね、千尋が女の子になってよかった、なんて思ってたの」
「え、どうして?」
千尋の声は純粋な疑問だった。嫌がっているような色は混じっていない。千尋の意思とは逆のことを願っていたのに、わたしを恨むような声じゃなかった。
「だってわたしは女の子にはなれないから。千尋が女の子のままだったら」
わたしは今、ひどいことを言っている。あんなに悩んでいた千尋の悩みが一つ解消されたはずなのに、それが残念だって言っている。それでも千尋はわたしの話をまっすぐ聞いていた。
「わたしは千尋とずっと一緒にいられるはずだから。淳一みたいに離れていかないはずだから」
千尋がモテる男になればきっといつか素敵な彼女を作ってしまう。そうすればわたしから離れていってしまう。それが、わたしは怖かったんだ。
「伊織、それって」
答えを先に言おうとした千尋の口を私が塞ぐ。さすがの千尋でも何度も続けば察しがつく。でもこれはわたしが言わなきゃいけないこと。
「わたしは千尋と一緒にいたい。友達じゃなくて、ずっと」
曖昧な言葉だったけど、言った瞬間に全身の力が抜けるみたいだった。テーブルに手をついて体が崩れ落ちないように支えた。
千尋は黙っていた。口はしっかりと閉じたまま。まだ開かない。
「ねぇ、千尋?」
沈黙に耐えきれなくなってわたしが口を開く。でも千尋は答えなかった。その代わりに体がぐらりと傾いてテーブルに倒れ込んだ。まるで睡眠薬でも飲まされたみたいだった。
「ちょっとその麦茶に何も入ってないわよ」
わたしは言い訳するように千尋に言うけど、全然反応がない。揺すってみる。体がぴくりと跳ねる。これ、起きてるわよね。
「起きないと、キス、するわよ」
耳元で囁いてみる。自分で言っておきながらわたしも倒れ込みたくなった。顔が真っ赤になるくらい恥ずかしい。千尋は笑いを堪えるように体を震わせている。
「もういいかげんにしなさいよ」
こっちは決死の覚悟で告白したんだからね。そりゃ卒倒するくらい驚くかもしれないけど、そろそろ何か言ってくれないとわたしの心が持たなくなるわ。
「ごめんごめん。伊織ちゃんがあまりにもカッコよかったから。やっと言ってくれたね」
起き上がって笑いながらわたしに謝る千尋はさっきまでの千尋じゃない。
「え、なんで? だって男に戻ったはずじゃ」
「別に僕は女だなんて一言も言ってないよ」
にこりと笑ってもう一人の千尋は当然というように答える。確かにそんなこと一言も言わなかったけど、じゃあいったいこの千尋は誰なの?
わたしの気持ちは顔に出ていたみたいで、もう一人の千尋は寂しそうに笑った。
「僕も千尋だよ。そう言ったじゃない」
「それは知ってるわ。でも男の千尋からは出てこなかったじゃない」
初めて会ったのは千尋が女の子になった日。それからは千尋のピンチに何度も出てきた。
思い切りがよくて、スポーツもできて、自信があって。たぶん千尋の理想を絵に描いたような存在。
「だって千尋が困ってなかったもの。ううん、困ってたんだけど解決してほしくなさそうだったから」
「千尋が困ってたの? 女の子になる前から?」
そんな話、わたしは聞いたことない。千尋はわたしに秘密にしてることなんてなかったのに。わたしはたぶん千尋に隠し事なんてしていない。今日ようやく伝えた想いはわたしだって気付いていなかっただけ。
「困ってたよ。だって男同士なんておかしいじゃない。カッコいい男の子になったって伊織ちゃんと一緒になんてなれないと思ってたから」
もう一人の千尋はそう言って自嘲気味に笑った。曖昧に答えたのはきっと千尋に悪いと思ったからだと思う。はっきりとは言わなかった。代わりに残っていた麦茶を飲んで、ふぅ、と息をつく。
「僕、最初に言ったじゃない。僕は千尋で僕は女装男子が好きだって。千尋がずっと知ってる女装男子なんて一人しかいないのに」
「それって、つまり」
「これ以上は言えないかな。千尋に悪いし」
「ほとんど言っちゃってるじゃない」
そんなこと思いもしなかった。その時は自分の気持ちに気付いていなかったから。千尋はちゃんと伝えてくれていたのに。
「僕は千尋の理想の千尋。積極的で何でもできて、自分の気持ちに素直になれる。本当は自分もできるはずなのにうまく動けない千尋が生み出した存在。でも僕の出番は終わりかな」
「待って!」
ふわりと寂し気に微笑んだもう一人の千尋の手をつかんだ。人格が変わるだけだからつかんだって意味はないのに。でも驚いたようにわたしの手を握り返して、もう一人の千尋はわたしを見つめている。
「あなたも千尋なんでしょ。だったら、全部含めてわたしの好きな千尋よ」
「いきなり浮気なんて伊織ちゃんって大胆」
「千尋は一人でしょ。あなたも含めて」
「ふふ、カッコいい。そういうところが伊織ちゃんのいいとこだよ。じゃ、またね」
もう一度強く手を握って、千尋の体がわたしに寄りかかった。
「ごめん。大切な話をしてたのに」
「いいの。千尋の気持ちはよくわかったから」
「あれ、伊織。怒ってないの?」
告白の途中に寝ちゃったら普通は怒るわよね。全然平気そうにしているわたしが内心激怒していると思っているのか、千尋はすり寄るように私に体を寄せる。
「千尋、大好きよ。これからもずっと」
溜まっていた想いが胸の中からとめどなく溢れてくる。その一部を言葉にしてもとても足りないくらい。だから、わたしは代わりに千尋の頼りない体をぎゅっと抱き寄せた。
「あれ? 千尋の体が」
少し懐かしく感じる柔らかさ。わたしの胸の中にある千尋の顔にそっと触れた。
「また女の子になってない?」
「え、嘘。あ、なんで?」
千尋は慌てて立ち上がって自分の体をいろいろと触っている。やっぱり女の子だ。いつの間に変わってたんだろう。千尋はようやく納得したみたいでストンとその場に座り込んだ。
「でも、いいかな。だって伊織の体は男の子なんだもん。僕が女の子ならずっと一緒にいられるんだもんね」
そう言って千尋は本物の笑顔でわたしに飛びついた。軽くて儚い、でもカッコいい千尋の体をわたしはもう一度抱きしめる。
「伊織、僕もずっと大好きだよ」
痺れるような甘い声がわたしの脳内を走っていく。
千尋の体を抱いたまま、わたしの視線はいつもの姿見に吸い込まれた。
節だった手、硬さの残る髪質、千尋より一回りも広い肩幅。
でも、今のわたしはわたしの体が大好き。
だってこの体だから千尋とずっと一緒にいられるんだもの。
「ありがとう」
神様? 両親? 千尋? それともわたし自身?
感謝の言葉は誰に向けたものかわからない。ただ千尋の体を二度と離さないつもりで強く抱き続けた。
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