第17話



 午前のシャワー室は明るく、どこか心が晴れ晴れとする感じがした。


 日差しが差し込むタイルの床は、暗闇の中ほど冷たさを感じさせず、あのおぞましい閉塞感は夜霧のようにかき消えていた。ロンドンでも時折、朝や昼にシャワーを浴びることはあったが、こんなことならいっそ朝に入浴する習慣に変えておけばよかった。


 仕切りで区切られたブースに入って、熱いお湯を浴びる。


 髪全体をようやく濡らし終わったとき、突然、浴室の光の量が減った。実際は、私の背後に現れた背丈の大きな男が、背中側から差していた陽光を遮ったせいだった。当然、私の全く緩みきっていた神経がやにわに飛び起きてけたたましく警鐘を鳴らすものだから、反射的に出かけた悲鳴を塞ぐ男の大きな手も、どうにか掴んだシャンプーのボトルが指先から滑り落ちるのも、どうすることもできなかった。

 両肩を掴まれ、向かい合わせにされる。

 唇に指を当てた、しいっ……、というジェスチャーをされたので、とにかく要求を理解したことを伝えるために、黙って二、三度、頷いた。彼の瞳は見知ったものだった。でも問題は、その奥にあるものだ。


「……」


 裸の彼は、その後もしばらくは私の口を押さえたままで、観察するようにこちらの目をじっくりと眺めていた。それから、何かを悟ったように息を吐き、ようやく手を離す。自分の前髪と顔についた水滴を払い、億劫そうに何事か囁く。

「あー、あー。面倒臭いことになった。お前、違うほうだな」

「違、う……?」

「とぼけるなよ。どう見てもエドじゃない方だろ。参ったな。勘違いされると非常に面倒なんだ。そう、非常にな」

 この状況で、一体何をどう、勘違いしたらいいのだろう。私はこういう時、いつもそうしていたのと同じように、努めて考えるのをやめた。ただでさえよくない状況なのに、まだ起こってもいないことを想像して怖さを増やすだなんて、まるで無意味なことだ。それに、仮に私がどうにかされたとしても、誰も不利益を被らないし、私も人生を終えられて得をする。結局のところ、どんな展開にも意味はない。私は再び彼の目を見上げた。

「え、エドって人は、申し訳ないけど、知らない。あなたは?」

「ヘイミッシュ。ファミリーネームはない。俺らのうちで、ファミリーネームがついてるのは、外の奴と付き合いのあるやつだけだ。俺はだーれも必要ない。俺には誰も味方がいない」

「……かわいそうに、って言った方がいい?」

「いいや。憐れみなんてごめんだね」

 シャワーを止められたので、肌寒くてついくしゃみをすると、不憫に思ったのかヘイミッシュは投げやりにだがバスローブをくれた。変なところで気が効くというか、意外と用意がいいことに驚く。でもそれなら、もっと早く渡してくれてもよかったはずだ。

「ま、いいや。この際、あんたの方でも。手を組もうじゃないか。前にも言ったけど、この体の中でシラカバの木の枝みたいに分かれてる人格のうちで、俺だけは唯一まともな人間だからさ。俺はこの、胸糞悪い精神病棟みたいなとこから、ただ出て行きたいだけなんだよ」

「でも……ここはシェルターなんでしょ? 安全なんじゃないの」

「ハハッ、まさかだろ。一見安全そうな場所ほど実はめちゃめちゃやばいって、相場が決まってるんだよ。お前、『アサイラム』とか観たことないわけ?」

「ない」

「あーら、そぉ。そういやあれ、R指定だったっけ?」

 ヘイミッシュは少し首を傾げたが、気を取り直したようにまたこちらに向き直る。

「まあ、とにかくだ。あんたじゃない方……つまりまあ、エドの方ってことだが。一昨日の夜会ったんだけど、ここのこと色々知ってそうだったし、何か他にわかったことはないかと思ってさ。秘密の抜け道とか、そろそろ見つけた? あんた、えと、リア? だっけ? あんたは何か知ってたりする?」

 矢継ぎ早に質問をされて、戸惑ってしまう。寝起きの頭では追いつけない。

「えっと、まず一つ聞いてもいい? エドって、私がそう名乗ったの?」

「そうだよ。あ、もしかして知らなかったパターン? でもそんな気にすることないだろ。自分のことは意外と他人の方がよく知ってる、ってやつさ。俺たちもしょっちゅうそういうことあるし。エドって要はそういうやつなんだろ。知らないけど」

「エドは、なんて言ったの? あなたに」

「『ここの奴らは信用するな』って。開口一番そう言った。一昨日の夜中——あ、真夜中の二時から三時までの一時間が一応俺の時間なんだけど、とりあえず腹が減っててさ。食堂に何か残ってないかって下の階をふらついてたら、あんたがいた。あんたの片割れがな。何か探してるみたいだったな。あと、『俺の記憶にも欠損がある。そんなことあるはずないのに』とかなんとか。ひどく狼狽えてたけど、話す言葉はしっかりしてたよ。大したもんだ」

 褒められたので、一応誇らしげにするべきか、と一瞬迷ったが、結局やめた。

「ここのことは、なんて言ってたの?」

「ああ、俺が『落ち着けよ』って声かけたら、突然『俺はここを知ってる』って言ってきた。『俺の名前はエドで、ここはアースガルドだ。思い出した。早く逃げないと』ってさ。意味不明だろ? 他の奴からリアのことは又聞きしてたから、目の前の奴が多重人格者だってことはすぐにわかった。でも『アースガルドって何のことだ?』って、そう聞いたら答えたよ。『それはわからない。でもとにかく、ここは安全なんかじゃない。それだけはわかる。それだけははっきり覚えてる』とね」

「窓の鍵……のことは、何か言ってた?」

「ああ、言ってたよ。ていうか、逆に俺に聞いてきたな。『お前、窓の鍵って知ってるか?』って言うから、もう笑ってやったね。『いきなり言われてわかるかよ、何だよそれは』って。でもやっぱりエドは真剣な顔で、こう言うんだ。『窓の鍵が要る。それが何で、どこにあるかは思い出せない。でもそれがあれば、俺は全てを思い出せる。リアを助けないと』って。よくわからんが、いいやつだな」

 ぞっ、と背中に悪寒が走る。

 身体中の皮膚から蒸発していく水のせいなのか、交感神経の昂りのせいなのかはわからない。でも、それは——その感覚には、なぜなのか、確かに身に覚えがある。


「窓の鍵で、全て思い出せる……?」


 そう呟いた矢先、ヘイミッシュが不意に手を伸ばし、濡れた前髪に触れてきた。どうして急に? と思わず眉を寄せるが、彼は構うことなく、私の目にかかりそうな毛先をゆっくり払い、横髪を耳にかけてくる。困惑してされるがままになっていると、次第に指先が首元に降りてくる。

「でもまあ、窓の鍵って要するに、このクソったれな精神病院もどきの窓って窓につけられてる、クソみてえな南京錠の鍵のことだろ? 違うか?」

「……わからない。でも、ここから逃げられても、それで記憶が戻るとは限らないのに。どこかおかしい、気がする」

「じゃあ、あるいは、この施設の外に記憶につながる何かがある……それか、かつての自分を知る人物が近くにいるってことを思い出したのかもな。逃げ出してそいつを見つければ、トリガーになって一気に記憶が戻る、ってことだけが記憶に残ってたんじゃないか」

 喋りながら硬い爪先が、頸動脈が走っている辺りの上を、軽く、引っ掻く。

「……そう、なのかな」

「だってそれ以外に、何かあるか? 俺にはそれくらいしか推測できないな。それに、これは勘なんだが、どうやらもう本当に時間がない。。これ以上長居するのは本当にやばいって感じがする」

「え? やられたって?」

「死んだんだよ。つい昨日な」

 ことも無げに彼は言う。まるで冬が雪を降らし、大地のすべてを凍らせるのを、難なく受け入れてしまう木々たちのように。

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