一章 モテる男の子には筋肉と男気が必要ですか?
隠し事をするときはまず味方から
「じゃあいってきます」
「一応母さんにも連絡しておくけど、たぶんすぐには戻ってこれんだろうな」
「いいよ、言わなくて!」
パジャマから男子制服に着替えた千尋と連れ立って、学校へと向かう。家もそれほど遠くないから通学路もほとんど変わらないのに、それだけでちょっとした違和感があった。
その正体は間違いなく、隣の千尋から感じられる確かな変化だった。
「何か匂うわね」
「え? ちゃんと昨日お風呂に入ったし、朝に顔も歯も磨いたよ」
「そういうことじゃないわ。女の子っぽいいい香りがするの」
同じ人間のはずなのに、女の子からはいい香りがする。香水、ボディソープ、柔軟剤。どうやっても真似できない何かがいつも彼女たちの周りには漂っている。わたしには決して手に入らないもの。
「僕、男なんだけど」
「心配しなくても今は正真正銘女の子よ」
「そんなの断言されたくなかったよ」
「まぁ、少なくともバカな男には気付かれないんじゃない」
ちょっとした違和感があったとしても、ただの気のせいだと思って見逃すに決まってる。少しの間なら千尋が女の子になったことはバレずに済むと思う。問題は周囲にバレる前に元に戻れるのかってことなんだけど。
「さすがに夏服になると怪しいかしらね」
「そんなのもう一か月もないよ」
「まぁ千尋ならごまかせるでしょ」
「そんな無責任なこと言って」
千尋は頬を膨らませてわたしの肩を小突く。そういうことするから女の子みたいって言われるのに、全然自覚ないんだから。この様子だと、女の子はともかく男は放っておかなくなりそうね。
「先が思いやられるわ」
「なんで? なんで伊織がそんなこと言うの?」
学校に行ったらあれだけの数の人がいる。そのうちのいったい誰にあの発情した千尋が出てくるかわからない。そうならないようにわたしがしっかり見張っておかなくちゃ。
全然わかっていない千尋に教えてあげる気にもなれなくて、わたしはそれ以上何も言わずにこれから先起こりそうな問題に頭を抱えたくなった。
学校に近付いてくると、同じように制服を着た生徒の姿も増えてくる。都市部の中堅高校ということもあって、少子化にもかからわず
そのうち千尋を知っているのは何割くらいだろう。わたし、
「おはようございまーす」
普段通りのあいさつで校門に立っている教師の横を通り抜ける。そのはずだった。怪しむような目線とともに千尋に声がかかる。
「あぁ、渡会。保険医の佐藤先生が呼んでいたぞ。何か問題でもあったのか?」
「え? な、なんででしょうか?」
「あー、なんだ。詳しくは教えてもらえなかったが。とにかく行ってみてくれ」
ちょっとぼやかした言葉にわたしは不安を覚える。
「はい……」
「私も付き合うわ。早く行きましょ」
今朝のこと、とは思いたくないけど、タイミングが良すぎるわ。まだこのことを知っているのはわたしと千尋とおじさんくらいのはず。でもあの変態保険医なら何か嗅ぎつけていそうな不気味さはあるわね。
「ど、どうしよう、伊織ぃ」
「そんな声出さないの。まだ決まったわけじゃないじゃない」
それにバレていたとしたらこちら側についてくれる可能性だってあるわ。わたし一人じゃいつか千尋を守れなくなる。学校側に味方がいてくれれば悪いことはないはず。
「ほら、もたもたしてると怪しまれるわよ」
「わかったよぉ」
その
保健室に入るとアルコール消毒の匂いに混じって学校にあるはずのないものの香りが漂っていた。
「佐藤先生。また隠れて飲んでたわね」
「消毒だよ。消毒。このくらいなら俺はシラフだ」
「酔っぱらいはみんなそう言うのよ」
実際には酔っぱらいなんてここくらいでしか見る機会はないけどね。最近は業界も厳しくなってるから、テレビや雑誌の取材に行っても無茶するような人はまずいない。わたしが男だからっていうのもあるんだろうけど。
「まぁいいわ。何の用事ですか?」
「俺は渡会を呼んだだけで宮津は呼んでないんだが。その様子だと知ってるみたいだな」
「……! やっぱり。佐藤先生はどうやって?」
佐藤先生は答える代わりに紙袋を一つ、机の下から差し出した。お酒を隠しているんだと思ってたんだけど。その中には女子用のセーラー服が一組入っていた。なんとなくわたしが受け取っちゃったけど、その顔は千尋の方を向いている。
「俺がこんなもの持ってたら最悪通報もんだぞ。早く着替えろ」
「え? 僕?」
「当たり前だろ。なんか知らんが女になったから制服を用意してくれ、って言われたんだよ。一番暇そうだからって保険医に頼むか普通?」
佐藤先生は袋の中身に視線を向けないようにして、目を閉じている。確かに男の保険医が女子制服なんて持っていたら怪しまれてもしかたない。
「ごまかさないで。このことを知ってるのはわたしたちだけのはずなのに」
「お前らだけ? 何を言ってるんだ。今朝の職員会議で言われてたぞ」
「なんで? 誰がそんなこと」
「朝、渡会の父親から連絡があったらしいぞ」
「あ、あのわからず屋~!」
隠すためにまず必要だったのはおじさんの口止めからだったとはね。変わり者なのはわかってたけど、堂々と息子が娘になりましたなんて普通は学校に言うものなの?
それを当然のように受け入れている学校もおおらかなのか何も考えてないのかわからないわ。
「しょうがないから着替えたら。ほら、そこにちょうどカーテンもあるから」
「伊織までそんなこと言うの?」
「女の子だってみんなわかってるなら隠す必要もないじゃない。中身が男だってこともわかってるんだから、ちゃんと扱ってくれるわ」
「僕の気持ちの問題なんだけど」
まだ渋っている千尋に受けとった紙袋を押しつけて、そのままカーテンで仕切られたベッドのひとつへと押し倒した。
すぐにカーテンを閉めて、外から声をかける。
「ほら、早く着替えちゃいなさいよ」
「そんなこと言ったって」
「男なんだから覚悟決めなさいよ」
「いや、それ以前に僕はこんな服着たことないんだってば」
それもそうだったわね。千尋はわたしと違って女装してるわけじゃないんだから。そこにいるのは千尋だと分かっているはずなのに、よく似た別人のように感じてしまうのは、やっぱり女の子が持つ独特の雰囲気のせいなのかもしれない。
「でもわたし一応男よ。今の千尋は女の子なんだから」
「伊織にだったら、見られてもいいから」
かよわい声が返ってくる。佐藤先生は口を手で押さえながら笑いを堪えていた。
そういうことを言うとバカな男が勘違いするのよ。わたしはこれからの学校生活に大きな不安を覚えながらカーテンをゆっくりと引いた。
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