8
「なんだか食べた気がしない……」
昼食と共に本日分の授業も終わり、白雪姫の自室へと向かう途中、溜め息と一緒につい本音が吐き出された。
「おつかれ様です。我が家であれば、食事の仕方など子どもたちにはある程度自由にさせるところですが、白雪様の立場ではそのような訳にはまいりませんからね。こればかりはお手伝い差し上げる事も出来ず申し訳ございません」
「ううん、アレクさんが気に病む事じゃないよ!それよりも、アレクさんにはお子さんがいるの?」
「はい。ちょうど白雪様と同じ年頃の息子と、今年生まれたばかりの娘がおります」
「へぇぇ」
それは可愛い。絶対可愛い。是非とも見てみたいところだけど、さすがに難しいだろう。
「息子は悪戯の盛りで、娘は昼夜問わずに泣き出しますから大変に感じる事もありますが、やはり可愛いものです」
そう語るアレクさんの顔はとても幸せそうに微笑んでいた。
夕食の時間になったら迎えに来るというアレクさんと部屋の前で別れ、室内へと足を踏み入れる。
重厚なドアに似合いの内装でありながらも、小物やベッドカバーには明るい色合いが使われており、女の子の部屋だと窺える。
広さは自宅のものと比べるまでもなく、物珍しさからぐるりと一周させた視線がある一点に釘付けになった。
「……鏡だ」
細かい装飾の施された額縁に収まった上品な鏡が、壁に掛けられている。白雪姫の物語で鏡と言ったらあの鏡しか思い浮かばない。
途端に高まる緊張感。観察しながらも一歩ずつそっと近付く。
一見すると、何の変哲もない普通の鏡のようだ。
「……こんにちは」
怖いと感じる以上に好奇心が勝った。
だからこそ思い切って話し掛けてみたのだけれど、何の反応もない。
「ぼ……私は、白雪と言います。私の声、聞こえてますか」
声が届かなかったのかと、今度は先程よりも大きな声で尋ねてみる。が、依然として鏡に変化はない。
そこでもしかして、と一つの仮説が思い浮かんだ。
悪いお妃様が繰り返し尋ねていた決まり文句でもあり呪文のような言葉。あれが魔法の鏡の発動条件なのかもしれない。
「か、鏡よ鏡、鏡さん。世界で一番、う、美しいのはだぁれ?」
僕としては最大級に頑張った。
目的がなければこんな台詞、例え劇で割り当てられたって、とてもじゃないが言えない。
「…………」
十秒、二十秒、三十秒。心の中でたっぷり一分数えたところでやめた。
「……何も、起こらない?」
はあぁぁーと頭を抱えて座り込む。
きっと今、自分の頬っぺたはものすごく赤くなっている事だろう。
考えてみれば、魔法の鏡は悪いお妃様が持ってきたものかもしれないし、そもそも女の子の部屋なんだから鏡の一つくらいあっても不自然じゃない。というかむしろ自然に思える。
この鏡は本当に、何の変哲もないただの鏡だったのだ。
これじゃあ物に向かって話し掛けるただの怪しい人だ。誰も見ていなくてよかった……。
いや、これコヨミちゃんは見ているのか?
うわぁぁぁ恥ずかしい……!
一頻り悶えた後で、気を取り直して鏡の前に立つ。
まだ完全に恥ずかしさが抜け切ったわけではないけれど、今の自分の姿も気になった。
こちらを見つめる女の子と真っ直ぐに目が合う。艶やかな黒髪。ぱっちりとした瞳とそれを縁取る長い睫毛。透き通るように白い肌と、ほんのり色付く唇。一つ一つのパーツがバランスよく小さな顔に収まっている。
「……可愛い」
今まで見た中で一番可愛いと言っても大袈裟じゃないくらい、愛らしい女の子がそこにいた。
顔を右に向ければ女の子は左に、手を振れば振り返されて、口角を上げればぎこちなく微笑む。
自分じゃないみたいだ。
まぁ実際に今だけの仮の姿で、自分じゃないんだけど……。
これは成長したらさぞかし美しくなるだろう。
その美貌に嫉妬される理由も頷ける。
どうして僕が
改めて自分が
その存在は知っていても、なかなか目にする事のないもの。天蓋付きベッドだ。
うずうずする気持ちを抑えられず、見るからにふかふかの布団に飛び込むと、音もなく体が沈んだ。寝心地が良い、良すぎる。
試しに天蓋も引いてみたが、ベッドが広いので窮屈さは全く感じない。むしろどこか秘密基地にいるかのようなわくわくした気分になってくる。
「こんなベッドだったらすぐに寝られちゃうなぁ……」
投げ出した手足が程好く沈み、体全体が柔らかく包まれる。
少しだけ、少しだけ……。誰にともなく呟きながら、ゆっくりと目を閉じた。
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