第16話
「そろそろ起きろよ、お姫様」
最初はユウの声だと思った。「お姫様」なんて、そんな歯の浮くような言葉は一度もかけてくれたことはなかったけれど、そのぶっきらぼうな台詞の、どこか深く優しく響く感じは、彼を思い起こさせるのに十分だった。
でもなんとか重い瞼をこじ開け、こちら側に戻ってきてみると、やはりユウはそこにはいなかった。代わりに目に入ったのは、心配そうにこちらを見つめる、シノの青と緑の瞳だけだ。
「……あれ……」
「おはよ。ねえ、ちょっと寝過ぎだよ? ボクすごく退屈だったんだから」
「あ、うん、ごめん……」
答えながら半身を起こし、辺りを見回す。どうやらここは私の部屋らしく、例によって腕を組んだミランダが壁際に立って、こちらをじっと見つめている。
「私……なんで?」
「覚えてないの? リアちゃん、柱時計のとこのソファで眠っちゃって、あの人に部屋まで運んでもらったんだよ」
「あの人?」
「ヘイミッシュって人。ほら、朝ごはんの時に会った人だよ。名前は違うけど」
ヘイミッシュ?
記憶をたどっても、出てきたのはヨーセフという名前だけで、そんな名前は思い出せない。
「なんか、お昼の12時に話があるから、部屋に来いって」
「部屋……うん、わかった」
「いや、わかっちゃダメだよ? 知らない人についてっちゃダメだってば」
「でも、知らなくはないし……」
「とにかく、よく知らない人はダメなの!」
普段にも増してシノは憤慨して、小さい子に言い聞かすように私の手を握る。でもそんなことを言ったら、私はシノやミランダのことだってよく知らない。
「それにしかも、男の人だし」
「男の人だったらダメなの? 女だったらいいの?」
そう尋ねると、シノはちらりとミランダの方を見やり、ぼそぼそと答える。
「そりゃ、女の人なら危なくないってわけじゃないけど……。でも男の人って体も大きいし、力も強いし、やっぱり危ないよ」
「うーん、そうかも」
「そうだよー。もう、リアちゃんは危なっかしいんだから」
すると、カツカツと高い靴音を立てて、ベッドサイドにミランダが近付いてくる。
「ほう? 私のペットは今や立派なナイト気取りか」
「な、何ですか。それが何か悪いんですか」
「いや、別に。でもそのヘイミッシュって奴が、何を話したかったのか気にかかる」
「何をって、どうせ変態のロリコンでしょう? そんなの適当な口実だよ」
「シノ……。それを言ったらお前も、側から見たら立派なロリコンなんだぞ?」
鬱陶しそうにミラが言うと、シノは驚くほどの速さで首を横に振る。
「ちがっ、ボクは違うからね!? 全然そういうのじゃないから!!」
「どうだかなあ。ロリコンは決まってそう言うらしいが」
「そ、そんな……」
シノは見るからに青ざめて、ふらふらと私から遠ざかる。
「あ、シノ」
「ボク、ちょっと診てもらってくる」
「診てもらう……?」
そして脱兎の如く駆け出すと、部屋を出て行ってしまった。
「まあ、何はともあれ、邪魔者は追い出せたわけだ」
「そんな……別に邪魔なことなんてないのに」
「いいや。アレがいると話がややこしくなる。それに女同士でしかできない話もあるだろう」
ずい、とミラの綺麗な顔が不意に近づいてくる。驚くのと同時に、その端正さに思わず見惚れてしまう。
「お前、ここに来てからずっと具合が悪そうじゃないか。生理はちゃんと来てるのか?」
「あ、さあ……前まではちゃんと来てたけど。ここに来たばかりだし、今はまだ、遅れてるかどうかはわからない。でも、まあ、ちょっとここの気候に慣れてないだけだと思うよ」
「それならいいが、しかしこのところ、お前はやけに眠たそうで心配だ。それもいつもなのか?」
「うーん……それは、別にあまりなかった」
「ここに来てからのことか?」
「うん。たぶん、眠いのは、きっと」
言いかけてふと、止める。風に煽られがたんと音を立てた、自室の窓が視界に入る。窓にはやはり錠が下げられ、傷はどこにも見当たらない。
「きっと、何なんだ?」
「いや、なんでもない。ねえ、ミランダの部屋の窓は、どうなってるの?」
「窓? 窓が、どうかしたのか? 息が苦しいか?」
「息は大丈夫。ただ、窓が、気になっただけなの」
ミランダはため息交じりに「お前は嘘が下手だ」と言うと、私の頬を、その滑らかな指先で少しこわごわと撫でた。
「お前がどんな秘密を持っていようが、私はそれを探る気は無い。あんな秘密結社にいた私が言うのもなんだが、秘密があるからこそ、人も物も音楽も、神がかった美しさを纏うことができる。それを奪う権利は、この世の誰にもない。でも私は散々侵してきた。その罪を少しでも償えるなら、なんでもしよう」
私はしばらく考えて、やがて考えるのに疲れて、諦めの息をつく。
「でも秘密と美しさには、やっぱりなんの関係もないと思うよ」
「そうか」
「それで窓は?」
「私の部屋もここと同じだよ。部屋全体の構造も、何もかも同じだ」
会話が終わる。部屋に静寂が満ちた。雪を舞い上げる風の音さえ、ここには何も響かない。まるで死者の国だ。そう思いながら私はまた言う。
「何か、演奏してほしいな。罪を償いたいって言うなら、そうしてほしい」
「そうしたいが、あいにくここには楽器がないんだ」
「誰かに頼んでみる。何が弾けるんだっけ?」
「なんでも。お前が望むなら、ピアノでもフルートでもサックスでも、パイプオルガンでも。好きな演目をリクエストしてくれ」
頬から手を離し、ミランダが部屋を出て行く。
私はふと、昨日シャワーを浴びてなかったな、と思い出す。
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