夜の理科室は不思議の宝庫

「とは言ってもやっぱり連続はキツイわね」


 白熱する蛇ノ塚さんと千尋の目を盗んでわたしは多目的室を逃げだした。外の空気がいつもよりおいしく感じられる。外はもうすっかり暗くなっている。いくら相手がヤクザの娘だからって下校時刻を越えても放っておかないでほしかった。


「カーテンを閉めていたから全然気が付かなかったわ。今何時かしら?」


 任侠映画マラソンはすでに三本目の途中だった。二時間ないものだった気がするから七時過ぎってところかしらね。


「とりあえず飲み物でも買ってこよう」


 ちょっぴり熱くなった頭と疲れた目にはビタミンCがいいかしらね。一階まで降りて学食前の自動販売機が並んだ一画を目指す。途中に見えた職員室にはまだ明かりがついていた。当たり前だけど、授業が終わっても先生の仕事は終わらないのよね。


「あれ、あそこって理科室だっけ? 電気がついてるなんて珍しいわね」


 もうわたしたち以外の生徒は帰っちゃってるだろうし、先生もこんな時間に理科室で準備なんてするかしら。


「ちょっと気になるわね。行ってみようかな」


 途中で抜けてきた映画に戻るのは少しだけ気が引ける。映画館でも途中で席を立ってしまうとなんだか戻りにくくなるのと同じだ。


 そう考えている間にも自然と理科室の方へと足は向いていく。このところ不思議なことに出会ってばかりだ。だからこの小さな気付きも不思議なことに繋がっているような予感があった。


「不思議と言えば、急に友達が増えたのよね」


 二人とも女装男子っていうわたしたちと同じようなものだけど。わたしは特別ではないと言われていると同時に異質でもないと言ってもらえているような安堵も感じていた。


 女装していようが性転換しようが、受けいれてくれる場所は必ずあるのだ、と。


 理科室の前まで来ると、自然と足音を消すようにゆっくりとした歩みになる。もし先生がいるとしたら怒られるのは覚悟しなきゃいけないんだし。


 ドアに手をかけてゆっくりと開く。古い建てつけで軋むせいで大きな音が鳴る。


「ヤバ」


 さっと身をかがめて様子をうかがう。少し待ってみたけど誰も出てくる気配はなかった。


「よく考えたらただの消し忘れかもしれないじゃない」


 そう何度も不思議なことが続くわけがないわよね。電気を消して戻ろう。そう思って理科室に入ると同時に、小さな爆発音がした。


「きゃあ!」


「んー、失敗しました?」


「な、何? 誰?」


「んー、人間が発生しました?」


「してないわよ。通りがかっただけ」


 教室に漂う蒸気が少しずつ晴れていく。その奥から小学生くらいに見える女の子が姿を現した。


「うーん、じゃあやっぱり失敗ですね」


 理科室の丸いイスに座って首をかしげている女の子。ぶかぶかの白衣からわずかに覗いた手に試験管。机の上に置かれた蒸気の発生源だったビーカーには得体の知れない色の液体が残っている。


 くるくるとカールした髪は天然のものだろう。今の爆発でこうなったわけじゃなさそうだ。満月のように吸い込まれそうなほど丸い瞳がより少女らしさを加速させている。


 昔女の子が買ってもらっているのを羨ましく思っていたお人形みたいという印象だった。


「えっと、もしかして何かボクに用事ですか?」


「明かりがついてたから気になっただけよ。もうとっくに下校時間過ぎてるんだけど」


 わたしも他人のことをとやかく言える状況じゃないけどね。普通は先生が見回りに来るものなんじゃないの? 放課後に爆発するような実験をしている生徒に近付きたくないのかもしれないけど。


「そうでしたか。どうりでお腹が空いているわけですね」


「そんな新発見みたいなこと言われても」


「呼びに来てくれましたし、よかったらご一緒にご飯食べませんか?」


「わたし、友達がまだ残ってるのよ。だからまだ帰れなくて」


 こんな子を一人で帰すのはちょっと不安だけど、千尋たちも置いて帰れないしね。でも友達と一緒にご飯なんて最後に行ったのはいつだったかな。仕事仲間はよくあるけど、淳一に彼女ができてからはなかなか声をかけづらくなったから。


「ご心配なく。すぐに用意できますから」


 そう言って天然の巻き毛を揺らして女の子は準備室へと消えていった。言動すべてが不思議な子だ。それにしてもうちの高校に科学部なんてあったかしらね。体育会系はマイナーな競技でもかなり揃ってるんだけど。


 それにしてもあの栗色のくるくるとした巻き毛にはなんとなく見覚えがある。あの髪型にするだけでも結構な手間がかかるはず。そんな女の子がいれば、わたしのアンテナに引っかかってもおかしくない。


「というか、どこかで見た気がするのよね」


 どこだったかはさっぱり記憶から抜け落ちている。使えない頭を叩いても記憶がよみがえっては来てくれない。


「お待たせしました」


「何それ? レトルトパウチみたいだけど」


「はい、その通りです。ボクの自作品ですから安心してください」


「少しも安心できないんだけど」


 薬品を混ぜて爆発させるような人が作った料理って大丈夫なのかしら。


 わたしの不安なんてまったく気にしていないらしい女の子は、大きなビーカーを取り出すと、アルコールランプをつけてお湯を沸かし始める。そこにパウチを当然のようにつっこんだ。


「ちょっと待って。なんか見た目がご飯にふさわしくないんだけど」


「大丈夫ですよ。人体にただちに影響はありませんから」


「怖いこと言わないでよ」


「きちんと洗浄していれば問題ありませんよ」


 どう見ても怪しい実験にしか見えない絵面。不安が募る。沸騰して泡立ったビーカーのお湯をかき混ぜながら、女の子は小さく鼻歌なんて歌っちゃって。体をゆらゆらと揺らすと同時にふわふわとボリュームのある髪が揺れる。


 それを見て、わたしはようやく思い出した。


「あなた、去年論文か何かを書いて表彰されてたでしょ!」


 壇上に上がる足取りがフラフラしていて、いつ倒れるのか見ている誰もが不安に思っていたはず。あのときの揺れる栗色の巻き毛がとても印象的だった。


 名前は、たしか詩栄理、榊原詩栄理さかきばらしえりだった。珍しい名前だったから思い出し始めるとするすると記憶の糸が引き上げられていく。


「う~ん。そんなこともあったかもしれませんね」


「あれ、でもあのときって」


 名前よりももっと珍しいことがあった。だから覚えていてもおかしくなかったのに。確か表彰されてたのは。

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