ドラマのない水槽の前で

堀元 見

ドラマのない水槽の前で

僕らはどこにでも行けるのに、水槽の魚よりもよほど不自由そうにしている。


水族館は不思議だ。水槽に囚われた魚たちは自由に動き回っているのに、囚われていない人間は薄暗い中を慎重に歩いている。魚は広い水槽を泳ぎ回るのに、人間は狭い通路を歩くことしかできない。

まるで、魚の方が人間よりも上の立場みたいだ。

水槽の魚を見ることもなく、僕は水族館の通路をひたすら進んだ。目的地は、大きな水槽の前の灰色の二人がけベンチ。僕の特等席だ。学校に行かなくなってからの一ヶ月間、ほとんど全ての平日の昼間、僕はこのベンチを独占してきた。

見飽きた顔の受付に年間パスポートを提示して、まばらな客をすり抜けて、くすんだ灰色のベンチに座って、青い水槽を眺める。

有り余る時間を、ひたすら巨大な水槽に溶かした。いつまで続くのか分からない、茫漠とした人生を持て余した者の時間潰し。


たった一人、溢れ出る孤独に押しつぶされながら、時間を浪費するのが好きだった。僕が求めている孤独。指先をチクリと刺されるような寂しさが、このベンチにはあった。

通路から一段降りたところにある灰色のベンチは、他の客の喧騒からは切り離されている。僕がベンチに座っている間、通路を歩く客の足音や話し声は全て、別世界のものに変わる。ザワザワとした水族館の中で、灰色のベンチと青い水槽だけがこの世界に置いてけぼりにされる。そんな寂しさが、たまらなくよかった。


──なんだ、今日は侵略者がいるな。

灰色のベンチが見えてくると同時に、そう思った。若い女性が一人、先に座っていたのだ。

ベンチの隣に他人が座っているのは好ましくない。切り離された僕の世界に、その人はベンチごとついてきてしまう。僕の望む寂しい世界が実現しなくなってしまうから。

僕は心の中で、隣に座る人間のことを「侵略者」と呼ぶようになっていた。ベンチは僕のものでもなんでもないから、ずいぶん厚かましい話だけど。


「侵略者」がいるのは、別に珍しいことではなかった。いくら平日の昼間だからって、水族館にはいつもある程度の客がいる。このベンチに座ることだってある。

だけどそういう時は、隣に座ってしばらく待つことにしていた。水族館のベンチに30分も40分も腰掛ける人はいないから、しばらくすれば侵略者は去っていく。

そしてひとたび一人になってしまえば、混雑しているワケでもない水族館でわざわざ僕が座っているベンチの隣に座りに来る人はいない。見事僕はベンチを独占できるという寸法だ。

今日もすぐに一人になれるだろうと思い、僕は本日の侵略者たる女性の隣に腰掛けた。


***


彼女は、立ち去らなかった。

僕が隣に座ってから一時間経っても、二時間経ってもいなくならない。ずっとベンチに座って、ひたすら青い水槽を眺め続けていた。

彼女の横顔を見る。ピクリとも動かずに水槽を眺め続けている。まるで人形のようだ。人間らしい生気は感じられない。ただでさえ白い肌が水槽の青い光を受けて、ゾッとするほど青白い。


失恋でもしたのだろうか。

なんとなく、そう思った。若い女が平日の昼から二時間以上も水族館のベンチで動かないのは、普通のこととは言いがたい。

何か人に話しづらいショックなできごとでもあって、それを消化するためにここに来ているのだろうか。だとしたら、なぜ公園やゲームセンターではなく水族館なのか。彼女はこの水槽に、何を求めているのか。水槽に注がれる目線は、魚を見ているのか、自分を見ているのか。


腕時計が17時を指した。もう帰る時間だ。

水族館の閉園まではまだ時間があるが、僕は日課として17時には出ていくことにしていた。そのルール設定に明確な理由はないが、しいて言えば17時を過ぎると混んでくるような気がしたからだろう。

結局今日は一人になれなかったな、と思いながら、水族館を後にする。

外に出た瞬間の風が気持ちいい。初夏の夕方の風を感じながら、家までの10分ほどの道のりを歩く。

水族館からの帰路はいつも、水槽の前で感じた孤独を反芻しながら歩くことにしていた。

だけど、今日は一人になれなかったから、反芻するべき孤独が少なかった。代わりに、侵略者の青白い横顔について考えた。

かなり若かった。制服は着ていなかったが、彼女はおそらく高校生だろう。どうしてずっと水族館にいたんだろう。学校はサボったのか休みなのか。なにか嫌なことがあったのか、そうでないのか。嫌なことがあったとしたら、それは何なのか。

時間が有り余っている僕は、よくこんなことを考える。二度と会うこともないだろう人についての、永久に答え合わせできない推測。思考の浪費。つくづく、僕の人生は浪費に満ちている。

砂混じりの乾燥した風を浴びながらひたすら歩いた。どこかからトランペットの音が聞こえた。



***


「ちょっとずつリハビリしていきましょう。後遺症は残る可能性が高いですが、ある程度は動くようになると思います」

医者から悲しい宣告が与えられたときのことを、今でもはっきり覚えている。

一ヶ月間のリハビリを行って、実際に右腕はある程度動くようになった。だけど、本当に”ある程度”だ。利き手で箸を使うことすら満足にできなくなってしまって、僕は自分が欠陥品になったような気がしていた。


何もやる気がしない。怖くて学校に行けない。

事件の被害者になってしまった僕を気遣って、両親は「学校にはムリして行かなくてもいいよ」と優しく言った。

この優しさは嬉しくもあり、苦しくもあった。僕はこの膨大な時間を、何に使えばいいのか。僕のまともに動かない腕は、何も生み出せやしないのに。


暇つぶしできそうな場所をウロウロとさまよった結果、僕がたどり着いたのがあの水族館の灰色のベンチだった。

金がかからず時間が潰せて、しかも静かで薄暗く、一人になれる。魚を見ながら、孤独をじっくり噛みしめることができる。

僕が孤独を求める理由はよく分からなかった。自分を罰するつもりなのか、あるいは逆に報酬を与えるつもりなのか。きっとその両方なのだろう。


自分がこれからどうやって生きていくのか、まるで分からない。

繰り返される自分への賞罰が終わる日が来るのだろうか。何も分からないまま、ベッドで目を閉じる。明日もまた、どうしようもない時間の浪費が始まる。


***


ウソだろ。

翌日。巨大な水槽の前のちっぽけなベンチ。自分の特等席を見ながら、僕は愕然とした。

昨日と同じ侵略者が、またも僕の特等席を侵略している。

何もかもが昨日と同じ光景。一瞬、夢を見ているのかと思った。彼女は昨日と同じ服装で、同じように青白い顔で水槽を眺めているのだから。


僕はしばらく遠巻きに彼女の様子を観察した後、気持ちを立て直して彼女の隣に座った。昨日と全く同じ行動だ。

しばらく水槽を眺めながら彼女の様子を見てみたが、やはり彼女が移動する気配はない。青白い横顔は、ひたすらに水槽の方を向いていた。視線は移動していなかったから、魚を見ているようには思えなかったけれど。


他のベンチに移動しようかという考えも頭をよぎったけれど、やめておいた。

こうなったら意地だ。僕には無限の時間があり、それをドブに捨てることができる。今日も一時間でも二時間でも粘ってみよう。

さとられないようにしながら、顔を少しだけ彼女の方に向けた。横目で彼女の様子をよく観察してみる。

シンプルな黒のスニーカーに、カーキ色のゆったりしたカーゴパンツ。黒い半袖シャツに、これまた黒いキャップ。床に置いてあるリュックはネイビーのおとなしいデザインのもの。肩までの髪は後ろで束ねてあり、ポニーテールがキャップのしっぽみたいに見えた。女子高生のお出かけとしては、驚異的に地味なファッションだろう。

水族館の人工的な光に照らされた彼女の肌は青白く、恐怖すら感じさせた。子どもの頃にひな人形の顔をマジマジと見て怖くなったときみたいな、理由のわからない恐怖。

化粧っ気の少ない顔だ。青白い肌は一見すると人形のようなのに、まばたきをする度に動くまつ毛が、呼吸をする度に動く肩が、日焼け止めの匂いが、どうしようもなく生々しかった。


結局、彼女は今日も立ち去ることはなかった。ほとんど身じろぎもしないで何時間も水槽を見つめ続けていた。

僕は今日もまた孤独を味わうのを失敗したワケだけど、昨日のような驚きはない。それよりも、頑なに隣に座り続ける侵略者への興味が生まれてきていた。

彼女はなぜ、こんな時間の浪費をしているのだろう。学校には行っていないのだろうか?


彼女が何時に帰るのか見届けたい気持はあるものの、僕は自分ルールを守ることを優先する。帰ることにした。立ち上がり、リュックを背負って歩き出した。

水族館のドアはきしみながら開いた。夕日に照らされたアスファルトは赤く乾いている。僕は埃っぽい足音を響かせながら、青く照らされた彼女の白い肌を思い出していた。



***


ナイフが右腕に刺さった。

最初は刃物の冷たさが鮮やかで、後から灼熱の血液が溢れ出してくる。


イジメというものは、エスカレートせざるを得ない。最初はちょっと無視したり小突いたり、といった程度だったものが、時間とともに少しずつ凶悪なものになっていった。シャーペンで手の甲を刺したり、ライターで髪の毛を焼いたり……最終的にいじめっ子グループが刃物を持ち出すところまで到達するのにかかった時間は、ちょうど一年だった。


自分に向けられているナイフの刃は、鈍い光を放っていた。いつもの教室の机、薄汚れた床と壁紙。あまりにも日常的な背景の中に、突如現れてしまった異物。

自分に向けられているナイフの光を見た時、あまりにも現実感が少なくて、僕は変な笑顔を浮かべてしまった。

さすがに本気であるはずはないと思った。だけど彼の目を見た時、ただの冗談などではないことを感じた。

その瞬間、現実感がなかった他人事のドラマは突然自分のものになり、恐怖が爆発する。パニックになり、ナイフを握る彼の腕を押さえつけようと突進した。

その判断は悪手だった。僕の突進に驚いた彼はとっさにナイフを前方に突き出してしまい、僕は大ケガをすることになってしまった。彼が後に語った「ちょっと怪我をさせるだけのつもりだった」はおそらく本当だろう。僕は自分のパニックによって、避けられたはずの後遺症を一生背負い込むことになってしまった。


「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」とはチャップリンの言葉だ。今回の事件はまさにそんな感じだな、と思う。日中の学校で起こった刺傷事件、阿鼻叫喚の教室は悲劇そのものだ。

だけど振り返ってみれば、僕は必要のないパニックを起こして彼に飛びかかり、一生消えない傷を負った。こんなに滑稽なことがあるだろうか。


きっとチャップリンは「悲しいことがあっても最後にはハッピーエンドがある」みたいな意味で、例の言葉を言ったのだろうと思う。

だけど僕はこの言葉を聞く度に「悲劇」と「喜劇」という単語のニュアンスが気になってしまう。一見悲劇に見えることでも、俯瞰すれば人間の滑稽さばかりが目につくぞ、という意味に思えてしまう。

そうだとすれば、僕たちは終わらない演技を続ける喜劇役者だ。明日も悲劇のヒロインを気取りながら、自分の滑稽さを観客に見せ続ける。



***


何一つ変わらない空間。無機質な蛍光灯で照らされた白いロビー。申し訳程度の「魚とのふれあいコーナー」が設置されていて、手をつっこめる水槽と、手洗い場がある。

つまらなさそうに入場券をちぎる受付係に年間パスポートを提示して、入り口を通過した。色とりどりの熱帯魚や、小さな甲殻類には目もくれず、目的地へまっすぐ歩く。

大水槽は、今日も青い青い光を放ちながら、通路の暗さを際立たせていた。灰色のベンチには、やはり彼女が座っている。

今日はもう驚きはない。なんとなく、今日もいるんだろうなという感覚だけがあった。

彼女の隣に腰掛ける。もう慣れたものだ。僕がベンチに向かっていく間に、彼女は一瞬だけ視線を僕の方に流した。僕のことを認識しているらしい。

そりゃそうだ。三日連続で隣に座ってきて、何時間も離れないおかしなヤツがいたら忘れないだろう。ストーカーみたいだ。

だけど、僕は断じてストーカーではない。僕は一ヶ月前から同じ生活を続けているだけで、変わらない生活に割り込んできたのはむしろ彼女の方なのだ。僕は侵略者たる彼女に遠慮して生活を変えることなどしない。


一瞬だけ僕の顔に視線を寄せた彼女は、すぐに視線を水槽に戻した。僕も同様に、なるべく無駄に彼女の顔を見ないようにしながらベンチに座った。

今日も始まる、不毛な根比べの時間。彼女は帰らないんだろうなと薄々思いながら、それでも僕は我慢レースを続ける。

静かな水族館の中で、空調のうなる低い音だけが聞こえ続けていた。


***


少女の無垢な声。優しくそれを諌める両親の声。彼らの姿は見えないが、幸せそうな様子が目に浮かんでくる。

幸せそうな声が聞こえる水族館の中で、僕と彼女が座る灰色のベンチだけが明らかに異質だった。一言も喋らず、幸せそうでもなく、ただ溢れ出る孤独を持て余しながらベンチに張り付いている。他の客が悠然と泳ぐイルカなら、僕たちはフジツボだった。

今日も17時になった。もちろん、彼女は帰っていない。

帰ろう、と思い彼女の横顔を伺うと、目を閉じて首が少し前傾していた。寝ているらしい。

まぶたはしっかりと閉じられて、スースーという寝息とともに肩が規則的に上下している。


起こさないように静かに立ち上がり、リュックを背負った。今日も彼女は帰らなかったな。3日連続だ、そう思いながらベンチを振り返る。

そこで、彼女の足元にスマートフォンが落ちていることに気づいた。おそらく、眠ってしまって姿勢が崩れてくるうちにズボンのポケットからこぼれ落ちたのだろう。

どうしようかな、と考える。

──教えてあげた方がいいか、無視して帰った方がいいか。


人生とは、決断の連続だ。

人間は1日に9000回以上「決める」という行動を行うらしい。毎分毎秒が、マークシートのテストを受けているようなものだ。

どうにか導き出した解答らしきものを塗りつぶし、答え合わせもされないまま次の問題に取りかかる。この理不尽なセンター試験会場から、僕たちは永遠に出られない。


しばらくの逡巡の末、僕は彼女に声をかけることにした。スマートフォンを落としたままにするのは防犯上よろしくないだろうし、近くを通る人が誤って踏み潰さないとも限らないからだ。断じて、彼女に話しかけるチャンスだと思ったワケではない。いやもう、断じてそういうことではないのである。


「あの、ケイタイ、落としてますよ」

と、声をかけてみた。起きない。スースーと規則的に上下する肩のリズムに変化は見られない。

しかたないので、彼女の足元にあるスマートフォンを拾い上げた。そのスマートフォンで彼女の肩に軽く2回触れる。

「これ、あなたのですよね?落としてますよ」

彼女の身体がビクッと大きく動き、一気に目が開いた。目線が僕の顔と手元のスマートフォンを行き来する。状況を飲み込むための0.2秒。

「あ、ありがとうございます!」

彼女はやや慌てて手を伸ばす。細くて長い腕が僕の手元に伸びてきた。僕の手が持っている方ではないスマートフォンの端を慎重に掴んだ。手が触れ合わないように、という動き。

僕の手から落とし物を回収した彼女は、今度は落とさないように丁寧にポケットにしまった。そして、僕の顔を見る。


はじめて、しっかり目が合った。

眠たそうな横長の目、化粧っ気のない青白い肌、目の下の黒くて大きなくま。後ろで束ねただけの簡素な髪。そして、自信がなさそうな瞳。

その全てが、彼女はいわゆる女子高生らしい楽しい生活を送れていないのだと表現していた。「世界は自分を中心に回っている」と言わんばかりの、大笑いしながら街を歩いている女子高生と彼女とは、まったく違う生物だ。


「あの…ありがとうございました」

彼女は重ねて礼を言った。感謝の念が強いというよりも、無言で目が合う謎の時間を持て余してのことだろう。僕に立ち去るきっかけをくれているのだ。

僕はここでまた、決断を求められる。このまま黙って立ち去るか、彼女に話しかけてみるか。

僕は彼女のことを何も知らないが、話しかける言葉の候補には事欠かない。「毎日会いますね」「水族館、好きなんですか?」「学校には行ってないんですか?僕は行ってないんですけど」そんな話しかける言葉のバリエーションが頭の中を巡って消えていく。

最終的に、僕は無難な選択肢を選んだ。無言で立ち去ることにした。彼女にも色々事情があるだろうし、他人に踏み込まれたくないことだってあるだろう。大体、僕だって誰にも踏み込まれない孤独な世界を求めてここに来ていたはずだ。他人の世界に踏み込んでどうするんだ。


軽く会釈をして、灰色のベンチに背を向けて歩く。

振り返らない。彼女の様子は見えない。でも背中越しに、彼女の視線を感じた。



***


朝起きた瞬間の絶望的な気持ちは、どこから来るんだろう。

本当は、二度と起きないことを希求しているのかもしれない。ずっと夢の中にいたいのに、また朝が来る。その残酷さを感じて、絶望的な気持ちが湧いてくるのかもしれない。

そうだとすれば、眠りに入るのは緩やかな自殺だ。二度と起きないことを望み、安らかな夢を望みながら意識を喪失していく。劇薬を多量に摂取して死にゆく人間と、何が違うというのか。


ベッドから足を降ろした。来てしまった朝を受け入れながら、今日もまた終わらない時間潰しを始めるしかない。

カレンダーを確認した。今日は土曜日だ。水族館には行かない。

僕が水族館にいるのは、平日の14時から17時の3時間。

土日と、休館日である月曜日には行かないから、水族館に行くのは一週間のうち4日間だけ。

学校という行き場を失った僕は、水族館通いによってかろうじて曜日感覚を保っていた。

水族館に行かない日は、本を読んだり、公園を散歩したりしながら過ごした。

僕は糸の切れたタコだ。風に煽られ、その日の気分しだいでどこまででも飛ばされていってしまうし、逆に全く飛ばないこともある。

今日はどこにも行けない日だ。こんな日は、自分の中にある穏やかな希死念慮を飼いならすために、色々なことを考える。雑多な考え事で頭を満たす。この土日、僕の六畳の自室は取り留めのない考え事でいっぱいになった。



火曜日、3日ぶりの水族館。つまらなさそうな顔の受付係に年間パスポートを見せて入り口を通過する。順路をショートカットしながら、定位置に向かった。

灰色のベンチが見えるのと同時に、彼女の黒いキャップも見えた。彼女の後ろ姿は、黒いキャップと後ろで束ねた黒い髪が合体して、一つの生き物みたいに見える。

ベンチに座るぞ、という段階になって一つの疑問が頭の中に浮かんできた。黙って隣に座っていいのだろうか。

一言とはいえ、こないだ会話を交わした以上、もはや僕と彼女は完全な他人ではなくなってしまった。

だとすれば、黙って隣に座るのは変じゃないだろうか。「こんにちは」くらいは言ったほうがいいのではないか?

しかし、それも憚られる。今までは、ずっと無言でベンチに座り続けるのが僕たちの不文律だった。沈黙だけが僕たちの共通言語だった。そこに不用意な「こんにちは」を放り込んでしまったら、僕らの関係は変わるのではないか?僕と彼女はあくまで”他人”として勝手にあのベンチで水槽を見ていただけだ。挨拶でもしようものなら、居心地のいい沈黙と孤独は破壊されるのでは?それは野暮なのではないか?

またも突きつけられたマークシート。少し考えた後で、僕は無言で彼女の隣に座ることにした。僕らは無言でいい。何も言わずにこの灰色のベンチを共有するだけの関係。お互いの孤独はそれぞれ胸に抱えておけばいい。混ぜ合わせて、薄める必要はない。


黙ってベンチに近づく。あと数歩でベンチにたどり着くという距離になって、彼女は僕の姿を見つけた。

「こんにちは。こないだはありがとうございました」

僕の配慮も虚しく、彼女はそう言って少し微笑んだ。僕と彼女の無言の関係は、あっさり破壊された。



***



「こんにちは」

「こんにちは」


微笑む彼女に、今日もあっさりと返答する。少し沈黙があって、僕は口を開いた。

「今日はどうですか。調子は」

「うーん、雨模様でちょっと頭が痛いかな」

「でも、ちょっと気持ちが沈んでるくらいの方が水族館に足が向く、みたいなところありません?」

「分かる。ブルーな気持ちはこの青い水槽にピッタリだよね。ブルーだけに」

「全然うまくないですよ」


顔を合わせ続ける内に、彼女と僕の間には、自然に4つのルールが形成されていた。1つ目のルールは、「こんにちは」と一緒に、他愛のない会話をすること。天気の話とか体調の話とか、本当に他愛のない話題。

大抵はどうでもいいことを僕が質問し、彼女がどうでもいい答えを返し、どちらかがボケてどちらかがツッコんで、それで会話は完結した。


2つ目のルールは、他愛のない会話が終わったらあとは喋らないこと。

会話をするようになってからも変わらず、僕たちはほとんどの時間を無言で水槽を見つめるために使った。きっと、僕も彼女も孤独を味わうためにここに来ていて、相手の孤独を踏み荒らすのが憚られるからなのだろう。最初の会話が終わってからは、ひたすらお互いに無言を貫いた。


3つ目のルールは、お互いの名前を聞かないこと。

僕は、彼女の名前を聞かなかった。この緩慢で無責任な会話が、少しでも責任を伴うものになるのを避けたかった。彼女も僕の名前を聞かなかったから、きっと同じことを思っているのだろう。

僕には、この関係が心地よかった。人や学校が怖くなってしまった僕にとって、彼女とのこの特殊な距離感はすごく落ち着く。

名前さえ分からない彼女との、目的のない緩慢な会話。傷つけることも、傷つくこともない。

これに比べたら、学校生活での会話はむき出しの刃物だった。多感な思春期の少年が詰め込まれた狭い水槽で、誰もが肥大する自意識から言葉を紡ぐ。鋭利な言葉は、毎日大量の怪我人を出していた。


名前を聞かない以上、この灰色のベンチだけが、僕と彼女を繋ぐ絆だ。もし明日突然この場所がなくなったら、彼女を探し出す方法は永久に失われるだろう。でも、それでいい。

僕たちは他人であり続ける方がいい。他者との関係を築くのが怖くなってしまった僕は、彼女の名前を知ってしまったらこんなに気楽に話せない気がする。


時計の短針が5を指した。時間だ。僕は足元に下ろしていたリュックに手をかける。

「時間なので、帰ります」

「そう、じゃあまたね」

「あの、なんであなたは水族館を選んだんですか?つまりその…時間を潰せる場所なんていっぱいあるじゃないですか」

「うーん……なんでだろうな。青くて深いからじゃない?」

「青くて深い?」

「私は青いところが好きなの。青い光を浴びていると、ゾッとするほど寂しくなる時があって、それが好き」

「深い、については?」

「深いところも好き。深いっていうのは物理的な意味だけじゃなくて、周りからの隔絶度みたいなイメージかな。深い海も好きだし、長いトンネルのちょうど真ん中も好き。学校で言うなら、理科準備室が好き」

「分かるような、分からないような。この水族館で言うなら、このベンチが一番深いですか?」

「そう。分かってるじゃない。このベンチはいいよ。通路から階段を隔てて、ずいぶん深い場所にある」

「なんで深いところが好きなんですか?」

「それもやっぱり、寂しくなれるからかな。周りから切り離されて”もう戻れないんじゃないか”ってくらいの気持ちになる瞬間が好きなの。鯨が水面で呼吸をして、一気に深くまで潜っていくのって、きっと気持ちいいと思う。私は生まれ変わったら鯨になりたい」


4つ目のルールは、帰りがけに1つだけ質問をすること。

彼女との今の距離感は捨てがたいけれど、彼女の素性もちょっとは気になる。そんな僕が妥協点として探り出したのがこのルールだった。

踏み込みすぎない、だけど少しだけ彼女の素性が分かるような、そんな質問を毎回繰り返した。亀の歩みではあるけれど、徐々に彼女の人物像が分かっていく。

気の遠くなるような作業だけど、これが面白かった。僕は別に彼女と親しくなりたいワケじゃない。むしろ限られた情報を少しずつ受け取って想像を膨らませる方が、よほど面白い遊びだった。


「君はどうなの?」

彼女は、僕の質問にいつもそう聞き返した。

「僕も似てますよ。孤独を一番味わえる場所を探していたら、ここにたどり着いたんです」

「なぜ、孤独を求めるの?」

「分かりません。自傷行為なのかもしれないし、喜びなのかもしれない」

「変わってるね」

「あなたこそ」


そこで会話が一段落した。僕はベンチから立ち上がり、リュックを背負って歩き始める。

「またね」

そういう彼女に小さく会釈をして、ベンチを後にした。


***


よく晴れた夏の午後は、いつも陰惨だ。

強すぎる日差しを受けて植物は不気味な緑に見える。セミの鳴く声もトラックのエンジン音も灼熱の坩堝でごちゃ混ぜになって、輪郭は溶けてなくなった。


風の吹かない舗装路を歩きながら、今日彼女にする質問を考えていた。

初めて彼女と会話してから一ヶ月が経つ。質問を繰り返す内に徐々に彼女の性格は分かってきた。

内向的で、人と喋ると疲れてしまう。当然のように、学校という狭い世界でのコミュニケーションに難がある。趣味は読書と料理。使いもしない知識を収集するのが好きで、今はアフガニスタンの国技についてひたすら調べるのにハマっている。

変人、という言葉が頭をよぎる。彼女の学校での姿は知る由もないが、周りから変人扱いされて浮いている様子はありありと想像できる。


「ねえ知ってる?カルボナーラって”炭焼き風”って意味らしいよ」

挨拶を終えて脈絡なくそう言われた時、やはり変人だよな、と思った。

「知らなかったです。炭焼きから一番遠い料理な感じしますけどね」

「カルボナーラを作る度に、炭焼き要素のカケラもなくて腹立つよ」

「なんでそんな名前になったんですか?」

「諸説あるけど、上にかける黒胡椒が炭に見えるからという説が有力らしい」

「炭がかかってると思うと、食欲がなくなりますね」

「名前考えた人、絶対バカだよね。食べ物を炭に例えたらダメでしょう」


一通りの会話を終えて、今日も僕らは視線を巨大な水槽に向ける。

青い光が2つの身体と灰色のベンチを照らす。薄暗い水族館の中で、僕はずいぶん落ち着いた気持ちになった。夏の外は明るすぎる。この水族館の光量がありがたい。

日差しが届かない水族館のベンチはまるで深海で、僕たちは深海でしか生きていけない深海魚だ。


あっという間に、17時になった。僕はこの生活にもすっかり慣れきって、2人でベンチに座っていても十分孤独を満喫できるようになっていた。

「時間だから、行きます」

僕が言うと。彼女は「うん」と小さく頷いた。彼女に、質問をするタイミングだ。

「どうして、高校に行かなくなったんですか」

僕の口からその質問が滑り落ちた。今日、行き道で考えた質問とは違う。ずっと気になっていたけど、聞けなかったこと。聞いてしまったら、距離が近づきすぎてしまう気がして怖かった質問が、なぜかこぼれ出てしまった。


「イジメられたから」

心臓が、大きく一回跳ねた。彼女のその一言は特に力が入ったワケではない自然な声だったけれど、耳に突き刺さってきた。「イジメ」という単語は、否が応でも自分ごととして聞こえてしまう。

緊張感が高まる。指先は冷たくなり、顔は熱くなった。質問してしまったことを後悔した。なぜ僕はこんな踏み込んだ質問をしてしまったんだろう。心のどこかで、この回答が返ってくると感じていたのに。


「最初はちょっとしたことだったけどね。無視されたり、皆に回ってる連絡が私にだけ回ってこなかったり。それが段々エスカレートして、持ち物を隠されたり壊されたりするようになった」

彼女は続けた。伏し目がちに、悲しげに自分の境遇を語る彼女を見るのが辛かった。動悸が収まらない。頭が熱くなる。

イジメの光景は、全国共通だ。狭い教室。整然と並べられた机。悲しく立ち尽くす彼女と、彼女の様子を見て薄笑いを浮かべる加害者たち。彼女の学校を知らない僕でもありありと想像できた。そして、僕は無意識にその光景に自分を重ね合わせていた。


「戦わなかったんですか?」

「そんなエネルギーないよ。幸い、ウチは親が放任主義だったから、学校行かなくても怒られなくて、あっさり行くのやめちゃった」

「どのくらい行ってないんですか?」

「一年くらい」

「一年も?この水族館にたどり着く前は何をしてたんですか?」

「決まってなかったよ。公園とか、図書館とか、ファミレスとか。家に引きこもってた日も多かった」


ここまでだ、と思った。これ以上踏み込んでしまうと、僕と彼女は心地いい関係ではなくなる。今までのように緩慢なやり取りができなくなる。他人同士の無責任な会話は消滅し、言葉がナイフとしての性質を持ち始めてしまう。

だから、もう切り上げて帰ろう。理性はそう判断していたのに、僕の中の巨大な好奇心はそれを許さなかった。


「学校に行こうとは思わないんですか?」

「行こうかなっていう気持ちはあるんだよね。イジメられてた頃からクラスも変わってるから、人間関係はリセットできるはずだし」

「あ、そうか。クラスが変わってるんですね。じゃあ何も問題ないじゃないですか」

「でも、やっぱり怖いから。また同じことになりそうだなって感覚があって。漠然とした恐怖だね」

「漠然とした恐怖か……」

「くだらないって思う?」

「まさか。むしろ共感します。僕も怖いんですよ。学校に行くのが」


僕は彼女の心の内側を、弱い部分を露出させてしまった。それどころか、今同じように自分の弱い部分をさらけ出そうとしている。

だけど、止めることはできなかった。


「君は、何があったの?」

彼女のその問いかけに対して、僕は黙って、シャツの右手の袖をめくりあげた。

肘関節の少し上。上腕二頭筋に沿って大きなキズが残っている。抜糸はとうに終わって治癒済みだけど、古傷と呼ぶにはまだあまりにも生々しい傷跡だった。

「僕も似たようなもんです。イジメがエスカレートした結果、刺されてしまった」

彼女は、傷跡と僕の顔を交互に見る。

──ああ、やってしまった。重い話をみっともなく語ってしまった。

僕と彼女の心地よい関係は失われるだろう。この後彼女から出てくるのは、気遣い全開の薄っぺらい同情の言葉か、薄ら寒い義憤の言葉だろう。

そんなもの、聞きたくもない。聞いてしまったら、遠慮しながら腹を探り合う気味悪い会話が始まるだろう。そしてあの素晴らしい距離感は失われてしまう。楽しく無責任な二人の会話は、永遠に失われる。

せっかく楽しい時間がすごせたのに。もう僕らは他人には戻れない。


「そっか。似た者同士だね」

僕の絶望とは裏腹に、彼女から返ってきた言葉はずいぶん軽い語調だった。

「ま、似た者同士ってことで、これからもテキトウに仲良くやろうか」

そう言って彼女は、視線を水槽に戻した。その横顔は、平然としている。

この人はやっぱり変わっている。僕たちは今、結構重い人生のできごとをお互いに語り合った。NHKの教育番組よろしく、普通はこういう打ち明け話の後、もっと重い関係性が生まれるんじゃないのか。彼女はまるで好きな食べ物の話をしただけみたいな軽いテンションで、飄々とした態度を貫いている。

思わず嬉しくなってしまった。彼女と僕とは、これからも居心地のいい距離感でいられるかもしれない。


「じゃ、僕は行きます」

「うん。またね」

いつものように、彼女の視線に見送られながらベンチを去る。

不思議な浮遊感。歩きなれた水族館のザラザラした床から鳴る足音が、いつもより半音高いような気がした。



***


「魚は海ではケンカしないのに、狭い水槽に入れた途端ケンカを始めるらしいよ」

「お、なんか校長先生の朝礼みたいな話が始まりそうですね」

「なんでよ。私が老人みたいじゃない」

「校長先生ってそういう含蓄のありそうなたとえ話をよくするじゃないですか」

「まあ最後まで聞いてよ。この話はむしろ校長先生と真逆の着地だから」

「どういう話ですか?」

「つまり、学校というシステムはそれ自体が間違ってるんじゃないかと。海で泳がせておけば皆のびのび成長するのに、わざわざ教室という狭い水槽に若い魚を閉じ込めて、ケンカを作り出してるんじゃないの?と言いたかったの」

「なるほど」

「だから、不登校であることはむしろ正しいことだと思うのよ」

彼女はやたら得意げな顔をしている。お互いに不登校、そしてお互いに水槽の前にいるという状況にピッタリな話題だと思っているのだろう。

「でもまあ、その理論だと”じゃあ人間は山奥で走り回らせておけばいいのか”という話になっちゃいますよ。人間と他の動物を分けるのはその社会性であって、社会性という能力を養うために狭い水槽に詰め込んでるんじゃないですか」

「うっ……」

「学校は、社会的動物としての人間を鍛えるためにわざと狭い水槽を用意しているのでは?そこではみ出てしまった僕らがゴチャゴチャと学校の悪口を言っているのはカッコ悪いような……」

「分かった分かった!この話は終わりにしよう!」


お互いの事情に踏み込んでしまった後も、僕と彼女の関係は大きく変わることはなかった。

相変わらず僕たちは軽口を叩きあった。いや、今まで以上と言えるかもしれない。お互いの不登校や素性をいじり合うことが増えた。同じような身の上だから、デリケートな部分をイジられても腹が立たなかった。いつも軽口だけを叩く。変に同情したり、真剣に相手を理解しようなんて傲慢は起こさない。それが僕たちのルールで、居心地のいい関係を保つことができていた。


僕と彼女の関係にラベルをつけるのは難しい。僕たちは知人でも友人でもなかった。やはり、”他人”が一番近い。事実、僕たちはただこの水族館のベンチに「居合わせた」だけだ。異常な頻度で、異常な期間に渡って居合わせてはいるけれど。

偶然居合わせた2人は、それだけの関係であるから名前を知ることはない。でもそれだけの関係であるゆえに、親しい人にも見せることができない本音をぶつけることができる。

僕たちの絆は、いびつだ。親友よりも太く、知人よりも細い。

そんないびつな関係が、何よりも心地よかった。整然と並んだ机が怖くなってしまった僕たちには、いびつなものがよく馴染むのだろう。


気づけば、夏は終わりに差し掛かっていた。日が短くなって、彼女の袖は長くなった。僕たちの異常な関係に終止符が打たれたのは、そんな夏の終わりだった。


***


カーテンの隙間から差し込むぼんやりした光。今日も絶望的な朝に目覚めたことを悟りながら、僕は身体を起こした。

夜更かしした翌日は、体内時計が全く働かない。まだ朝早いのか、それとも昼まで寝てしまったのか、さっぱり分からない。

雨がポツリポツリと窓ガラスを打つ。昨晩のニュースを思い出す。台風が近づいているらしい。

不意に、彼女の姿が脳裏をよぎった。低気圧が苦手で偏頭痛に悩まされている彼女は、きっと今頃顔をしかめているだろう。

今日はもしかしたら彼女は来ないかもしれない。ニュースも早めの帰宅を進めているし、雨の中で誰に強制されているわけでもない水族館通いをする必要はまったくない。僕も今日は家に引きこもっていてもいいかもしれないな。

そう思いつつ、僕の身体はあの灰色のベンチを目指して行動し続けた。昼食を摂り、服を着替えて、大きめの傘を持って家を出る。

不思議なものだ。義務である学校には行きたくないのに、自分ルールで通っている水族館には欠かさず行きたいと思ってしまう。人間はきっと、義務になった途端につまらなく感じる性質を持っているのだろう。


夏の終わりの雨は、美しい。アスファルトに染み込んだ灼熱の余韻を、雨がきれいに拭い去っていく。

舗装されたタイルの隙間を流れる小さな雨の川。久しぶりの雨を受け取る街路樹はいつもより青々としている。気持ちいい雨の散歩道を歩きながら、僕と彼女の関係はいつまで続くのか、考えていた。

僕と彼女が出会ったのは、夏の始まりだった。今、一つの季節が終わろうとしている。僕と彼女のいびつな絆は、季節を越えられるほどの強度があるのだろうか。

もしこの関係が終わるなら、と考える。もしこの関係が終わるなら、その前に彼女に一つ言っておかないといけないことがある。


──僕は彼女にウソをついていた。

というか、厳密には「言うべきことを言ってない」という表現の方が正しい。僕が意図的に制限した情報のせいで、彼女は大きな勘違いをしている。

打ち明けないといけない気持ちもあるけど、言ってしまったら彼女に軽蔑されるんじゃないかという恐れもある。

僕と彼女の関係が終わる前に、本当のことを伝えることができるだろうか。

雨に濡れた信号。灰色の金属部はところどころ黒く汚れていて、赤いLEDは過剰に存在を主張していた。僕は信号を無視して、狭い道路を渡った。


***


台風の日のいつもの灰色のベンチ、彼女の姿は見当たらなかった。

「やはり今日は来なかったか」と思い、僕は久しぶりに一人のベンチを堪能した。その時は何ら異常事態だとは思っていなかった。台風の日に日課を休むことは、おかしいことじゃないだろう。

翌日、台風一過の気持ちのいい晴れの日、やはり彼女はいなかった。僕は違和感を覚えた。

何かあったのだろうか。一日も欠かさず続けていた水族館通いを二日連続で休むなんて、ただごとじゃない。風邪でも引いたのだろうか。明日は来るのだろうか。


次の日も、その次の日も彼女が姿を現すことはなかった。

空っぽの灰色のベンチを見る度に、小さな悲しみが胸を通り過ぎていった。

あまりにも唐突な終了だ、と思う。もう彼女が来ないのだとしたら、最後に聞いておきたいこともあったし、言っておきたいこともあった。

彼女はなぜ来なくなったのか、どこにいるのか、これからどうしていくのか、何も分からない。打ち明けないといけない秘密を打ち明ける機会も、永遠に失われてしまう。

関係が終わるのなら最後に一言、言って欲しかった。


だけど、そういうものなのだろう。

不意に始まった人間関係は、不意に終わる。いつだって、僕たちに降りかかってくる別れに前触れなんてない。

ましてや、僕たちはたまたま灰色のベンチに居合わせただけだ。

たまたまお互いに無尽蔵の時間と孤独を抱えていたから、居合わせた時間が少しだけ長くなっただけだ。ベンチで隣に居合わせただけの人は、突然立ち去るに決まっている。


僕たちの孤独をたっぷり溶かした水槽で、魚たちは今も悠然と泳いでいる。水槽を飛び出すことなんて考えもしないだろう。

水槽に居合わせてしまった彼らは、一生立ち去ることができない。永遠に同じ場所にいつづけて、同じ相手と顔を合わせ続ける関係だ。それは幸せなのか、それとも呪いなのか。

僕たちの人生に、水槽はない。海はいつも開かれている。それは幸せなのか、それとも呪いなのか。


***


週が明けて休館日を挟んだ後の火曜日。水族館は、何も変わらない。

胸焼けするような水色のペンキが塗られた入り口を抜けると、蛍光灯に照らされた無機質なロビーに出る。チケットを切る受付係は、いつもの退屈な表情だ。

水族館は何も変わらないのに、彼女だけがいない。灰色のベンチは、今日も僕の孤独だけを受け止める。

青い光はいつもどおり煌々と僕の全身を照らした。視界の青さを噛み締める。

彼女が来なくなってから、僕はより一層孤独になった。皮肉にも、共に孤独を味わう相手が生まれ、失ったことで、より深い孤独にたどり着いた。

大きな水槽の中にある大量の水は、容赦なく時間を溶かす。彼女について考えたり、自分の将来について考えたりしているうちに、あっという間に帰る時間になった。


帰り道、少し冷たくなってきた風を浴びながら考える。

僕はこの先、どうなっていくのだろう。

いつまでもあの水槽の前に座っているワケにもいかないだろう。僕はいつか、水槽から脱出しないといけない。自由に大海を泳ぐために。

怖くなってしまった海に、いつかは戻らないといけない。

だけど、そのことを考えると嫌になってしまう。意識的に思考を止めて、前方の景色に集中した。

小さな羽虫が集団になって飛んでいる。虫の集団を大きく避けて、僕は遊歩道の端を歩く。前から来た自転車の少年は気づかないまま羽虫の集団に飛び込んで、顔をしかめた。


***


さらに一週間が経った。火曜日の水族館。僕は受付に年間パスポートを提示していつものベンチに向かう。

灰色のベンチには、人影があった。心臓が大きく脈打つ。

黒いキャップから、しっぽみたいに束ねた髪が後ろに伸びている。間違いない。彼女だ。

「やあ。久しぶり」

僕を見つけると、彼女はそう言った。真っ白な肌が少しだけ日焼けしている。それ以外は何一つ変わらない様子だ。

「久しぶりですね。二週間以上も何してたんですか」

僕は嬉しくなって、少し興奮気味に聞いた。もう彼女は来ないものだと思っていたから、再会が嬉しい。

「学校に行ってた」

短く答えると、彼女はほほえんだ。青い光に照らされた微笑は、ずいぶん大げさに見えた。


「なぜ、学校に行く気になったんですか」

「何か理由があったワケじゃないよ。ただある日突然、朝起きたら学校に行こうって気になったの」

「そんなことあります?一年も行ってなかった学校に、いきなり理由もなく行こうと思えるなんて」

「あるんじゃない?実際にあったんだから」

彼女はあっけらかんと答える。掴みどころのない人だ、と思う。この水族館でずいぶんたくさんの言葉を交わしたのに、彼女の態度は測りかねるところがある。


「不登校がそんなに突然終わるものだなんて、知りませんでした」

「でも、何となく変化の兆候はあったんだよ。ここ二ヶ月くらいの間に、漠然とした人間への恐怖みたいなものはすごく薄れていた」

「それはなぜなんですか?」

彼女はクスクス笑った。変わった生き物でも観察するみたいな顔をしている。

「さっきからなぜなぜって、君は何でも分かりやすい理由を求めるよね。科学教育の負の遺産かな」

「教育のせいじゃないですよ。生来、人間は理由をつけたがるんです。神話の時代からそれは変わらない」

なるほど、とつぶやいて、彼女は少し視線を上に向けた。まばたきにあわせて、まつ毛が上下する。

「ここでの、君との会話なのかもしれないね」

「何がですか?」

「人間への恐怖が薄れた理由だよ」

「ここでの会話で、恐怖が薄れたんですか?」

「正確には、ここでの時間全て、かな。なんかすごく良い時間だったよ。お互い無理して喋らないんだけど、何か似たような境遇で、似たような考え方で」

「無責任な軽口しか叩いてなかったですよ」

「それが良かったんじゃないかな。学校みたいなガチガチの場所のガチガチのコミュニケーションは疲れてしまうから。同級生との会話なんて、地雷原みたいだもんね」

「僕との会話に、地雷はなかったですか」

「うーん、あったけど、お互いに爆発させあってもいい、みたいな感じだよね。無敵モードみたいな。スターを取った後、みたいな」

自分で言った例えが気に入ったのか、彼女はそこでワハハと笑った。


「久しぶりの学校は、どうでしたか」

「あまりにも何もなくて、拍子抜けした。めちゃくちゃ平穏だったよ」

「もうイジメとかは全然?」

「うん。主犯の子たちはみんな違うクラスになってたし、同級生も話しかけたら普通に答えてくれた」

「問題なく学校生活をやれそうなんですか」

「余裕だね。不登校児が突然登校してきたら皆面白がって色眼鏡で見るんじゃないか、とか不安だったけど、全然そんなことなかった」

「皆、優しくしてくれる感じですか?」

「というよりも、別に私にあんまり関心ないって感じかな。冷めてるというか、大人というか」

「よかったですね」

「そうだね。あっけなさすぎるくらいだけど」

よかったですねと口にする僕は、内心複雑だった。先を越された寂しさとでも言うのだろうか。カッコ悪い感情だから、顔に出ないように気をつける。


「クラスメイトとの会話は、息苦しいままですか?」

「いや、気楽なもんだよ」

「さっき、地雷原って言ってましたよ」

「そう!ビックリしたのはそこなのよ!地雷原みたいだなって元々思っていた同級生との会話が、ずいぶん気楽で無責任なものに変わったの」

「なぜなんですかね?」

「一つ思ったのは、案外最初から地雷なんて埋まってなかったんじゃないかってこと。私は地雷原のつもりで必死にほふく前進してたけど、スタスタ歩いてもいい場所だったんじゃないかな」

学校は余裕だったと語る彼女は、心なしか以前よりも健康的で自信に溢れている気がした。これはきっと、焼けた肌のせいだけではない。


「で、今日はなんで学校に行ってないんですか」

「いきなりぶっ通しで二週間以上もちゃんと学校行ったら疲れちゃった。今日はサボり」

「サボったらまた行きにくくなるんじゃないですか」

「ならないよ。先生もクラスメイトも私のことなんて大して気にしないし、気楽なもんだ」

「明日からもまた行くんですか」

「そうだね。学校って毎日行くものらしいから」

「ここにはまた来ますか」

「いや。普通に学校に行くから、もう来ないと思う」


つまり、今日が彼女に会える最後の日だ。僕が秘密を彼女に告げるとしたら、今日しかない。

「寂しくなりますね」

あえて冗談めかして、そう言ってみる。

「君はここに孤独を味わいに来てたんでしょ。寂しくなった方がいいじゃない」

「おっと。これは一本取られた」

「何そのコッテコテの反応。昭和じゃん」

そこで、笑う。今日がこの灰色のベンチでの、最後の会話。

この日に限り、不文律になっていたルールは破棄された。僕たちは無言で水槽を見つめることはなく、ずっとポツリポツリと喋り続けた。

マジメな話はしない。無責任な軽口ばかりが続いた。この夏の間ずっと続けられた問答を、大切に再現するみたいに。


「もう5時だね」

彼女に言われて腕時計を見ると、たしかに時刻は5時を少し回っていた。

時間が来てしまった。今日ベンチから立ち去れば、僕たちの関係は失われる。

「じゃあ、行きますね」

そう言って、足元のリュックに手をかける。わざとゆっくりと、別れを惜しむようにリュックを拾い上げた。僕は、最後の質問を考えていた。


リュックを膝の上に引っ張りあげる。彼女の目は、まっすぐこちらを向いていた。

初めて、彼女の目をじっくり見た気がする。僕たちの会話はいつも水槽を向いていたから。

この夏の間、彼女に何十としてきた質問が、脳裏を駆け巡る。一つ聞く度に、僕たちはほんの少しだけ近づいて、それでもあくまで他人の距離感を保ち続けた。

「僕に一つだけ秘密があったこと、気づいてましたか?」

少しだけ罪悪感があったこと。彼女に誤解させたままのことを、打ち明けよう。そう思った。

彼女は驚いたような顔をして、おかしそうに笑った。

「一つどころか、君のことは知らないことばかりだよ。名前だって知りやしないんだから」

穏やかな微笑み。僕たちのこの絆を慈しむような、静かで誇らしげな表情。お互いの名前も知らず、家も学校も知らない。それなのに、お互いの闇や暗い考えはいくつも吐露してきた。

夏の始まりから、夏の終わりまで。一つの季節の間に生まれて成長したいびつな絆を、彼女は誇りに思っているみたいだった。

彼女のその様子があまりにも美しくて清々しくて、何も伝える必要がない気がしてしまう。僕はフフッと笑い、返答した。

「それもそうですね。おかしなこと聞いちゃいました。僕とあなたの間は、分からないことばっかりだった」

「そうだよ。でも、それが大事だった」

彼女も、大きく笑った。薄紅色の唇から、白い歯が覗く。薄暗い中の白い歯が、やけに鮮明だった。


「実はね、今日君と別れる前に、名前と連絡先くらいは聞こうと思ったの」

照れくさそうな彼女だが、目線は逸らしていない。顔を手で掻きながら、続けた。

「だけど、やっぱりやめておくことにした。私たちの関係は、これが多分ちょうどいいんだね」

彼女の言わんとすることは、よく分かる。僕は、僕たちは、このいびつな関係が心地よかった。いびつな絆に救われていた。

「寂しいけど、このままお別れにしようか」

彼女の声は明るいのに、底抜けに悲しかった。表情は穏やかだけど、心の奥で泣いている気がした。僕は彼女の提案に、黙って頷いた。

僕らがもし、普通の関係を築けていたのなら。もし僕と彼女が学校の同級生で、卒業式の日にお別れをするのなら。お互いの肩を抱いて大泣きすることができただろう。ずっと友だちだよ、なんて安い言葉を交わし合って、陳腐な涙を見せ合うことができただろう。

僕たちは、他人だ。青い光が当たる灰色のベンチで、隣り合って長い休憩をしただけの他人だ。名前も知らないままベンチを共有して、名前も知らないまま別れる他人だ。


「またいつか、会えますか?」

口からこぼれ落ちる、追加の質問。

「会えるよ。多分。どこかで」

彼女の目には穏やかな悲しみが浮かんでいた。きっと僕の目もそうだっただろう。

「そうですね。きっとそうだ」

立ち上がり、リュックを背負う。別れの言葉の声が震えないように、気をつける。

「それじゃあまたいつか、どこかで」

「うん。またね」

彼女は小さく手を振った。その様子を目に焼き付けてから、出口に向かって歩き出す。

くすんだ床は無機質な足音を立てた。背中に彼女の視線を感じる。振り返りたかったけど、振り返らないのが僕の意地だ。夏の間一度だって僕は振り返らなかった。僕らの最後は、振り返らずに終わる方がいい。


水族館のドアはめんどくさそうに開いた。ぬるくて湿った風が通り過ぎていく。秋は近くまで来ているのに、残暑はいつだって往生際が悪い。

建物の外に出てから、僕は初めて振り返った。悪趣味な水色の外壁はあちこち黒く汚れている。建物を取り囲むレンガの花壇は作り物みたいな花を咲かせていて、レンガの隙間から小さな雑草が顔を出していた。

この薄汚れた建物は、いつか取り壊されてしまうのだろう。僕たちのいびつな夏が終わったみたいに、この水族館もきっとなくなってしまう。

水族館がなくなった後、僕は彼女のことを思い出すことがあるのだろうか。いつの日か、懐かしく話題にする日が来るのだろうか。

あるかどうかさえ分からない未来を思いながら、灰色の雲の下を歩く。彼女と過ごした最後の日の帰り道は、少しだけ雨が降っていた。


***


彼女が来なくなってから一週間。僕は相変わらず水槽の前にいた。

ほとんど毎日のように見ているのに、魚の変化は全く分からない。大きくなったり死んで入れ替わったりしているのだろうか。

薄汚れた建物も退屈な受付も水槽の魚も、全て止まった時の中にいるみたいだ。あるいは僕も、その一部なのかもしれない。


水槽を見ながら、今の彼女を想像してみる。僕の想像の中の彼女はいつも一人で、退屈そうに教室の机に頬杖をついていた。

「地雷原だと思っていたところに、地雷は埋まっていなかった」と彼女は語った。なんとなく分かる。実は地雷なんてなかったと気づくことが、大人になるということなんだろう。僕は今でも、地雷に怯えている。

僕にもいつか気付く瞬間が来るのだろうか。地雷原だと思っていた場所を歩けるようになる日が来るのだろうか。来なくてもいい。それが、他人の歩く道に地雷を埋め込んでしまった僕が背負うべき運命のような気がする。




自分に向けられているナイフの刃は、鈍い光を放っていた。いつもの教室の机、薄汚れた床と壁紙。あまりにも日常的な背景の中に、突如現れてしまった異物。

ナイフを握っているいじめられっ子──島田の手は震えていた。


仲間の一人がナイフを持ち出した時、さすがにそれはやりすぎだと思った。

僕は止めたかったのに、勇気がなくて止められなかった。仲間から「ビビリ」扱いされるのが怖かった。だから、面白がって受容した。「いいじゃん、血が出るところが見たい」とさえ言って、ナイフを受け取った。

無言の内に、なんとなく僕がリーダー的な存在になっていたから、僕が率先して悪いことや危ないことを肯定した。仲間に歯止めをかけるどころか、イジメをエスカレートさせることしかできなかった。刺す気なんてサラサラないのに、僕は島田の鼻先でナイフを揺らして、どこを刺したら一番キレイな血が出るかな、なんて本人に聞いていた。

当然の帰結だっただろう。追い込まれたいじめられっ子は、僕の手からナイフを奪った。一年間何一つ反抗しなかった彼の最初の反撃は、あまりにもあっさりと、瞬間的に行われた。


奪われた瞬間、何が起こったか分からなかった。彼に反抗の意志が宿ることなんて、未来永劫ないと思っていたから。

自分に向けられているナイフの光には現実感がない。変な笑顔を浮かべながら、全身に脂汗が湧いてきた。

ナイフを握る島田の手は震えている。顔は?

彼の顔に視線をやると、はっきりとした反撃の意志がその目に宿っていた。彼は本気だ。

ナイフの光ではない。彼の目の中にある光によって恐怖は爆発し、僕は思わず彼に突進した。驚いた島田は反射的にナイフを前方に突き出し、僕の右手に深い深い傷跡を作った。


刃物の冷たさと、血液の熱さ。一生忘れることはないだろう。

あの一瞬の冷たさと熱さに、僕の犯した罪が全て詰まっているような気がした。

自分がやってしまったことの重さについて、病院のベッドで考える。僕は気弱な彼に”人を刺そう”と思わせるほどに追い込んでしまった。

なぜ自分がそれほど苛烈なイジメの首謀者になってしまったのか、今となっては分からない。僕は自分が恐ろしくなってしまったし、他者との関係を作るのも恐ろしくなってしまった。また誰かを追い込んでしまうのではないかという恐れがあるし、また誰かにナイフを向けられるんじゃないかという恐れもある。


灰色のベンチを共有した僕と彼女は、確かに似た境遇だった。いじめっ子かいじめられっ子かという一点を除けば。

僕は、再び学校に行けるのだろうか。

いじめられっ子の彼女はずいぶんあっさり過去を振り切ったみたいだった。いじめっ子がいなくなれば万事解決と言わんばかりの様子だった。

ではいじめっ子の僕はどうなのだろう。他者を傷つけてしまう恐れと他者に傷つけられてしまう恐れのサンドイッチで苦しんでいる僕は、いつ解放されるのだろう。


僕たちはいつかは、水槽から脱出しないといけない。自由な大海を泳ぐために。


***


彼女は、「人間への恐怖が薄れた」と表現した。

水族館での漠然とした人間関係が、漠然とした人間恐怖を拭い去っていったのだろう。

最後に会った彼女は少し日焼けして、健康的になっていた。僕と過ごしたあの時間が、彼女のこれからの人生を良いものにしてくれるのなら素敵だな、と思う。

彼女の人生は、きっと大きく変わりなんかしない。あの生きづらい性格は一生そのままだろう。しょっちゅう苦しんだり、退屈そうに頬杖をつきながら暮らしていくのだろう。

それでも彼女は、そんな暮らしを適当に受け入れていく。人間という得体の知れないものに振り回されながら、折り合いをつけて暮らしていく。それは別に嫌なことじゃなくて、退屈な喜びに満ちた人生なのだと思う。

その人生のスタートを切るための開始地点になったのが、水族館であり、灰色のベンチであり、僕との会話だった。

彼女はそれなりに日々をやり過ごしていき、矢のように流れる時の中で、たまにあのベンチを思い出す。そう考えるとなぜか少し嬉しくなった。

先に水槽から出ていった彼女の人生が、良いものであればいい。

想像の中で、教室の机に頬杖を突いていた彼女はどんどん大人になっていき、就職して、結婚して、そこそこ嬉しそうに死んでいった。


ある快晴の朝。

本当に突然だった。朝起きると同時に「学校に行こう」と思った。

まだ僕は怖かった。誰かと関係を作ることも、誰かの内面に触れることも、怖いままだった。

でもなぜか、絶対的な恐怖はなくなっていた。怖くて直視することさえできなかったパンドラの箱だったのに、いつのまにか開けてみようという気持ちが湧いていた。

理由は分からない。きっと彼女と同じなのだろう。漠然とした人間恐怖は、漠然とした人間関係によって、漠然と取り払われるのだ。

彼女に遅れること一ヶ月、僕は水槽を飛び出して学校に行った。

気持ちいい秋晴れの日、遠く山が色づいていた。



***


飛行機はやけに乱暴に着陸した。機体のガタガタとした揺れが身体に伝わる。隣のくたびれたサラリーマンは不機嫌そうに姿勢を正す。

外に出ると風が少し冷たかった。長袖を着てくればよかったな。しばらく帰ってないと、地元の季節感覚は完全に失われる。

地元に帰ってくるのはずいぶん久しぶりな気がした。正月にも帰省したから、そんなに久しぶりではないのだけど。

就職活動の心労が、体感時間を引き伸ばしたのだろうか。


「じゃあ改めて、内定おめでとう!」

母は満面の笑みで食卓に料理を並べ、父は僕のグラスにビールを注いだ。些か過剰とも思えるこの晩酌の豪華さは、両親がかつて僕に抱いていた不安の大きさを表しているみたいだった。

僕が不登校だった時期から、もう七年が経つ。あの時期は両親にもたくさんの心配をかけたと思う。申し訳なかった。

だけどその不安定な時期を乗り越えて、大学に入ってからは一人暮らしを始めた。来年の春からは無事に社会人になる見込みだ。

希望の会社から内定が出たことを伝えると、両親は大いに喜んだ。一人息子を無事に育て上げて巣立たせることに成功する喜びがどんなものなのか、今の僕には想像がつかない。


少し酔ってしまった。久しぶりの自室に入り、ベッドに身を投げ出す。この部屋は時間が止まっていて妙な感じがする。大学受験の参考書も、高校生のときにハマっていたマンガも、全てそのまま棚に収まっている。

時が止まっている部屋を見渡すと、自然と昔のことが思い出された。僕の人生はまあ色々なことがあったが、概ね普通に苦しみ、概ね普通に乗り越えてきた。

普通でなかった時期を考えるとやはり、あの不登校の三ヶ月のことばかり浮かんでくる。あれが、僕の人生の中で一番厳しかった時期だ。

あの時期の扱いを間違っていたら、僕はずっと前向きになれなかったかもしれない。湧き上がってくる人間への恐怖を増幅させるまま過ごしてしまっていたら、予後は最悪だっただろう。七年間ずっと、誰とも関わらずに何もしないで生きていたかもしれない。

現実になったかもしれない自分の絶望的な人生を考えて、ゾッとする。

怖くなってきたから、部屋の明かりを消した。精神が穏やかな睡魔に飲み込まれていく。



南向きの窓から差し込む日光に邪魔されて、朝早くに目が覚めた。

やることもないから、散歩に出かける。

道路に几帳面に並んだタイルは日光を浴びて眩しいくらいに反射している。一歩足を踏み出す度に小気味いい乾いた音がした。

10分ほどで、悪趣味な水色のペンキに塗られた建物が見えてきた。昔のことを思い出しながら歩いたせいで、自然と足がここに向かってしまった。

外装の汚れは昔よりも進んでいるような気がする。レンガ作りの花壇の花は相変わらず生気がなく、小さな雑草がそこかしこに生えていた。

年間パスポートはもう持っていないから、券売機でチケットを買った。

受付にチケットを差し出すと、つまらなそうな顔の受付係が半券をちぎって手渡してきた。昔もつまらなそうな顔をしていた気がするけど、さすがに人は違うだろうな。

受付係はあまりにもこの無機質なロビーに溶け込みすぎていて、顔を覚えられない。七年前の受付係もこの人だったと言われればそんな気がするし、全然違う人の気もする。


歩き慣れた通路をゆっくり歩いていると、懐かしさがこみ上げてくる。相変わらず通路は薄暗くて窮屈だ。あの時と同じ魚たちが、あの時と同じように悠然と泳いでいる。

人影はまばらで、客層は多様性に満ちていた。大学生カップル、幸せそうな家族連れ、一人でゆっくり歩く老人。

心なしか、あちこちが汚い気がした。これは過去の思い出を美化してしまったせいなのか、それとも単にこの水族館が経年劣化しただけなのか。


通路を抜けて、階段を降りる。大水槽は青く光っている。

見えてきた灰色のベンチに目をやった。撤去されていてもおかしくないと思ったけど、何も変わっていなかった。

ベンチに、彼女がいた。黒いキャップを被って、しっぽみたいに髪の毛を後ろで束ねている。

隣に座る。

「こんにちは」

「こんにちは。久しぶりだね」

「お久しぶりです。どうしていましたか」

「どうにかやってたよ。苦しいこともあったけど、全部順調に乗り越えた。今は立派に大人をやってる」

「幸せですか」

「うーん、まあ幸せかな。無事に日々を生きられているから。たまに退屈になるけどね」

「これからも、無事に生きていけそうですか」

「そうだね。きっと大丈夫。幸せに死ねる気がするよ」

「それならよかったです」

「君は?」

「全く同じですよ。どうにか今日まで生きてきました。明日からも生きていけそうです」

「じゃあよかった。お互い、よくやってるよね」

「あなたはあの時、またどこかで会えるって言ってましたよね。あれは本当ですか?」

「……会えるよ。私は、そう信じてる」


そう言い残して、彼女は消えた。

僕が意識的にベンチの上に投影した彼女の幻想は、短い会話をしただけで消えた。

今の彼女がどうしているのか、知る由もない。どんな仕事に就き、どこに暮らしているのか。家庭を持っているのか。

幻想の中の彼女は、何も教えてくれなかった。幻想は所詮、僕が知っている以上のことは喋れない。

だけど、一番聞きたかったことは答えてくれた。彼女は、幸せに生きているし、これからも幸せに生きていく。僕はこの答えを大事にしようと思う。



彼女とまた会うことがあるだろうか。

別になくてもいい、と思う。

人生には、大して特別なことなんて起こらない。ドラマみたいな奇跡は、いつもドラマの中でしか起こらない。いつか彼女と再会するなんて奇跡は、多分起こらないのだろう。

僕と彼女はそれぞれに老い、それぞれに死んでいく。かつてあのベンチで交差した僕たちの人生は、もう二度と交わることはないのだろう。

それでも、彼女は「また会えると信じている」と言った。そう、僕たちは信じることができる。

人生に特別なことなんて起こらないけれど、僕たちは”特別”を想像することが許されている。「また会える」と思い込むことさえも。

特別な瞬間を思い浮かべると、心が弾む。いつかもし彼女とバッタリ会ったら、その時こそ名前を聞こう。少しだけ思い出を話して、近況を話して、かつて言えなかった真実を話そう。

そんな想像の中の”特別”が、僕を動かす原動力になってくれる。だから僕はこれからも歩き続けられる。

これからの人生で何かにつまづいた時、また誰かとの関係が怖くなったとき、きっと僕はいつだって大きな水槽と彼女を思い出して、再会の瞬間を想像する。もしかしたら、彼女もどこかで同じように想像しているかもしれない。

それは案外、素敵なことなんじゃないかな。


水族館を出る。日は暮れかけているのに、気温はちっとも下がっていなかった。飲み物が欲しくなったから、コンビニに入った。

自動ドアは当たり前に開き、冷房はやたらと強い。雑誌棚は神経質で、おにぎりは特定の種類だけが売り切れていた。

僕は店内を少し物色して、飲み慣れたスポーツドリンクをレジに持っていった。

店員はつまらなさそうにレジを打ち、紙幣を受け取って小銭を返す。アリバイ程度の小さな声で礼を言った。

やる気のない店員の態度が、今日はなぜか愛おしく思えた。




〜〜〜


あとがき


「ドラマみたいな奇跡は、いつもドラマの中でしか起こらない」(本文より)


大人になるにつれ、僕たちは現実を学習していきます。

「特別なこと」は起こりません。パンを加えた美少女転校生とぶつかることはないし、世界侵略を企てる魔王も勇者にしか抜けない剣も現実には存在しません。

その事実をぼんやり認識した中学生くらいの頃、僕はずいぶんガッカリしました。人生って面白くないじゃないか、マンガの方がよっぽど面白いんじゃないか、と。


それからたくさんの時間が経って、中学生の時の自分の認識は間違っていたと知りました。人生は結構面白かったのです。


確かに現実には「特別なこと」は起こらないです。でも僕たちは、どうってことない瞬間に対して「特別だ」と感じることがあるのです。不思議ですね。

大学四年生の秋、僕は学生団体を同じくする友人たちと自宅で鍋をしていました。いつものメンバー、いつもの話題、いつもの盛り上がりでした。何も特別なことはありません。いつも通り楽しくお酒と鍋を楽しみました。

解散する時、散歩を兼ねて皆を駅まで送っていくことにしました。玄関を開けて外に出た瞬間、不意に「特別」がやってきました。

鍋で熱くなった身体を、秋の夜風が冷やす。隣の部屋の自転車が几帳面に施錠されている。街灯に負けないいくつかの星がやたらと明るく光っている。友人たちの2つの会話が同時に耳に入ってくる。消し忘れたオーディオは部屋の中で太陽族を鳴らしている。

そんな瞬間が、たまらなく特別に思えました。


僕の人生にはいくつも、本当にいくつも、そういう他愛ない「特別」があります。

だから人生は美しくて面白いのです。鍋を終えて外に出る瞬間は他人から見ると何も面白くないですが、僕の主観では「選ばれし勇者が剣を引き抜く」くらいの特別さがあります。


今回の小説は、そういう「特別なことは何もないのに、特別だと言える体験」を書こうと思ったところから始まりました。

だから、本作では徹頭徹尾何も「特別なこと」が起こりません。

”僕”と”彼女”の関係は何も進まないままです。恋愛に発展するどころか、お互いの名前さえ知りません。

”彼女”が学校に行き始める明確なきっかけはありません。2人の間に決定的な一言みたいなものは一切なく、ただ突然学校に行く気になります。

”僕”は”彼女”に、最後まで秘密を打ち明けません。打ち明けない明確な理由もありません。

そしてもちろん、”僕”と”彼女”は最後まで再会しません。ドラマみたいな奇跡は起こらないのです。


特別なことは何も起こらない物語ですが、この物語は二人にとって非常に特別なものであるはずです。

”僕”と”彼女”は人間関係が怖くなってしまい、ほんの一時の避難場所として灰色のベンチにたどり着きました。あくまで避難所ですから、また歩けるようになったら歩き出してしまいます。二人が同じように休んでいたのは、ひと夏の間だけでした。

長い人生の中でひと夏というのは短い時間です。だけど、彼らが今も歩けるのは、あのひと夏があったからです。彼らはそれぞれにこの夏に感謝して、今後の人生でも折に触れて思い出すでしょう。外野から見れば地味なひと夏だったとしても、二人にとっては間違いなく「特別」な夏になったと思います。


僕たちは些細な「特別」を積み重ねていくことしかできません。

それでも、僕は人生って美しいものだと思います。もしかしたら、魔王を倒すよりもずっと。


拙文ですが、読んでくださった皆様に「当たり前の人生の美しさ」を少しでも感じて頂けていれば幸いです。

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