第5-3話 人外の破滅

 翌朝は、すっきりと晴れていた。

 外に出てみると、柳が大きめの石に腰掛けていて、こちらに気づいて軽く頭を下げた。

 川面で顔を洗って、僕もドラゴンの方を見た。

 昨日の夕方とどこも変わったところはない。このままずっと、この状態でここにいるんじゃないかと思えるほど、自然と同化している。

「エタニアは?」

 柳に歩み寄って質問すると、彼は軽く首を振った。知らないらしい。またウサギでも捕まえに行ったのかな。

「決心がつきましたか?」

 それ以外、話すこともないので、尋ねてみる。柳はしばらくドラゴンを見てから、軽く顎を引いた。でも何も言いはしない。でも、覚悟を決めたような、そんな気配はあった。

 途端に、ドラゴンの体が揺れた。

「何だ?」

 すっと立ち上がった柳の横で、僕はその光景を見ていた。

 ドラゴンが起き上がり、滝壺の中で立ち上がる。巨大な両足が体を支える。二本の腕が振り上げられ、首が伸ばされた。

 咆哮がビリビリと全てを震わせた。

「いけない!」

 その柳の声が、いやに耳に残った。

 ドラゴンの輪郭が、ぐずりと歪んだ気がした。

 変化はいきなり始まった。

 濃緑色だったドラゴンの鱗が黒く染まり、溶け出した。最初、砂になったのかと思ったが、違う。

 それは小さな羽虫のように舞い上がると、残っているドラゴンに取り付き、それをさらに黒い粒子に変えていく。

 柳が何かを叫んだけど、その時には重なりに重なった大きすぎる羽音で、周囲の音は聞こえない。

 羽虫の群れは僕と柳にも向かってくる。

 反射的に腰から抜いたナイフで右手の親指を切っていた。

 一瞬でディアを活性化し、周囲のフレアを取り込む。

 血がまさに溢れ出し、僕と柳の周囲を囲もうとするが、それよりも羽虫が早い!

 まずい、と思った時、僕の体は突然のベクトルの変化に、方向感覚を失っていた。

 それは柳が僕を抱えて、跳躍したのだった。人体の限界を超える運動。

 ドラゴンだったものから大きく距離を取り、転がってから姿勢を取り戻した僕と柳はそれを見つめた。

 もう滝壺に、ドラゴンの姿はなかった。

 いや、ドラゴンの輪郭は、激しく崩れながらも残っている。

 だが、それは羽虫らしいものの集まりで、すでにドラゴンではなかった。

「間に合わなかったか」

 唐突に背後から声がして、振り向くと、エタニアが立っていた。冷静な視線で滝の方を見ている。

「どうする? 柳。これで本来の任務に戻れるが?」

 エタニアの視線を受けて、柳は一度、目を閉じて、そして強い意志の瞳で頷いた。

「処理します」

「手伝おう。咲耶、お前は防御担当だ。もっとも、奴は近づいてこないだろうが」

 ほとんど打ち合わせも何もない。

 僕は右手の親指から噴出させた血を操って、巨大な網を作った。僕の魔法の中でも、相手の魔法を反転させる魔法が発動している、防御陣地だ。

 実際には巨大な面として使うんだけど、エタニアが言った通り、祟り神は網に近づこうとしない。

 彼ら自体が純粋な魔法のようなもので、どうやら反転されると自壊するようだ。

 そのまま網で押し込めそうなものだけど、そこは網だから不可能なんだろう。全体を面で包むとなると、こちらが失血死しかねない。

 というわけで、戦闘はエタニアと柳に任せるしかない。

 エタニアの右腕が三つに裂けたかと思うと、それが複雑な形状の弓のようなものに変わった。初めて見る魔法だ。

 彼の魔法は膨大で、とても僕は全部を把握していない。

 そのエタニアの左手にディアが集中する。その青い輝きが右腕の弓と触れると、複数の矢に変化する。

 ディアの矢が放たれ、それは祟り神を焼き払った。

 それでも、祟り神の大半は無傷だし、失われた部分を即座に他が補うので、焼け石に水だった。もっとも、エタニアもそれを織り込み済みのようだ。

 矢が作った空間を超高速で柳が駆けていく。人間離れした、というより、ほとんど飛行しているような走りだった。

 そして祟り神にたどり着くと、彼は腰から剣を抜いた。

 正しくは、抜いたときはナイフ程度だった。それが鞘から出た瞬間、剣のサイズまで大きくなった。

 魔法による武器だろう。エタニアの弓のようなものだ。

 僕は自分の血液を操作して、柳が祟り神に飲まれないようにする。エタニアもさらに矢を射かけて、柳を守っていた。

 そうして柳の剣が、祟り神の中に突き立てられる。

「こいつはまずいぞ」

 エタニアがそう言って、新しい矢をつがえる。

 実際、まずい事態は、僕にもはっきり見えた。

 柳の剣が突き刺さったはずが、祟り神には変化がなかった。それどころか柳の剣を這い上がり、そして周囲からも柳を押しつつみ。取り込もうとしている。僕の血液の網に触れると祟り神は消滅するが、すでに物量で押されて、意味をなしていない。

「柳さん!」

 僕が叫ぶ間にも、柳は飲み込まれつつある。

 エタニアが、動いた。

 いや、ほとんど、消えた。

 強烈なディアとフレアの波を感じた、と思った時には柳のすぐ横にエタニアは現れ、彼の右手の弓が一瞬で収納されたかと思うと、今度は左腕が裂けた。

 避けた部分から飛び出した柄を、エタニアが掴み、引き抜く。

 これも初めて見る武器だった。

 真っ白いもので作られた剣は、飾り気がない、十字架のような造形だった。

 そして金属ではないのか、光を反射しない。

 それをエタニアが一挙動で祟り神に突き刺した。

 光。

 炸裂した光に僕の視界は塗り替えられ、全てが真っ白になった。

 このまま治らないのではないか、と反射的に思った時には少しずつ視力が回復し、目の前の光景も滲み出すように、理解できた。

 ドラゴンは、消えている。祟り神は、消滅していた。

 滝壺の水さえもおおよそ消滅し、崖の上から落ちてくる水と、小川から逆流した水が、その滝壺へ流れ込んでいる。

 そのまだ浅い水の中に、エタニアが立っており、柳を抱えていた。

 彼らが河原へ上がってきて、僕は投げ出された柳の傍に屈み込んだ。

「柳さん! 柳さん!」

 かすかに柳が呻いた。生きている。怪我もしてないようだ。

 バッとエタニアを見上げると、彼はこちらも見ずに、滝の方を見ている。

 自然、僕もそこを見た。

 空中に歪みがある。像が歪んでいるのだ。見えない波紋のその周囲を例の黒い羽がが飛び回るが波紋が捻れ、一点に収束すると、そこに羽虫も全部、吸い込まれて、消えた。

 水が唸る音が、周囲に密やかに広がった。

「う……あ……」

 声と同時に、柳が上体を起こした。彼は僕とエタニアを見て、それから滝の方を見た。

 両手両足を河原についたまま彼はしばらくそこを見据え、視線を落としたかと思うと、小さな声で、やがて大きな声で泣き始めた。

 その慟哭は僕の胸を強く打った。

 彼はあのドラゴンのことを、本当に考え抜いていたんだろう。

 そしてその相手は結局、いなくなってしまった。

 僕はどうすることもできず、泣き叫び続ける柳を、ただ見ていた。

 その次の日の夕方には、僕たちは騎士団が手配したヘリコプターの中にいた。柳も一緒だ。ここから近くの騎士団の支部へ行き、報告会議に参加する。

 実は僕はだいぶ、気が重かった。いつも任務の後には報告書と会議が待っているけれど、今回は騎士団の人間だけではなく、同盟からも参加者がある。下手な報告をするわけにはいかない。

 というわけで、僕はヘリコプターに乗ってすぐに、報告書を書き始めた。

 柳はまだ落胆していて、肩を落としている。エタニアは、といえば、例のごとく、タブレットで何かを見ていた。

 なんか、僕だけが真面目なようで、すっきりしないな。

 それでも報告書を必死に書いて、一時間ほどで、おおよそは完成した。

「到着までどれくらい?」

 僕は客室、というか、貨物室の一角に作られた人が乗るスペースから離れて、壁際の電話機を取り上げて、声をかけた。すぐに操縦士から返事があり、三十分ほどらしい。

 まぁ、ちょっと休んでもいいかもしれない。

 僕はエタニアに断って、席を離れて、貨物室の隅に用意されたカチカチの寝台に向かった。まだ触れてもいないけど、こういう場所の寝台はカチカチと決まっている。

 実際、想像通りの硬さだったけど、仕方ない。

 横になって、イヤホンをつけて音楽を流す。

 すぐにウトウトし始めた。


     ◆


「お礼の言葉も、ありません」

 エタニアは柳の声に、顔を上げた。柳はエタニアをまっすぐに見ていた。

「仕事だ」

 そっけなく応じるが、柳は真剣だった。

「あの時の剣を、私は知っています」

 あの時、というのが、祟り神を消滅させた時だと、説明がなくともわかる。エタニアは黙っていた。

「あれは、「竜王の十二騎士」が持つ「白き剣」」

「知らないな」

 とぼけたようなエタニアの態度に、柳は追及をやめたようだった。

「あなたのことは、よく存じております」

 やれやれと首を振りつつ、エタニアはちらっと咲耶の様子を確認した。眠っているようだ。

 それでも、あまり探られたくない話、触れたくない話ではある。

「私は仕事をしたまでだ。あまりプレイベートには踏み込んでほしくないね」

 冗談混じりのエタニアの言葉に、柳が軽く顎を引く。

「今も、「千年王国」と名乗っているのですか?」

 いよいよエタニアは反応せず、手元のタブレットに視線を落とした。

 ちょうど、どこかの家で飼われているシベリアンハスキーが、おもちゃの人形をめちゃくちゃに破壊した場面だった。

 他愛ない、平和な世界だ。

 こういう魔法使いとか人外とか、そんなものとは無縁の世界に行きたいものだ。

 エタニアはそう思いつつ、柳の次の言葉を、やはり無視した。

「同盟は、いつでもあなたを受け入れるつもりです。ご自身の立場、力を、ぜひ、ご一考ください」

 貨物室に、ローターの回る音だけが響いた。


     ◆


 ヘリコプターは驚くほどスムーズに着陸したらしく、エタニアに起こされた時は、すでにローターの音もしなかった。

「う、ちょっと、寝すぎたかも」

 ぼんやりとした頭を振りつつ、僕はエタニアと一緒に外へ出た。

「あれ? 柳さんは?」

「あいつはもう帰ったよ」

「帰った?」思わず慌ててしまった。「会議はどうするの? 彼の発言も必要でしょ?」

「それは知らん。だが、帰ったのは事実だし、つまり会議はどうとでもなるんだろう」

 同盟もだいぶいい加減だなぁ。

 屋上からエレベータで目的の階へ向かう途中で、僕はエタニアに聞いてみることにした。

「祟り神をどうやって退治した?」

「魔法で」

 あれは簡単な魔法なんかじゃなかったけどなぁ。

 でも、エタニアの今の一言には、問い詰めるな、答えたくない、という意思がありありと浮かんでいる。

 それを無視する僕でもない。

「そのうち、教えてよ」

「どうかな」

 おっと、答えを間違えたか。今度の一言は、絶対に言わない、という感じだ。

「ごめん、聞かないでおく」

「なんで謝る?」

「謝りたいからだよ」

 どうやら僕の言葉、そこに含まれるものを正確に理解したようで、エタニアが小さく笑う。

「なら、そうしておこう。お前のそういう物分りがいいところは、私にとって好ましい」

「ふーん、そうか。気づかなかった」

 くすくすとエタニアが笑うので、僕も笑っていた。

 エレベータが止まり、ドアが開いた。

「会議の相手もそれくらい物分りが良ければいいんだがな」

 あまり不安にさせないでよ……。

 僕たちはエレベータを出て、会議室へ向かった。

 心のどこかで、柳の慟哭がまた蘇って、わずかな震えが起こった。

 僕はそれを反芻するように、そっと、思い返して、繰り返し意識した。

 それでどうなるわけでもないが、少なくとも、あのドラゴンへの手向けにはなるはずだ。

 慟哭はまだ、響いている。




(第5話 了)

 

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