君の味方であり続けること

樹一和宏

君の味方であり続けること

 けたたましいサイレンが次々と横切り、僕らは顔を見合わせた。


「何があったんだろ?」

「珍しいね」


 寂れた田舎にパトカーや救急車やらが走るのは滅多にない。僕達の興味が惹かれるのは当然のことだった。サキがちょっと見に行ってみよう、と言うので僕らは面白半分でその後を追ってみることにした。

 ランドセルが大きく弾む。田園風景を横目に、山奥へと向かう細い道に入っていく。そこは僕らの小学校でお化け屋敷と呼ばれている場所だった。

 黄色テープの規制線が張られ、本来そこにあるはずのログハウスがブルーシートで覆われていた。


「すげぇすげぇ」


 ただならぬ雰囲気に僕の口が閉じなくなってしまう。野次馬がは既に数人来ていて、見るとどれも顔馴染みのご近所さん達だった。


「あ、お父さん」


 突然サキが言った。その視線の先を見ると、ログハウスの方から警官が一人、こっちに向かって走ってきていた。僕らの前で止まり、しゃがみ込む。


「コラ、サキ、子供がこんな所に来ちゃ駄目だぞ」


 トゲのない口調で咎めてくる。しかし、サキはそんなことを気に止める様子もなく


「何があったの?」と首を傾げた。


「……殺人事件があったんだ。だから早く帰りなさい。危ないから」

「犯人まだ捕まってないの?」

「いや捕まったよ。でもまだ詳しいことは分かってないんだ。もしかしたらまだ捕まっていない仲間がいるかもしれないだろ? そうしたら危ないから、早く帰りなさい。いいね?」


 お父さんと呼ばれた警官がサキの頭をポンポンと叩くと、サキは瞳を震わせながら頷いた。お父さんの言葉を信用したのかもしれない。


「シンヤくん行こ」


 サキに手を引っ張られて、僕はつんのめりつつ、歩き出した。警察特有の鋭い視線を背中に刺されつつ、僕はその場を後にした。


「ねぇ、あとでお父さんに僕が犯人の仲間じゃないって説明しといてくれる?」

「え、いいけど、何で?」

「犯人は犯行現場に戻るって言うでしょ? もしかしたら疑われたかも。凄い睨まれたし」

「ん? よく分かんないけど、分かった」


 来た道を戻る。その間、僕達は何も喋らなかった。頭に浮かんでは消えるのはログハウスの光景だけ。

 細道から抜けて公道に出ると、日はすっかりと傾き、脇にある稲穂を金色に光らせていた。

 濃く長い影が僕の後ろをついてくる。僕は足から離れないその影を眺めながら、何も喋ろうとしないサキを横目でチラチラと覗いていた。


「私、少し怖いかも」


 不意に口を開いたサキの声は、今にも壊れてしまいそうだった。

 確かに怖いと言われれば怖いのかもしれない。今までそんなことを考えてもみなかった。寧ろこんなつまらない場所で起きた非日常に、僕はワクワクしていたぐらいだ。


「大丈夫、僕が守るから」


 僕がサキの手を握ると、サキがその手を握り返してきた。しっかりと握り、サキの家に到着するまで、離さなかった。



 

 翌日、学校に行くと何やら教室の方から楽しそうな声が聞こえてきた。なんだろ、と教室に入ると黒板に大きく、僕とサキの相合い傘が書かれていた。


「おおシンヤ、昨日見たぜーもしかしてもうキスまでしてんじゃねぇのかー?」


 お調子者が糸を引くような口調で笑い、回りの奴らが示し合わせたように下品に笑う。

 僕が笑われるのは良かった。でも、その輪の少し外にサキが俯いて立っていた。

 それだけが、許せなかった。

 僕は奴らの輪の中に割って入り、黒板消しを持つ。そして黒板の字を消そうと、腕を振り上げ、そのままお調子者の顔面に叩きつけた。

 白い粉塵が舞い、辺りにいた取り巻きが驚いて停止してしまう。「うぇっ」と咳き込むお調子者をボクは更に突き飛ばすと、サキの手を取って廊下の向こうへと駆け出した。


「あいつら前から気に食わなかったんだ!」


 そう言うとサキは薄らと笑って、自分の足で走り始めた。僕らは校舎を出て、飼育小屋の裏に隠れた。朝の会はもう始まってしまっている。戻るなら今の内だが


「こういうのってドキドキするね」


 とサキの潜めた声を聞くと、何だかドキドキしてきて「確かに」と距離を一歩詰めた。

 授業をサボって、色んな話をした。クラスの話やアニメの話。昨日の警察のこととかも。

 たった少ししか喋っていなかった気がしたのに、お昼を知らせる鐘が鳴り、僕らは顔を見合わせた。流石に戻らないと、と僕が立ち上がった時だった。


「シンヤくんって正義の味方みたいだよね」サキが言った。

「え、そう?」

「うん、私が困ってる時、いつも駆けつけてくれるし」

「そうかな? 出来てるかな?」

「うん、出来てるよ、凄いよ」


 頬が熱くなった気がした。憧れている正義の味方と言われて嬉しかったというのもあるが、何よりサキに言われたことが堪らなく胸の奥をむず痒くさせたのだ。


「ねぇどこまで誰にも見られずに手を繋げるかってやってみない? きっとドキドキするよ」

「うん、いいよ」


 手を繋いだ。これで繋ぐのは、何度目になるだろうか。

 人気のない帰り道に、サキを引っ張る時に、手袋を忘れた日に。

 僕らはよく手を繋いだ。僕から繋ぐこともあれば、サキから繋いでくることもあった。毎回毎回、繋ぐことに理由をつけて。ただ、あの手の温もりが好きなだけなのに。




 年月を経るごとに、僕はサキとの距離感が曖昧になっていくのを感じていた。四年生、五年生となって、男女という性別で分けられるようになって、クラス内でもそれを気にした発言をする奴が増えていった。

 僕はそういうのをあまり気にしていなかったが、サキは気にしているようで、ある時からパッタリと手を繋がなくなってしまった。

 六年生になってもそれは変わらず、男女の差というのは大きくなり、僕達は喋りすらしなくなった。でも僕は三年前のことを忘れることが出来ず、否応なく、視線はサキの方へと吸い寄せられてしまう。

 目が合う度に、サキの気持ちが僕と同じだったらいいのにって、願った。




 小学校の卒業が迫ってきていた。中学校に上がってもほとんどの生徒は同じ地元の中学なのに、何が名残惜しいのか女子は感染する病気みたいに涙を流していた。

 そんなかぜに当てられてしまったせいだろうか、はたまた卒業に託けて告白する友達を見たせいだろうか、僕は数年ぶりにサキに声を掛けた。


「今日一緒に帰らない?」


 一つ返事でオッケーを貰い、校門前で待ち合わせすることになった。




「二人で帰るのっていつぶりだろうね。少しビックリしたよ」

「最近、話すらしなくなってたもんな」


 帰路とは全く違う場所に僕らはいた。小学校の裏山、神社へと続く道を少し逸れた脇道にある小川に、僕らは腰を下ろしていた。

 靴下を脱いだサキが水面を足で遊び、隣で僕は、水につけてその冷たさを味わっていた。


「それでシンヤくん、どうしたの?」

「どうしたって、何が?」

「何か用があったんじゃないの?」

「いや、特に。ただもう卒業だから何となく久しぶりに話したいなって」

「ホントぉ? 本当は私に告白しようなんて思ってたんじゃないのぉ?」


 は!? とサキの方を見ると、悪戯な顔をして上目遣いでこちらを見ていた。

 咄嗟に否定しようとする僕と、図星を突かれた僕が混じって、言葉を失ってしまう。

 否定するタイミングを失ってしまったせいか、その後に続く沈黙が、浮ついた緊張感を持ち始める。痒くもない後頭部に自然と手が回った。

 たっぷりとした沈黙の間を、川のせせらぎだけがすり抜けていく。

 覚悟を決めるまでにどれぐらい掛かっただろう。十分は掛かったかもしれないし、一分も経っていないのかもしれない。その間に嵐のように駆け抜けた僕の様々な心情に、ゆっくり息を吐いて折り合いをつけていく。そうして僕はあの頃よりも素直に、理由も付けず、サキに手を伸ばした。


「好きです。その、良かったら、僕と付き合ってください」


 緊張と不安のその一瞬、それを一蹴したのはサキの反応だった。プッと息を漏らして、笑い混じりの「ごめん」を口にする。


「え」

「あ、違う。そういう意味のごめんじゃないの。ただ、凄い真剣なのが面白くて」

「それ酷くない!? 真剣が駄目ならどうすればいいんだよ!」

「だからごめんって」


 サキがあまりに笑うからこっちの頬も綻んでしまう。しばらくサキが笑うのを眺めていると、改めて笑ってる姿が良いな、と僕は感心した。


「ごめんね、今私も真剣になるから」


 サキは無理矢理深呼吸をして、震える体を落ち着けた。よし、と呟き、僕を見る。


「もう一回手を出して」


 僕は下ろしていた手をもう一度上げ直す。するとサキは握手するように僕の手を握った。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 サキが我慢出来なくなったのか、また笑い出してしまい、安堵に落ちていく僕は


「おいー、雰囲気台無しじゃんかー」と僕は呆れた。

「ごめん、ごめん」


 変わってしまっていたと思っていた距離も、こうして確かめ合うと昔と何ら変わっていなかった。きっと、これからも僕らは何も変わらず、こうしていられるだろう。

 僕は君の正義の味方で、隣でずっと、笑っている所を見ているんだ。




 しかし、中学に入ると空気はガラリと変わってしまった。

 僕らは毎日三十分バスに揺られて中学に通う。近隣の小学校三つの生徒が集まり、その中学校は形成されていた。それぞれの地元魂がぶつかり合う、まさに異文化交流。一つの檻に虎とワニと鷲を入れるようなものだった。

 良くないものが助長され、暗黙のルールが敷かれる。年齢のせいもあるだろう。所謂、不良という奴らが中学で幅を利かせ、僕らみたいなか弱きネズミは檻の隅で震えていることしか出来なかった。

 不幸にも、更に良くなかったのは世代だった。三年生から一年生まで、先輩後輩という悪い意味での上下関係が文化として根強き、窮地に追いやられて噛みつけば、後ろからライオンが出てくる仕組みが出来上がっていたのだ。

 そんな暴力から怯えるような空気を作り出す決定的なものは、やはりイジメだった。不良が因縁付ければ、それは学生生活の終わりの始まり。。

 僕らは見事にそれに翻弄された。

 イジメのターゲットにされないために媚びへつらい手を招き、たまに道化を演じては、その場しのぎで笑顔の仮面を貼り付けた。あの頃の無邪気な純粋さは、日々溜まるストレスと、吸い込む空気の悪さに濁りくすんでしまっていた。

 何が原因で目を付けられるか分からないので、僕とサキは付き合っていることを隠し、学内では極力関わらないことにしていた。

 バスで乗り合わせても、廊下ですれ違っても、僕らは目を合せるだけで、挨拶すらしなかった。いや、もしかしたら、僕が一方的に見ているだけで、サキは僕のことを見ていないのかもしれない。一度胸に落ちた不安の種は芽吹き、際限なく広がっていく。

 付き合っていると思っているのは僕だけなのかもしれない。未だに好きなのは僕だけなのかもしれない。サキにはもう別の好きな人がいるかもしれない。

 しかし僕には、それを確かめる勇気を持ち合わせてはいなかった。


 そんなある日だった。


 僕は放課後、先生に頼まれたプリントを教室に運んでいた。

 一階廊下を歩いていると、窓の外、職員用駐車場の隅に人影が見えた。こんな時間に車を使う職員は普段誰もいないはずだ。興味本位で覗き見ると、三人の女生徒の後ろ姿が見えた。

 内容までは聞こえないが、トゲのある口調からして三人で誰かを責めているようだった。

 うわっ、可哀想に。誰だろう。

 そんな野次馬根性が仇となった。女生徒の一人が体の位置を動かした時だった。その責められている生徒の姿が見えた。

 サキだった。俯いた視線とたまに小さく開かれる口。僕は呆然としてしまった。


 ……何があったんだ。


 瞬間、サキと目が合った。見ないでとも、助けを求めてるようにも受け取れる名状しがたい憂いに満ちた眼差し。

 目を逸らそうとした。普段の癖で逃げようとした。でも脳裏に過ったのは昔、サキに言われた台詞だった。


『シンヤくんって正義の味方みたいだよね』


 そうだ、僕は正義の味方なんだ。

 次第に胸に広がっていく黒い何か。僕はいても立ってもいられなくなり、プリントをほっぽリ出して、駆け出そうとした。

 そう、駆け出そうとした。正確に言えば、僕は動けなかった、だ。

 その時僕の目に映ったのは、車の死角から出てきた学内で有名な不良の先輩だった。

 損得勘定なしに救おうとする純粋な僕は既にいなくなってしまっていた。現実を知ってしまい、肌で理解しきってしまっていた僕は、そこで助けに入ることが如何に無謀で馬鹿なことなのかを充分に分かってしまっていた。

 あの人に楯突くということは、学校中の不良を敵に回すのとほぼ同義。

 僕は視線を外すと、プリントを教室へと運んだ。そのまま自分の荷物を持つと、僕は一度も振り返ることもせず、学校を後にした。




「何であの時、助けに来てくれなかったの?」

「それは……」

「私達さ、付き合ってるかどうかも怪しいよね。これなら付き合ってなくても一緒じゃん」

「……」

「別れようって言ってるの……それじゃ」


 中学二年の五月のこと。久々の会話で僕は一方的に別れを告げられた。頭の中でしょーがないじゃないか、と言い訳だけが繰り返した。



 

 あの件を目撃して以来、サキは女子グループからハブられているようになった。

 一体どうしてそうなったのか、人づてに話しを聞いていき、辿り着いた答えを要約するとこうだった。


 ①サキがイケメンの先輩に目を付けられ、連絡先を聞かれる。

 ②サキは「今付き合っている人がいるので」とそれを断る。

 ③イケメンの先輩のことが好きだった不良女子がそれを知り、発狂。

 ④仲間を連れて「お前調子乗んなよ」としばく。


 僕が見掛けたのは④の所だったのだ。

 それを知ってしまって以来、僕は後悔という後悔に苛まれた。言い訳で自己正当化していた自分が情けなくてしかたがなかった。

 謝ろうと思った。不幸中の幸いに、この時期のサキは一人でいることが多い。

 体育での移動の際、グラウンドに移動する男子の波から抜け出して、体育館に向かうサキに声を掛けた。


「ねぇ――」

「私に話し掛けない方がいいよ。シンヤくんもハブられちゃうから」


 冷たい口調で言い放つと、僕の顔を一度も見ることなく、サキは去って行ってしまった。

 自分が一番辛いはずなのに、こんな時にでもサキは僕をことを気を遣ってくれる。それが嬉しくもあり、悲しくもあった。罪悪感を加速させ、僕はより一層、サキが不憫に思えた。

 クラスで一人でいるサキの気持ちが少しでも軽くなるなら、と僕は休み時間や移動教室の時など、合間を見つけては声を掛けることにした。

 素っ気ない態度であしらわれ、心が折れそうになる。でもくじけるわけにはいかない。

 話し掛ける頻度は付き合ってた時とは比べ物にならなくなっていた。それだけ僕も意地になっていたのかもしれない。周りにどう思われてもいい、僕はただ、サキにとって正義の味方でありたかった。



 

 その日も僕は先生にプリントを運ぶように頼まれて、放課後、教室へとプリントの山を運んでいた。二階に上がり、廊下でいつか見た女子三人とすれ違う。

 こんな時間に何をしていたんだろう。嫌な予感に胸がざわつく。

 教室に入ると、それはすぐに目に入った。

 サキの机に花瓶が置かれていた。まるで、死んだ時みたいに。サキの机を見ると、ウザいだの死ねだの、暴言が机に書かれていた。それだけに留まらず、サキの体操着がゴミ箱からはみ出していた。

 今更怒りなんて湧かなかった。ただ、酷いなって。

 僕はプリントを教卓に置くと、クレンザーと雑巾を持って落書きを消しに掛かった。

 小一時間掛かった。

 拾ったサキの体操着は運良くホコリしか付いてなかったので、窓からはたくだけにした。はたくと、サキの匂いがふわりと漂ってきた。昔から好きな匂い。色々なことを考えていても、この匂いが少しでも鼻先をかすれば、甘美さに僕の意識は全て持ってかれてしまう。

 気付けば、僕はサキの体操着に顔をうずめていた。

 ハッとして、体操着から顔を離す。何て変態みたいことをしてるんだ、僕は。

 体操着をサキのロッカーに戻すと、僕は教室から飛び出した。

 翌日も、その翌日も、サキの机は落書きがされた。陰湿なことに毎回放課後にだ。しかし、サキ本人はそのことに気付いておらず、ただ朝来る度に白くなってる机を不思議に思っているだけの様子だった。かの三人といえば、いっつも消してんの誰だよ! と机を蹴っていた。

 僕が落書きを消していることをサキは知らない。知らなくていい。僕が消してあげてるんだよ、と教えたくなることもあるが、それ以前に、サキは自分の机の落書きされていることを知ったらショックを受けてしまうだろう。それでは本末転倒だ。だから僕は言わなかった。

 でも、その見返りとはいえばなんだが、僕は消す度にサキの体操着の匂いを嗅いだ。

 脳が溶けるような中毒性。サキ本人の体臭と、家の匂い、仄かに感じる洗剤の匂いが不協和音を立てずに見事なハーモニーを奏で


「――何してるの?」


 っ!?


 サキの声だった。幸いにも入り口側を背にして匂いを嗅いでいたから、まだ誤魔化せる。


「最近、机が白いから何でだろうって思ったら、そう、シンヤくんが犯人だったんだ……」

「ち、ちが、僕じゃ」


 思わず手が前に出てしまっていた。僕が手に持つものを見て、サキの目の色が変わる。


「ちょっと! それ私の体操着!」


 ぶんどられ、身を固めるように数歩引かれる。


「え、いや、違うんだ」と無意識に口走るが、続きが思い浮かばない。一歩近づくと、サキは二歩引いた。

「近づかないで!」


 軽蔑する眼差しには失望の色さえ浮かんでいる。


「……気持ち悪い」


 その言葉を吐いて、サキは僕の前から姿を消した。

 頭の中はとにかく誤解を解かなければ、ということでいっぱいだった。僕があの三人組の落書きを消してあげていたことを教えれば、きっとサキは許してくれる。

 一目散にバス停まで向かうが、目の前でバスが行ってしまう。次のバスまで三十分。こんな時、携帯があれば…… 逸る思いに耐えきれず、僕は走り始めた。

 サキの家に到着する頃にはシャツは汗で滲んで肌にへばりついていた。肺が酸素を欲して、一息毎に肩が上がる。それでも一刻も早く、サキに思い直してほしかった。

 家のチャイムを鳴らす。二度、三度と鳴らしても返事はなく、もしかしたら壊れて家の中で鳴っていないのでは思い、ドアを叩いた。裏に回って、窓からリビングを覗こうとしたが、カーテンが閉められて中の様子を知ることは出来なかった。

不運にも翌日は土曜日。土日の二連休を挟み、その間に誤解を解けないのは流石に痛手だ。

 寄り道をしてまだ帰っていないのだろうか。でも、こんなド田舎に寄り道する場所などないはずだ。ポストを開けると、中は空っぽだった。

 月金の午後に配られる地域新聞が入ってないってことは、誰かが取ったってことなのに。

 渋々と家に帰ると僕は電話をしてみた。しかし呼び鈴が鳴り続けるだけで一向に出る気配はなかった。時間を空けて数度電話をしてみるも、やはり反応はない。

 六度目の電話を掛けようとした。時刻は夜八時を回ろうとしていた。両親がまだ仕事で帰ってきていないとしても、サキ自身はもうとっくに帰っているはずだ。

 そこでふと思ったのは、電話に出れない事情があるのかもしれない、ということ。

 そこで僕はファックスを送ることにした。


『話がしたい』


 ノートの紙片に書いて送信する。

 しばらく待ったが、結局返事はなく、その日は十時過ぎにもう一度だけ電話を掛け、やっぱり応答はなく、僕は寝ることにした。

 翌、土曜日、僕は自分の家とサキの家を何度も往復して、チャイムを鳴らした。だが返事はない。電話もしてみたが、やはり出てもくれない。そこまでくると流石の僕でも居留守を使われていると分かっていた。


『どうして返事をしてくれないの?』


 ファックスを送信する。焦りと苛立ちが渦を巻いた。僕はただ誤解を解きたいだけなのに。


『何かあったの?』


 更に翌日の日曜日にもなると、逆に僕は心配していた。もしかしたら電話に出れない事情があるのかもしれない。強盗が入ったとか、そんな。

 ファックスの返事も一向になく、閉め切られたカーテンも不審に思う材料の一つだった。

 そこで僕は警察に電話をした。


「近所のさくらさんの家なんですけど、先日から電話にも出ずに、昼間からカーテンも閉め切りで心配です。様子を見に行ってもらえませんか?」


 遠くから家を観察する。警察が来て、玄関が開いた。お父さんが対応したみたいで、警察官が頭を下げて退散していく。


 ……やっぱり、いるじゃないか。




 月曜日、まるで俺が存在しないかのようにサキは振る舞った。怒りや苛立ちだったものに加え、またしても罪悪感が胸をくすぶる。

 昼休み、友達と昼食をとって、席を外していると、机の中に見覚えのない紙片が入っていた。二つ折りにされたそれを開くと、女子特有の丸い字で


『放課後に残って、話がある』とだけ書かれていた。


 差出人の名前が書かれていなくても、すぐにサキだと分かった。

 放課後になり、教室には疎らな生徒が残っていた。そこでサキは目配せだけで、つい来いと指示をしてきた。

 バスに乗り、地元まで戻る。それでも知り合いの目に付きたくないからと、僕らは小学校の裏山へと向かった。道中、天気の話をなどを振ってみたが、全て無視されてしまった。

 久しぶりの裏山は相も変わらず、当時と何も変わってなかった。記憶の通りのまま、下手したら草木はどれも一ミリも変わっていないのかもしれない。

 小川のほとりまで来ると、前を歩いていたサキがくるりとこちらに振り返った。


「シンヤくんさ、流石にちょっと頭おかしいよ」


 開口一番にサキは敵意を剥き出しで睨んできた。それは予想外で体が動かなかった。


「何度も何度も電話してウチに押しかけて、その挙げ句に警察を呼ぶってどういうこと? 警察を呼びたいのはこっちだよ!」

「違うよ。誤解だったんだよ。ただ心配だっただけで」

「心配って何? 私がいつ助けを求めてたの?」


 言葉が上手く出てこない。本当はもっと言いたいことがあったんだ。僕はただサキが好きなだけだったんだ。気を遣って毎日を声を掛けて、折れそうになる心を君を思って踏ん張って、サキのために毎日落書きを消して、全部、サキのためを思ってやってきたことなのに。


「僕は、昔みたいに君を味方でいようとして……」

「先に私を見捨てたのはそっちでしょ? 都合が悪い時だけ逃げて、そうじゃない時は付きまとって」

「あの時は悪かったよ。でもあれおかげで僕は君の大切さに気付いたんだ。僕は君のことが」

「だからもうやめてって! 本当に気持ち悪い。お願いだからもう私に関わらないで。私今、彼氏いるんだから!」


 目の奥が熱くなった。得体の知れない何かがどんどん大きくなっていく。

 どうして? どうして? どうして? 君の味方は僕しかいないのに。君のためにこんな精神をすり減らしたのに。僕以上に君のことを考えている人なんて存在するはずないのに。どうして、どうして、どうして。僕じゃない人間が君の肌、唇に触れていると考えると頭が沸騰していく。僕以外の人間が君の匂いを嗅いでいると思うと目眩がしてくる。


 ――っ


 反射的に僕は、サキの首に手を掛けていた。

 子供の頃、僕とサキは飼育小屋の裏に隠れていた。そこでする会話は僕達だけの秘密で、そこで交わされる内容は世界の真理のようだった。


「ねぇ好きって何だと思う?」


 女の子らしい疑問。サキの目は純真無垢で暗闇の中でも光輝いていた。


「んー、その人のことをよく考える? みたいな感じかな?」

「へー、じゃあシンヤくんは今好きな人いるんだ」

「え、何でそうなるの」

「だって今、みたいな感じかなって言ったじゃん。今好きな人がいるみたいな言い方」

「そ、そうなるかなー? 何でそんなこと訊いたの?」

「昨日のログハウスでの殺人事件ね、あれ男の人が元恋人の人を殺しちゃったんだって」

「痴情のもつれってやつだ」

「んー、よく分かんないけどたぶんそれ。男の人がもう一度付き合ってくれって迫って、女の人が断ったんだって。そしたら男の人が怒って殺しちゃったらしいよ」

「へー、そんなことで殺しちゃったんだ」

「うん。それで私思ったんだ。何で好きなのに殺しちゃうんだろうって、好きなら普通殺さないよね?」

「……確かに。不思議だね」

「だから私、好きって何だろうって思ったの。シンヤくんは男の人の気持ち分かる?」


 ――今なら、少し分かる気がするよ。


「君の味方は、僕だけなんだよ」


 手の端にヌメリとした液体が垂れてくる。死ぬ間際のセミのような声がどこかからする。

 あぁ、嫌な音だ。早く止めないと。

 一層の力を込め、音の出所をひねり潰す。サキの手がだらりと垂れた。

 直後、力をなくしたようにサキの体が倒れてきて、僕はそれを全身に受け止めた。

 シャンプーの良い匂いと仄かな温かみ、そして体の柔らかさ。僕はそれを全身で感じるべくギュッと抱き締めた。

 最初からこうしとけば良かったんだ。こうしとけば、ずっと一緒にいられる。

 髪を撫でるようにすく。サキの香りに、胸が躍った。

 

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君の味方であり続けること 樹一和宏 @hitobasira1129

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