緊急事態ふたたび

「おいしかったー。甘いものを食べてるときって幸せだよねぇ」


「喜んでくれたなら嬉しいよ。いろいろ聞いてきた甲斐があったかな」


「うん。僕もいいお店を知ってたら紹介したいんだけどなぁ」


 千尋は幸せが口から漏れてるみたいにいつも以上にぼんやりとした口調で話している。今にも眠りだしちゃいそうなくらい。


「ねぇ、最後に一つだけ付き合ってほしいところがあるんだけど」


「うん。いいよ」


 黒羽根さんの言葉に、わたしと蛇ノ塚さんの体が少し跳ねる。当の千尋は全然気にしてないみたいだけど、これは決心したってことでいいのよね。これだけしっかりしたプランを立ててるくらいだから告白する場所も決めてたのかもしれない。


「いよいよじゃな」


「お手並み拝見といこうじゃない」


 強気に言ってみたけど、内心は穏やかじゃない。ここまでプランをしっかり組んでいるんだもの。きっと素敵な場所で伝える言葉も準備しているに違いない。


 緊張しているのは黒羽根さんも同じみたいだった。さっきまでの軽やかな動きにいくらかのぎこちなさが混じっている。


 追いかけていくと、少しずつ人の姿が減っていく。市街地からは少し外れてこちらの方はスポーツ大会なんかで使われるアリーナやテニスコートが狭い敷地内にひしめくように立ち並んでいる。


「急に黒羽根さんらしくなったわね」


「決めるときは自分にとって一番落ち着く場所がええんじゃろ」


「そういうものなの?」


 まだわたしはどうやって伝えればいいかの見当もついてない。蛇ノ塚さんはいきつけの喫茶店だった。わたしにとって一番落ち着く場所ってどこだろう?


 野球のグラウンドを抜けた先、噴水とベンチのある小さな広場で、黒羽根さんは足を止めた。


「中学のときにね。ここでミスしちゃったんだ。それでレギュラーから外されてね。それで部活やるのが急に怖くなったんだ」


「でも今は助っ人でいろんな部活で活躍してるのに」


「うん。でも私は」


 男だから、という言葉を黒羽根さんは飲み込んだ。今から告白するのに男であることを引け目に思う必要なんて一つもない。ぐっと息を飲んで、黒羽根さんは千尋の顔をまっすぐに見つめた。


「だけど、今日はミスしたくない。だから早く言っちゃうね」


 噴水が冷やした空気を吸い込んだ。わたしも同じように空気を吸って心を落ち着ける。ただ見てるだけなのにどうしてこんなに緊張しなくちゃいけないのよ。


「私、千尋ちゃんが好き。こんな私でもずっと一緒にいてくれる?」


 すっきりとしたシンプルな言葉で、黒羽根さんの想いは千尋へと投げられた。お腹いっぱいでぼんやりとしていた千尋の目もはっきりとした力が戻っている。


「それって友達としてじゃないよね。女の僕、でも」


「私もよくわからないんだ。千尋ちゃんが複雑な事情を抱えてるのは知ってるよ。でもやっぱり言わなきゃ変わらないと思ったから」


「言わなきゃ、変わらない……」


 黒羽根さんの言葉はその場にいないはずのわたしに向けられているようだった。


 何もしなければずっとこのままでいられると思ってるのが見透かされてるみたいだった。


 漏れそうになった声をぐっとこらえる。うつむいたわたしの背中を蛇ノ塚さんが優しく叩く。


「同じこと、別の人にも言われたよ。でも僕にはまだよくわかんないんだ」


「そうだよね。突然のことなんだし」


「でも僕、ちゃんと考えるよ。すぐに答えは出ないかもしれないけど、ちゃんと考えてるから」


 千尋の目は決意に満ちていた。こんな顔初めてみる。男らしい顔。本当に心からカッコいいと思ってしまうような、男気にあふれた顔。


「これがうちの認めた男の顔じゃ」


「あなた、自分の女になれとか言ってたじゃない」


「それはそれじゃ」


 まったく、調子がいいんだから。でも言っていることはよくわかる。今の千尋はわたしが知る限り一番男らしくなっている。体が女だとか関係ない。千尋は宣言した通りのモテる男になったんだ。


「よかった。全然考えもしてなかったなんて言われたらどうしようかと思ってたの」


「でも僕も今はよくわかってないんだ」


「知ってる。私も同じだもん」


 そう言って黒羽根さんは厳しかった顔をようやくほころばせた。肩の重荷が下りたんだから当たり前か。マラソンを完走した後みたいな疲れと達成感が同居しているような清々しい表情だった。


「千尋ちゃんの答え、楽しみにしてるね」


 短い沈黙にすら耐えられなかったようで、黒羽根さんは走って逃げるように広場を離れていった。残された千尋は口を結んで立ち尽くしている。


 答えは聞けない。まだ私が伝えてないから。だったら黒羽根さんが逃げるのもしかたなかった。


「さて、残るは真打じゃな」


「そうね。しっかり決めてみせるわ」


 私の強がりを蛇ノ塚さんは小さく笑い飛ばす。順番が終わった人間の余裕を感じる。でも最後までスタートが遅れたのはわたし自身だもの。まだちょっと不安の残る心を胸の上から押さえて、わたしたちは千尋にバレないように広場から離れた。


 部屋に戻ってきて、まずは冷たい水をのどに流し込んだ。見ていただけなのにやたらと乾いているような違和感がとれない。焼けつくような焦りはわたしの全身を焦がしつけていく。


 いつ告白しよう、明日? どこで? 想像ですら成功するイメージが全然わかなかった。


「二人はすごいわね。勇気があるわ」


 もしかしたら自分が選ばれないかもしれない。そう思うと不安でしかたなくなる。


 とにかく今日は休もう。元気がないといい考えも浮かばない。私は疲れた体をベッドに投げ出して、そのまま目を閉じた。


 アラームをセットし忘れたはずのスマホが鳴っていた。誰かから電話がかかってきている。どのくらい寝ていたのかわからない。締め忘れたカーテンの先から朝日が差し込んでいた。


「もしもし?」


 眠い目を擦りながら電話に出る。向こう側から焦ったような千尋の声が聞こえた。


「伊織! 緊急事態だよ!」


「またなの?」


 興奮した千尋の声になんだか違和感がある。強い語気だからそう思うのかな。それともわたしの頭がまだぼんやりしてるのかもしれない。


「とにかく、大変なんだって!」


「わかったわかった。寝てたから準備ができたら行くわ」


 朝から元気で騒がしいわ。二人に告白されたんだから千尋にとっては緊急事態よね。でもそれなら昨日の話だし、それにわたしはまた千尋に伝えてない。


 いつものストレッチにご飯を食べて服を着替える。毎日変わらないこのルーチンワークがわたしを支えている。最後に大きく伸びをして、わたしは日曜日の落ち着いた朝の町に出ていく。


 千尋は家の前でわたしのことを待っていた。やっぱり中学のジャージを着て、ダサいを体現している。家の中だからそれでいいのよ。外に出ちゃダメなんだから。


「あ、伊織! 遅いよ!」


「千尋の緊急事態は緊急じゃないからね」


「いっつもそんなこと言うんだもん」


 実際に千尋は今のんびりと家の前に立っている。本人は焦ってるのかもしれないけど、それじゃ本当の緊急事態が泣いちゃうわ。


「いったい何が」


 起きたのよ、と聞く前に千尋はわたしの手を両手で包むように握った。それが答えだった。


「千尋、なんで?」


 その感触は懐かしい。私と同じ、節が隠し切れない男の子の手だった。

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