海の後は温かいお湯に浸かろう

「うーん、地味ね。もうちょっとかわいいのがよかったのに」


「別にいいでしょ。ちょうど安かったんだし」


 買い物を済ませてチェーンの衣料品店を出る。買ったのは無地のティーシャツに安売りしていた七分丈のデニム。それから地味な下着を一組。わたしも同じものを買っている。制服が砂で汚れちゃってるし。


 おしゃれより普段着とかルームウェアとしてのものが多いからそれほどこだわるつもりもなかったけど、その中でも無難なものしか着たがらないんだもの。


「じゃあさっそく着替えないとね」


「じゃあそのへんのトイレとかで」


「そんなのダメよ。もっとちゃんとした場所にしないと危ないでしょ」


 どこに変態が潜んでいるかわからないんだから。とは言ってもちょうどいい場所ってないのよね。ホテルを借りるのはさすがにもったいないし、カラオケは個室だけど、覗かれるかもしれないし。


 潮の香りでちょっと目立つ千尋を守るために、人通りの多い道を避けつつよさそうな場所を探す。するとちょうど道の先にぽつりと伸びる煙突が見えた。


「あ、銭湯があるじゃない」


 下町っぽい雰囲気を残す古風な店構えが近づいてくる。平日のお昼過ぎだけどもう営業しているみたい。


「ちょうどよかったわ。汚れも落とせるじゃない」


「えぇ、嫌だなぁ」


「濡れたせいで体も冷えてるんだから風邪ひいちゃうわ」


「そんなことな、へくちっ!」


 ほら、言ったそばからくしゃみなんてしちゃって。早く入って温まらないと。嫌がる千尋の手を引っ張って、歴史を感じるのれんをくぐった。


 お客さんはほとんどいないみたいで靴箱の鍵はほとんど残っている。これなら千尋も恥ずかしがらなくてすむんじゃないかしら。番頭さんは優しそうなおばあちゃんで、制服を着ているわたしたちを特に咎めることもない。


「じゃあ三十分後くらいでいい?」


「わかったよ」


「ちゃんと肩まで浸かるのよ」


「子どもじゃないってば」


 女湯の方に歩きだす千尋に合わせてわたしも男湯ののれんに手をかける。すると私の肩を番頭のおばあちゃんが優しく叩いた。


「お嬢ちゃん。女湯はあっちだよ」


「え、いやわたしは」


 そんなこと言ったってわかるはずがない。学校では黒羽根さんや蛇ノ塚さんと違って、わたしが男だってことはみんなが知っていることだ。でも今のわたしを見てこの辺りの人がすぐに男だって気付いてはくれない。


「ほらほら、早くこっちに入りなさいな」


「うわっとっと」


 のれんの前で止まっていた千尋ごと女湯の脱衣所に放り込まれた。


「ど、どうしよう?」


「だ、大丈夫だよ。伊織なら堂々としてればバレないって」


 今から戻っても番頭さんにまた押し返されるだけ。もう後戻りはできない。


「ほら、ここにいても怪しまれるだけだし入っちゃおうよ。お湯に浸かれば絶対にバレないから。僕が保障する」


 千尋の保障なんてなんのアテにもならない。でも味方がいるっていうだけで少し落ち着くことができた。のれんの先の戸を引く。中には誰もいなかった。とりあえずここは安全ね。それでも脱衣所の一番端の目立たなさそうなロッカーを開けて、わたしは意を決して砂のついた制服を脱ぎ始めた。


「千尋先に行って中を見てきて」


「わかった」


 大きめのタオルで全身を丁寧に隠したわたしは湯気でくもったガラス戸の前で千尋にお願いした。銭湯なんだからまっすぐ湯船に飛び込むわけにもいかない。


「隅の洗い場があったら教えて。目立たないところね」


「うん。ちょっと待っててね」


 千尋は力強く頷いて先に大浴場に入っていく。なんでちょっと楽しそうなのよ。ううん、わかってるわ。潜入ミッションのゲームかなにかだと思ってるんでしょ。


 浴場の中に消えていった千尋は予想よりもずいぶんと早く、ニコニコと笑顔を見せて脱衣所に戻ってきた。


「やったね。伊織」


「どうしたのよ?」


「誰もいないんだよ。貸し切り状態。バレることなんて絶対ないよ」


「本当に?」


 千尋の言葉を信じて浴場へとゆっくり入る。まだ少し乾いている部分が残る床のタイル。奥にはきれいな富士山の絵が描かれている。そしてぐるりと周りを見渡しても、千尋の言う通り誰もいないみたいだった。


「まぁ平日だもんね。いなくてもおかしくないか」


 ほっとしてまずは洗い場に向かう。これから誰かが来るかもしれないし、危ないことは早く済ませておくに越したことはないわ。


 洗い場の隅に座ってタオルにボディソープをかける。丁寧に洗わないと潮風にあたった肌や髪は痛んでいるから下手に擦ると傷が増えてしまう。


「ねえ、背中流してあげようか?」


 そう言って千尋がわたしの背中に手を触れた。柔らかい手のひらの感触がくすぐったい。


「恥ずかしい、って遠くにいると思ったのに。どうしたのよ?」


「だってせっかくの伊織ちゃんとのデートだもん。楽しまないと」


「あなた、出てきたの?」


「裸の付き合い、楽しもうよ」


 そう言ってもう一人の千尋はわたしの背中にタオルを当てる。鏡越しに千尋とはちょっと違う笑顔が映っている。


「優しく洗ってよ」


「もちろんだよ。伊織ちゃんの大切な背中なんだから」


 優しくタオルが擦られる。なんだか恥ずかしい。鏡はすぐに曇ってしまったからもうよく見えないけど、わたしの真後ろにはタオルを巻いただけの千尋がいるはず。さっきまで全然意識してなかったのに。触れあっているとだんだん距離が近づいているように思える。


「はい、おしまい。ねえ、僕の背中も洗ってくれる?」


「お返しはしないとね」


 隣のイスに座った千尋の背中に回る。わたしよりも小さくてすべすべとした肌。黒羽根さんのトレーニングでも少しも失われていない。思わず背中を指でなぞると、かわいい声を上げてもう一人の千尋が体を弾ませた。


「ちょ、ちょっと。やめてよ」


「やられると弱いのね」


「僕で遊ばないで。僕はみんなで遊ぶ方が好きなんだから」


 都合のいい性格してるわ。千尋の背中。タオル越しに戻ってくる感触にドキドキする。女の子のものだからじゃない。そんなの今まで意識したこともなかった。千尋だからこんな気持ちになる。


「ふう、さっぱりした」


 泡を落としながらもう一人の千尋がそう声を上げる。男湯にも誰もいないんだろう。静かな浴場に何度も響いた。


「ささ、次はゆっくりお風呂に浸かって疲れをとらないとね」


 急ぐように湯船に入ったもう一人の千尋の姿を追いかけて、わたしも同じ湯船に体を入れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る