脳が筋肉に染まらないうちに

 千尋は褒められたのがよほど嬉しかったみたいで、放課後の厳しいトレーニングにも弱音を吐かなくなった。また助っ人に行くために追加でいろんな部活の練習もやっていくことにした。今日はバスケ部にお邪魔している。わたしは見学兼保護者だ。


 暇そうな部活にお邪魔して一緒に練習するんだけど、やっぱり全然ついていけてない。


「まぁ黒羽根さんの弟子、なんて紹介されたら断れないわよね」


 それに意外と千尋は人気者だ。それなりに動けるようになったのに何もないところで転んだり、子犬みたいに転がったボールを追いかけたりしている姿を微笑ましく笑われている。


 男の子だった頃から千尋はそういう風に思われてたけど、女の子がやっているならさらにかわいらしく見えてしまう。


「これなら千尋は男に戻らない方が幸せなんじゃないの?」


 男らしいとか女らしいなんてわたしの一番嫌いな言葉だ。でも社会の目はどうしてもそんな無意味なフィルターを通して世界を見ている。そして何より、わたし自身が一番その言葉にこだわっている。


 女の子としての千尋は、一生懸命でちょっと抜けていてでも頑張り屋の美少女に映るのだ。


「次の練習試合も活躍できるといいけどね」


「なんか引っかかる言い方だね」


「黒羽根さんはあの千尋見た?」


「うん。ちょっと、積極的な千尋ちゃんだったよね」


 セクハラを受けた相手なんだから言葉を選ぶ必要なんてないのよ。体は千尋なんだから同じ動きを千尋もできる、ってことなんだろうけど、頭を打つ勢いでバク宙する勇気もケガをしないように受け身をとるのも千尋には無理そうね。


「どうしてあのタイミングで出てきたんだろ」


「うーん、セパタクローやってみたかったんじゃない?」


「そんな軽い気持ちで出てこないでほしいわ」


 こっちは出てくるだけで何をするのかと思ってひやひやしてるっていうのに。いつもは女装男子がいると出てきてたんだけど、前回は違うのよね。周りにいたことに違いはないんだけど。


「でも千尋ちゃん自身にやる気が出るのはいいことじゃない?」


「それもちょっと問題があってね」


 スポーツが好きになってくれるのはいいんだけど、最近はちょっと勉強がおざなりなのよね。今日も宿題を忘れてわたしが見せてあげたところだし。成績だって元々平均あたりをうろうろしてるんだから、ちょっと気を抜くと真っ逆さまよ。


「やったー、シュート入った!」


 練習の完全フリーのシュートがようやく一本入っただけで千尋は両手を挙げて喜んでいる。でも周りの部員は笑いながら拍手してくれている。やっぱり今の千尋の方がうまくいってるような気がするんだけど。


「勉強は私も力になれないからなぁ」


「わたしだと千尋は甘えちゃうし、いい先生は」


 佐藤先生は役に立たないだろうしなぁ。


「あ、詩栄理ちゃんは?」


「榊原さん? 確かに勉強はできそうだけど」


 あのほわほわした二人が揃ったところで、勉強なんて雰囲気にならなさそう。でもやらないよりはマシかもね。


「いつも理科室にいるって言ってたし、明日行ってみたら?」


「トレーニングの後で大丈夫かなぁ」


「明日は休みにしようよ。たぶん、動けないだろうし」


 黒羽根さんはちょっと控えめに笑った。次のシュートに狙いを定めている千尋は、真剣な目でゴールを見つめていた。


 翌日の千尋は黒羽根さんの予想通り全身筋肉痛で一日中情けなく泣き言を言っていて、トレーニングどころじゃなさそうだった。


 放課後までほとんど自分の席から立ち上がらなかったところを見ると、相当痛いみたいね。


「今日は休みにしてくれてよかったよ」


「黒羽根さんも鬼じゃないってことよ」


「今日は早く帰ってゆっくり寝よう」


 腕や肩をさすりながら疲れたしぐさをする千尋の腕をつかむ。このまま逃がしたらぐっすり眠って明日も宿題を忘れてきそうだもんね。


「逃がさないわよ。今日は体は休めて頭の方のトレーニングよ」


「えぇ~。疲れてるから明日にしようよ」


 駄々をこねる千尋に、わたしは腕をつかんだ手に力を込める。


「ダメ。そうやっていつまで経っても行動に移さないんだから」


 黒羽根さんの件を見て、千尋はぐいぐい引っ張ってもらう方がいいってことがわかった。いつもわたしは千尋を甘やかしちゃうからなかなか前に進まなかったのよ。


 やり始めれば最後までやり遂げる力はあるんだから。目指すは理科室。榊原さんにみっちり勉強を見てもらうわよ。


 今日は爆発はしていないみたいで、静かな理科室の中央の机には難しい顔をした榊原さんが一時停止してるみたいに固まっていた。


「う~ん、失敗しました?」


「今度は何してるのよ」


「冷凍よりもフリーズドライの方がよりおいしさを保存できると思うのですが、どうやって簡単に真空を作りだせばよいのか」


「ゴメン。わたしに言われてもわからないわ」


 フリーズドライってお湯を入れたらすぐスープになったりするあれよね? オムライスでもできるのかしら?


「何かご用事ですか?」


「いきなりで悪いんだけど、この子の勉強見てくれない? 最近サボりまくってるのよ」


「構いませんよ。少し休憩しようと思っていましたから」


 勉強を教えるのが休憩になるのかしら。論文を書けるほど賢いならそうなのかもね。わたしには考えられないわ。


「それじゃ今日の宿題でも見てもらいましょ」


「うぅ、よろしくお願いします」


 嫌そうな千尋を監視するためにわたしも隣に座ってノートを開く。どうせならわたしも聞いてさっさと嫌なことは済ませちゃいましょ。


「いったいどこがわからないんですか?」


「えっと、全部?」


「もうちょっとまともに質問しなさいよ」


「全部、ですか。何故ですか?」


「なぜって言われても……」


 それが説明できたら苦労しないわよね。わからない授業って本当に何を言ってるのか全然わからなくて、呪文か何かに聞こえてくるんだから。


「それでは最初から説明してみましょう」


「本当? じゃあ聞いてみる」


 これは難航しそうね。榊原さんが付き合ってくれて助かりそう。


 ちょっとだけやる気を出した千尋に期待して、わたしは榊原さんが小さな背を伸ばして理科室の黒板に書き始めた公式に目を移した。

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