任侠と書いて『じょそうだんし』とは読まん
「こらーっ。待ちなさーい」
「嫌だよ。もう無理。絶対無理。死んじゃうよ」
「逃げる元気があるなら大丈夫よ」
わたしと千尋が走っているのは校庭でも外周でもなく、学校の中庭。
練習している吹奏楽部や軽音楽部の乾いた笑い声が聞こえてくるような気がする。特訓初日から逃げ出した千尋を捕まえるためにわたしが必死に追いかけてるところなんだけど、どっちも限界寸前で終わりそうもない。
必死なのはわたしたち二人だけで、外から見ると今にも倒れそうな苦しい表情をした二人が、恋人が砂浜で追いかけっこしているような遅い足取りで走っているようにしか見えないんだから笑われてもしかたない。
もう足が動いているのが不思議なくらい。運動部の助っ人に出まくっている黒羽根さんのペースについていけるはずがなかったわ。
「はぁ、はぁ。こんなのいじめだよ」
「そんな弱音吐いててどうするのよ。まだ初日の最初のメニューよ」
最初からランニング十キロがいいか悪いかは置いておくとしても、まだ半分も経ってないのに逃げ出す千尋もどうかと思うわ。
「まったくもう。この追いかけっこだけで十分すぎるくらいの運動になってるわ。そろそろ観念しなさい」
「やーだーよー。誰か助けてー」
「わたしがいじめてるみたいじゃない」
心優しい幼馴染がピンチに助けてあげようとしているっていうのに。献身的なわたしの慈愛の心にもっと感謝しなさいよ。
逃げる千尋の足はだんだんと遅くなってきている。わたしの方がちょっとだけ体力は勝っているみたいね。
「捕まえたわよ」
「助ーけーてー」
まったく往生際が悪いわね。こんなんで本当にモテる男を目指してるのかしら。
女の子になって一回り小さくなったように感じる千尋の体を羽交い絞めにして、校庭へと連れ戻そうとしたとき、背中からドスの利いた声が静かな中庭に響いた。
「おどりゃ、何をしてくさるんじゃあ!」
「え、何? どこの国の人?」
留学生なんてこの学校にいたっけ? そう思って振り返ると、威厳を感じる仁王立ちで、わたしを睨んでいる女の子の姿があった。
わたしよりきれいに見えてしまった長い黒髪を肩を大きく越えて腰近くまで伸ばしている。黒羽根さんよりさらに高い身長は男の子と並んでも遜色ないくらい。
きりりとはっきりした目元に怒りの色を帯びて、わたしの顔を睨みつけている。一目見ただけでケンカが強そうだと分かるのは、ある意味千尋の求めるモテる男像に近いかもしれない。
「なんじゃあ、自分。嫌がっとるやろうが放したれや!」
「ごめんなさい。日本語でよろしく」
「なんじゃとぉ!」
「あ、あの。僕、別にいじめられてるとかじゃないんで大丈夫ですよ。ちょっとランニングが嫌で逃げ出しただけで」
ようやく上がっていた息が整ったらしい千尋が声を出した。その顔をまじまじと見ながら凛々しい女の子は急に顔を赤らめてその場にうずくまった。
「またやってしもうたわ。じゃけんうちは早とちりが過ぎるって親父にも言われとうのに」
「なんていうかややこしくて悪かったわ」
「ええんじゃ。どうせうちは時代の敗北者じゃけえ」
「そこまで言わなくても」
さっきの千尋と言い、なんだか今日のわたしは悪役ばっかりじゃない。さっきよりも笑い声が増した周囲に耐えきれなくなってわたしは声をかけようとうずくまったままの背中に近付く。
そのわたしの背中を急に元気が出た千尋が追い抜いた。
「そんなに落ち込まなくてもいいんだよ。すごくカッコよかったから。感動しちゃった」
「ほんまか? うち間違うとらんかったか?」
「僕のことを守ってくれたんだもん。ありがとう」
すらすらと千尋の口から言葉が出てくる。人見知りするはずの千尋からこんなにぽんぽん言葉が出てくるはずがない。
「仁義を尽くすのがうちの使命じゃ」
あ、立ち直った。なんだか一人で
立ち上がるのを手伝うように手を握る。私の手と同じ、すこし節だった硬い感触が返ってきた。これは間違いないわね。
「あなたも男の子なの?」
「な、なんでわかったんじゃ?」
「そりゃわかるわよ。わたしも男なんだから」
「うちの正体がバレるなんて。もう終わりじゃあ。親父との約束を守れんかった。もう出家するしかないんじゃあ」
新しく現れた女装男子はせっかく引っ張り上げたのに、また地面にうずくまって頭を抱え始めてしまう。こんな美人さんが女装男子なんて、この学校って本物の女の子がいないんじゃないかと心配になってくるわ。
「え、なんで!?」
「親父と
「どういう約束なのよ、それ」
「高校を卒業するまで女装しとることがバレんかったら家業を継いでもええ、ちゅう話じゃ」
世の中に変な親がいることは千尋の家でよく知ってるつもりだけど、女装したまま過ごさないと家業を継げないなんて話はさすがに聞かないわ。
「ふ~ん、蛇ノ
いつの間に手に入れたのか、千尋は蛇ノ塚さんの生徒手帳を見ながらひとりで勝手に頷いている。こっちは男癖だけじゃなくて手癖も悪いみたいね。
「いつの間にうちのポケットから盗んだんじゃ?」
「隙だらけだったんだもの。気をつけた方がいいかもね」
「待って。蛇ノ塚ってもしかして」
わたしたちが住んでいる
「蛇ノ塚って地元のヤクザって聞いたような」
「そうじゃ。うちの家は代々続く桑谷の用心棒じゃ」
「用心棒って。今じゃ企業の方に力を入れ過ぎて本末転倒になってるって話じゃない」
「それはそうなんじゃが……」
言い淀んだ蛇ノ塚さんは、言葉を続ける代わりに自分の手をじれったく擦っている。家業を継ぎたい、って言っていたのはどうやらヤクザの方みたいね。
「もう親父の代で家の名前は畳む言うとるんじゃ。今の時代は平和でちゃんと警察もおる。ヤクザが片してやらんといかん仕事なんぞもうないんじゃ。でも戦争の後から代々やってきたことじゃけん、うちが継げんで終わらすんは仁義に反するってもんじゃろ」
わたしが千尋をいじめていると勘違いして怒鳴ったくらいなんだから言ってることは嘘じゃないんだろうけど。それと女装に何の関係があるのかしら。
「親父はうちを女として育てればヤクザになんかならんと思ったみたいじゃけど、うちはそうはならんで」
「へぇ、それは悪いことしたみたいだね」
「あなたはちょっと黙ってなさいよ。ややこしくなるから」
それにしても本当にどうやって見分けてるのかしらね。わたしだってこうして近くで見たり、触れてみないとわからないっていうのに。
「別にわたしは黙っておいても構わないわよ」
「ほんまか! いやしかし失敗を黙ってるんは、仁義に」
「それは好きにしてくれればいいけど。あ、そうだわ」
ある意味で男気の塊みたいな人なんだから、今のわたしたちにとってはこれ以上ない人材じゃない。
「その代わりにわたしの手伝いをするっていうのはどう? 恩を返さないのは
「あ、いや。その通りじゃな」
「これが解決するまではバレたことは黙っておいて。わたしからのお願いよ。いいでしょ?」
「そういうことなら親父には黙っとこう」
嬉しそうに私の手を強く握った蛇ノ塚さんの顔はどうみても純粋そのものの女の子の表情だった。
これでうまく千尋を鍛えつつ黒羽根さんをコントロールできそうね。
「伊織ちゃんが悪い顔してる」
「いいのよ。じゃ、計画の修正が必要だから黒羽根さんのところに戻るわよ」
「おう、よーわからんがうちにまかしとき!」
少しずつ増えていくメニューに千尋が耐えれるのか楽しみになってきたわ。元に戻った千尋に適当に説明をつけてから、わたしたちは黒羽根さんの待つ校庭へと戻っていった。
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