第2-3 神の怒り

 ものすごい音に目が覚めた、と思ったら、部屋の真ん中で、エタニアが何かと格闘している!

「え? え?」

 その何かは、あっという間に溶けるように消えてしまい、しかし、エタニアは片手で何かを掴んでいる動きをしている。まるでパントマイムだが、芸人顔負けのリアルさだ。

「何? え? どうしたの?」

 僕は寝台から降りようとしたが、途端に、バランス感覚が曖昧になり、よろめく。

 これは寝起きだとか低血圧とか、そういうんじゃない。

 どうにか荷物を漁って、万能薬を取り出す。騎士団の医療部門が開発した薬の一種で、小さな瓶に入っている青い液体で、もしもの時しか飲みたくない色味だ。

 素早く中身を飲み干すと、思考がすっきりした。それにしても、不味い薬だ。

「バカめ、油断するからだ」

 エタニアがまだパントマイムを続けながら、こちらを睨んでくる。

「油断も何も、よくわからないんだけど」

「あのスープを飲むからだ」

「え!」

 スープを飲むからだ、という言葉は当然、スープに薬が盛られていた、ということだ。

「誰がそんなことを?」

「ちょっと手を貸せよ、咲耶。お前の魔法でこいつを固定しろ」

 僕はベルトに付けている小さなナイフを抜くと、指の先を小さく切った。かすかな痛みを無視して、魔法を発動。ディアが濃密に溶け込んだ僕の血が、フレアを引用し、その超常が発現する。

 僕の意識に操作された血液が体から引っ張り出され、エタニアの手元へ伸びる。

 そのエタニアも、両手から真っ赤なディアの光を発し、その炎が即座に青いフレアと混ざり合い、紫色へ変化する。

 その紫の光の波が、虚空から真っ白い巨大な狼を出現させた。

 犬神だった。

 僕はその犬神の周囲に自分の血を展開し、格子でできた球体を構築する。格子は即座に溶けて、ぴったりと完全な球体へ変わり、犬神は見えなくなる。

 血が苦手な人が見たら失神するような光景だが、血液の球体は、完全に犬神を拘束している。

「どうして犬神が僕たちを襲う?」

 立ち上がったエタニアが服装を整え、立ち上がった。

「これから、話を聞きに行こう。血液を切断されるなよ」

 僕はエタニアに従って、部屋を出て、教会の中を進んでいく。教会の中なんて、僕たちはほとんど確認していないはずなのに、エタニアには迷う素振りはない。つまり、何かの痕跡を追っているんだ。

「そもそも、犬神が無意味に人を襲う理由がない」

 歩きながら、エタニアが話し始める。

「この村の犬神は、善的なものだと私は見た。村人が猟を行うのを助け、また村人も犬神を畏敬の念で接していた。あの洞窟の供物がそれを証明している。それなのに、なぜか犬神が村人を襲う事態になった。矛盾している」

「その矛盾を解消するのが?」

「解消する理由は、つまり、犬神を何者かが操っている」

 エタニアが一つの扉の前で立ち止まった。そしてそっとドアを開ける。

「まさか、という顔でもないな」

 踏み込んだエタニアの言葉に、部屋の主は微かに笑ったようだった。

「お前たちにはどうにもできんよ」

 そういった男、ラータ神父は椅子から立ち上がりもしなかった。

「騎士団の魔法使いとはいえ、な」

「どうだろうな、神父さん。犬神は村人と共存している。それが村人を襲うほど手なづけるのは、無理というものさ」

 こちらも落ち着いた様子で、エタニアが言う。神父はまだ微かに笑っていた。

「邪教を信奉するからさ」

 酷薄そのものの神父の声には冷ややかなものがあったが、僕はこの程度の殺気、もしくは冷酷には慣れているし、エタニアも動じない。

「我らが神だけを信じればいいものを、人外などを信じるのがいけない。人外を信じることほど、愚かしいこともあるまい。そうではないかね、魔法使い諸君」

「どうだろうな、それは」

 エタニアはそう言って、わずかに身を引いた。

 見えない何かがエタニアの目の前を走り抜け、そのエタニアが僕を突き飛ばしたので、いきなりの衝撃に僕は二、三歩動いて、バランスを取った。

 取ったけど、部屋からここまで細く細く伸ばしていた血液の糸が、何かに切り離されていた。

「犬神が!」

 僕の魔法による拘束から、犬神が純類なフレアに変質して抜け出すのが、離れた部屋ながら感じ取れた。

 そして目の前のラータ神父のすぐ横に、もう一体の、たった今、血液を切断した犬神が滲み出るように現れた。

「血液を回収しろ、咲耶」

 事態はこちらに不利なはずなのに、エタニアは落ち着いたものだ。

 だから、僕も落ち着くことができた。彼は慌てることは少ないし、難しい場面では余計に冷静に見える。そんな彼が味方なのだ、落ち着かないわけがない。

 貧血になりかけていたこともあって、素早く血液を回収する。とんでもないホラー映像だけど、見る人がいないのが残念だな。

 すべての血液が僕の体に戻る数秒の間に、ラータ神父の傍に二体目の犬神が現れる。僕の拘束を脱した方だろう。神父が犬神を確認するように見て、こちらに視線を戻す。

「では、お二人には退場願おうか。この村は滅ぼさねばならぬからな」

「本気で言っているの?」

 僕の言葉に、ラータ神父は心外だと言わんばかりに、大げさに目を見開いた。

「邪教徒を殲滅するのも、神の役目、ひいては私の役目だ」

 僕が答えるより先に、エタニアが小さく笑ったので、僕もラータ神父も、彼を見上げた。

 エタニアの目が、赤く輝いた。

「人間の宗教など、人外には到底、理解できないだろう。それはそこな犬神も同じよ」

 空気がガラリと変わっていた。

 冷える、などという生易しいものではない。全てが凍りついた、石になったような、強烈な圧迫感が放出されている。

 ただの人間とは思えない、強烈な気配は、エタニアから放出されていた。

 これにはさすがのラータ神父も、冷や汗を滲ませている。もう、何も言えないだろう。

「人外を支配することなど、できぬよ。人間が本質的に人間を支配できぬように」

 スゥッとエタニアが手を掲げ、指をパチンと鳴らした。

 鳴らしたはずが、轟くと言ってもいいような揺れが、僕を襲った。思わず目を細めたし、ラータ神父に至っては、目を閉じていた。

 そして部屋に、獣の唸り声が起こった。

 何が起こったのかわからぬまま、ラータ神父の体がズタズタにされ、もう物言わぬ存在になり、それでも怒りが収まらない犬神によって引きちぎられた。人体だったものを蹂躙する爪と牙は、完璧な仕事をした。

「これが正当な代償というものさ」

 そう呟いたエタニアからは、もうプレッシャーは消えている。

 犬神たちは自分を支配していた老人を殺戮し尽くすと、こちらに歩み寄り、小さく唸った。

 と、人間の言葉がその口から漏れた。

「我らを救うてくれたこと、感謝する」

「気にしないでいい。仕事だ」

 犬神は小さく唸り、わずかに目を細めた。

「お主が、「千年王国」か? 違うか?」

「どうだろうね」

 千年王国。

 僕はそのワードを何度も聞いている。人外の中の一部が、エタニアをそう呼ぶ。

 それをはぐらかしているエタニアは、まだ僕にも真実を教えてくれない。

 誰にでも秘密の一つや二つはあるから、深追いする気もない。今の関係でも充分というか、濃密すぎるほどだ。もし話す気があれば、いつか教えてくれるはずだしね。

 犬神は問い詰めるのをやめたようで、かすかに頭を下げた。

「いずれ、礼をする。さらば」

 犬神たちはその言葉を最後に、すっと消えてしまった。

 部屋に残された僕たちは、どうにか事態が解決したことに安堵したけど、すぐに気づいた。

 部屋の片隅で、めちゃくちゃになった神父が転がっている。血飛沫どこか肉片が、そこらじゅうにこびりついていた。

「どうするの? これ」

「さあな」

 嫌な予感が突然、やってきて、今までチェックしていなかった携帯電話を確認すると、圏外だった。かといって、村人にこの惨状を晒すわけにもいかないから、村人に電話の場所は聞けない。

 結局、エタニアが通信魔法を使って、騎士団の極東支部に連絡を取った。

 夜明け前に小型のヘリコプターが二機、やってきて、この騒音が村人を目覚めさせた。彼らが状況を知る前に、ヘリコプターから降り立った騎士団員が現場を確保したのだった。

 僕とエタニアはヘリコプターの一機で極東支部へ移動し、あっという間に会議室に立つことになった。さすがにこの会議には支部長も参加して、想像していたよりも若いが、どこか疲れた風貌をしていた。

 それでもこの一件で、彼は脇道からメインストリートへ戻れるかもしれないが、そこは僕が知る範囲ではない。

 報告が終わり、広瀬のオフィスに移動した。ちょっとというか、だいぶ疲れた。例の万能薬の反動かもしれない。日本支部に戻ったら、医療部門の検査を受けなくちゃな。連中の薬を使った後には、絶対に検査を受けるように義務付けられている。厄介なことだ。

「さすがはエタニア、といったところだね」

 肘掛椅子に落ち着いた広瀬が、穏やかな調子でいう。

「しっかりと真相を見抜くんだ、期待通りだった」

「私がどうこうというより、こいつがマヌケなんだ」

 ちらっとエタニアがこちらを見て、ニヤニヤしている。広瀬も苦笑いしていて、僕だけが不機嫌面をすることになった。

「仕方ないだろ、僕はこれでもまともな人間だ」

「普通の人間はあれだけの出血には耐えられない」

 くそ、言い返す言葉がない。

「まあまあ、仲が良くて、羨ましいよ」

 何が羨ましいのか、意味不明だ。エタニアの雰囲気も僕と似たり寄ったりだった。

「何か食べて帰るかい? っていうか、いつ帰るんだ?」

「まだ本部からの指令がないから、それまでは、うん、たぶん一日はここで足止めだね」

 僕がそういうと、嬉しそうに広瀬が笑みを見せ、立ち上がった。

「じゃあ、ちょっとはロシア料理を食べに行こう」

「それは嬉しいな」思わず意気込んでしまった。「毒入りのスープとパンを食べてから、何も食べていない」

 よし、一緒に行こう、と広瀬が部屋を出て行こうとする。僕はそれに従ったし、エタニアも追ってくる。彼の秘書だけが、慌てていた。

「ちょっとそこまで行くだけだよ、すぐ帰る」

 そんなことを言っているので、僕には不思議だった。

 すぐ帰る?

 三人で外へ出ると、広瀬は僕たちを街の中心部へ導いていく。ロシア料理か、どんなものが出るんだろう。ボルシチかな。家庭的すぎる気もするけど、他に知っている料理はほとんどない。

 あぁ、楽しみだ。胃がもう準備万端だぞ。

「ここだ、美味いぞ」

 広瀬が立ち止まった場所を見て、僕は思わず口を開けてしまった。

 そこはメインストリートの、路上に駐車しているキッチンカーの前だった。数人が並んでいる。

 キリル文字で何か書いてあるけど、語学が拙すぎるせいか、あるいはフォントが独特すぎるせいか、さっぱり読めない。

 でも、前にいる客が金を払って受け取っているものを見れば、何を売っているかはわかる。

 すぐに僕たちの番になり、流暢なロシア語で広瀬が注文する。店員は笑顔で手を動かしつつ、広瀬と雑談を始めた。何が面白いか分からないが、楽しそうだ。楽しそうだけど、僕は彼の手元を睨んでいた。

 すでにこの後の展開ははっきりしているけど、嘘だと思いたかった。

 そして受け取ったものを広瀬が一つずつ、僕とエタニアに手渡した。

「これが絶品なんだ、さあ、温かいうちに食べなよ」

 僕は受け取ったものを、じっと見つめた。

 確かにロシア料理だ。

 名前は、ピロシキ。

 味は確かに絶品だった。だったけど、何か違う。うーん、違和感というか、すっきりしない。

 食べ終わった帰り道で、エタニアがこっそり呟いた。

「変な期待はするなよ、咲耶。日本のロシア料理屋へ行った方が、早いぞ」

 僕は現地で食べたいんだよ。エタニアは澄ました顔をしている。こいつは食事に関して、ほとんど主義がないのは知っている。ある意味、幸福な奴だなぁ。

 それにしても、なんか、変なものばかり食べさせられた数日だったな。

 いやいや、ピロシキは、美味かった。

 でも、なぁ……。

 何か違うんじゃないか? 本当に。




(第2話 了)

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