二章 モテる男には必殺アタックと因数分解が必要ですか?

TSしたら必要なもの

 鬼コーチのようなしごきも数週間経つと慣れてくるもので、黒羽根さんの要求するトレーニングメニューもだんだんとこなせるようになってきた。それに蛇ノ塚さんも付き合ってくれるのも助かっている。二人より三人の方が苦しさを分け合えるっていうのも嘘じゃないわね。


「黒羽根さんがちょっと加減してくれればいいんだけどね」


「そう言わんでもええじゃろ。根性も男気には必要なもんじゃ」


「そ、そうだよねぇ」


 千尋はまだ話しながら走るのは無理みたいだけど、それでも逃げ出さなくなっただけ進歩してるわ。体つきはそんなに変わった気はしないけど。でもなんだろう。走る千尋の姿を見ているとなんだか違和感がある。


「走ってるのに必死で考えてなかったんだけど、千尋ってもしかして」


 違和感の正体を探して千尋をまじまじと見る。千尋にあってわたしにないもの。それは胸元の大きなものが揺れる動き。


「ブラつけてないんじゃないの?」


「え、え? そ、それ、は」


「ランニング終わってからでいいわ」


 声を出すと同時に千尋の走りが遅くなる。それと同時に胸の揺れも小さくなった。でもやっぱりあの感じは間違いないわ。わたし自身は持ってなくてもファッションは見えないところまで含むんだから。


「さぁ、買い物行くわよ!」


「なんでそんなに元気なの?」


 着替えをすませてまだ立ち上がる気力もない千尋を引っ張り上げる。わたしとしたことが油断してたわ。千尋がここまで無頓着だったなんて。


「夏服になる前に気付いてよかったわ。薄着になったらどうするつもりだったのよ」


「ちゃんとシャツは着てるよ」


「それ男のときに着てたやつそのままでしょ」


 そんなものじゃ守らなきゃいけないものも守れないでしょ。そこまで大きくも見えないけど、胸の靱帯は切れたら元に戻らないのよ。


「将来胸が垂れるらしいわよ」


「僕は男に戻るんだから関係ないよ」


「だからって適当にしていていいわけじゃないでしょ!」


 まったく男が寄ってくる前でよかったわ。正確には女装男子はどうしてかたくさん集まってきてるんだけどね。とにかく女の子である間は女の子として最低限のことはしておいてもらわないと。わたしの方が疲れちゃうわ。


「わかったから引っ張らないで」


「逃げないならいいわよ」


「逃げたら捕まえるくせに」


 今の千尋なら五秒もかからず捕まえられそうだもんね。当たり前よ。


 逃がさないようにしっかりと手を握って、歩きと電車を使って三〇分。近くで揃えようと思えばできないこともないんだけど、初めてのことだしやっぱり信頼できる人がいいわよね。


「どこに行くの?」


「お仕事で何度かお世話になったランジェリーショップがあるのよ」


「え、伊織もブラってつけてるの?」


「普段はしてないわよ。仕事のときにはときどきね」


 まっ平らな上につけたって自分が悲しくなるだけだからね。それでもモデルの仕事をするときはつけなきゃいけないときもある。


 女の子の服は胸があることを前提に作られてるから、わたしが着ると形が崩れちゃうからね。そういうときはパッドを詰めてブラをしないといけないときもあるのよ。


「ま、プロとして必要なことよ」


「へー、かっこいい」


「じゃあ千尋もちゃんとつけるわよね?」


 墓穴を掘った、という顔で目を泳がせている千尋の手をしっかりとつかむ。これでお店まで連れていっても問題ないわね。


「こんにちは」


「あら、伊織ちゃん。またお仕事? サイズは?」


「あ、いえ。今回は友達のをお願いしたくて」


 駅から少し離れた小路の奥。あまり目立たない場所にあるランジェリーショップは下着を買うのが恥ずかしいという女性たちが人目を気にせず入ることができる。そういうわけで女装男子であるわたしもいつも利用させてもらっている。


「かわいい子じゃない。伊織ちゃんの彼女?」


「違います。幼馴染みたいなものです」


「あれ? でも前に幼馴染って男の子が二人って言ってなかった?」


「あー、その二人とはまた別なんです。とにかくブラつけないって意地張ってるんでやっちゃってください」


 神様に捧げものをするように千尋を店長さんに差し出す。わたしも最初はいいようにおもちゃにされたからね。あなたも存分に味わいなさい。


「さ、はじめましょうか」


 店長さんは持っていたメジャーで千尋の体を絡めとると、そのまま試着室へと引きずり込んでいった。


「ああ、懐かしいわ。あんな感じだったわね」


 仕事は正確なんだけど、ちょっとテンションが上がりすぎるのが玉にキズなのよね。


 千尋の叫び声がときどき聞こえてくるのを無視して、わたしは店内をぐるりと見て回った。うーん、ある程度の知識はあるけど、下着のモデルはどうしてもできないから千尋に似合うのを選ぶのはちょっと自信がないわね。


「今日のところは店長さんにお任せね」


 わたしももうちょっと勉強したほうがいいかもね。


「やだー、伊織助けてー!」


「大丈夫、怖くないわよ」


「目が怖い。目が怖いよー!」


 千尋の悲鳴が何度か続いた数十分。ようやく解放された千尋がランニングの後と同じくらい疲れた顔で試着室から這い出てきた。


「B寄りのCってところね。これならたくさん種類もあるし選び放題よ」


「派手なのはいらないよぉ」


「当たり前よ。上からシャツもちゃんと着てよね。千尋はガードが甘いんだから」


「だったら買わないでもいいのに」


 つけない方が何倍も問題なんだってば。店長さんの選んだ中から派手過ぎるものをわたしのチェックで外していく。それからランニング用にスポブラもいくつか。


「伊織ちゃんちょっと厳しくない?」


「いいんです。千尋はこのくらいで」


「かわいい子だから過保護になってるのね」


「そんなことは、ちょっとあるかもしれないけど」


 それは昔からずっと変わってないことだもの。からかわれるのを助け合ったときから、わたしが千尋を守るようになるまでずっと変わってない。


 それに今の千尋の周りは女装していると言ってもわたしを含めて男の子ばっかりだ。それに加えて千尋は全然女の子としての自覚がないし、もう一人の千尋の存在もある。わたしの胃はずっとキリキリ痛みっぱなしよ。


「伊織ー。こんなにいらないって」


「わかってるわよ。任せときなさい」


 でも一枚だけかわいいのも混ぜておこうかな。なんとなくその方がいいような気がした。これを千尋が誰かのためにつける日が来るかもしれないと思うと、さっきまでと違う感覚で胃が重くなりそうだった。


「よし、じゃあちゃんとつけた状態で一枚撮るわよ」


「えー、恥ずかしいよ」


 服を着て出てきた試着室の前でスマホを構え、恥ずかしがる千尋の写真を一枚。前に撮った写真と比べるとやっぱりスタイルがよくなったような気がする。


「これで安心ね」


「なんか縛り上げられてるみたいで落ち着かないよ」


「そのうち慣れるわ」


 一見するとどこが変わったかわからない。でもブラをしただけで急に千尋が女の子らしくなった気がする。モテる男とは反対に進んじゃったけど、しかたないわよね。

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