貸し切り状態の銭湯で

「ふぁ~、極楽~。生き返る~」


「おじさんみたいよ」


「でも言ってみたら気持ちいいよ」


「そういうもの?」


 もう一人の千尋に急かされて、わたしも小さく極楽、とつぶやいてみる。確かに疲れがお湯の中に溶けていくような気がした。


 誰もいない大浴場を二人占め。数百円でこんなに贅沢できるなんてサボりも悪くないなんて思っちゃう。


「今日は遊べて楽しかった。誘ってくれたのも嬉しかった」


「あなたもおもしろかったの?」


「もちろん。僕だって千尋だもん」


 そう言っているけど、どこまでが本当かわからない。千尋はこっちの人格のときの記憶はないみたいだし、交代する条件もよくわかってない。最初は女装男子を見たから、なんて言っていたけど、最近は好き勝手に出ては消えているような気がする。


「じゃあ千尋の気持ちもわかるの?」


「そりゃ、もちろんね」


「じゃあ、千尋はわたしのことどう思ってるの?」


「それ、僕に聞いちゃうの?」


 千尋の気持ちも知っている、なんて言われたら聞かないわけにはいかなかった。だって先に相手の気持ちがわかっているなら、この気持ちを打ち明けるときにどんなに楽に臨めるんだろうと思ってしまう。


 もう一人の千尋はいたずらっぽく笑うと、湯船に浸かったままわたしの肩にそっと触れた。


「それはちょっとズルいんじゃない?」


「そうよね。今の言葉は取り消すわ」


「でも、嫌いな人と一緒にお風呂なんて入らないよ」


 からかっているのか、それとも本心なのかはよくわからなかった。でも嫌いだって言われるよりも何倍も嬉しい。


「昔はよく一緒に入ったわ。その頃は男の子だったから」


「別に今だって変わらないよ。千尋は昔から千尋のまま」


「千尋の顔に言われると変な気分ね」


 もう一人の千尋は他人事のように言う。こっちは千尋と違って鈍感じゃない。わたしの気持ちにはもう完全に気がついている。こういう相手なら面と向かって告白しなくても済みそうなのに。モテる男には察しの良さも必要かもしれないわね。


「だーかーら、伊織ちゃんも早く勇気出さなきゃダメだよ」


「そうね。もうちょっと時間が経ったら、きっと」


 わたしは弱々しく答える。せっかくここまで千尋を連れてきたのに、まだわたしは一歩が踏み出せないでいる。


 千尋と同じ顔がわたしを見つめている。わたしの心の中が透けているみたいで、ちょっとおもしろそうに笑いを堪えていた。


 ちょうどいいわ。ここで予行演習しよう。千尋と同じ顔に、わたしの気持ちを伝える。そうすればちょっとした復讐にもなるでしょ。


「わたしは、あなたのことが」


 嘘でも好き、って言葉はなかなか出てこない。ちょっぴり驚いて目を丸くしたもう一人の千尋を逃がさないように腕を絡めた。


 あともう少し、口の形くらいは変わったところで脱衣所の方からガラガラと戸が開く音と話し声が聞こえてきた。


「おやおや、先客は珍しいねえ」


「若い子みたいだけど、学校はお休みかねえ」


 白髪に紫色が入ったおばあちゃんが三人。どうやら少し早めのお風呂に来たみたい。わたしの体を見られたらまずいことになる。わたしはわざとらしくもう一人の千尋の顔を見ると、よく響く声で言った。


「そ、そろそろ上がらないと」


「うーん、残念。もうちょっとだったのにね」


 せっかく勇気を出したのに、逆に喜ばせてしまったみたい。顔を真っ赤にして恥ずかしがる姿が見たかったわ。脱衣所まで戻ってくると、わたしはすぐに体を拭いて、とりあえずデニムに足を通した。ちょっと体が湿ってる気がするけど、気にしてられないわ。


「じゃあね。また会えるといいんだけど」


「どうせ好きなときに勝手に出てくるんでしょ」


 いつもの千尋に戻る。千尋は周りをキョロキョロを見回して自分の状況を確認している。自分の記憶が飛んでいることを千尋はどう思ってるんだろう。そろそろ不思議に思っていてもおかしくないのに。本当に鈍感なんだから。


「あ、お風呂気持ちよかったね」


「そうね。そろそろ帰りましょうか」


「ふわぁ、なんか疲れたよ。ちょっと眠くなってきた」


「電車で乗り過ごさないようにしないとね」


 とろんとまぶたが落ち始めている千尋がわたしの体に寄りかかってくる。人の気も知らないで。でもちょっとは休めたのかしらね。顔には出さなくてもきっと疲れてたはず。千尋にもいいサボりになったと信じたいわ。


 有松市の駅まで戻ってくる頃には、だいぶ千尋の目も覚めていた。隣で寝息を立てているのに、乗り換えに失敗しないように起きてるこっちの身にもなってほしいわ。


「あ、いた!」


 ちょっと休憩してから帰ろうかと思っていたら、わたしたちの方に黒羽根さんが走ってくる。後ろにはゆっくりと歩いてくる蛇ノ塚さんの姿も見えた。


「学校来てないからどうしたのかと思ったよ。詩栄理ちゃんが遊びに行ったって言うから探してたんだけど」


「ちょっと海が見たくなったのよ」


「なんじゃあ、そりゃ。青春映画みたいなこと言いよって」


 遅れてきた蛇ノ塚さんが呆れたようにつぶやいた。二人は千尋の顔色をうかがって、その表情を確認してから隠し切れない微笑みを口の端に浮かべた。


 わたしが告白できなかったことを確信したみたいだった。いつものぽやぽやした千尋のままなんだから当然よね。当たってるだけにわたしは何も言えない。


「海なんてまだ全然時期じゃないよ?」


「うん。だからおっきなお城作ってきたんだ」


「それで服も着替えとるんか。準備がええのう」


 たまたまうまくいっただけなんだけどね。千尋が変に冒険心なんて出すから大変だったんだけど、意外とおもしろかったわ。普段どれだけスマホに頼っているのかがよくわかった。この中にはいろんな情報が入ってるけど、人の心はこうやって一緒にいて話して遊ばないとわからないわ。


「ねえねぇ、どこかに食べにいこうよ。さっきからお腹空いてて」


「薫って、スポーツか食べ物の話しかしないよね」


「えぇ!? 私ってそんなに偏ってる?」


 誰も否定はしない。するはずもない。ちょっぴりへこんだ黒羽根さんはそれでもすぐに立ち直って、道の向こうに指をさす。


「じゃあいいや。ガッツリお好み焼きとか食べにいこ」


「開き直ったか。まぁええわ。付きおうたるわ」


「そういえば何も食べてなかったわね。千尋も行くでしょ?」


「うん。みんなで食べるご飯っておいしいよね」


 わたしたちの駆け引きからは一人だけ外れた千尋が何も考えていないように笑っている。

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