体育倉庫で捕まえて
放課後になる頃には千尋はすっかりと疲れ果てていて、チャイムと同時に逃げ込むようにわたしに声をかけてきた。
「なんでみんなあんなに集まってくるの?」
「そりゃこんなに珍しい頭してたらそうよ。自分で染めたんでしょ」
「やっぱり戻そうかな」
早くも千尋は自分のやったことに後悔し始めている。わたしとしては戻してほしいところなんだけど、佐藤先生との約束だからね。もうちょっと我慢してもらうしかないわ。
「今日は早く帰りましょ。何日かすればみんな落ち着くわよ」
「そうする。なんだか昨日より疲れたよ」
「モテる男になるなら体も鍛えないとね」
こんな頼りなくわたしに体を預けてるようじゃ女の子は支えられないわよ。廊下から校庭を見下ろすとちょうど部活のウォームアップで走っている誰かの姿が見えた。あのくらいでもう千尋は息が上がってしまいそう。
「あれ?」
「どうしたのよ、千尋」
わたしと同じように校庭を見下ろしていた千尋が小さく声を上げた。
「ううん、ちょっと忘れ物を思い出しただけ。先に帰ってて、伊織ちゃん」
「忘れるほど持って帰るものもないでしょうに、わかったわ」
わたしに手を振って千尋は小走りで教室に向かって走っていく。私に追いつく頃には息が切れてるでしょうね。
「あれ? 今、伊織『ちゃん』って言った?」
千尋はわたしを伊織としか呼ばない。そんな風に呼ぶのはあの子しかいない。
「厄介なことしてくれそうね。追いかけないと」
わたしは姿の見えなくなったもう一人の千尋を追って、先生に見つからないように廊下を駆けだした。
「まったくどこに行ったのよ?」
今までの経験からして何か興奮するようなことがあったときにもう一人の千尋が出てくるのよね? だとしたら校庭で何か見つけたってことかしら?
「行ってみるしかないわね」
わたしはすぐに校庭へ出ると、あの嫌でも目立つ金髪を頼りに千尋の背中を追いかけた。
狭い校庭は数ばかり多い部活がアリの巣を作るように組み合って場所を確保している。まるでお祭りみたいに生徒でごった返していた。
昔は運動部の多くが全国大会に出場していたらしいけど、そのせいで部活の種類が増え過ぎた結果、今はどれも中堅校に落ち着いてしまったという話を聞いたことがある。でも今は千尋探しの邪魔にしかならなかった。
「まったくこの中で人探しなんて大変ね。えっと廊下から見えたのはこの辺りよね?」
ちょうど女子サッカー部が練習の準備をしている。あとは外周を走っている陸上部くらいかしら。準備中ってことは、向こうかしらね。
わたしの視線は体育倉庫の方へと向いていく。生徒の数が減って息苦しさが少しマシになる。
「はぁ、汗臭いのはやっぱりちょっと苦手だわ」
落ち着いた気分で周囲を見渡す。すると、半開きになった体育倉庫の中からくぐもった声が聞こえてきた。
「ちょっと、ダメだよ」
「いいじゃん。減るものじゃないんだから」
「そうだけど、そういう問題じゃないよ」
千尋ともう一人。少しだけ熱を感じる声。私は嫌な予感を強くしながらすぐに倉庫に走り込む。
中では千尋が女の子をマットに押しつけながら、露出した太ももを撫でまわしているところだった。
女の子の体になって細く白くなった千尋の指がサッカー部らしい女の子の筋肉質だけど健康的な柔らかさを持つ肌を撫でていく。汗ばんだ肌が薄暗い体育倉庫の中でも赤みを帯びているのがわかった。
「ね。僕って結構上手なんだよね」
「そんなこと聞いてないよ!」
「もう強情なんだから」
千尋の空いていた左手がウェアの裾から胸の方へと差し込まれる。その寸前にわたしは足元に転がっていたサッカーボールを千尋の頭に投げつけた。
「あれ、伊織ちゃん。嫉妬しちゃった?」
わたしの気配に気がついていたらしいもう一人の千尋は、ボールを華麗に受け止めて私の足元に投げ返した。千尋だったら絶対に気付かないのに。気付いていたとしても投げたボールを片手で止めることなんてきっとできないはず。
「あなたがどうしようが勝手だけど、犯罪なんてされると千尋が困るのよ」
「伊織ちゃんは心配性だね。ちょっとしたスキンシップだよ」
もう一人の千尋はそう言ってかわいらしく笑ったけど、その向こうで女の子は助かったと安堵しながら息を整えている。普通に犯罪よ。わいせつ事件よ。今の千尋は女の子かもしれないけど、中身は男なんだから。
「ほら、僕たち二人とも男同士」
「え?」
今のあなたは女の子、と言う前に言葉が止まった。今、なんて言った?
暗い倉庫の中で倒れている女の子、のはずの姿に目を凝らす。長い髪をきれいにまとめたポニーテール。顔はお化粧でごまかすことはできるし、筋肉質な体は意外と見分けがつかなかったりするけど、男と女の体にはどうしても隠し切れない部分がいくつもある。
こういう薄着のときは肘や膝といった肉の薄い部分がどうしても目立つ。大きな関節が隠し切れずに角ばって出てしまう。だからわたしもノースリーブや水着なんかはあんまり着たくない。
「本当に男なの?」
わたしが言うのもおかしいけど、そんな人が学校に二人もいるかしら? わたしの場合は周りの人たちは知ってるけど、この子の話は聞いたことがない。
「
「う、うん。そうだけど」
まだ動揺している黒羽根さんはわたしと千尋の顔を交互に見比べながら呆然としている。
「とりあえずここはわたしが収めるから。早く部活に戻って」
「あ、ありがとう」
黒羽根さんは乱れた服を軽く整えると、逃げるように倉庫から出ていった。
「まったく誰にでも手を出すんだから」
「あら、伊織ちゃんって嫉妬深いね」
「誰がそんなこと言った?」
「きゃー、こわいこわい」
少しも怖がっていないもう一人の千尋はわたしを見ながら余裕そうに笑っている。
「僕は男の子が好きなだけ。それも飛びっきりかわいい女装男子がね」
「だから、黒羽根さんも襲ったの?」
「それって自分だけを愛してほしい、ってこと?」
「質問してるのは私よ」
おどけたように笑うもう一人の千尋は捉えどころがない。聞いても答えないっていうのならこっちにだって考えがある。
「じゃあ帰りなさい」
「毎回千尋の頭を叩くのも心が痛いでしょ。自分で戻れるから大丈夫」
そう言うと、一度ガクリと肩を落とした千尋がすぐに目を開けて周りをキョロキョロと見回して自分の居場所を確認し始めた。
「なんで僕ここにいるの?」
「急に走り出すからびっくりしたわよ」
まだいろいろな確証がとれないのに、千尋に話すのはためらわれた。ただでさえ女の子になって混乱しているのに、自分が二重人格かもしれないなんて聞いて不安にならないはずがないもの。
「きっといろいろあって疲れてるのよ。送ってあげるから今日はゆっくり休むといいわ」
「うん、そうするよ」
まだ体がふわふわとしている千尋の手を握ってあげる。こうすれば少し落ち着くような気がするから。こんなことをしたのはいつ振りだろう。小学校の頃くらいかしら。わたしはあの頃はよくからかわれていたから。こうして千尋や淳一が慰めてくれた。
その時の恩返しだと思えばこのくらい安いものだ。そう思って千尋の横顔を見ると、うっとりとしたやすらかな表情がわたしの心を軽くした。
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