春の海はすこししょっぱい

 終点まで乗って、降りた駅で路線図を確認しながら電車を乗り継いだ。スマホで調べれば簡単なのにこうして路線図や時刻表を確認しなきゃいけないとなるとただの駅も新鮮に感じられる。


 一時間半ほどでようやく海の近くの駅に着くと、電車から降りたとたんに気の早い夏の香りがした。


「海ってなんで夏の雰囲気があるんだろう?」


「わたしたちが夏にしか来ないからよ」


 今までの多くない経験からいろんなイメージが頭の中でゆるく結びついている。海から遠い有松市では海岸に来るのはほとんどイコール夏の一大イベントってことになる。海と言えば夏、っていうのは別におかしなことじゃない。


「でも夏とはちょっとイメージが違うよね」


「人も全然いないしね」


 防波堤の方に行けば釣りをしている人はいるだろうし、サーフィンしている姿はいくらか見えるけど、やっぱり真夏のイメージと比べると寂しく感じちゃうわよね。


「よーし、入ってみよう!」


「ちょっと、ちょっと!」


 私が止める暇もなく、千尋はローファーとソックスを脱ぎ捨てると、まだ冷たさの残る海に駆け込んだ。


「冷たーい!」


 水を蹴り上げながら千尋は私に振り返る。


「当たり前じゃない。夏じゃないんだから」


「でも気持ちいいよ。伊織も来なよ」


「もうしょうがないわね」


 楽しそうに手招きする千尋に向かって、わたしもローファーを投げ捨てて走り出す。小さな波にさらわれるように海の中に足を入れた。お昼に近付いてきて暖かくなってきた気温と違って、触れた水はひんやりとしていた。


「ほらほら、もっとこっちにおいでよ!」


 千尋は沖へと歩いていて、もう膝下くらいまでの深さの辺りにいる。


「スカート濡れちゃうわよ」


 私は絞るようにスカートをまとめてから千尋の背を追う。はしゃぎ回っている千尋はわたしの注意なんて聞いてないみたいで、くるくる回ってみたりなんかして。


「う、うわわわ~!」


 見事な王冠みたいな水しぶきを上げて、千尋は後頭部から海に華麗なダイブを決めた。


「だから言ったのに」


 全身ずぶ濡れで海の中から千尋が現れる。


「あなたが落としたのは金の千尋ですか? 銀の千尋ですか?」


「普通の千尋だよ! もう、そんな冗談言ってる場合じゃないよ」


「残念ね。嘘をついてくれたら千尋はわたしのものになったのに」


「とりあえず拭かないと」


 タオルで拭いたところでどうにかなる問題じゃない。今だって金色の髪から水が滴り落ちている。快晴のおかげで寒くはないだろうし、なんとか乾いてはくれそうなのがせめてもの救いかしらね。


「海の家が開いてないから助けもなさそうね」


「うえぇ。口が塩辛いよー」


 とりあえず持っているハンカチで顔を拭いてあげる。こんな小さなハンカチじゃ当然全身を拭くことなんてできそうもない。


「しょうがないわね。近くに安いチェーンの衣料品店があるかしら? そこでタオルと適当な着替えを買ってくるわ」


 わたしがポケットに手を伸ばす。すると、千尋はずぶぬれの手を伸ばしてわたしを制した。


「ダメ。スマホは使わないルールでしょ」


「そんなこと言ったって、緊急事態じゃない」


「まだ大丈夫。太陽も出てるし、ちょっとすれば乾くよ。冒険にピンチはつきものでしょ?」


「風邪ひかないでよ?」


 袖やスカートを絞ってできるだけ水を抜いてみたけど、これは数時間はかかりそうね。それにしたっていくら冒険だって言ってもこの状況はよくないでしょ。ゲームだったら道中でアイテムがないのに毒状態になったくらいにはピンチなのに。


「ちゃんと下にシャツ着ててくれてよかったわ」


「当たり前だよ。セーラー服ってなんか落ち着かないんだよね。頼りないっていうか」


「わたしもブラしてないからシャツ着てるけど、女の子の体ならそういうものじゃないの?」


 結局海の話と同じで、経験がイメージと結びついているだけなのかもしれない。ずっとシャツを着ていた人が急にセーラー服に変えたらまるで自分のものじゃないみたいにふわふわと浮かんでいるような気分になる。


 生まれたときに男になるんじゃない。生きてきた経験がイメージになって自分の頭の中に溜まっていって、男らしいだとか女らしいだとかいう言葉にいつの間にか縛られていくのだ。


「大丈夫だよ。あ、どうせだから砂のお城も作っとく?」


「わたしは制服汚してないんだけど?」


「まぁまぁ。今ならすごい作品が作れそうじゃない?」


 子どもっぽく笑って、千尋はその場にしゃがみこんで砂の山を作り始めた。きっと千尋はそういうらしさの縄から飛び出た場所にいる。


 だからわたしは千尋に惹かれたんだと思う。


 数時間くらい経っただろうか。あいかわらずスマホが禁止だから正確な時間はわからないけど、セーラー服の乾いてきた千尋が嬉しそうにスカートの裾を確かめている。


 高校生が本気で作った砂の城は高さは一メートル近く。天守閣のついた本丸の隣に半分くらいの高さの二の丸まである。美術の成績はどっちも普通だからディテールはせいぜいお城だってわかる程度だけど。


「っていうか普通は洋風のやつを作るんじゃないの?」


「でもこっちの方がカッコいいでしょ。七緒ってこんなお家に住んでそうだよね」


「日本家屋とお城は違うわよ」


 近代ヤクザの蛇ノ塚家ならたぶん普通の家に住んでるわよ。もしかしたら代々続く古くからの家に住んでいるかもしれないけど、それでもお城じゃないと思うわ。


「さて、そろそろ行きましょ」


「次はどこへ行くの?」


「まず服を探さないと。そのまま帰るわけにいかないでしょ」


 紺色のスカートには乾いたときに残った塩が白く浮き出ている。海の独特の香りが千尋の周りを漂っているのに、このまま電車なんて乗れるはずもない。


「正直に海に落ちたって言えば服くらいなら買いに行っても怪しまれないわ」


「落ちてないよ。ころんだだけ」


「そんなの向こうはどうだっていいわよ」


 変なところにこだわるんだから。海岸を離れてもまだ存在感を示している千尋の力作を残しておこうと、スマホに手を伸ばす。ボタンを押しても反応しないところで、ようやく今使用禁止だったことを思い出した。


「あ、これも禁止?」


「うーん。伊織は写真撮るの好きだもんね。セーフ!」


 電源を入れて、砂のお城を数枚。それからごわごわの制服姿の千尋も何枚か。どうせならずぶ濡れのところも撮っておきたかったわ。ちょっと落ち込んでるところもかわいかったもんね。


「もう、僕なんてとっても面白くないでしょ」


「そんなことないわよ。わたしの一番の趣味かもね」


 さぁ、まずは衣料品店を探さないとね。スマホの電源を切ってポケットにしまう。看板だけを頼りに探さなきゃいけないんだから、そんなに時間はないわよ。

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